ヨハネ1:9~14  光として来られたイエス


 ヨハネの福音書は、クリスマスの意味を以下のように解説しました。
 光が世界にやって来た。


1、世界を覆う闇
 光は闇の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)

 ヨハネは、闇があることを大前提として語りました。私たちの世界は闇に覆われているのです。

 1937年4月26日、ドイツ空軍がスペインの町ゲルニカを空襲し、その七割を破壊しました。歴史上初となる、一般市民を巻き添えにした無差別爆撃でした。スペイン人であるピカソは衝撃を受け、幅7mの絵「ゲルニカ」を描きました。牡牛、馬、腕を延ばす女性の3つの要素はピカソのラフスケッチの段階から重要なモチーフとなりました。私が注目するのは、悲痛な顔の女性が太くて長い右手を必死に差し出しいることです。その先にはランプを握っています。専門家は、この灯火が真理や正義を象徴していると解釈しています。暴力や戦争や不平等が起きると、人は正義や真理を光としてかざします。この戦争は間違っている。こんな暴力は許されない。正義を我らに、平和を我らに、と叫ぶのが人間なのです。

 闇に覆われているこの世界を照らす光を私たちは求めます。主イエスは、そのような世界を照らす光としてクリスマスに生まれて下さいました。



2、私の中の闇

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(9~11節)

主イエスは、この世界を造られた方です。神です。でも、人々は主イエスを受け入れませんでした。これは、私たちの心の状態と同じです。

私たちの心の中にも闇があります。自分中心という闇です。罪という闇です。他者を拒絶する闇です。  子供の頃、あなたは誰かをいじめたことがありますか。一人の友達を仲間はずれにして、その友達が困ったり、苦しんだり、恥をかいたりするのが面白く感じるのが人間なのです。まさに闇です。

スコットランド人、ジョージ・マセソン(George Matheson 1842-1906)は、十代の頃から視力が落ちて、19歳の時に失明しました。その後、フィアンセが婚約指輪を彼に返し、彼に言いました。「盲目の人と生活する未来像を思い描くことができません」この言葉は若いジョージを苦しめました。彼は神学校での学びを終え、盲目の牧師になりました。
ある日、ジョージを傍らで支えてくれた妹が結婚しました。嬉しい出来事のはずでしたが、喪失感をぬぐえませんでした。その夜、主イエスだけは私を見捨てない方だと気づき、詩を書きました。それは後に賛美歌360番「O Love that will not let me go」になりました。主イエスの愛だけは決して私を一人置き去りにしないという内容の歌です。

主は私たちの心の闇を照らす<きよい光>となってくれます。長年放置された倉庫のように荒れ果てた私の心の内を照らし、罪を示してくれます。
同時に、主イエスは私たちの心を温めてくれる<温かい光>にもなってくれます。罪人だと承知した上で見捨てない。それが神の愛です。神の温かい光です。
私たちには、この2種類の光が必要です。
 


3、光を受け入れる
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(12~14節)

 主イエスは、クリスマスの日に、光としてこの地上に来て下さいました。ランプを灯すと闇が消え去るように、私たちが主イエスを救い主として受け入れることにより心の闇は解消します。「この方を受け入れる」ことが、光を灯すことです。主イエスの名を信じた人は、神によって新しく生まれるのです。
 
 そうすると、私たちの心の内に主イエスが光として輝き始め、私たちも周囲の人々に光を届ける人に変えられます。「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:14)とあるのは、光であるキリストを信じ受け入れた人の姿が光になるからです。

 来年、あなたが光になりましょう。笑顔を心掛けましょう。積極的な物言いをしてみましょう。誰かと和解しましょう。何かを捨てましょう。何かを止めましょう。何かを始めましょう。何かを変えましょう。その時、あなたは光になっています。

 クリスマスの時期、ある家庭で3歳の坊やが尋ねました。どうしてクリスマスをお祝いするの。それはね、イエスさまの誕生日だからだよと説明を受けました。それじゃ、誕生日ケーキを出して、ハッピーバースデーを歌わなくちゃいけないよ。それから、その家のクリスマスは、必ずバースデーケーキで主イエスの誕生をお祝いすることになりました。
 アメリカで最も有名な牧師になったリック・ウォレンが、その坊やでした。リック先生の家族ではこのお祝いのしかたで50年間クリスマスをお祝いしています。クリスマスに彼の家に集まった家族は一年を振り返り一番神に感謝したい事を分かち合い、来年主イエスのためにささげたいギフトは何かを互いに話すことになっています。

光となってクリスマスに生まれ、私たちの心を照らして下さった主イエスの誕生をお祝いしましょう。ハッピーバースデー、主イエスさま。私を愛し、私のために生まれて下さって感謝します。来年も、あなたの光として生活し、あなたのために何かをしてみます。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(9節)

