詩篇24篇 世界は主のもの


 木村清松牧師は、1908年、ナイアガラの滝をアメリカ人に案内され、こんな大きな滝は日本にはないだろうと言われました。ところが、これは私の父のもの、と発言、ナイアガラの滝の所有者を父に持つ日本人牧師として有名になりました。
 詩編24篇を読むと、壮大な神の姿と、それを迎える城壁の門が印象に残ります。

1、すべては主のもの

 詩篇24篇は、ダビデが神の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムに運び上った時の歌と理解されています。
 その時、レビ人がラッパやシンバルや竪琴を演奏しながら歌い、大勢の人々が歓声を上げて神の箱を迎えました。(第2サムエル6:12、第1歴代15:25~28)

 ダビデが喜び踊って迎え入れた神とはどんな神ですか。ダビデが信じていた神とはどんな方でしょう。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。(詩篇24:1~2)

 神とは、世界を造られた方です。世界に存在するものすべて、世界に住んでいる人々も、神のものです。2節には、神が世界の骨組みとなる部分を造られたと述べています。
私たちは、神のベビーベッドで育てられ、神が植物に命じて造らせた酸素を吸い、神の別荘に住ませてもらい、神の用意された食材で料理を頂き、神の愛で守られているのです。

すべては神のもの。それに気づくと、生き方が変わります。私の持ち物も、私の能力も、私の記憶も、私の未来も、神のものです。それなら、私のお金や所有物を誰かに渡すことが楽になります。

 「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」



2、神を求める

 神の神殿に、誰が行けるのでしょう。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。セラ(3~6節)

 ひとことで言えば、神を求める人が神殿にふさわしいのです。「手がきよい」とは、実際の世界でも偽りや汚れのない生活をするという意味。「心がきよらか」とは、その人の内面に誠実さや純粋さがあるという意味でしょう。信仰とビジネスは別でっせ、なんて言うことは通用しません。真に神を信じているなら、手も心も等しく、神を見上げて生きるはずです。

そうは言っても、心が完全に正しく、生活が100%きよい人がいるでしょうか。むしろ、自分の罪やけがれを深く意識している人が、「神を求める者の一族」、「あなたの御顔を慕い求める人々」、なのだと私は理解しています。

「ヤコブである」という言葉に、慰めと励ましが隠されています。生まれつき性格が悪く、策略策謀で兄を押しのけたヤコブが、艱難辛苦を経験して砕かれ、神を求める者に変化しました。聖書で、ヤコブという名が使われるたびに、神のあわれみを意識できます。

あなたも、ヤコブとして、神を求める人になりましょう。神の御顔を慕い求める者になりましょう。

毎朝、祈りましょう。
私はあなたが大好きですと言ってみましょう。もっと、あなたという方を教えて下さい。もっと、あなたを知りたいです。もっと、深く知りたいです。もっと、親しくなりたいです。そう祈りましょう。



3、門を開ける

 中近東の大きな町には城壁があり、外敵から町を守っていました。高貴な人が町に入る時には従者が門を開けるよう要求します。門番はゲストの名を尋ねます。すると、どこのだれだれと従者が答え、門が開いたといいます。
 こうした文化背景から、ダビデは神がエルサレムに入る場面を想定しています。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。(7~10節)

 ダビデは、門を擬人化し、自らの決断で王である神を迎えるように促しています。門に呼びかけるなら、「開けよ」となりそうですが、かしらを上げよとは不思議な表現です。神の前に背筋をぴんと伸ばし、最大限の敬意を示せという意味なのでしょうか。
 この「門」は、第一義的にはエルサレムの門です。ですが、もっと広い意味を持つのでしょう。まずは、ダビデは自分自身の心の門に叫んでいるのでしょう。さらに、この詩編を読むすべての者、私やあなたにも語りかけ、あなたの心の門を広く高く開け、栄光の王の前に膝をかがめ、あなたの人生の王座に神を迎えよ、と言っているのでしょう。

