エペソ3:1~13 「小さな私が」

 なすべき事は分かっているが、どうにも身動きが取れないときがある。パウロもそれに似た状況だった。

1、パウロの自己紹介に目を留める

 パウロはどんなふうに自分を紹介しているか。今日の箇所では、この質問が大切な鍵となる。1、2、7、8、13節を読んでみよう。

 1節では、異邦人に福音を伝えたことにより逮捕されローマで囚人となっていると説明している。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」(1節)

 2節では、神から任務を与えられた者だと書いている。「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」(2節)

 7節では、神から賜物をいただき、福音に仕える者とされたと述べてい。「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」(7節)

 パウロは自分をどう見ているかというと、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」(8節)

 今の状況を一言でいうなら、苦難を受けている。「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに」(9節)


 パウロの自己紹介をまとめると次のようになる。

 1)神から特別任務を与えられた。
 2)自分は神の目には取るに足らない小さな人間。
 3)現在は苦難の中にいる囚人。

 普通、このような状況にいたら失望しているだろう。あなたも、この3要素が当てはまるかもしれない。やるべき事は分かっているが、自分には能力がなく、置かれた状況は過酷すぎる。パウロは、それでも、へこんでいない。


2、へこまない秘訣

 なぜ、へこまないのか。

1)今の自分を世間の価値観で見ない

 劣等感が強すぎる人は、人と比べ過ぎる傾向が強い。それをやめればいい。

 主イエスに従った結果、囚人となった。恥ずべきところ一切ない。盗みや殺人をして牢にいるわけではない。パウロは囚人だが、胸を張って生きている。「キリスト・イエスの囚人」(1節)という理解がパウロの力強さの秘訣だ。
 
 人を見ないこと。主イエスを見上げること。それが、へこまない秘訣。


2)取るに足らない者だが、神の特別の力を受けている

 驚くばかりの恵みを神から受けている。自分からは生まれるはずのない絶大な力を神から注いでもらっている。その認識が、失望しない理由だ。

 7節に「神の力の働き」とあるが、この「働き」はギリシャ語でエネルゲイアという。エネルギーの語源になった言葉だ。

 あなたにも同じ力と恵みが注がれている。


3)任務をもらっている

 パウロは、旧約時代の預言者も他の誰も気づかなかった奥義(隠されていた神の計画)を理解した。福音を伝えることでその任務を果たすことができた。

 当時のユダヤ人は異邦人を忌み嫌い、同じテーブルで食事することなどあり得なかったが、パウロは次のように語っている。
 「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6節)
 この理解はパウロにとって心踊る出来事だった。福音をユダヤ人にも異邦人にも語ることは、この任務を実現することになる。

 あなたは、神からどんな任務を頂いているだろうか。その事自体が、あなたの心を喜びで満たしてくれる。


4)神の栄光があらわされる

 パウロは牢獄で自由を奪われ、神の前で自分の罪深さを認識しているが、それで終わりではない。へこんいるだけで終わりではない。パウロの信仰の目は神の栄光を仰いでいた。

 「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(13節)

 13節だけでない。8~12節の流れも、神の栄光を示唆している。
 
 自分の犯した罪、過ちを顧みると、自分はどんなクリスチャンより小さく、価値のない者だとパウロは認識していたが、神はあえてそのような者を用いられる。
 囚人に過ぎないパウロが書いた手紙は、2000年間多くの人を励まし続けている。

 パウロがへこまなかった理由を見てきた。あなたの番です。
 □あなたが神から与えられた任務は何ですか。
 □あなたは、神の前で正しく自分を評価していますか。
 □あなたは、今、苦難の中にいるが、それが誰かの励ましになっていることを忘れてはいけない。

 1970年、星野富弘さんは事故のため首から下が完全に麻痺してしまった。その彼をお見舞いをしたクリスチャンが何人かいて、その中で米谷さんという男性がおり、聖書を星野さんにプレゼントした。事故から4年して星野さんは洗礼を受けクリスチャンになった。あれから40年。星野富弘さんの詩画は世界に知られるようになったが、米谷さんのプレゼントを知っている人はわずかだ。
 米谷さんは神からもらった任務を見事に全うした。また、世間的には「小さな者」と見られる星野さんが、世界の人々を励まし続けている。
 この二人の姿は、私たちの励ましになる。そう思いませんか。

