創世記2:1~25  魂と使命と夫婦


人とはいったい何だろう。
私は何のために生きているのか。
夫婦とは何だろう。
こうした根源的な問いに対する答えが創世記2章にあります。

1、いのちの息

5節からの内容が今までの重複に見えますが、違います。
創世記1:1~2:3では、神が6日間で世界を造られたという大きな枠組みが語られています。7日目の休みを神が祝福し、その休みが聖であると教えています。5節からの内容は、神と人間との関係に焦点を当てた記述です。

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)

 人とはいったい何だろう。その問いに対する答えがここにあります。
私たちは、神にいのちの息を吹き込まれた存在です。他の生物と根本的に違う点です。それで、私たちは真理や正義や美を求め、魂の感動を追いかけ、神を探求するのです。

「僕の夢はね、豪邸に住んで、グルメの食事をして、壁一面の超大型テレビでゲームをすることだよ」と幼稚園児が言ったなら、あなたはどう感じますか。現代社会の幸せとは、結局は、物を所有することです。でも多くの人が物質主義に息を詰まらせています。悩み事がある時、道に迷った時は、うらないを頼ります。泣ける映画が好きす。オーロラを見たり、エベレストの頂上を目指したり、心の芯が震えるような体験をしたいのです。私達の魂は刹那的な快感で満足できません。物質所有の喜び以上の何かを求めています。人は神にいのちを吹き込まれた存在なので、私たちは無意識に神や神に似た何かを求めるのです。
 
 あなたにお勧めすることは。神に向き合う静かな時を持つことです。日曜の礼拝に出席すると、人間本来の心を取り戻せます。また、朝ごとに、就寝前に、神の前に出ることをお勧めします。「そこで、人は、生きものとなった。」創造主なる神の前に立つ者が、本来の人なのです。


2、耕す人

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。(15節)

私たち人間は、自分の親や家庭を選べません。気づいたらその家に生まれていたのです。仕事も結婚相手も自分が選択しましたが、何か不思議な縁とか、ある種の偶然が重なっていることも否めません。聖書は、神が置いたのだと言っています。

人は何のために生きているのだろう。その答えのヒントがここにあります。置かれた場所で、耕すことです。

カトリックのシスター渡辺和子さんの口癖で、本のタイトルが、『置かれた場所で咲きなさい』です。彼女は小学3年の時に2・26事件に遭遇し、目の前で陸軍中将の父が銃殺されるという経験をしました。また、36歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に抜擢されたので周囲から嫉妬され辛い日々を送りました。そうした体験から、神によって今の場所に置かれた意味を受け止め、置かれた環境から逃げず、自分なりに咲くという道を見出したのです。あなたは、どこに置かれていますか。

耕すという言葉も考えてみましょう。今のあなたに当てはめると、「耕す」事はどんな意味になりますか。職場の誰かを育てたり、カスタマーに喜んでもらうことも耕すことです。仕事上の技術を高め、工夫することも耕すことです。耕すことは、神が人間に与えた最も基本的な使命です。職場を耕しましょう。家庭を耕しましょう。未来を耕しましょう。世界を耕しましょう。

私は、牧師として18年間働いた後、小さな新聞社で約5年間働き記事を書いていました。最初に書いた原稿は、見出しから、リードから、本文まですべて、編集長に赤ペンでバツを付けられました。それは本当に良い勉強になりました。置かれた場所で、耕すことを学びました。

あなたが置かれた場所はどこですか。今週、あなたは何をして耕しますか。
 


3、助け手

 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(18節)

 人には助け手が必要だと神は理解しておられました。20節にあるように、どんな動物を連れて来ても、ふさわしい助け手は見当たりませんでしたが、神は、男性のあばら骨から女性を作り、男性はその女性を見て一目ぼれして歌が生まれました。

そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(21~23節)

私ふうに言えば、ハルヒコから取られたから、君は、ハルリンだね、という感じです。私たちは二人じゃなくて、一人という意識です。君の悩みは僕の悩み。君の笑顔は僕の喜びです。

夫婦とは何だろう。その答えがここにあります。夫婦は、互いに、相手の助け手となって生きるものなのです。

夫が愛してくれないと嘆く妻は多いし、妻が尊敬してくれないと愚痴る夫がいます。夫婦仲良くするためには、視点を変える必要があります。私は相手の助け手になっているだろうか、と考えましょう。