 ソロモン王は絢爛豪華な神殿を建てました。ダビデは、神殿を建設しませんでした。でも、心の中心に神を迎え入れたのはどちらでしょう。神と共に戦い、昼も夜も神に祈り、罪を悔い、神を愛し、神を喜んだのは、間違いなくダビデです。

 神は、あなたの人生のどこにおられますか。
 あなたの食卓の主賓席に神は座っておられますか。それとも、物置や家の外に追いやられていますか。会社のオフィスにも神を招いていますか。あなたの財布も財産も、神と共に管理していますか。神を、あなたの心のすべての場所で中心にお迎えしましょう。

 ジム・ホワイトはケニアで5年間、宣教師として活躍しましたが、ウイリアム・ニガンダという伝道者のことを尊敬していました。わずかな言葉を語るだけで、多くの人々が涙して改める神の人だと評判で、ある日、車を運転していた時に、ニガンダ師と出会いました。車の中に招き入れしばらくジムは語り合いました。後ろの席に座っていた5歳のジムの娘にニガンダ師は声をかけ、「お嬢ちゃんは何という名前なの」「バレリーっていうの」「バレリーは、イエスさまを愛しているかい」「うん、まあ」ニガンダ師と分かれた車の中では、温かい感動に包まれ、5分間、誰も、何も話しだしませんでしたが、バレリーは「お母さん、大きくなった、私、神の人になりたい」と言いました。

 神を愛す人、神を礼拝する人、神に変えられる人になりたいなら、努力を始める前に、心の真ん中に神をお迎えしましょう。


 →あなたの番です
 □世界は主のもの、あなたも主のもの。
 □神の御顔を慕い求める者になりましょう。
 □門を高く上げ、神を心の中心に迎えましょう。
 
 「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」

ヨハネ21:1~25  テベリヤの湖畔で



 主イエスは、誰に、どのように、使命を託すのでしょう。今日は使命について考えましょう。

1、岸辺に立つ主イエス

主イエスの指示があり(マタイ26:32)、ペテロたちはエルサレムからガリラヤに戻りましたが、まだ主と会えませんでした。主イエスに会えない宙ぶらりんの浪人状態で、不安にかられたのかもしれません。

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(ヨハネ21:3)

ペテロは、主イエスに招かれて網を捨てて主イエスの弟子になりました。ペテロはその網を再び拾い上げて漁を始めました。信仰も同じように、後戻りすることがあります。昔の生活態度に戻ってしまうこともあります。そんな時は、夜通し働いても一匹も取れません。魚が取れないことも、魚が取れることにも、主の御手があるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのですから」(ヨハネ15:5)を思い出すます。
体は冷え、疲れきり、がっかりしていた時です。その時、主イエスは岸辺に立たれました。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(4~5節)

あなたは疲れていますか。心が冷え切っていますか。希望を失っていますか。そんな時に、復活された主イエスが、あなたの岸辺に立っています。

捜したのに見つからない。苦労したのに、報われない。時間通りに行ったのに、門が閉ざされた。愛して愛して愛したのに、愛が届かない。そんな時、主イエスはそばにいます。



2、使命を託す

 たぶん、ガリラヤ湖漁業組合の一網最高の水揚げだったのでしょう、ていねいに153匹を数えました。その後、主イエスが準備されたおいしい朝食を食べ、3年間のありふれた日常が戻ってきました。そうだ、復活された主は、十字架の後も、共にいてくれたのだ。
主イエスは、あなたの朝のディボーションの時間においしくて力になる食事、つまり、みことばを用意してくれています。「さあ来て、朝の食事をしなさい」(12節)

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(15節)

わたしを愛してますか。夫婦間でこの質問が出る場合は要注意、喧嘩開始の合図です。主イエスはこの質問の大前提を持っておられます。ペテロが、失敗をしても、ペテロのほうから謝罪できなくても、あなたへの愛は変わらない、という大前提があるのです。