エペソ2:11~22 平和を実現する

 不思議です。
パウロはエペソ2章で平和について語っているのですが、平和になるための段取りを一つも書いていないのです。どうしたら平和を実感できるのでしょう。

1、対立

 人間にとっての最大の問題は罪です。パウロは2章の前半でその解決方法に言及し、神の恵みによって罪が赦されると説明しました。話の筋立ては、かつての罪の姿、「しかし」の神、恵みによる救い、そして、救われた者の歩み方という順番でした。

 パウロが取り上げた次の問題は、対立です。人間社会の問題の大半は、人と人との対立です。あなたは誰かと対立していますか。誰かを憎んでますか。誰かの一挙一動に腹が立ちますか。

 11節以降のパウロの枠組みは2章の前半部分とそっくりです。ユダヤ人以外の異邦人は神から離れ、神との約束の外におり、偶像礼拝する者でした(11~12節)。「しかし」の神は、そうした異邦人を軽蔑せず、ご自身のそばに引き寄せてくださいました。

 「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(2:13)

 神の民として選ばれたユダヤ人は、選民意識のゆえに異邦人を見下げて、付き合いをしませんでした。ですからユダヤ人と異邦人の間には争いや差別がありました。見えない壁がありました。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)


2、平和は主イエスの中にある

 平和になる具体的な方策、和解への段取り等は一切書いてありません。そのかわり、平和がどこにあるかを指し示しています。

 平和は作るものではない。主イエスの中にある平和がある。まるで薄絹のベールが空から降りてくるように、平和は主イエスの十字架から私たちのもとにやってきて静かに私たちを覆うのです。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし。ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(14~15節)

 もう一度言います。平和は、そこにあるのです。主イエスの十字架を見上げるなら、その平和があなたのものになります。
 私のような罪人のために主イエスは死んでくださったのか。感謝します、イエスさま、という心を持つなら、他者に向かう心が自然と穏やかになります。復讐を誓い、大きな石を握りしめて生きている人がいますが、主イエスの愛を十字架に見ることができるなら、石を捨てたくなります。空になった手を相手に差し出して握手することも可能です。

 あなたには、憎んでいる人がいますか。近づいただけで、無性にイライラさせられる人がいますか。絶対に赦すもんかと決めている人がいますか。
 そういう人は、十字架を見上げましょう。

 18節以降は、ユダヤ人と異邦人が一つになると語られています。一つの家族になり、一つ建築物として組み上げられるというのです。

 「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:18~22)

 1974年12月20日、フロリダで10歳の少年クリス君が誘拐され、銃で撃たれましたが一命は取りとめました。混乱していたクリス君は、犯人の顔写真を見せられても断定できず、犯人は無罪になりました。事件から22年後、犯人が自白したと警察から知らされました。32歳になっていたクリスさんは犯人の男性と対面しました。高齢と衰弱、失明状態になった77歳の犯人に「ゆるしてほしい」と言われ、「もう、とっくにゆるしているよ」と答えました。クリスは毎日のように彼を訪問し主イエス・キリストの十字架を伝え信仰に導き、3週間後犯人は亡くなりました。
 クリスは言います。被害者として生きるか、神の恵みを受けた者として生きるか、二つのチョイスがあったといいます。何度もアイスピックで胸を突かれ、頭を撃たれても片目を失明しただけで弾は脳に触れず、野外で6日間気を失っていたのに救出されたことを、神の恵み、神の奇跡と言わずにいられましょうか。私は守られた、恵みを受けた、奇跡の中にいたと確信したのです。だから犯人と友達になれたのです。

 主イエスは、敵意を廃棄される方です。隔ての壁を取り除く方です。主イエスにこそ平和があるのです。

 壊れた関係を修復したですね。家族とか、身近な人とは、特に心通わせたいですね。あきらめないでください。相手を必要以上に注視しないことです。まず主イエスを見上げるところからすべてが始まります。

 →あなたの番です
□あなたが対立している人は誰ですか
□キリストを見上げましょう。平和があなたを覆います
□キリストが命を捨てたほどの他者を愛しましょう

エペソ2:1~10 恵みによって

 今日からは、エペソ人への手紙の連続メッセージに戻って2章から再スタートします。救いを説明する用語は新約聖書にたくさんありますが、その中で一番大切なのは、「恵み」という言葉です。ギリシャ語ではカリスといいます。特に8節は大事な言葉なので、ぜひ暗記してください。
 

1、私たちの以前の姿

 普段は元気なのに、血液検査の結果コレステロールが高いとか血糖値が高いなどと言われてびっくりすることがあります。1~3節はその感覚に似ています。神を知らなかった時の私たちの実像は以下の通りです。