あなたの配偶者は、あなたの助けがどうしても必要なのです。聞くだけでは何も始りません。アクションが大事です。たった一つでもいい。小さくてもいい。愛する人のため、具体的に体を動かして助けてあげてください。伴侶を助けるのは、あなたしかいないのです。

それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(24節)


 →あなたの番です
  □あなたの魂の深いところで神と語り合おう
  □置かれた場所で耕そう
  □「助け手」としてアクションしよう


創世記1:1~31 天と地と人


 教科書を読むと、世界は偶然にできたと書いてあります。創世記は、神が天と地と人を造ったと言っています。どちらが信頼できますか。

 日常生活では、誰も<偶然>に信頼を置きません。ラジコンカーの材料とネジとタイヤと電池とコントローラーを段ボール箱に入れ、1時間揺すったらラジコンカーができたと私が言ったら、あなたは信じますか。2年間揺らしたら完成しますか。20億年続ければ出来上がりますか。仮に完成したとしましょう。その後、誰も手を触れないのに、ラジコンカーが動き出し、コースを外れることなく高速で走行を続けていると私が言ったら信じてくれますか。もっともっと複雑で、調和が取れて美しく、その上、自律している自然が偶然にできたのでしょうか。

 ところで、生物の教科書に載っていたミラーの実験を覚えていますか。地球の原始大気中を再現し放電するとアミノ酸が生成されたという実験です。1995年の『サイエンス』誌はミラーが想定した原始大気が間違っていたとして、この実験の科学的価値を否定しています。ご存じでしたか。
 ヘッケルの胚の図を覚えていますか。生命発生初期の生物には外見的類似性があるという、オタマジャクシが並んだような図で、進化論の証拠として取り上げられていました。ところが、この図はヘッケルによる作為ある捏造でした。実際の胚は図とは違う姿だったのです。著名な進化論者グールドでさえヘッケルの胚の図を指して、教科書の編纂責任者は恥を知るべきで、これは学問上の殺人に等しいとまで言っています。ヘッケルの図に化学的価値はありません。
 なぜ、今なお、こうした記述が削除されないのでしょうか。
 

1、神は天と地を創造された

 創世記1章ははっきりと語っています。知恵と愛に満ちた人格的な神が、注意深く、段階的に、天(宇宙)と地(地球と生物)と人間を造ったと。だから、宇宙と地球と生物には安定と調和があるのです。偶然ではありません。

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。(創世記1:3~5)

科学の黎明期の17世紀頃、科学者達は創世記1章を笑いました。最初に光があったと聖書が言うが、おとぎ話にすぎないと。天文学と科学技術が進み、宇宙の始まりはビッグバンによるという理解が大勢を占めた今、人々は聖書を驚きの目で見るようになりました。

アメリカの天文学者ロバート・ジャストローは、「創世記についての聖書の記述と天文学の説明とでは、細部は異なっていても本質は同じである。すなわち、人間に至る歴史は、ある特定の瞬間、まったく突然、光とエネルギーの一瞬の炸裂に始まったのである。」ジャストローはクリスチャンではなく不可知論者です。

創世記1章は、神が6日間で宇宙と世界を造られた事が極めてシンプルな言葉で書かれいます。また、神の創造のみわざには段階があったことが分かります。
光(3~5節)、水(6~8節)、陸地と海と植物(9~13節)、太陽と月と一日と季節(14~18節)、魚と鳥(20~23節)、動物と人間(24~31節)。
まず、計り知れないエネルギーの放出、光や空間の設定、無機物の生成などが行われ、生物に必要な材料が用意されました。植物に命が与えられ、春夏秋冬、一日24時間のサイクルが整えられ、やがて魚、鳥、地上の生物が地球の隅々にまで現れました。

地球より太陽に近い金星は90気圧の大気と400度の高熱のため生物生存は不可能です。地球の外側を回る火星は寒すぎる事と希薄な大気と95%が二酸化炭素のため生物は生きられません。地球は70%を海で覆われている奇跡のような星で、窒素78%、酸素21%、二酸化炭素0.04%という大気は生物には理想的な環境です。創世記によると、植物の創造は他の生物に先立っており、光合成による二酸化炭素の減少と酸素の放出に貢献しています。

ケンブリッジ大学のブランドン・カーター物理学教授は、「物理学において、恣意的かつ無関係に見える定数のすべては、生命体の誕生が可能な宇宙であるために必要な数値と正確に一致するという、奇妙な一つの共通項を有している。」と述べました。つまり、宇宙や自然の法則が偶然にできたと見るよりも、誰かにより適切に調整されているとしか見えないというのです。

