第1サムエル16:1~23 主は心を見る


 主は人を探しておられます。
 主の目にかなう人、神の国建設のために必要な人材がいます。
 それは、あなたです。


1、油を注げ

主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(第1サムエル16:1)

サウルは依然として王の位についていましたが、主はサウルをもはや王とは認めていません。主の霊がサウルから離れたこと(14節)がその客観的な証拠です。主は、新たな人物に油を注ぎ王とせよとサムエルに命じました。

新しい王の任命は、誰のためでもない、神のためです。「あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」(3節)主のみこころが地上で行われるため、また、神の国建設のため、主はどうしても新しいリーダーを必要とされました。

エッサイの住まいが、1000年後に主イエスが誕生するベツレヘムであったことは、偶然ではありません。主イエスが、「ダビデの子」と呼ばれることもそうです。

あなたは、現代のサムエルとして召されているかもしれません。
ビジネスでも家庭でも教会でも、あなたが所属するコミュニティーで、次期指導者として油を注ぐべ人物がいませんか。あなたより若い人に、あなたより経験が少ない人に、大切な働きをゆだねる準備をしましょう。


2、心を見る主

 新しいリーダーを見出すためには、人物を見抜く目が必要です。

彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(6~7節)

サムエルはエッサイの家を訪れ、その長男の容姿や背の高さを見た瞬間に<この男だ>と直感しましたが、熟練した預言者であり年長の祭司サムエルですら人物評定を誤りました。人はうわべしか見ません。主は人の心を見ておられます。

 7人の兄たちも、父も、ダビデを未熟者とみなし、その本当の素質を見抜いていませんでした。使い走りのダビデが主の目にかなったのです。

エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。(12~13節)

 人はうわべを見るが、主は心を見る。主が見ておられる人の心とは何でしょう。それは、神への献身、神のことばへの従順さと考えることができます。
 サウル王が失脚した最大の理由は、主よりも人の評価を第一にし、主のことばをしりぞけたことでした。「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」(第1サムエル15:26)

 ダビデは、油注ぎを断ることもできました。<私は未熟で、そんな器でないと兄たちも目で言っているので今回は遠慮します>と言えたのです。ですが、ダビデは、主の言葉に従順でした。主のみこころを受け入れました。7人の兄たちや親の目の前で王としての油注ぎを受け入れました。主は、ダビデのこのような心を見ておられたのです。ダビデは主の言葉に従う人でした。

 主は、あなたを必要としています。若くても、未熟でも、過去に失敗があっても、年老いても、主はあなたなしには神の国の拡大はできないと考えておられるのです。あなたは、どう応答しますか。


3、いやす人ダビデ

 サウル王は失敗を繰り返し、主のみことばに背き、ついには主から見捨てられました。そのため、悪い霊に支配され、自分を制御することが困難になりました。

主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。」(14~16節)

主はサウルに期待し主の霊を与えましたが、主のみことばに背くに至って、サウルに悪い霊を送られました。サウルの家来も、「わざわいをもたらす、神の霊」(15節)だと見抜けるほどひどい状態でした。「主は与え、主は取られる。」(ヨブ1:21)とあるように、主は主権者で、主の判断ですべてが行われるのです。

 サウルの家来は竪琴の名手を探して来て、サウルのそばに置き、サウルの心が病むたびに演奏させました。皮肉なことに、琴の演奏者として選ばれたのが油注がれたダビデでした。

神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って演奏しました。サウルはそのたびに元気を回復し、一時的ですが悪い霊は彼から離れました。(23節)

巧みな演奏を聴いた時、我々は拍手喝采で音楽家のスキルをたたえます。ですが、私たちの傷ついた心が音楽によっていやされたならば、拍手より感謝の言葉を伝えたことでしょう。ダビデの演奏もサウル王の心をいやすものとなりました。

次期リーダーのダビデは、武勇にすぐれた(18節)だけでなく、傷ついた心をいやす人だったのです。勇気を持ち、かつ、人をいやす、それが主が望むリーダーの姿です。

私たちも、今週、人をいやす人になりませんか。
人の痛みに寄り添い、人をいやすメロディーを演奏するには何が必要でしょう。

アルフォンスさんはミュンヘンの病院でボランティアをしていました。身寄りのない30歳の男性の最期に立ち会うように指示を受けました。何を話したらいいか、皆目見当がつきませんでしたが、モーツアルトの「レクイエム」のレコードを枕元でかけてあげました。音楽は死にゆく人を慰めました。アルフォンスさんも祈りを導いてあげました。この間の3時間が彼の人生を変え、死生学を生涯のテーマと決めるきっかけになりました。この方が、日本で死についての考察を深めた第一人者、カトリック祭司のアルフォンス・デーケンさんです。


「あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」(3節)

→あなたの番です
 □次期リーダーを探しましょう
 □「私を用いて下さい」と言える人になる
 □今週、いやす人になりましょう


第1サムエル15:1~35  悔いる心、従う心


 「あんなふうに言わなければよかった」。過去を振り返って悔いることがあります。今更どうにもならないのに、何度もその場面を心で再現するのが人間です。
 今日は、悔いること、そして、従うことを考えましょう。

1、アマレクを討て

「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」(3節)

アマレク人は、イスラエルの南に住む遊牧民。士師記の時代もイスラエルを苦しめ、ギデオンに敵(士師記7:12)となりました。聖絶すべき理由は申命記にあります。

あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。(申命記25:17~19)

サウルは主に従うつもりでした。ですが、結果は違いました。

しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。(9節)

サウルが良い羊や牛は持ち帰ったのは欲のためでした。アガク王を連れ帰ったのは、戦勝記念碑(12節)を建てたのと同じ動機で、名誉欲でした。


2、聞き従わなかったサウル

しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」(14~15節)

今回の命令は、主がサウルに与えたやり直しの最後のチャンスでした。ですが失敗しました。失敗の責任は取らず、民のせいにしました。
最良の家畜も王も惜しまずに聖絶したなら、それこそが主への礼拝行為となったのです。何も持たずに帰ることが、最も多くを得る道だったのです。

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(22~23節)

聞き従うことは、いけにえにまさるのです。サウルが神のことばを退けたので、主はサウルを王位から退けました。それは、26節にも繰り返されています。

王位からしりぞけたという言葉に驚き、サウルはわびました。でも、その動機は、あきれたことに、民の前で面子を保つためでした。

サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」(30節)

 私たちはサウルに似ていますか。失敗を他人のせいにする。同じ失敗を繰り返す。人に見える部分は取り繕い、フェイスブックで幸せを演出し、神の前での自分をなおざりにする。

 タイタニック号が沈んだ時、付近に三隻の船がいました。一番近い場所にいたマウント・テンプル号は、一旦、方向を変えましたが留まり、すべての電燈を消し、自分達の姿が見えないようにしました。一番遠くにいたカルパチア号の船長アーサー・ロストロン船長は、通信士に起こされ、タイタニック号が氷山にぶつかり沈没の危険にあることを知り、即座に救助に向かへと決断、氷山が浮かぶ危険区域に向けて設計上最速の14ノットのところ17ノットの指示を出し、救助体制を整えました。ロストロン船長はその後、長い時間祈っていたことが目撃されています。彼は、煙草もすわず、酒も飲まない経験なクリスチャンとして知られていました。4時間後に指定海域に到着しましたが、タイタニックの姿はなく、救命ボートに乗った人々を発見、合計706人を助けました。

 聞き従うことは何よりも尊いのです。


3、悔やむ主

今日の箇所には矛盾があることに気づきましたか。主は全能者で、主は悔いることがないと言われていますが、その一方で、主は悔やまれたと書いてあります。29節と35節を比べて下さい。

実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。(29節)

サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)

悔いるという言葉は、ヘブル語でナハームで、悔いる、悲嘆に暮れる、悲しむという意味があります。

矛盾なのでしょうか。私は、そう思いません。悔いるはずのない神が、サウルのことを悔いて、心を痛まれているという表現だと私は理解しました。神はサウルを誰よりも深く愛しておられたのです。

まことの神は、誰よりも多くの人に裏切られています。神は「悔やむ」つらさを知っておられますが、それでも私を信頼してくれます。それが神の愛です。そんな神に対して、主を大切にしていることを行動で示し、まごころを神に伝えませんか。

 サウルが真実な悔いを神の前で表せたなら、事態は変わったかもしれません。サウルにはそれができませんでした。

 シルバーウッド夫婦は2003年、子供たちを連れてヨットで航海に出ました。長男で15歳のベンは父に反抗し口もきかなくなっていました。タヒチの西を航行中、悪天候に見舞われ帆をたたもうとすると浅瀬に座礁、そのショックで重いマストが父親の左足の上に倒れました。出血であたりは赤く染まり、パニックになった母は主に祈り、自分の非を夫に詫びました。息子のベンも自分勝手だった事を謝りました。大波が来て船が流されたなら沈没するだろうと父は予測、自分を残して救命ボートで逃げるように命じましたが家族は従いません。10数時間後、救助が来て、父親は片足は失いましたが一命は取りとめました。
 家族のみんなが、それぞれ、自分の悔いを真実に語り合った時、家族は再生の道を歩み始めたのです。

