心を尽くして主に感謝 詩篇9篇

 私たちが幸せになったり、不幸せになったりする原因のほとんどは、言葉です。悪い言葉を聞けば、失望し、苦しみます。良い言葉を聞くと、元気になり、温かい気持ちになれます。
 人から「ありがとう」と言ってもらえると、苦労がすっと飛んでいきます。実に不思議なものです。今年最後の礼拝で、感謝することの素晴らしさを確認しましょう。



1、感謝すると、愛されていることが分かる

 「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」(詩篇9:1)

 これは詩篇9篇の主題であり、結論です。心を尽くしてとは、神がしてくださった事を、ひとつひとつ思い返したということです。
 感謝する能力があるとすれば、それは、隠れた努力や忍耐、注がれた愛に気がつく推察力と言い換えればいいでしょう。見えないところに隠れた神の愛や配慮に気づくことが、感謝です。

 主のして下さったことを数えましょう。今年、主から受けた恵みを一つ一つを感謝しましょう。あなたも、主に守られたことでしょう。そして、神に忘れられていません。

 「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで。」(9節)
 「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。」(12節)
 
 結婚が近づき、花嫁が「お父さん、お母さん、ちょっと話があるの」と言いますね。そんなふうにした人はどのくらいいるでしょうか。両親も、「なんだい、改まって」と言いながら、実は、何を言うのか分かっています。「長い間お世話になりました」感謝する娘も涙、感謝される親も涙になります。親の愛と犠牲に見合う物やお金を返すことは不可能です。でも、ありがとうと言うなら、心は伝わるのです。親もそれ以上は求めません。
 神に対して、同じように感謝しましょう。感謝すれば、するほど、神に愛されていることに気づきます。



2、感謝すると、将来が明るくなる

 「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇9:10)

 神を信頼する者を、神は見捨てることがありませんでした。これは過去形です。それで、御名を知っている者は、これからも神に頼ります。これは未来形です。

 感謝することは、あなたの将来を明るくします。過去の感謝が、未来の安心を引き寄せるのです。今まで、神は、こんなに良くしてくださった。それなら、明日の心配はいらない。

 逆に言えば分かりやすいですよ。今、感謝をしない人の未来は、暗くなるのです。未来を造るのはあなたかもしれません。今の感謝が、将来の輝きを支えるのです。



3、感謝すると、礼拝者になれる

 「私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」(詩篇9:2)

 感謝は、神のして下さった事実を土台にお礼を言うことです。感謝を続けると何が起こりますか。それは、恵みを下さる神ご自身が素晴らしいという確信を与えてくれます。もらったプレゼントが素晴らしければ、しばし、感激しますが、そのプレゼントを下さる神こそが、本当に素晴らしいと分かります。これが賛美です。そして、賛美とは礼拝の中心です。

 あなたが、感謝する人になれば、礼拝する人、賛美する人になっていきます。

 エレナ・デッセリッチちゃんは、5歳で脳腫瘍になり、6歳で亡くなりました。両親は子供にしてやれる治療のすべてを行い、余命わずかと分かったときには思い出作りのためエレナちゃんの喜ぶことをすべてしてあげました。
 亡くなった後、親が子供の机の引き出しを開けると、小さな紙が出てきました。「お父さん、お母さん、妹のグレース、大好き、ありがとう」と書いてありました。本棚から本を出すと、小さなメモが出てきました。その数は何百枚にもなり、家の中のあちこちに隠してありました。亡くなって2年たってもびっくりするような場所からメモが出てきました。

あなたの番です。
□まず、身近な人に、感謝しましょう。目を見て、心を尽くして、伝わる感謝をしましょう。
□神に感謝しましょう。一人で時間を取り、今年一年の感謝を具体的に思い出し、ノートに書き、祈りの中で神に感謝しましょう。

クリスマスの意味  マタイ1:18~25

 ラジオのスイッチを入れると、クリスマスは一年で最も素晴らしい時、と英語のスタンダードナンバーが聞こえてきます。
 なぜ、クリスマスは素晴らしいのでしょうか。今日は、クリスマスの意味を考えてみましょう。


1、クリスマスは、救い主の誕生

 日本のクリスマスは恋人たちのビッグイベントの代名詞になりました。アメリカでは家族のリユニオンの時です。

 本当のクリスマスの意味を一言でいいましょう。私たちを罪から救う<救い主>が生まれた、これがクリスマスの意味です。

 マタイの福音書をしばらく読んでみましょう。

 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
(マタイ1:18~21)