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1~3)

 私たちはみな罪の中で生活していたのだと1節で説明しています。その罪のせいで、生きているとは名ばかりで実態は死んでいたと言うのです。2節。神を信じないで生きるのはニュートラルな状態で、自由で自立していると考えがちですが、実は違うのです。気づかないうちに悪霊を信じて生きているのだとパウロはいいます。3節では、人間が欲望に引きずられて生きている、とパウロは指摘します。
 きよい神が私たちの心の「血液検査」をするなら、普通で元気な人間でも、罪に罪を重ねた悪人と診断されるのです。

 どうしても見たい芝居があって、「母が危篤で」と上司に嘘をついた人がいました。幕が開く前にちらりと横を向くとそのボスがいて目が会い、恥ずかしさでその場を飛び出したといいます。動転して数時間歩き回り、喉が渇いて喫茶店に入りました。すると、向かいに先ほどの上司がいたのだそうです。

 私たちが神を知らないときは、罪の中に埋もれ、自分が死んでいることも、自分がやっていることの矛盾も自覚できない状態だったのです。


2、「しかし」の神

 止めると言ったのに酒におぼれる、ギャンブルを繰り返す、麻薬に手が出る、盗みが直らない。そういう人を見たらどんな気持ちになりますか。嘘をつく、裏切る、陰湿ないじめをする、人情がない。そんな人をどうしますか。

 まことの神は、私たち人間と違う反応をします。罪まみれになり悪霊に振り回され欲望の奴隷となった人を見て、神は「しかし」と言われるのです。

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ2:4~5)

 親から叱られるのは間違いないと覚悟した女の子がいました。ところが、お父さんはどこに行きたいかと優しく尋ね、子供は「チャックEチーズ」と答えました。子供用の楽しいレストランです。お父さんはそのお店で、「これが、恵みと言うんだよ」と教えたといいます。

 私たちの神は「しかしの神」です。人が見捨てる場面でも、決して見限りません。愛していると伝えてくれます。
 アメジンググレイスという賛美歌は日本でもコマーシャルなどで知られるようになりましたが、あの歌は神の恵みの偉大さを歌っているのです。信じられないほど神の愛は大きく、神の恵みは図りがたいと歌っているのです。


3、恵みによって
  
 8節の言葉は福音の中核です。聖書が語る救いを端的に説明しています。

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9)

 英語の聖書はギリシャ語の雰囲気をよく伝えています。
For it is by grace you have been saved, through faith—and this is not from yourselves, it is the gift of God— (NIV)
 by grace、救いは神からの一方的な恵みによってもたらされます。人間の努力やまじめさによりません。信仰は恵みを受け取るパイプとして機能します。だから、through faithなのです。

 ウイリアム・ニール・ムーアは1974年のある夜、老人宅に忍び込み金品を盗もうとしました。不審者に気づいた老人に撃たれましたが弾は逸れ、反射的に打ち返した拳銃の弾が命中、77歳の老人は死亡しました。わずかばかりの金を掴んで逃走するも逮捕され、死刑判決を受けました。彼は当時22歳でした。
 幼い息子をかかえ、妻は麻薬中毒、貧困のどん底で魔がさした犯行でしたが、ウイリアムは正当防衛を主張せず、自分の罪を認めました。
 刑務所を尋ねた牧師夫妻からイエス・キリストの話を聞きました。キリストはあなたを愛している。もちろんあなたのした罪を知っている。罪を悲しんでいる。しかう、あなたを愛している。あなたを罪から救うために十字架で死んでくださった。こうした言葉はウイリアムの心にしみこみました。
 ウイリアムは主イエスを信じ、洗礼を受け、人生が180度変わりました。多くの囚人を主イエスのもとに導き、被害者の遺族もウイリアムを許すと正式に伝え、助命嘆願運動が起き、17年後死刑判決が取り消されました。こんな例は後にも先にもありません。それも死刑執行直前のことでした。彼は後に釈放され、現在は牧師となり自分の失敗を告白しながら、キリストの愛を伝えています。

 自分は神の恵みを受けるに値しない人間だと、あなたは思いますか。神の恵みは、そういうあなたに差し出されているのです。受け取ってください。恵みを知ったならば、身近な人に恵みをプレゼントして下さい。

→あなたの番です
□罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じましょう。
□「しかしの神」に感謝と賛美をささげましょう。
□恵みで救われたのだから、恵みを誰かにプレゼントを今週しましょう。