第1サムエル9:1~27 美しい若者


 私は、小学生の時、劇で王子様の役をしたことがあります。恥ずかしいような、晴れがましいような複雑な気持ちでしたが、生涯に二度とない良い経験になりました。
 あなたも、神が備えてくれた人生という舞台の主役です。でも、いつの間にか、主役の座を明け渡し、脇役や通行人になっている人がいます。

 今日は、サウルがどのようにして王に選ばれたのかを観察しながら、サウルとあなたを重ね合わせて人生について考えてみましょう。



1、美しい若者

旧約聖書の3大美男子は、サウル、アブシャロム、ダニエルだと私は思っています。

キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。(2節)

さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。(第2サムエル14:25)

 ダニエル1:4によると、ダニエルと3人の少年は容姿が美しいだけでなく知恵に秀でて思慮深いと書かれています。ダニエルと比較すると分かりやすいのですが、サウルは知性や思慮深さ、内面性や霊性において深みに欠けていました。

 第1サムエル9章7~8節によると、サウルの従者は不測の事態に備えて銀を所持していましたが、サウルには何の備えもありませんでした。
 神の人として尊敬されていたサムエルに直接会った時にも、サウルはその人物がサムエルだとは気づかず、「予見者の家はどこですか」(18節)と尋ねるなど、ちょっとちぐはぐです。

 サウルは、背が高く美しい若者ですが、心もとない人物です。・



2、サウルの別の面

 ところがです。主は、サウルの未熟さではなく、可能性と将来性を見ておられました。

主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」(15~17節)

 サウルは、ロバを追ってたまたまサムエルのところに来たように見えますが、実は、主が「遣わ」されたのです。主は、現在のサウルだけではなく、将来のサウルを見ていたことは、16節から分かります。サウルはイスラエルの民をペリシテ人から救う人になるのです。
 
 私にも、あなたにも、未開発な部分、未使用の部分があるのです。神は、それを知っておられます。主は、それを使ってみなさい、訓練してみなさい、試しなさい、開発してみなさいと言っておられるのです。

 江戸時代に日本地図を作成した人として伊能忠敬は有名ですが、50歳の時に測量の勉強を始め、55歳から日本各地を歩いて測量を始めたのです。これが未使用の部分です。


 中学、高校、大学と陸上競技をしていた女子学生がいました。長い距離を走ると後半で急に失速するので、「お前は素質がないから、人の倍練習して普通だ」と指導者に言われ続けました。目立った記録に恵まれなくても走るのが好きなので実業団に入りました。800mや1500mを走っていましたが、ある時、マラソンに挑戦しました。良いコーチに恵まれ、「お前は強くなるよ。きっと世界一になる」と励まされました。コーチは、365日、同じことを言ってくれました。その結果、2000年シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝しました。これは高橋尚子さんの実話です。

 「彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。」(16節)とあります。神は、サウルを見るように、あなたを見ています。自分の可能性を自分で狭めないで下さい。あなたには、未開発な部分と未使用の部分があるのです。



3、導きを求めたサウル

迷い出たロバを探して途中で偶然サムエルに会ったとサウルは思っていました。けれども、主に偶然はありません。ロバがいなくなった事も、主の御手にあったことです。道の途中でサウルの従者が発した言葉は暗示的でした。

すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」(6節)

「私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」サウルは道を求めました。ロバが見つかる道を教えてもらいたかったのです。25節によるとロバは父のもとに戻っていました。サウルは、もっと大事な「道」をサムエルから教えてもらうことになりました。(25節)

神は、私たちに道を教えてくれます。予想以上の大きな仕事やミッションをあなたに任せるかもしれません。主のみこころなら、その道を勇気を持って進みましょう。
あなたが、サムエルの立場にいるなら後継者を探して任せてみましょう。未熟そうに見える後輩であっても、主の見方は違います。”This is the man I spoke to you about”(17節NIV)と主は言っておられるかもしれません。

あなたの人生で、あなたがきちんと主役になって下さい。いつも誰かのせいにして脇役や通行人である必要はありません。行くべき道を主に求め、それが分かったなら、未使用や未開発の部分を使ってみましょう。神は、あなたを大役に抜擢される方です。その信頼に応えましょう。

→あなたの番です
□主は、行くべき道を示してくださる
□未開発、未使用の部分を使ってみよう
□後継者を探そう

 「私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」(6節)



第1サムエル8:1~22 王を求めた民


 「みんなが持ってるから買って」「みんながやってるから、いいでしょう」
 これは子供が親にねだるときの常套句です。この場合、みんなとはクラスの全員ではなく、3~4人という意味ですね。
 イスラエルの民も、同じような論理で王が必要だとサムエルに詰め寄りました。


