使徒5:17~21 福音を伝える

 信仰の基本姿勢を持っていることが、あなたの毎日を生き生きしたものにする、と私は述べてきました。
 第一の基本姿勢は、神を愛しますという心。第二は、今日も誰かを愛しますという態度。そして、今日は、その第三として、福音を伝える、というテーマを取り上げます。

1、初代教会の基本姿勢

 アメリカの総人口のうち何%がキリスト教会の礼拝に参加しているのでしょうか。デイビッド・オルソンによると、1990年は20.4%が礼拝に参加しています。2005年には、17.5%になったといいます。この率では、キリスト教国とは言いにくくなっていますね。

 ペンテコステの日にイエスさまを信じた人は、2000人でした。(使徒2:41)やがて、その数は男だけでも5000人になります。(使徒4:4)エルサレムにおけるクリスチャン比率は飛躍的に上がりました。

 使徒5:12~16を見ると、多くの病人が道端に寝かせられ使徒たちが通るときに癒してもらった様子が書いてあります。それが、宗教権力者の怒りを誘いました。祭司たちはねたみに燃え使徒たちを捕えて留置場に入れました。(使徒5:17~18)その夜、何が起きたでしょうか。

 ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。(使徒5:19~20)

 「使徒たち」とあるので、牢に入っていたのはペテロやヨハネたちでしょう。主の使いの言葉に注目してください。さあ、これで逃げられます、遠くに行きなさい、とは言いません。病気の人々をいやしなさい、とも命じません。いのちのことばを伝えなさいと言いました。死んだ人を命あふれる人に変える、主イエスの福音を語るようにと勧めました。
 
 彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。(使徒5:21)


 初代教会の人々は、どんな信仰の基本姿勢を持っていたのでしょう。使徒2章などの記録を読むと、神を愛すこと、人を愛すこと、を大切にしていたことが分かります。今日の箇所から、福音を伝える姿勢があったことがはっきり分かります。これは、神の意思です。

 信仰の調子が悪いので伝道はできない、という人がたくさんいます。気持ちは分かります。でもそれでは、冬のシアトルで青空を待ち望むようなものです。
 伝道する気持ちで朝起きるのです。朝、最初にこう祈りましょう。「主よ。今日、私を福音を伝えるために用いてください。」

 福音を伝えたいという姿勢があなたの信仰を守り、強めるのです。


2、どのように語ればいいのか

 まず、誰に福音を語ればいいのでしょう。使徒8:26~30を読むと、聖霊が語るべき人を示してくださることが分かります。
 それによると、ピリポは南に40マイル以上も移動しました。示された場所で待っていると、エチオピアの政府高官が馬車に乗って通りました。しかも、イザヤ書を朗読していたのです。ピリポは、この人だと気づき、イザヤ書で預言していた救い主は主イエスのことだと教え、彼を救いに導きました。
 主ご自身が語るべき人を示してくださいます。あなたが備えがないなら、「教会はどこにありますか」と問われると、「そこを右」としか答えられません。もしあなたが、心の備えがあるなら、道順だけで終わらず、ピリポのように用いられます。

 何を語ればよいのでしょう。ある場合は、語るより、愛を示し、祈ってあげることが一番良い伝道になります。「それなら、自分にもできる」と思いませんか。
 サウスベイ・フリーメソジスト教会は、食事を共にする家庭集会がとても用いられています。クリスチャンでない人々を招いて楽しい食事をし、それぞれが抱えている問題を率直に話します。それを聞いたクリスチャンが深い共感を示し、愛を表し、心から祈ってあげます。毎週それを続けるうちに、彼らが教会に導かれ、クリスチャンになっていくそうです。

 語る人があなたしかいない。そういう時も、心配はいりません。

 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:19~20)

 語るべき言葉は御霊によって与えられるというのです。ですから、安心して語りましょう。

 人は、人生の過渡期に福音に対して心を開きやすいのです。引越し、新婚、赤ちゃんの誕生、子育て、転職などのとき、相談に乗ったり、具体的に助けたりしながら福音を語れます。
 人生の危機を通っている時もまた、聖書に興味を示します。破産、失業、離婚、人間関係のもつれ、子育ての悩み、病気、老齢など、あなたが良い聞き手になり、励まし手になって、主イエスを紹介しましょう。

 あなたは、クリスチャンとして調子が悪いときもあるでしょう。夫婦喧嘩をした直後かもしれません。受験に失敗した後かもしれません。お金もないかもしれません。でも、あなたは宝を持っています。主イエスという決して裏切らないお方を知っています。命を投げ出して、あなたを救ってくれた方がおられます。その方なら紹介できるはずです。