たとえば、地球の軌道がハーレー彗星のような楕円軌道であったならば、極端な温度変化のため生命は生きられません。地球は安定した円軌道で太陽の周囲を回っています。
また、太陽は広い宇宙の中でもありきたりな恒星に過ぎないと長い間言われてきましたが、最近は異なる認識が深まっています。銀河系の恒星2000億個の中でも、太陽は大きさから言うとトップ10%に入り、その活動や光度が安定しています。恒星全体の80%は太陽より小さい赤色矮星で光度が低く不安定で、紫外線が少なく、その恒星周囲の惑星での生命の維持が困難であると知られています。太陽が5%大きくても、小さくても地球の生物は存在できません。
地球の地軸が23.5度傾いているため、穏やかな四季が生まれました。太陽系の他の惑星と比べると、月が地球にとって大きすぎる衛星であることが分かります。月の存在は地球の自転を安定させ、満潮干潮により海の栄養分を広く移動させる作用もしています。月が存在しないなら、地軸が最大85%も傾いたり不安定な惑星になる可能性もありました。太陽系や地球はファインチューイングされています。

 神は、6日間という段階を経て注意深く天と地を造られました。



2、神は人を創造された

 神による天地創造がある一点を目がけて進んでいることに気づきます。それは人間の創造です。創造の過程で、神はそれを見て良しとされた、とあります。(25節)人間を造られた後には表現が変わりました。「見よ。それは非常に良かった。」(31節)神は、人間のために舞台を設定されたのです。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(26~28節)

 他の動物と人間の創造には大きな違いがあります。人だけが、神のかたちに造られました。私たちは、神を元にして造られた存在で、神に似ているというのです。男女に何の差別もありません。男も女も神のかたちに作られました。

 神のかたちとは何でしょう。
 それは、まず人格です。私たち人間は自意識を持っていて、自分は自分であり他の生物とも他の人間とも違うと自覚できます。これが人格です。神は人格を持ったお方で、私たちにも「私」をいう意識を与えて下さいました。
 神は知識を持つ方なので、私たちも知識を持つ者とされました。新しい物を作ったり、新しい発見をしたりする創造性も神のかたちの一つです。美しいものにあこがれ、美しいものを作り出せる事も神のかたちです。
 愛は自発的な行為です。私たちが誰かを愛すのは、私たちが神のかたちに造られたからです。神が愛の方だから、私たちも愛を知ったのです。
 私たちが正義や公正や真実を大事にするのも、神のかたちのゆえです。
 私たちには自由があります。神に逆らい冒涜できるほどの自由を神からもらいました。生物には本能があるだけで自由はありません。

 フランス映画で「もう一人の息子」という映画があります。18歳のユダヤ人青年が兵役検査の際に自分が両親の子供でないと知って愕然とします。湾岸戦争時の病院で彼は生まれましたが、パレスチナ人の赤ちゃんと間違えられ、それぞれの両親が知らずに育てたという筋書きです。憎み蔑視していた民族の血が自分に流れていることは否定できない事実でした。青年二人は出会い、それぞれの両親も対面し、人生が変えられていくという映画です。

 私たちの体の中には、どんな検査機器でも読み取れない魂のDNAとでも呼べるものが流れています。神のかたちにつくられた、というDNAです。

 私もあなたも神によって造られたのです。
 体の奥深くに神のかたちがくっきりと刻印されているのです。

 だから、私たちは嘘をついたら良心の呵責に悩まされるのです。愚かな事をしたら空しくなるのです。正しく生きたいと切望するのです。損しても真実でありたいと願うのです。愛する人のためなら命さえ投げ出すのです。

 神をあなたの神と認めましょう。そして、神と共に生きていきましょう。人間らしく生きるというのは、自暴自棄になったり、自己中心になることではなく、神の姿に近づく生き方なのです。今週、あなたの中にある<神のかたち>を大切に生きてみましょう。

→あなたの番です
  □神に造られたことを感謝する
  □神のみこころを行いましょう

創世記1:1 初めに神が

 今日は野外礼拝です。公園で青空を見上げながら木陰で主を賛美し礼拝しましょう。創世記冒頭の1節には真理がシンプルに書かれています。

1、神とはどんな方か

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)