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり」(22節)
「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」(詩篇119:113)

→あなたの番です
□人の評価より、神に聞き従うことを優先しよう
□何度裏切られても、神はあなたを愛してる
□悔いる心は何よりも価値がある



第1サムエル14:24~46 ひとりよがり


 一人相撲。一人合点。ひとりよがり。独り占め。「ひとり」が付くと悪い印象になりますね。
 今日のテーマは、ひとりよがりです。

 サウル王の姿を鏡として、自分の姿をふり返ってみましょう。

1、事件の背景

 今回の戦は、サウルの息子ヨナタンの勇敢な行動に端を発していました。(1~23節)

ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(第1サムエル14:6)

ヨナタンと従者は、急な崖をよじ登って敵陣に乗り込みました。人数的にも、地勢的にも不利な戦いでしたが、主に信頼した結果、20人を撃ち殺しました。この結果はペリシテ陣営に大きな不安を与え、その機に乗じてサウルとイスラエル軍が優勢に戦いを進めました。

部下が夢を持てる、部下が自発的に従いたいと思う。そうさせるのが良いリーダーです。ヨナタンは主に信頼し、計画を語ると、従者は進んでヨナタンを助けました。他者をモティベートできるヨナタン、それが真のリーダーです。
それと比べるとサウル王はおそまつでした。恐怖とひとりよがりで兵士を率いました。

敵軍を討伐中、命令を破った者がいるとサウル王が気づき、探してみると自分の息子ヨナタンであることが分かります。(37~43節)「ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」(44節)とサウル王は処罰を行うつもりでしたが、勝利のきっかけを作った立役者ヨナタンを部下たちが必死でかばったので、処罰は行われませんでした。

サウル王のひとりよがりが、イスラエルの人々を苦しめました。あなたはどうですか。


2、ひとりよがりとは何か

その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。この地はどこでも、森にはいって行くと、地面に蜜があった。民が森にはいると、蜜がしたたっていたが、だれもそれを手につけて口に入れる者はなかった。民は誓いを恐れていたからである。(24~26節)

「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」サウルは兵士らに命令を出し、民に誓わせました。食べることを禁じた理由は不明です。復讐心で燃え上がって理性を失っていました。部下のことなど何も考えていません。食事を食べる時間がもったいないと考えたのでしょう。
サウルの命令は、①感情的で合理性なし、②命令に従うこと自体が苦しい、③違反すると処罰を受ける、というものでした。

ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ご覧。私の目はこんなに輝いている。この蜜を少し味見しただけで。もしも、きょう、民が見つけた、敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を打ち殺していたであろうに。」(29~30節)

「それで民は疲れているのです」(28節)「父はこの国を悩ませている」(29節)「それで民は非常に疲れていた」(31節) 
ヨナタンは、森で見つけた蜂蜜を口にして力を得ていたので、父の命令が間違っていると分かりました。

あまりに空腹になったイスラエルの民は、律法に反して羊や牛を血のままで食べて(32節)しまいました。ひとりよがりが行き過ぎると、耐えてきた人々を暴発させ、愚かな行為に走らせてしまうのです。


3、ひとりよがりを離れて

あなた自身を点検しましょう。「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」(24節)あなたはこのような命令を出していませんか。

私も運動部にいた経験がありますが、練習中に水を飲むなと先輩に言われていました。たいていの運動部にも同じような理不尽な規律がありますね。
男性も、会社などで似たような命令を出します。「疲れたと会社で言った者は100ドルの罰金だ。なんだその顔は。お前達といると本当に疲れるよ。(!)」
女性も、家庭で宣言します。「今日からジャンクフード、スィーツはなし。健康のため、玄米職に有機野菜にします」でも一人で隠れてケーキを食べたりします。

律法を破って兵士たちが血のままで食事を取る事態になった時、サウルは反省すべきでした。自分が悪かった。ひとりよがりで人々に罪を犯させた。

サウルは、食べるなでなく、良くやったもっと食べろと言えばよかったのです。
個人的復讐心を捨て、戦いの意義を説明すべきでした。家族と国土を神の栄光のために守るのだ、と言うなら、兵士らの賛同を得たでしょう。

ある老舗旅館の御曹司がアメリカ留学後、若くして社長になりました。アメリカ流のトップダウン方針を導入、詳細なマニュアルを作り、みだしなみを検査、社内がピリピリするようになりました。その結果、百人いた社員の3分の1が2~3年の内に辞めていきました。
彼は自分を見直しました。各部署のリーダーに任せる方針に変え、会社は活性化しました。「任せれば、人は楽しみ、動き出す」それが彼のモットーになり、やがて、彼は再建請負人として世に知られるようになりました。