 10年間に800人にバプテスマを授けたデイブ・ホールデン牧師は、一番伝道しやすい対象は、あなたに良く似た人だと指摘しています。年齢、立場、考え方、生活スタイルなど、あなたに良く似ている人なら語りやすいはずです。そういう人を心に覚え、祈り、主からチャンスを頂いて、話を聞き、語りましょう。

 高校時代、私を教会に誘ってくれた関根君というクラスメイトがいました。私は、3回か4回は誘いを断りました。それでも、また声をかけてくれました。彼の愛と思いやりがなければ、私は決してクリスチャンにならなかったでしょう。
 あきらめなかったその人に、あなたがなる番です。

 →さあ、あなたの番です。
 □朝、福音を伝えるために私を用いてください、と祈りましょう。
 □あなたに似ている人は誰ですか。その人に語りましょう。
 □変化や痛みを通っている人に耳を傾け、主イエスを紹介しましょう。

 「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」(使徒5:20)

使徒4:36~37 人を思いやる心 

 信仰者が心に持つべき基本姿勢の第2番目は、人への思いやりです。

 愛してくれない。多くの人がそう考え、不幸感を強めています。そこを抜け出す方法は何でしょう。とても逆説的に見えますが、誰かを愛すことが、不幸感から抜け出す道なのです。


1、第2の戒めは、人への愛

 聖書の中心命令は、神を愛すこと、そして、人を愛すことです。

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

 人を本気で誰かを愛そうとするなら、必ず愛の難しさに直面します。愛の困難さは、自分が愛された記憶を呼び起こしてくれます。「こんなにも深く愛されてきたのだ」と深い感慨に導かれます。

 では、愛とは何でしょう。人を思いやるには、どんな段階を通るのでしょう。今回取り上げる、バルナバという人の行動から以下の事が分かります。

 1)その人の存在を喜ぶ。
 2)自分だったら、何が嬉しいことなのかを想像する。
 3)自分の持っている何かを、与える。     

 あなたが、朝、目覚めるとき、今日は誰を愛そう、と考えて起きたらどうでしょう。「愛されてない」症候群から解放されるのは間違いないです。


2、「慰めの子」、バルナバの愛

 バルナバの愛の行動を使徒の働きの順に従って見ていきましょう。

1)バルナバと呼ばれる

 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。(使徒4:36~37)

 十二弟子がヨセフのことを、「慰めの子」と呼びました。彼が愛の人という事実を如実に語るエピソードです。この後、ヨセフという本名は一度も使われません。十二弟子が認め、名づけたという事が、バルナバの愛が人並み優れていたという証拠になります。
 バルナバは、畑を売り、代金を十二使徒に託しました。おそらく、エルサレムに住む貧しいクリスチャン、お年寄り、病気の人などを助ける目的で、献金したのでしょう。思いやる心は、経済的にサポートするという実際行動を生みました。

2)サウロを受け入れる

 サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間にはいろうと試みたが、みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:26~28)

 十二使徒はサウロを拒絶しましたが、バルナバは違いました。サウロの話に真摯に耳を傾け、サウロの信仰と主イエスからの使命が本物だと認識し、十二使徒に紹介しました。バルナバは、十二使徒を説得できた人物です。
 バルナバは、サウルにだまされ殺されるという危険もかえりみず、サウロに会いました。勇気ある愛です。

3)アンテオケ教会に派遣される

 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。(使徒11:22~23)

 異邦人の教会であるアンテオケ教会が突如誕生しました。エルサレム教会の十二使徒は対処に困ったことでしょう。結局、自分たちが出向くのではなく、全権をゆだねる形でバルナバを派遣しました。
 愛の人らしく、バルナバは未熟なアンテオケの人々の存在を喜んだのです。受け入れて励ますのがバルナバの真骨頂です。

4)使徒15:36~41

 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。(使徒15:37~39)

 バルナバは、伝道旅行中に脱落したマルコにやり直しのチャンスを与えました。マルコを連れていくかどうかでパウロと対立し、喧嘩別れになり、パウロとの友情を失ってもマルコを立ち直らせる道を選びました。それは、バルナバが築いてきたアンテオケ教会の地位を失うことも意味したかもしれません。

 主イエスは愛の人ですが、こうして見てくると、主イエスの愛のDNAを最も受け継いだ人はバルナバなのかもしれません。
 貧しい人を思いやり財産を投げ出し、危険人物のサウロを引き受け、未熟なアンテオケの人を喜びながら励まし、落ちこぼれマルコを育てる。

 私たちも、バルナバを見習いましょう。
 愛しましょう。励ましましょう。与えましょう。

 1995年に失明して教師の職を失った新井淑則さんの人生は多くの人を励まします。普通中学の教師として13年後に復帰した経験はテレビドラマにまでなりました。新井先生が書いた『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる』を読むと、失明前後の荒れた心や生活が分かります。あとがきに、奥さんの助けなしには今日の自分はないと書かれた文章に私は一番感動しました。あきらめない。逃げない。明るさを与え続けた奥さんは本当に立派だと思いました。

 あなたも、見捨てないで誰かを支えてください。誰かのために無駄をしてください。愛するゆえに失うこと、それは、一番人間らしい行為です。キリストに愛された者らしい態度です。あなたも、キリストの弟子の一人でしょ?