主イエスが3度同じ質問をされた時、ペテロは心を痛めました。3度も同じことを言わなくてもいいのに。でも、その瞬間、主イエスの意図が分かったのでしょう。3度主イエスを知らないと言ってしまった過去を、主イエスが洗い流し、やり直しができるように、3度愛してますと言えるようにしてくれたのです。

はい主よ、私はあなたを愛しています。人生の再出発には、愛が不可欠です。主イエスを愛する愛からすべては始まります。不完全でも、小さくてもいいのです。まず、主イエスを愛しましょう。「私があなたを愛することは、あなたがごぞんじです」

ペテロの人生で、この瞬間が最も心が美しくて謙虚になった時です。「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)。最も良い人になるのは、成功した時ではなく、砕かれている時です。

主イエスは、そんな状態のペテロに、使命をはっきりと告げられました。罪を意識できない人や、自分の弱さや醜さを知らない人に主イエスは大切なミッションを任せません。
私は汚れてます。私は不十分です。私は罪人です。主イエスを愛する愛はこれだけしかありません。過去に失敗を何度もしています。私ひとりでは何もできません。そういう人を主イエスは選らばれます。そして、明瞭に言われのです。わたしの羊を飼いなさい。(15、16、17節)

 朝の静けさの中で、ペテロは主イエスから使命を受けました。あなたは、どんな使命を主イエスからもらいましたか。




3、他人を見るな

 ペテロが自分の意図しない場所と時と方法で死ぬ、と主イエスによって予告され(18~19節)、心を引き締めたはずですが、では、ヨハネはどうなりますかと尋ねたのです。ペテロらしい反応で苦笑しますね。

ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(20~22節)

 主イエスはきっぱり言われました。あなたはあなた、人は人。他人は何の関わりもない。

 パウロは異本人への使徒としての使命が与えられました(使徒9:15)が、ペテロは羊を飼うことです。つまり、羊であるクリスチャンを守り、育てることです。
 あなたは、この二つの切り口で言えばどちらの使命を受けていますか。主イエスを知らない人々に福音を伝える人ですか、信者を励まし育てる方ですか。

 ある母と娘は犬猿の仲でした。相互に顔を見たくもない程です。母親が第4期の癌でホスピスに入り、身辺整理のために自宅に戻った折のことです。クリスチャンであった娘は母親を温かく受け入れ、3時間、親子水入らずで過ごしました。本人の希望でデパートの最上階のレストランにも行きました。そこで、寿司一人前をペロリと食べました。病院では、お粥二口しか喉を通らない人に何かの変化が起きました。お母さんは主イエスを信じました。そのあかしに洗礼を受け、まもなくして天に召されました。
 娘さんは、自分に与えられた使命が、お母さんと若いすることであり、主イエスの福音を伝えることだと認識したのだと私は推測します。誰も知らない3時間の間に、娘さんが今までの事柄を心から謝罪し、お母さんもそれを受け入れ、二人の距離が一挙に縮んだと思うのです。

 あなたも、隣の芝生は見ないことです。あなたには、あなたの道があります。あなたらしく、主イエスから与えられた使命を果たしていきましょう。

 「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

→あなたの番です
□弱り果てた朝、主イエスはあなたの岸辺に立つ
□砕かれた人が、主から使命をいただく
□周囲を見ずに、主イエスに従う


ヨハネ20:1~31 マリヤとトマス



  悩みや葛藤は人それぞれ違いますが、主イエスはどのように接して下さるのでしょう。復活した主イエスがマリヤとトマスにどう関わって下さったかを見れば、それが分かります。