1、王を与えてください

そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(第1サムエル8:4~5)

 サムエルのリタイヤの時期が近づきました。彼の後継者の息子たちは汚職にまみれて役に立ちません。このままでは、まともな裁判は期待できず、外国から攻撃を受けても防衛できず、安定した生活は送れないと人々は考えました。現実に圧倒されると、目に見えない神に信頼するより、目に見える力や組織に寄り掛かろうとするものです。
 神の存在は信じているが、心配でしかたありません。それで、他国を真似して王を樹立して、軍隊を作り、生活と命を守ってもらおうと考えたのです。

 私は、40歳代で、職探しをしたことがあります。
 履歴書を書くときは、心が重くなりました。英語で履歴書をやっと書き終え、主に助けを祈りました。でも私は現実の重圧に押しつぶされそうでした。明日が見えません。家族5人で生活していけるのだろうか。手持ちの金がなくなったらどうしよう。日本に帰るチケット代すらない。悩みました。
 いくつかの会社に履歴書を送り、面接まで行ったのは3~4社。最終的には、新聞記者として採用されましたが、その途中は本当に辛かったです。
 イスラエルの人々が苦慮した背景を私は理解できます。でも、もう一度、自分たちがしている事の意味と後代への影響を深く顧みるべきでした。

主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」(7~9節)

 サムエルは民の意見を聞いて不機嫌になりましたが、主の導きを求めました。この姿勢は立派です。祈りはこんな時こそすべきものです。

 主の説明はこうです。イスラエルの民は出エジプト以来、神を捨て、他の神々に心を向けて来たが、それと同じことをしている。主の結論は、「民の声を聞きいれよ」でした。これは、民を行くがままに任せ、種をまけば必ず刈り取ることを体験させよという趣旨です。



2、警告

そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。(11節)

11~18節で、王制とは何かをサムエルは民に説明し、王に従うことがどんなに過酷かを警告しました。王政の本質は、人々から収奪することです。ですから「取る」という言葉が4回も繰り返されています。

・若い男たちは兵士として取られ、身を挺して王を守る。
・兵士たちに給料を支払うために、民の畑は取り上げられる。
・若い娘たちは、王宮に仕える下働きとして取られる。
・収穫の10%の税金を取られる。
・羊などの10%を取られる。
・民は、王の奴隷となる。

サムエルは、王の権利を語るだけで、王のあるべき姿や義務を語りません。王の力がどれほど強大なのか、結局は奴隷に落ちるのだと警告しました。
なお、申命記17:14~20には、王の義務が書かれています。王は高慢にならず、神にそむかず、自分のために武力も妻も金銀も増やすなという命令が書いてあります。王ほど誘惑の大きな地位は他にないのです。

サムエルは、蒔いた種は必ず刈り取ると警告しました。

その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。(18節)



3、幻想に酔う民

それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(19~20節)

民は王を理想化しました。
公正さと犠牲心を持つ者が王を期待しました。果たして、一兵卒の前に飛び出し敵の攻撃を一身に集める王がいるでしょうか。自分の利益を後回しにして国民の幸福を第一にする王がいるでしょうか。親がどんなに警告してもその道に突き進む10代の若者とよく似ています。
この後のユダヤの王の歴史を見れば、王政の現実がどんなに悲惨か分かります。ほんの数%の金持ちが世界を支配している現代と構図は変わりません。

主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(22節)

7章でサムエルが言ったように、主に帰り、主に心を向け、主に仕え、隣人を愛していくことが人間本来の生き方であり、幸せの源なのです。

 ニック・ブイチチ君(Nick Vujcic)は今31歳、両手両足を持たずに生まれてきましたが、神を信じる両親に育てられ、今、多くの人を励ましています。水泳、スケボー、釣り、色々なスポーツを楽しむ前向きな生き方をしながら、主イエスが救い主であることを世界の人に伝えています。「人と違うことの中にこそ神からの使命がある」、とニックは言っています。
 私たちは周囲の人と同じようになれれば安心し、なれなければ時落胆します。ニックは人と同じにはなれませんが、主が与えたユニークな生き方や使命を生きています。

 あなたは周囲の誰かのマネをして、平均的な人になることを求めていますか。そんなの、一つも面白くありません。イスラエルの人々は、「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」と願いました。まことの神を知らない異国の人々のまねをして、神への信頼を忘れてしまいました。

 →あなたの番です 
□王に頼るのではなく、神を信頼しましょう。
□武力や国力ではなく、神の愛と守りに目を留めましょう。
□周囲と同じで平均的生き方にごまかされず、ユニークで自分らしい生き方を求めましょう。
 □現実的な問題に直面した時こそ、生きておられる神に頼りましょう。