ひとりよがりをやめて、人々の話を聞きませんか。周囲の人を信頼し、周りの人が笑顔になれるような未来図を描く人になりませんか。

「小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(6節)

→あなたの番です
□ひとりよがりを自己点検しよう
□肯定的未来図を描く人になろう




第1サムエル13:1~23 待てなかった人


 映画でこんな場面があった。
 男がレストランで待っていた。女が遅れてやって来て、「待った?」と尋ねる。
 男は答えた。「生まれてからずっと、君のことを待っていたよ」

 今日のテーマは、待つということです。


1、迫り来るペリシテ軍の脅威

サウル王と兵士たちは、海岸地域から迫り来るペリシテ軍の脅威にさらされ、ヨルダン川に近いギルガルまで退避(第1サムエル13:7)していた。敵の数は、実数より多く感じられ、まるで海辺の砂(5節)のように思えた。

イスラエル兵士はペリシテ軍を恐れ、次第にサウル王のもとから去り始めた。普段なら、サウル王のもとに2000人の兵士(2節)がいたが、600人(15節)しか残っていない。
おまけに、イスラエル軍の装備は貧弱で、鉄の武器はサウルやその息子ヨナタンがだけが持ち、兵士の装備は棍棒や農機具程度だった。(19~22節)


2、サウルの葛藤

サウル王は、二つのことを逡巡していた。
祭司で預言者であるサムエルを待つべきか。
来なければ、王である自分が、いけにえをささげるべきか。

サウルは、サムエルが定めた七日間、待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。(8節)

待つこと。それは、実に困難な仕事だ。

サウル王は、山のごとく、不動の態度でいたらよかった。神を信頼して、待てばよかった。私は神を信じて待つ。主は必ず勝利を下さる。そう言って待てばよかった。神にとって、見方の人数が少数であろうと、敵が大軍であろうと、関係ないことだ。勝利の鍵は主が握っている。

サウルは時間が過ぎるのを待った。だが、主を待ったのではなかった。


3、待てなかった人

そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。(9~10節)

サウルは、①民が離れる、②サムエルが約束の日に来ない、③ペリシテ人が集結している、④いけにえと祈りをせずに戦えない(11~121節)、と自分の行為の正当化をした。
サウルは自分の問題点を認めたり、謝ったりしませんでした。彼は、15章でも同じ失敗のパターンを繰り返します。

自分の失敗を謝罪しないで、言い訳をする人はとても多い。サウルもその一人だ。自分が選んだのに、回りの人のせいにしました。環境のせいにしました。
アメリカでの遅刻理由のトップは交通渋滞でしょう。でも、渋滞のせいですか。その道はその時間に必ず渋滞するのを知っていましたね。遅れたのは、自分のせいですね。

サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」(13~14節)

サムエルの叱責ポイントは、「主が命じた命令を守らなかった」ことで、二度繰り返されている。サウル王は、主から命じられていた事に背いたのです。環境のせいでも、人のせいでもないのです。


待つというのは人間の営みにとってとても大切な行為です。

・主を待つとはどんな意味ですか?
・あなたが主を待ち望んでいると、何が起こりますか?
・誰かの中で、何かが起こるのを待つ必要がありませんか?
・消極的に何もしないことと、主を待つことは同じですか?
あなたは何を待ち望みますか?

 私は息子が小さい時、キャッチバールを教え、バットで打つことを教えました。幼稚園児の息子はまっすぐボールを投げられません。だから、私のほうがボールを追いかけて走り回りました。うまく打てないと息子はイライラします。だから、私は、息子のタイミングで、バットを振る場所にボールを投げてやりました。
 私は、息子が上達するのを待っていました。息子はそれを知りません。息子はただ、その瞬間をエンジョイしていました。

 私たち人間は確かに待ちます。でも、本当は、主が私たちを待っているのです。主は、私たちが成長するのを待っています。私たちに最適な時を待っておられるのです。

 待つことは、忍耐を養います。
 待つことは、獲得する喜びを増やします。
 待つことは、本当に大切なものを見極められます。
 待つことは、謙虚な気持ちをもたらします。
 誰かを待つことは、思いやりになります。
 主を待つことは、生ける主を信頼することです。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:24~25)

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:3~4)

「待ち望め。主を。雄雄しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(詩篇27:14)


→あなたの番です
□主を待とう