→あなたの番です
 □誰に、愛を届けたいですか
 □その人が励まされる事は何ですか
 □そして、何かを失う喜び、を体験しましょう

ルカ10:38~42 神さま、大好き

 羅針盤シリーズの第2回目。今日は、神への愛、という基本姿勢について考えましょう。
 信仰の基本姿勢を持っていることはとても大事だと前回お話しました。心に確かな羅針盤のある人は、仕事も、家庭も、教会での奉仕も、一本筋が通っています。

1、第1の戒めとしての、神への愛

 信仰の基本姿勢を因数分解すると4つぐらいの要素があると私は考えています。その第一が、神への愛です。なぜ、第一かというと、主イエスがそう言われたからです。

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。(マタイ22:37~38)

 神への愛は申命記6:5など旧約聖書でも一貫して主張されている大事な命令です。

 神を、偉大な神として、畏敬の念を持っている人は多いです。でも、主イエスは、神を尊敬しなさいと命じませんでした。愛しなさいと言われたのです。何か、新鮮な感じがします。

 ここで、あなたに質問です、あなたは神さまを愛していますか。


2、マルタの祈り?

 エルサレムに近い村ベタニヤに、マルタとマリヤの姉妹が住んでいました。主イエスが、弟子たちとマリヤの家を訪れたときの様子がルカ10:38~42に書いてあります。
 マルタは、もてなしのために忙しく、カリカリしていました。

 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」(ルカ10:40)

 マルタが主イエスのそばに来たのは、文句を言うためでした。妹を働かせるように命じるように主イエスに催促しました。
祈りの言葉が、文句や不平ばかりになる祈り。気に入らない人の態度をインスタントに変えてほしい時の祈り。こういう祈りを「マルタの祈り」と呼んでもいいかもしれません。

 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41~42)

 たとえば、あなたが女性で、アメリカ人と結婚した人だとします。年の離れた妹がやはりアメリカ人と結婚してシアトルに行くという時に、あなたが実家を訪れたとします。妹と話せるのは1日だけです。妹は、台所を出たり入ったりして食事の準備をし、姉の大好物の明太子がないとスーパーに買い物に行ってなかなか帰ってこないとします。そんなとき、あなたはどう思うでしょう。主イエスは、私たちに一番大事なことを話したいと願っておられます。

 マルタは主イエスのために忙しく働いていましたが、主イエスを愛していたと言えるでしょうか。


3、マリヤの姿勢

 マリヤの姿に目を向けましょう。

 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。(ルカ10:39)

 とても美しい姿です。39節を、4つの要素に分けて考えましょう。

1)そばにいる
 主の足もとに座っています。マリヤは、一番そばに座り込んでいます。そばにいることは愛です。
では、私たちの実際生活で、主イエスのそばにいるとはどんなことでしょう。礼拝に行くとか、賛美するなどが、そうかもしれません。

2)何もしない
 マリヤはただ座っています。自分のしたい事をすべてキャンセルし、停止しています。あなたのために、全部スケジュールは空けてあります、という姿勢です。
 私たちに適用するとどうなりますか。安息日という概念は、まさにそれに当たりますね。

3)耳を傾ける
 マリヤは主イエスの言葉を聞きたいのです。主イエスは、大切な事を教えてくれます。私たちに必要な事を語ってくださいます。今、知るべき知恵を話してくれます。聞くことは愛です。
 耳を傾けることは、聖書を読むこと、聖句を暗記する、祈りの中で神の言葉を思い巡らすことなどが、それに当たるでしょう。

4)聞いて実行する
 主イエスの言葉を聞くのは、主イエスの望むことを理解して、自分がそれを実行したいからです。ヨハネ12章1~3節によると、主イエスの死を理解して高価な香油を注いだのは、このマリヤだと指摘しています。マリヤは聞くだけの人ではなかったのです。
 私たちへの適用は、まさに、主イエスの心を知って、それを行うことです。

 主イエスと共にいることが嬉しい、主イエスのためだけの時間を取る、主イエスの言葉に耳を傾ける、主イエスのメッセージを実行する。これらは、神を愛すということの実例です。

 あなたは、どんなアクションを選んで、神を愛していることを伝えますか。
 神を愛すという基本姿勢が、あなたを罪から守り、あなたに勇気を与え、あなたの人生を輝かしいものにしてくれます。

 →あなたの番です
 □あなたは、神さまが大好きですか
 □神を愛す行動を、今週実行しましょう