 聖書は道徳の本としては素晴らしいが、奇跡があるから信じられないという人が多いです。2000年前のユダヤ人ヨセフも現代人と同じ感覚を持っていました。自分に見覚えのないマリヤの妊娠をどう考えたらいいのか。婚約者のマリヤが妊娠したと知らされ、悩み苦しんだのです。

 神が本当におられたなら、と私と一緒に考えてください。時間と場所の制限を受けない神がいて、天と地のすべてと人間を造られた神がいたとしたらどうでしょう。宇宙の法則を定め、人間の体とDNAのすべてをつかさどり、物質の最小単位の原子、素粒子などのすべてを考案された方がいたらどうでしょう。その全能の神が、ある時、ご自分の造られた法則を一時的に変更することは不可能でしょうか。いいえ、可能です。奇跡は、全能の神を前提とすれば論理的にうなずけることなのです。

 マリヤは、天使ガブリエルとの出会いを詳細にヨセフに語ったことでしょう。ルカ1:26~38に詳しく書かれています。
 ヨセフは、マリヤを愛していました。けれども、常識と理性もあったので、マリヤの言うことは受け入れられません。それで、内密に婚約破棄し、スキャンダルの的にさせないようにと配慮しました。ヨセフができる精一杯の思いやりが表れています。

 処女降誕。ありえないことが起きたのです。けれども、救い主の誕生には、ありえない事がどうしても必要だったのです。
 人の罪を身代わりに背負うためには、救い主が罪があっては身代わりになりえません。普通の人間と同じように生まれて来たなら、それはただの人に過ぎません。聖霊によって誕生した方なので、罪人の身代わりになれるのです。
 また、この特別な誕生方法は預言者イザヤによって預言されていました。つまり、アクシデントではなく、予定通りなのです。イザヤ7:14「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(参照:マタイ1:22~23)

 神のひとり子が、神の栄光をかなぐり捨て、人間の姿をとって生まれてくださいました。当時ですら、家畜のえさ箱に寝かされる赤ちゃんなどいませんでした。貧しさの極みの夫婦のもとに生まれてくださいました。
 主イエスは、人として人生を送り、私たちが経験する悩みや悲しみや苦痛をすべて味わってくださいました。このようにして、私たちの救い主は来てくださったのです。その最後には、私たちの罪を背負って十字架で死ぬという最後が待っていました。

 ヨセフが悩んでいると、主の使いが夢に現れ、マリヤの言葉の正当性を教えてくれました。ヨセフは、これで吹っ切れました。離縁をやめました。ヨセフは男だな、と私は思います。

 ヨセフのこの決断によって、主イエスはヨセフの家系と認められました。(マタイ1:16)それゆえに、主イエスは旧約聖書が預言したとおり、ダビデの子として生まれたのです。



2、救い主を心に受け入れよう

 クリスマスが救い主の誕生であると分かっても、それだけではもったいない。主イエスは、いわば神からあなたに贈られた最高のプレゼントです。そのプレゼントの箱を空けずに横に置いていたら何にもなりません。受け取ることによって初めてその人のものになります。主イエスを心に受け入れ、信じましょう。それが、神のプレゼントを受け入れることです。

 フランシス・コリンズという人は、エール大学で物理化学の博士を取得、ノースカロナイナ大学の医学博士にもなった秀才です。
 インターンの時、お年寄りのクリスチャンから質問され、それが心に重く響きました。「あなたは何を信じているのですか」治療不可能な重度の狭心症で日々耐え難い痛みと戦っていたその患者は神を信じて平安を持っていました。
 フランシスは意図的に神に背を向けてきました。けれども、背中を押されるようにして、様々な宗教の本を読みましたが混迷は深まりました。近くにあったメソジスト教会の牧師に質問にいったおり、C・S・ルイスの「キリスト教の精髄」を紹介され、読んでみました。自分の持っていたひとつひとつの疑問がわずかな言葉で的確に説明されているのを見て驚きました。それに触発され、クリスチャンになりました。
 フランシスは、後にヒトゲノム計画の責任者となるなど、遺伝子分野の有数な学者として知られるようになり、テレビのインタビューに登場し、はっきりと自分の信仰を語っています。主イエスは、私の救い主だと公言しています。

 聖書は、主イエスが救い主であることをあなたに伝え、あなたが信じて本当の命を受けられるようにと書かれたものなのです。

 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 あなたが、プレゼントの包みを開くときが来ました。
主イエスをあなたの救い主として信じましょう。そのとき、本当のクリスマスの喜びがあなたに届きます。