 ①はじめという起点があった。
 ②神は意志を持った存在。
 ③神が宇宙と地球のすべてを造られた。

 ①神こそが、あらゆるものの起点です。空間だけでなく時間さえも神によって造られました。神だけが、あらゆるものの起点を設定できるお方です。

 ②世界は偶然にできたのではありません。神が世界を造ると意思されたので、世界ができました。神は単なるエネルギーや法則ではないのです。神は人格を持つお方なのです。

 ③天と地は地球と空を指します。マクロの目で宇宙を見ると、その広大さと力強さに圧倒されます。ミクロの視点に立てば、原子や素粒子やDNAの世界に驚くべき秩序があることに気づきます。モナリザの絵を見て作者のダビンチを無視して、「偶然とは素晴らしいですね」と言う人は誰もいません。複雑精緻な世界を見て、偶然とは素晴らしいですねとは言えないはずです。

 レース中のマラソン選手に「どこを、いつ出発しましたか」と尋ねたとしましょう。「出発地点は知りません、スタートしたつもりもありません」と答えたとしたら私たちは耳を疑います。

 私たち人間はそのマラソン選手と同じです。いつ生まれたかを知らず、生まれるつもりもなく、走るつもりもなく、走っています。その上、目的地も知らないままです。

 ですから、私たち人間に必要なものは、人生の起点です。神を人生の起点にしましょう。そうすれば、ボタンの掛け違いを防げます。私たちは神に造られました。それを人生のスタート地点にしましょう。「はじめに神が」というフレーズを私たちの人生の大前提としましょう。その時、今、走っている意味が見えてきます。目指すものが絞れてきます。


2、神にどう応答したらよいのか

 多くの人は、自分の人生は自分のものだと考えています。まるで、自分が自分を造り、自分のおかげで生きていると勘違いしています。聖書は言います。神が世界を造り、あなを造ったのだと。あなたはどんな応答をしますか。

 アメリカ人のマカルティ宣教師は福音を伝えるために中国に渡り、”Easy introduction to Christian doctrine” という小冊子を書き、 漢文に翻訳して印刷し、伝道のために配布しました。マカルティ宣教師は1861~2年に日本を訪れブラウン、フルベッキなどの宣教師と会いましたが、その小冊子は『真理易知』という題で日本でも配布されました。(布施田哲也氏の研究による)

 1863年、20歳の日本人武士はその本を友人から借り、夜、人目を忍んでその本を読みました。はじめに神が天と地を創造したという文章を読んで心底驚きました。

 「私は聖書を置いて、あたりに目をやってみた。そして、このように自問した。私を造ったのは誰か。両親か。そうではない。それは私の神だ。神が私の両親を造り、そして両親を通して私を造られたのだ。そうであるなら、私は感謝し、神に対して正しい人とならねばならぬ。」

 神が私たちを造られたのです。ならば、私たちも、神に感謝し、神から与えられた使命を果たしましょう。あなたは、何のために神によって造られたのでしょう。

 翌年1864年、その青年武士は函館からアメリカ船に乗り込み、国禁を犯して日本を脱出、ボストンに着くと、「神よ、もし目があるなら、どうか私を見出してください」と祈りました。

 彼の祈りは聞かれ船主が彼をフルサポートしてくれることになり、洗礼を受け、アーモスト大学、アンドバー神学校を卒業して帰国、32歳で同志社大学を創立しました。そうです、彼とは新島襄です。

 あなたは、現代の新島襄かもしれません。神に造られたことを知り、神に感謝し、神から与えられた使命に生きてみませんか。新島襄の起点は創世記1章1節にありました。あなたの人生の起点を神に置き、人生を再スタートしましょう。

 →あなたの番です
  □神は、世界と私を造った方です
  □私を造った神に感謝し、神から与えられた使命を生きる

詩篇41篇 病の床で


 詩篇1篇の冒頭は「幸いなことよ」、詩篇41篇も「幸いなことよ」でスターしています。それで、詩篇第一巻(詩篇1~41篇)の基本テーマが<幸いな人生>だと分かります。
 今日の詩篇41篇は、さらにもう一つ、幸せになる道を教えてくれます。

1、もう一つの幸いな人生

幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。(詩篇41:1~3)

 弱っている人に心を配ることが、もう一つの幸せなのです。弱い人に心を配っていると、私たちが神の姿に近づいていきます。弱い人たちの辛さと喜びを自分の事のように感じる時、造り主の姿に似てくるのです。その時、神の平安と優しさがあなたをおおってくれます。

