士師記


   士師記最後の言葉は、士師記の本質を言い当てています。

そのころ、イスラエルには王がなく、
めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師記21:25)

リーダー不在。価値観の混乱。これが、その時代の問題でした。


1、リーダー不在

民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。(士師記2:7)

 イスラエル社会は約300年の間(11:26)、混乱していました。紀元前1350年から1050年くらいの時期です。
 真の指導者はモーセのように、ビジョンを示し、人々に使命感を喚起し、信仰の励ましを与えます。士師記には、モーセやヨシュアのような指導者がいませんでした。それで、人々は神を捨て、偶像礼拝を行いました。

 それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。(2:11~12)
そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。(2:16)

 神を捨てる→偶像礼拝→外国による支配→神に助けを求める→士師が起こされる→救出。このサイクルが300年間続きました。民は、まったく学習しませんでした。

 主な士師は6人います。オテニエル(3章)、エフデ(3章)、デボラ(4~5章)、ギデオン(6~8章)、エフタ(11~12章)、サムソン(13~16章)。

士師とは救出者であり、民を裁く指導者でした。彼らの活動は局地的で、彼らの敵も違います。たとえば、ギデオンは北西部でミデヤン人と戦い、エフタはヨルダン川東側でアモン人と戦い、サムソンは海岸地域でペリシテ人と戦いました。

 士師たちは不完全でした。ギデオンは神経質な臆病者で、エフタはならず者の首領、サムソンは女たらしの巨漢プロレスラー。敵を倒す用心棒ではあっても、信仰の指導者ではありませんでした。

現代は士師記の時代に似ています。本当のリーダーがいません。だから、ビジョンも希望も励ましも無くなるのです。信仰的なリーダーがいないので、社会全体がカオスに飲み込まれ、ゴミが散乱して落書きばかりのような心になってしまうのです。

 あなたの毎日は、自転車操業ですか。行き当たりばったり、明日の希望のない生活をしているなら、生活を立て直しましょう。主を、あなたの生活の中心に置きましょう。
 また、あなたが指導者になって、家庭、職場、地域を変えましょう。



2、価値観の相対化

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(士師記21:25)

 11章で、エフタは自分の誓いのせいで、娘を全焼のいけにえにしました。17章では、ミカが偶像を作り、レビ人を祭司として雇ったとあります。19章では、レビ人のそばめがベニヤミン族の町で暴行され殺され、これをきっかけに11部族がベニヤミン族を攻撃しました。ベニヤミン部族の男は、祭りに来た若い娘を略奪して結婚し、部族断絶を免れたという話が21章にあります。
 これらが、「自分の目に正しいと見えること」だったのです。

 ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコールニコフを思い出します。彼は貧しい青年ですが、将来のある選ばれた人間だと思い込んでいました。金貸しの老婆を殺して金を奪っても正義のために用いれば悪くないと考えました。これが価値の相対化です。「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」ということです。ドストエフスキーは、「神が存在しなければ、すべての事は許される」と言いました。現代企業が、危険物質を使用して製品を作り利益を上げる論理に似ています。

ブロークンウインドウ理論というものがあります。窓ガラスを割れたまま放置する町には、犯罪が増えるという考えです。士師記の時代も同じで、信仰の割れ窓を放置したので、悪がはびこりました。ゴミだらけで落書きだらけの部屋と、掃除が行き届いたインテリアの美しい部屋にいるのと、どちらがやる気になりますか。聞くまでもありません。
あなたが神を敬い、価値観を相対化せず、聖書の教えを実行するなら、生活と人生に必ず祝福が来ます。

昔、多くの日本人がハワイに移住してプランテーションで働きました。男たちの生活は荒れました。土佐藩士の息子の奥村多喜衛牧師がハワイにやって来て、移民社会を根本的に変えていく努力を行いました。聖書を教え、病院を建て、学生寮を作り、お城の形をした教会堂を1932年に建てて日本人のプライドを高めました。士師記の時代と正反対のことをしたのです。

臆病者のギデオンは、その慎重さのゆえにミデヤン人に勝利(7:22)できました。女にだらしないサムソンも、人生の最期に神に立ち返り(17:28)、ペリシテ人を倒しました。

士師記は反面教師です。さあ、あなたは何から取り組みますか。
礼拝。仕事。家族との関係。奉仕。毎日の生活。伝道。

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(第1ペテロ3:9)

すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:14)