「私と私の家とは、主に仕える」(ヨシュア24:15)



エベン・エゼル 第1サムエル7:1~17


 アメリカに駐在者として生活した人が帰国する際、米国で買った家具や電気製品などを安く売ったり、知人に無料であげて、飛行機に乗る。帰る時は、捨てるべきものがある。
 今日は、主に帰る、というテーマを扱う。


1、主に帰る

その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。(第1サムエル7:2)

空白の20年が過ぎた。神を忘れ去った20年だった。神に逆らった20年だった。神の箱はキルヤテ・エアリムに仮に置かれて20年間も放置されていた。
ペリシテに敗北したイスラエルは、復興の糸口もつかめず、ペリシテ人の圧迫に20年間苦しめられた。そして、ついに神を求めた。あなたにも空白の20年があるはずです。
 神から離れていた人々は何をどうしたらいいのか分からないので、サムエルは短い言葉で、なすべきことを教えた。

そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」(3節)

主に帰れ。それは、後の預言者たちが何度も語るフレーズですが、私の調べたところによると、旧約聖書で一番最初に使ったのは、今日の箇所のサムエルでしょう。
イスラエルの人々も、あなたも、実家を飛び出して放浪している。主はあなたの心の実家だから、ただ、そのままで帰ればいい。不必要な荷物は捨てる。つまり、悔い改めて、外国の神々を捨て、罪を告白する。心一つで主に帰ればいい。実家にはあなたが必要なものはすべてある。主を尊敬し、主を愛し、主と共に生きる。それだけだ。
信仰を持つとは、主に帰ることなのです。

彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。(6節)

 サムエルは皆の前で水を注いだ。水は、悔い改めた心を象徴している。悔い改めた心は、最も低い心、柔らかな心、澄んだ心だ。私たちも、水のように悔い改めよう。

 上司とのトラブルをきっかけに行方不明になった若い社員がいました。実家のお母さんは心配して、心当たりの繁華街に出掛けて行って行方を探しました。ある日、買い物から帰ると息子が玄関口に立っていました。「ここはあなたの家よ。そんな所に立っていないで、家に入りなさい」と呼びかけると、息子は入ってきたといいます。

 主に帰りましょう。成功談も、お土産も、いりません。水のように注ぎ出された心だけを持って、主に帰ればいいのです。
 主は放蕩息子の父のように、あなたを受け入れてくれます。



2、サムエルが祈る

 ペリシテ人はイスラエルの動きを見て戦いの準備と勘違いしました。私たちが主のもとに戻ると、「敵」は行動を開始します。

そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。(8~9節)

 主に立ち返った人々は20年前の失敗は繰り返しません。敵が間近に迫っていても、サムエルに祈りの要請をしました。神の助けを信じたのです。
サムエルの祈りには力がありました。「サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。」(詩篇99:6)

サムエルは子羊のいけにえをささげました。かわいい、乳離れしていない小さな羊がささげられるのは旧約聖書でも異例です。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と呼ばれたことを思い出します。

戦いの勝敗は、人数の多さや勇敢さとは関係なく、神の御手にあるのです。サムエルが祈り、主を礼拝し、全焼のいけにえをささげていると、ペリシテ人の上空で強烈な雷鳴が起きました。イスラエルはその混乱に乗じて、勝利をおさめました。

サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。(10節)

ペリシテ人に占領されていた5つの町まで取り戻し(14節)、戦勝記念に石を一つ据え、「エベン・エゼル」と名づけました。エベンは石、エゼルは助ける。
あなたの番です。主の恵みを受けた時に何かの記念を残しましょう。ノートに記録しましょう。その日を記念日にするのもいいです。感謝する、心に刻む、思い起こす、歌を作る、主をたたえる。どんな方法でも、主の恵みを大切にしましょう。そういう経験の一つ一つが、主との結びつきを深めてくれます。

サムエルはこの後、イスラエルのリーダーとして人々を導きました。「サムエルは、一生の間、イスラエルをさばいた。」(15節)

現代は、サムエルのような、心の指導者、祈り手が必要です。あなたが、家庭でサムエルになってください。学校で、会社で、身近なコミュニティーで、サムエルになってください。祈って下さいと誰かに頼まれる人になりましょう。

→あなたの番です
 □主に帰る
 □あなたの「エベン・エゼル」を作る
 □あなたが、サムエルになる

「わたしに帰れ」(ゼカリヤ1:3)