 →あなたの番です。
 □主イエスは、すべての人を照らす光としてクリスマスに来られた
 □私も光として歩みます



マタイ25:14~30 タラントはお金



 タラントとは、お金の単位です。神は私たちに投資してくれたのです。


1、天の御国

「天の御国は、しもべたちを呼んで、
自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:15)

私たちは、主人である神から大金を託された「しもべ」です。私たちが神から任された財産を用いるなら、この地上に神の国を広げることができます。



2、能力に応じたタラント
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。(15節)

 現代のクリスチャンにとって、タラントとは神が下さった賜物や能力だと考えますね。でも、当時の人にとってのタラントとはお金のことでした。庶民が目にすることも、手にすることもないほどの大金です。
 1タラントは6000デナリ。1デナリは1日の労賃なので、1週間に6日間働くと、1タラントは20年分の給与になります。仮に1日1万円の収入とするなら、1タラントは6千万円です。2タラントは1億2千万円、5タラントは3億円になります。

「あなたはいいわね。タラントが多くて。私は1タラントよ。」という人は、6千万円、ポンと渡されたことを忘れています。あなたが将来性抜群のベンチャー企業家のように神はみなして投資されたのです。

 「おのおのその能力に応じて」とあるように、タラントの額を決めたのは神です。一人一人の能力に応じた形で現金が渡されました。身の丈にあったタラントを神から託されたのですから、周囲の人をうらやんだり、自分の賜物を隠すことは愚かです。

あなたは能力もエネルギーもらっています。その能力を生かすための資金、舞台、チャンスを神は下さったのです。あなたが神からもらったタラントは何ですか。それは、神からもらった大金にも匹敵するものです。

あなたの経験。あなたの生まれ育ち。あなたが受けた訓練。あなたの仕事。あなたが通った辛い傷。あなたのパーソナリティー。あなたの興味。あなたの特技。あなたの年齢。それらすべてが、あなたが神からもらったタラントと深い関係があります。それを、用いましょう。



3、盛り下がる話

 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。(16~18節)

普通、登場人物が3人出てくる話は、話の最後が盛り上がるのが普通です。3びきのこぶたの話も、3人目が一番重要でした。一方、主イエスの話は5、2、1タラントと下がっていき、なんとも景気が悪い話です。

5タラントの人は、5タラントをもうけ、帰って来た主人にほめられました。(20~21節)しかも、「わずかな物に忠実だった」(21節)と言われました。
2タラントの人も同じ言葉で「わずかな物に忠実だった」(23節)とほめられました。その能力に応じて頑張ったことが評価されたのです。(22~23節)
この話の流れでは、最後に登場した1タラントの人物にスポットライトが当たるのは当然です。このたとえ話を初めて聞いた人々は、1タラントの人も上手にできたかな、あるいは10タラントもうけたかもしれないと期待するところです。

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』(24~25節)

1タラントの人はお金を土に埋めていました。自分が悪いのではない、強圧的で厳格すぎる主人の態度が私を怖気させたのだと説明しました。それを聞いて、主人は極めて厳しく叱りました。不正確で自分勝手な責任転嫁だったからです。(26~28節)主人の期待と信頼を無にしました。

主イエスのたとえ話しを聞いていた人々は、がっかりしたでしょう。1タラントの人も、その人なりに頑張ればほめてもらえたのに、と誰もが感じる話です。もったいないよ。隠しちゃいけないよ。埋めたら何にもならないよ。主イエスは、このたとえ話しを通して、私たちに「もったいない」と感じて欲しかったのです。

この一年間を振り返ってみましょう。あなたは自分の賜物が何か知っていますか。新しく何かの奉仕を教会で始めましたか。今までのあなたと違う行動をして、誰かを愛すとか、福音を伝えるとか、礼拝を応援したり、困った人のために出かけましたか。
あなたの賜物を育てるために本を読んだりセミナーに出席して学んだり、練習したりしましたか。

テリー・フォックスは、18歳の時、右ひざに癌が見つかり太もも付近で足を切断しました。その後、リカという女性と知り合い、教会に通い、聖書も読みました。
21歳の時テリーは、カナダの東海岸から西海岸まで走ることを思い立ちました。毎日42キロを走り、応援してくれる人に寄付金を募り、ガン研究100万ドルを集めようとしました。1980年4月に出発し、スペリオル湖付近まで到達しましたが、肺への転移が見つかり治療に専念し、翌年6月22歳で亡くなりました。
義足に体重をかけて必死に走る姿は多くの人を励ましました。彼の死後集まった寄付を合計すると700万ドルを越え、カナダの国民栄誉賞を受けました。