 クリスチャンのあなたにも最後に一言。堂々と主イエスが救い主であると人々に伝えましょう。

バルテマイ  マルコ10:46~52

 出会いは人生を変える。まさに今日はそれにふさわしい箇所です。盲人で乞食のバルテマイがどのように変えられたかを見ていきましょう。

1、つながるための叫び

 エリコは、オアシスの町、また、パレスチナで最も古い町の一つ。標高マイナス250mという低い場所にあり、もう少し下ると死海に着きます。
 ユダヤ人の大事な祭り、過ぎ越しの祭りが目前に迫っていたので、多くの人がエリコを通過してエルサレムを目指して上っていきました。

 盲人で、乞食のバルテマイが人通りの多いところに座っていたのでしょう。主イエスの一行が付近を通ると知ると急に叫びだしました。

 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。(マルコ10:47)

 バルテマイは主イエスの噂を聞き、この方こそ救い主、ダビデの子孫として生まれると旧約聖書に預言されたメシアだと確信して、「ダビデの子」と呼びました。マルコの福音書で唯一主イエスを「ダビデの子」と呼んだ人物がバルテマイです。

 まことの神を知らない人は、バルテマイと同じように霊的な意味で闇の中にいます。見たことのない方を完全に知ることは不可能です。知りえる情報から判断して、この方こそ救い主と知る以外道はありません。
「あなたが本当の救い主ですか。教えてください」そうあなたが叫ぶなら、あなたは必ず、主イエスの応答をもらえます。

 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13~14)

 主イエスは、バルテマイに応答されました。

 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。(49節)

 主イエスとつながりたいというバルテマイの祈りは、このようにして主イエスに届きました。弟子たちがバルテマイに主イエスの言葉を伝えると、喜びのあまり上着を脱ぎ捨て立ち上がりました。

 あなたの番です。
あなたも、主イエスに届く祈りをしましょう。あなたを知りたいのです。あなたご自身を私に教えてください。私はあなたを信じます。そのように祈りましょう。


2、未来を切り拓く願い

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。

 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(51節)

 シャルル・ペローの「3つの願い」という話は興味深い寓話です。
きこりの夫婦が森で一本の木を切ろうとすると、木の妖精が現れ、この木を切らなければ3つの願いをかなえようと言うのです。言葉に従い、何を願おうかと考えいましたが、奥さんが「大きなソーセージが食べたいな」とつい口に出してしまいました。目の前に見たこともない巨大なソーセージが出てきました。大事な願いをつまらんことに使いおって、そんなソーセージはお前の鼻にくっついてしまえ、と夫が言い捨てました。すると、その通りになり、奥さんは困り果て、結局3つ目の願いは、それを外すことに使いました。

 私たちは、何を望んでいるのでしょう。たくさんのことを、ぼやっと願っているだけです。主イエスは、バルテマイの信仰を引き出したのです。

 「コーチング」という言葉があります。会社の社長や専門職が、新たな飛躍を求めて個人コーチを付ける例が増えてきました。カウンセリングは、どちらかといえば過去の問題の解決を志向しますが、コーチングは未来に向かって自分の行動を変えることを目指すと言われています。コーチングのプロは、課題を明らかにしたり、承認したり、励ましたり、目が覚ましたり、気づくことを促進させようと、的確な質問を投げかけます。そうなのです。良い質問は、漠然としていては出てきません。良い質問が人を育て、引き上げます。

 主イエスの質問を読んで、当たり前のことを聞くなあ、と思わないでください。実に的確で的を得た質問なのです。

 「そのとき盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳をあけられる。」(イザヤ35:5)

 51節で、「盲人は言った。『先生、目が見えるようになることです。』」とあります。盲人がそういう事は大変困難なことです。
 バルテマイは、自分をいじめた人に仕返しがしたいと答えることもできました。世界一の金持ちになりたいとも言えます。けれども、主イエスと対面していたバルテマイは、その出会いによって、心が整えられ、大胆に求めることができたのです。

 あなたの番です。
「わたしに何をしてほしいのか。」と主イエスに今日聞かれたら、あなたは何と答えますか。

 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(52節)

 主イエスは、バルテマイを励まし、その信仰を肯定されました。あなたの信仰がこんな素晴らしい結果を導き出したのだと。ダビデの子であるとバルテマイが認めたこと、大声で求め続けたこと、主イエスの質問を受けて見えるようになりたいと言ったことなど、主イエスはバルテマイの信仰が素晴らしと励ましました。