第1サムエル6:1~21 進む雌牛


 虫歯ができた時、あなたは、すぐ歯医者に行きますか、耐えられないほど辛くなるまで放置しますか。ペリシテ人は後者でした。
 
1、7ヶ月間の放置

 ペリシテ人は7ヶ月間、ただ様子を見ていた。問題解決は先延ばしになった。

主の箱は七か月もペリシテ人の野にあった。(第1サムエル6:1)

 神の御手による病はペリシテ人の地域から去らなかった。神の箱をたらい回しにしたり、野に放置すれば問題は去って行くと思ったが、そうはいかなかった。
そこで、ペリシテの領主たちは、やっと重い腰を挙げ、祭司や占い師を呼び助言を求めた。ペリシテの祭司たちは、「神の手があなたがたから去らない」(3節)原因がイスラエルの神をないがしろにしたことにあると理解し、「エジプト人とパロが心をかたくなにしたように、心をかたくなにするのですか。」(5節)とペリシテ人領主たちの戦勝者のおごりを戒めた。

 私たちも変化を喜ばない者です。同じ事を繰り返している中で、何となく問題が解決することを望みます。でも、問題は悪化するばかりです。

いつもの周回軌道から脱出する勇気を持ちましょう。それが、生きた信仰です。



2、償い

すると彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。それに対して、必ず罪過のためのいけにえを返さなければなりません。そうすれば、あなたがたはいやされましょう。なぜ、神の手があなたがたから去らないかがわかるでしょう。」(3節)

 まことの神を知らないペリシテの祭司や占い師ですら、道理をわきまえていました。イスラエルから神の箱を奪ったのだから、第一に神の箱を返還し、第二に償いをしなさいと助言しました。

 レビ記に規定された「罪過のためのいけにえ」(参考:レビ記6:1~7)は、これと同じ発想に基づいたささげものです。人の物を奪ったり、壊したりした時は、現状回復を行い、5分の1を損賠賠償として償い、神にいけにえをささげるのです。

ハワイ沖、2001年2月、潜水艦グリーンビルが練習船えひめ丸に衝突して9人の命が失われました。スコット・ワドル(Scott Waddle)艦長は、実はクリスチャンでした。
事故が起きた週末、ワドル艦長はいつも出席していたハワイの教会の礼拝に参加しました。彼の著書「The Right Thing」を読むと、最初からワドル艦長は自分の非を全面的に認め、9人の死を悼み、遺族に直接謝罪したいと願い、かつ、行動していたことが分かります。でも、米国海軍はそれを許可しませんでした。
ワドル艦長は翌年12月、宇和島水産高校を訪れ、記念碑の前に花をささげ、涙と共に祈りをささげました。学校側も遺族も謝罪を拒絶、関係者の臨席が無い中、多数の報道陣とカメラだけに囲まれて、彼のなすべきことをしました。10年後の追悼記念会にも遺族の許可が得られるなら参加したいとの意向も表していました。

私たちの番です。心を込めた謝罪の言葉、現状回復、誠意を伴った金銭や物品による償いをしませんか。

失敗を失敗だけで終わらせず、神に栄光を帰す機会にもできるのです。

あなたがたの腫物の像と、この地を荒らしたねずみの像を作り、イスラエルの神に栄光を帰するなら、たぶん、あなたがたと、あなたがたの神々と、この国とに下される神の手は、軽くなるでしょう。(5節)



3、生きておられる主

 ペリシテの祭司たちは、牛に引かせた車に神の箱を乗せイスラエルに返還するようにとアドバイスしました。ただし、くびきを付けたことのない雌牛2頭を用い、子牛を牛小屋に残し、誰も道案内せずに、好きに行かせなさいと言うのです。

すると雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一筋の大路をまっすぐに進み、鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、そのあとについて行った。(12節)

くびき初体験の牛は暴れます。乳を飲ませている雌牛なら子牛の小屋にもどります。ところが、雌牛2頭はイスラエル領地を目指し斜面を登り、東に進み、右にも左にもそれずにベテ・シェメシュに到着しました。雌牛は、自分の意思に反して進むことを嫌うかのように、鳴き続けました。(10~12節)

ペリシテの領主は一部始終を見届けました。ベテ・シェメシュはレビ人の町(ヨシュア21:16)なので人々は神の御名をあがめ、牛をいけにえにしてささげました。
主は生きておられます。異教の世界でも、主はご自分の方法で栄光を表されました。主は、私たちの予測を超えた、すばらしい事をなさる方です。

 私は、「お前は、馬鹿なことをしたな」と言われたいと思います。人から見たら愚かなこと、無駄な事でも、主イエスが良くやったと言ってくれるならそれが喜びです。


 →あなたの番です
 □安定軌道から脱出する時です
 □謝罪とつぐないを心を込めてしましょう