 私たちは、マザーテレサやキング牧師でもなく普通のクリスチャンです。いわば1タラントの者です。1タラントを用いたら、主イエスは「よくやった」と言って下さいます。
 生涯ずっと、タラントを用いましょう。与えられた賜物をあなたが用いるなら、寒さに凍える荒地に春をもたらし、絶望と罪の世界に希望と赦しをもたらすことができます。

→あなたの番です
 □神はあなたに期待してタラントを託しました
 □タラントを用いるなら、地上に神の国が広がります
 □あなたのタラントをもっと用いましょう


詩篇72:1~20 正義と愛の王


 詩篇72篇は、理想の王がどんな人物かを教えてくれます。

1、ソロモン王

詩篇第二巻の基本テーマは、神が選ばれた都エルサレム、神が選ばれた王のダビデでした。それで第二巻が終了した印として、「ダビデの祈りは終わった」(20節)と書かれています。第三巻は、レビ人で聖歌隊の指導者であるアサフの歌になります。

 紀元前970年頃、ソロモンは父ダビデの後を継いで王となりました。神はギブオンにおいて若きソロモンに現れ、「あなたに何を与えよう」と言われ、ソロモンは「善悪を判断して、あなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」(第1列王記3:9)と答えました。


2、真の王

 歴史を振り返れば分かるように、人々が強い国になることを望むなら、独裁者がリーダーに選ばれます。経済成長を大衆が望むなら、ビジネスの成功者が指導者になります。その場合、力やお金が優先されるので指導者の誠実さや正義は問題になりません。

 神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。
彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。
(詩篇72:1~2)

詩篇72篇は、正義と公正さが、真の王の資質だと語ります。(1、2節)それと同時に、まことの王は、貧しい者や悩める者に寄り添い、救い出すと述べています。(4、12、13、14節)

彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、
しいたげる者どもを、打ち砕きますように。
彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。(4~5節)

 真の王は国内だけでなく、世界の各地の貧しい者悩む者にも手を伸べるので、王の支配は遠く地中海の西のスペインのタルシシュ、東はチグリス、ユーフラテス川(8節)にまで届き、南はアラビヤ半島のシェバやセバにまで及びます。

 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、
シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。
こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。
これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。(10~12節)

 ソロモン王はその優れた洞察力や知恵によって諸外国に知られるようになり(第1列王記4:29~34)、各地の王たちが貢物を携え謁見を求めました。シェバの女王の訪問は特に有名です。(第1列王10:1~10)ソロモンは領土を最大化し、経済面でも繁栄をもたらしました。けれども、世界の王、永遠の王にはなれませんでした。絢爛豪華な宮殿と神殿を建設し強大な武力を誇りましたが、国民は重税と重労働に苦しんでいたのです。

 正義と優しさ。その二つを兼ね備える王はいないのです。

 そうした経緯から、詩篇72篇は、まことの王、メシアの預言と理解されました。主イエスこそ、完全な正義で世界を治める方だからです。
 72篇は詩篇第二巻の最後の詩篇であり、18~19節は神をたたえる頌栄になっています。

 ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行なう。
とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。
その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。(18~19節)

 正義と優しさを兼ね備える真の王は、主イエスだけです。
 主イエスは、姦淫の場で捕えられた女性に対して、律法の正義に従い彼女に石を投げて処刑することを認めましたが、罪のない者から投げよと命じられたので誰も石を投げることができず、主イエスは彼女の罪を赦しました。正義を立てながら、愛が成立しました。

 マルチン・ルーサーキング牧師は1956年1月、深夜に一人起きていました。バス・ボイコット運動の責任者となり、ストレスフルな毎日を送っていた26歳の時、脅迫電話で起こされ、眠れなくなってキッチンでコーヒーを沸かしました。できれば、この運動の責任者から卑怯者と言われずに身を引く道を考えました。そして、コーヒーカップを抱えこむようにして真摯に祈ったのです。神よ、私は正義を行おうとしてますが、私は弱いし、くじけてしまいそうです、と。
 その祈りの中で、若いキング牧師は生涯を一変させるような神の栄光に触れました。神からの語りかけがその時ありました。正義のために立て、と神からの励ましの声を聞きました。もう一人ではないと分かったのです。

 私たちの番です。日本のリーダー、アメリカのリーダー、国々の指導者たちが、神の正義と神の愛をもって政治を行えるように私たちが祈りましょう。

 また、私自身も、今週、正義と愛を実行できる人になりましょう。
 未熟な正義は人を批判するだけで終わります。勇気に裏打ちされ、主イエスと共なる歩みをするなら、成熟した正義を行えます。

 →あなたの番です
  □国々の指導者が、正義と優しさを実行できるように祈ろう
  □今週、正義と優しさを実行できる者になろう