 敬愛する杉村牧師は、ヨセミテを愛する山男です。60歳半ばの女性がヨセミテのハーフドーム登頂を希望したので先生は徹底してサポートすることにしました。危険な鎖場で頂上をアタックする頃には彼女の体力消耗が激しく、鎖に安全綱のフックを掛けながら上るので普通の人の何倍も歩みが遅くなりました。見知らぬ登山者たちは「気をつけて上ってくださいね」と皆優しく声をかけて、彼女を思いやってくれました。登頂を果たした彼女は大喜びでしたが、杉村牧師は彼女を支えることができた喜びかみしめていたことでしょう。

 あなたの周囲の「弱っている人」は誰ですか。赤ちゃんや子供。体や心の弱さを持つ年配の方。精神のバランスを崩しやすい人。病気や怪我の人。今、弱っている人に心を配っているなら、あなたは幸いです。主はそういう人が困難に陥った時に主は助けてくれます。その人が病気になった時に支えて下さいます。

あなたの周囲にいる弱い人や病んでいる人のいやしのために、今、祈りましょう。あなた自身が弱さの中にいるなら、助けを求めて祈りましょう。


2、三重苦のダビデ

 私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」私の敵は、私の悪口を言います。「いつ、彼は死に、その名は滅びるのだろうか。」たとい、人が見舞いに来ても、その人はうそを言い、その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす。私を憎む者はみな、私について共にささやき、私に対して、悪をたくらむ。「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度と起き上がれまい。」私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。(4~9節)

 悩みというものは、一つの悩み事が原因になる場合もありますが、往々にして、悩みが重なることにより苦悩が深まるものです。ダビデは三重苦の中にいました。第一に、ダビデは重症の病気にかかりました。それで、肉体的な痛みや不快感と将来への不安が押し寄せました。第二に、罪意識です。自責の念にかられ、取り返しのつかない過去が現在の葛藤を生みました。第三に、親友に裏切られ、煮え湯をかけられました。

 ヨハネ13:18で主イエスは9節の言葉を引用しておられます。パンを分け合ったほどの親しい弟子たちに裏切られることを予告され、それは実現しました。

 ダビデが弱り果てた時に、悪意を持つ人々が見舞いに来て、外で辛辣なことを語り、ダビデを苦しめていました。
 あなたは、今、病気ですか。それに別な悩みが加わりましたか。ダビデのように苦しんでいますか。小さな思い煩いが増えるだけで、私たちの心は複合的にダメージを受けます。
 


3、立ち上がらせて下さい

しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。私の敵が私に勝ちどきをあげないからです。誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。(10~13節)

 瀕死の状態のダビデですが、濃霧を切り裂くフォグランプの光のように、ダビデは主のあわれみを願いました。自力で立ち上がれないので、主に起こしてもらい、立ち上がろうとしました。「主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。」NIVでは、But may you have mercy on me, Lord; raise me up, that I may repay them.となっています。

Raise me up. 立ち上がらせて下さい。普通、立つとは誰にとっても簡単な事です。でも、それができない時は衰弱し切った時です。
Raise me up. 主に願いましょう。立たせてくださいと祈りましょう。主のために立たせてもらいましょう。あなたが立てるようになったら、弱っている人に手を差し伸べましょう。

星野富弘さんは、24歳の時に体操の事故で脊椎損傷になり、首から下が動かなくなり、寝たきりになりました。口に絵筆をくわえて、詩と花の絵を描くようになり多くの人に知られるようになりました。
ハワイで詩画展を開催した時に、星野さんもハワイに来られ、体調の調整日と日曜日が重なったので、私は星野さんの滞在していたホテルを日曜午後に訪ね、星野さんと二人で礼拝をささげたことがありました。星野さんはベッドに横たわり、私のつたない言葉を厳粛な面持ちで聞いて下さいました。私は星野さんの無言の姿から大きな励ましを頂きました。
有名になる前、先が見えない頃、寝たきりの星野さんを見舞った人々がいました。その人達は、聖書の言葉を携え、希望を伝え、祈りをささげ星野さんを励ましました。そして、今、星野さんは寝たきりのままで、多くの人達を励ます人になっています。

 「しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。
私を立ち上がらせてください。」(10節)

 →あなたの番です
  □弱っている人に心を配ろう
  □あなたが弱っているなら、立ち上がらせて下さいと祈ろう