 バルテマイは、その後どうしたでしょう。見えるようになった目で主イエスを見つめ、主イエスの後に従う者になりました。金持ちの青年ができなかったことをバルテマイはいとも自然に行うことができました。

 今日、三度目のあなたの番です。
あなたも、主イエスにいやされたなら、罪ゆるされたなら、主について行く人生を選びましょう。

仕える人  マルコ10:32~45

 「私は不幸せだ」と言う人には共通する何かがある。それは、受身の人生観です。愛してもらえない、分かってもらえない、白馬に乗った王子様が来てくれない、子供が問題ばかり起こす、良い仕事が来ない……。
 今日は、仕える心について話します。これを身につければ、間違いなく幸せになれます。

1、何かをする動機

 何かをする時、以下の3つのどれかが動機になっています。

 1)みんながやっている
 2)言われたから
 3)別の下心で

 私も日本人ですから、みんながしていると嫌でもやってしまう気持ちは分かります。人生のかなり多くの部分は、習慣、前例、きまり、規則などに従って生きています。でも、残るのは疲れだけです。

 次に、職場で上司から指示があると、やりたくないことでも、しますね。親に手伝うように言われた子供の顔が不満なのは理解できます。言われてやる事は、たいてい不平、不満が残ります。

 第3は、下心があって何かをする場合です。自分からしているという意味では受身ではありません。自発的ですが、自己中心です。相手からのお礼や見返りがない場合はたちどころに怒りに変ります。

 もし、第4の動機があれば、人生は大きく変ります。主イエスの生き方。仕える心があれば、満ち足りた人生になります。

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:44)

 マーケティングの基本は、他人の求めている事に応えることであり、つまりそれは、人に仕えることだ、と発言する経営コンサルタントがいます。
 ビジネスの世界で、ロバート・グリーンリーフは1970年に<サーバント・リーダーシップ>という考えを提唱しました。ワンマン社長ではなく、上司が部下に仕え会社を活性化するという思想です。この考えは広く知られるようになり、事実、生まれ変わった企業の例も報告されています。


2、主イエスの生き方


 主イエスの生き方は、他人と横並びではなく、言われたからするのでもなく、卑しい動機ですることもありません。

 1)目的を持つ

  主イエスは、これから起きることを弟子たちに予告しました。

 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」(マルコ10:33~34)

 主イエスの未来にあるものは、困難と屈辱と暴力と死だけでした。主イエスは、淡々と十字架への道を歩いていかれました。十字架で身代わりになるという明確な目的を持っている主イエスは、迷うことも、ぶれることもありません。

 2)正しい動機で選択する

 12弟子のうちヤコブとヨハネは、主イエスのナンバー2とナンバー3にして欲しいと申し出ました。(37節)エルサレムで主イエスが何かをなさると予想できたので、今のうちにお願いしようと思ったのでしょう。出し抜かれた他の弟子たちも動機は同じで、後で話を聞いて腹を立てました。(41節)
 主イエスの動機は正しい心でした。人々の罪を赦すために十字架につくという無私の心でした。

 「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲」む、と主イエスはヤコブとヨハネに向かって予告されました。この事は、ヤコブが最初の殉教者(使途12:2)になり、ヨハネが島流しの刑を受ける(黙示録1:9)ことによって成就しました。

 3)仕える姿勢で生きる

 主イエスの生き方は以下の言葉に集約されています。

 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

 栄光の神が、人となってくださったのです。しかも、罪深い人間に仕える姿を取られたのです。
 神の子が私たちに仕えようと考えてくださり、そのように行動されました。仕える心の中核は、命を与えることです。
 そうです、誰かに仕えることは、命を差し出してるに等しいのです。誰かが困っているとき、あなたがその場に行き、なぐさめ、抱きしめます。それは、あなたの時間をささげ、エネルギーをそそぎ、持てる愛のすべてを与えているのです。あなたも、仕える心を持ちましょう。世界が違って見えるはずです。あなたを待っている人がいます。最も仕えて人こそ、最も賞賛される人となるのです。

 →あなたの番です

 □職場で、家庭で、教会で仕える心を持ちましょう
 □誰かと共にいる、傾聴する、愛する、励ましの言葉のプレゼントをする
 □人を育てるために祈り、誰かに仕えるために計画を立てよう
 □福音を伝え、明確な決心者を生み出す行動を取ろう