 →あなたの番です
  □あなたは、信仰のリーダーになれます
  □価値を相対化せず、神に従いましょう 
      □祝福をシェアしましょう


ヨシュア記


 ヨシュア記は、戦記です。
 イスラエルの民が約束の地を獲得するまでの戦闘の記録です。現実の生活で戦っている人に励ましを与えてくれます。

1、恐れるな

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア記1:2~3)

偉大な指導者モーセが死んで、ヨシュアが後継者になりました。神がアブラハムに約束した土地に人々を連れて行く仕事です。400年以上も留守にした土地に再入植するので困難を極めました。強固な城壁を破り、屈強な人々と戦い、勝つ必要があります。ヨシュアたちは自分の足で敵地に踏み出す必要がありました。誰も代わってくれません。

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(1:9)

主はヨシュアに、強くあれ、恐れるなと語りました。ヨシュアが後継者として立った時は3度も同じ言葉で主が語られました。アイでの再挑戦の時も(8:1)、ギブオン人に援護を求められた時も(10:8)、カナン連合軍と対峙した時も(11:6)、主はヨシュアに恐れるなと檄を飛ばされました。

 すべての人は平和を愛します。でも、人生のある期間、どうしても戦わねばならない時があります。子供がいじめられた、無実の罪で訴えられた、大病になった、詐欺で大金を奪われたなど、思わぬ出来事に巻き込まれます。

そんな時、人のせいにしたり、なぜと嘆いておろおろしても何も起きません。逃げてはいけません。敵を見据えた時、恐れは去ります。自分が戦うのだと覚悟ができた時、あなたは勇者になっています。神が共におられるので勝利できます。足を踏み出しましょう。


2、主を信じる

 初陣の相手はヨルダン川で、次の難敵はエリコの町でした。敵はイスラエルの実力を測るために注視しています。

ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(3:10~13)

 水量の多いヨルダン川をどうやって渡るか。思案していたヨシュアに、神は言われました。契約の箱をかつぐ祭司を先頭にして進み、水に足を入れよ。ヨシュアは神の言葉を信じて、その通りにし、4万人の戦闘員が無事に渡り終えました。(4:13)

ヨルダン川を渡って最初に向ったエリコは地域最古の町で、高い城壁で囲まれていました。黙って町の周囲を歩けと主は言われました。

武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。(6:9~11)
 イスラエルの民は、主の指示に従いエリコの周囲を毎日一度回り、7日目に7度回りました。ときの声を上げると城壁は崩れ、勝利しました。(6:20~21)

 渡りきれないほどの試練の大河が目の前にあっても、解決不能に見える悩みの城壁があるかもしれません。黙って、主のみことばを信じて、行動してみましょう。

エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」(6:1~2)


3、神が戦う

 1~12章には戦闘の様子が記録されています。初期の戦いには主の奇跡が多く見られました。13~22章では、くじで分配された12部族の領地が詳しく説明されています。
 
 晩年を迎えたヨシュアは23章で、過去の恵みを振り返りました。剣を握って突撃したのはイスラエルの男たちだが、本当の意味で戦ったのは主であると述べました。

 あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。(23:3)

 この世を去る日が近いと悟ったヨシュアは、イスラエルの民をシェケムに集めて(24:1)、主に従いなさいと迫りました。シェケムは、ヨルダン川西側にある町で、のろいを象徴したエバル山が北に見え、祝福を象徴したゲリジム山が南に見える場所です。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(24:14~15)

イスラエルの民は、神の祝福を世界の民族に届けるために定住し、神の国を作り始めました。それが、どうなったかは次の士師記で確認しましょう。
真珠湾攻撃を知り、29歳のジェイコブ・デシーザー(Jacob DeShazer, 1912~ 2008)は軍に志願しました。1942年4月、彼は空母ホーネットから飛び立ったB25の爆撃手として参戦、名古屋に爆弾を落としました。搭乗機は中国に着陸、日本軍の捕虜となり拷問を受け、戦争が終わるまで収容所にいました。同僚の葬儀の時、日本人看守が聖書を差し入れたので彼はその聖書を真剣に読み、主イエスを救い主として信じました。戦後シアトルに戻り神学教育を受けフリーメソジスト教会の宣教師となって名古屋で伝道をしました。ジェイコブ・デシーザーの書いた体験記は、多くの人の心を揺さぶりました。
ジェイコブには、収容所の記憶という行く手を阻む川がありました。自分が爆撃した日本に戻るという困難な城壁がありました。彼は、それらの恐れを乗り越え、自分の足で日本の地に立ち、主イエスの愛と赦しを伝えました。

私たちの人生も困難の多い人生です。だから、逃げるのは止めましょう。戦うのはあなたです。主を信頼して、戦いましょう。本当の意味で戦われるのは主です。

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(21:45)

 →あなたの番です
  □戦う覚悟を決める
  □主が戦われる
  □生涯、主に仕えましょう

申命記

 申命記はモーセの遺言です。彼は自分がまもなく死ぬこと、そして、約束の地に入れないこと(申命記3:23~27)を知っていました。それで、民を集めて話したのです。

1、ずっと愛されていた

 イスラエルの民は今、ヨルダン川東岸のモアブの野にいます。川を渡ればエリコ、そこは約束の地です。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。(申命記8:2~5)

 モーセは荒野の40年間を振り返りました。その期間は、親が子を訓練するの似ています。厳しさには神の愛が裏打ちされていました。

 母が幼子を抱き、自分のひとみのように守るように神は支えてくれました。上手く飛べない雛を自分の翼に乗せる鷲のように、神は助けてくれました。(32:10~11)
振り返れば分かります。あなたも、ずっと、ずっと、神に愛されてきました。


2、ずっと逆らってきた

愛されてきたイスラエルの民は、主のことばに背き、主に信頼せず、逆らってきました。

あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。(9:7)
私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。(9:24)
あなたも振り返ってみましょう。主イエスを信じてから今日までの歩みを。自己中心で、不機嫌で、生意気盛りのティーンエイジャーのようではありませんか。


3、危険な場所なので、律法を守れ

約束の地に入ると、危険と誘惑が待ち構えています。家と畑が与えられると傲慢になり(8:11~14)神から離れる可能性が大です。また、約束の地には、自分の子供を犠牲にささげて祈願する宗教があり(18:10)その悪影響が心配です。現地の人と縁続きになると、性的放縦が雪崩のように入ってきます。
それらの民が邪悪であり、忌むべき礼拝をしていることを理由に、「聖絶」するよう主はイスラエルの民にお命じになりました。(7:2)

あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。(9:5)

イスラエルの民は、約束の地に入る心の備えとして契約を更新しました。十戒(5:6~21)とそれに続く律法を守ると誓約しました。これはシナイ契約の更新という意味合いがあります。一世代前の人々は、神に対して不信仰を表明したため、40年の間にすべて死に絶えていたので契約の更新が必要でした。(29:1)

神に逆らうなら呪いが来る。神の言葉を守るなら祝福が来る。(28章)モーセは繰り返し祝福と呪いについて語りました。モーセは、イスラエルの民が堕落することを予測していました。民が神に背き、滅ぼされて捕囚となって他国に引かれて行っても、神は約束の地に必ず戻すと約束されました。(30:1~4)

聖書の命令は、あなたを苦しめるためではなく、あなたとあなたの周囲にいる人を危険から守るためにあるのです。


4、ずっと愛していこう

旧約聖書の神は厳く、新約聖書のイエスは優しい。知識人がそう述べるのを良く聞きます。聖書を40年以上毎日読み続け、日曜日ごとに語る聖書箇所に真剣に向き合って来た私は、まったく逆の印象を持ちます。旧約聖書には神の深い愛が流れています。主イエスは悪と対峙し、弟子を突き放して育てられました。
 申命記を何度も読み直して下さい。律法の書ですが、同時に愛の書であると分かります。主を愛しなさいと11回も言っていますし、神がイスラエルの民を愛しているという箇所も6箇所あります。これは、旧約聖書中で最多の言及です。

イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。(10:12~15)

 律法の中で最も大事な命令は神を愛すことだと主イエスは言われましたが(マルコ12:28~30)、それはすでに申命記で言及されていた事でした。主を愛す人は、神の律法を自然に守ります。

 主よ私はあなたを愛しています、と祈りの中で言ってみましょう。そう言い終えて違和感があるのなら、あなたの行動と思いが愛に届いていないのです。主よ、あなたを愛しますと心を込めて言うなら、その日、自分が取るべき行動が何なのかが分かってきます。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(6:4~5)

心を尽くして主を愛してみましょう。

 →あなたの番です
  □私は、ずっと主に愛されてきた
  □ずっと私は、主を軽んじてきた
  □これからずっと、主を愛していきたい