1、泣いていたマリヤ

 マグタラのマリヤは感情的に大揺れでした。
主イエスが死なれた。大きな苦悩から救い出してくださった主イエスが死なれた。目の前の十字架でむごたらしく血を流し苦しむ姿を目の当たりにした。マリヤの精神的ダメージは、十二弟子よりひどかったでしょう。
埋葬の場所をはっきり見届けたマリヤ(マルコ15:47)は、アリマタヤのヨセフたちの埋葬作業では満足できず、自分の手で丁重に香料と香油を塗ろうと(マルコ16:1)日曜の朝早くに墓に出かけたのです。ところが、遺体が無いのです。

「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2節)

マリヤの困惑は、主イエスの遺体がなくなった事です。復活するなど考えの外にあったので、想像すらできません。ヨハネとペテロは、マリヤの報告を聞いて駆けつけ、空の墓を確認し(3~8節)、マリヤの言ったことは信じましたが復活は想定外でした。
マリヤは、一人残され泣いていました。遺体が盗まれた事でひどく心を痛めて泣きました。

しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。(11節)

天使が現れ、「なぜ泣いているのですか」(13節)と言いました。主イエスも「なぜ泣いているのですか」(15節)と言われました。でもマリヤは、復活された主イエスと会話しても、園の管理人としか思えません。(15節)彼女は遺体のあった場所に目を向けたので、主イエスは彼女の背後に追いやられました。
悲しみばかりを見つめ続けるマリヤ。主イエスに気づかないマリヤ。マリヤの姿は、私やあなたの姿です。

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。(16節)

主イエスの声を聞いていたのですが、さきほどは何も気づきませんでした。でも、主イエスが名前を呼んでくれたとき、体全体で反応しました。懐かしい主イエスの声。1節と11節のマリヤはギリシア語表記で、16節のマリヤはアラム語の音をそのまま残した「マリヤ」つまり、主イエスが発音された音そのままが書いてあります。マリヤの「ラボニ」も、その時の音そのままの表記です。

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。」(イザヤ43:1)

主イエスは、今日もあなたの名を呼んでくれます。想像して下さい。世界に70億人の人がいたとしても、主イエスはあなたの名前を呼んでくれるのです。主イエスに、実際に名前を呼ばれた瞬間をイメージして下さい。あなたの弱さ、あなたの過去、あなたのすべてを受け入れ愛してくれる方が、あなたに目を留めて呼んでくれる喜びでいっぱいになるはずです。

あなたも、失ったものばかりに目を向けて泣くだけではだめです。あなたの名を呼ぶ主イエスに、きちんと応答しましょう。はい、ここにいますと。



2、怒ってしまったトマス

 マリヤは泣いていましたが、トマスは憤ってしまいました。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(24~25節)

 トマスはかつて、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と発言したほど、情熱家で激情タイプで一途な男でした。彼は死ぬ場所を探していたのかもしれません。そのせいで、十二弟子と同じ部屋にいなくて、復活の主に会えなかったのでしょう。

トマスはいいやつだったのですが、10人の弟子が笑顔満面で主イエスの復活を語ると、無償に怒りが込み上げ、逆切れ状態でプチンと切れてしまいました。「決して信じません」と叫び、つっぱったのです。意地を張ったのです。引っ込みがつかないのです。後悔とみじめさがひたひたと追って来たことでしょう。

 主イエスは、1週間後(26節)、つまり、トマスが冷静になった頃に再び姿を現し、トマスにだけに語られました。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(27~29節)

 主イエスは、トマスの暴言をなぞるように言われました。指をここにつけなさい。主イエスは、私たちの失言や失敗に寄り添ってくれる方です。トマスという人と、トマスのこだわりを理解してくれて、スペシャルメニューで応対してくれるのです。今も、トマスのようなあなたに、同じようにしてくれます。

 悲しみ落胆したマリヤには、名前を呼んでくれました。
 失言してみじめになったトマスには、寄り添ってくれました。
 それが、私たちの主イエスです。
 
 マリヤとトマスがこの後、どんな信仰を持ち、どんな生活をしたのか、考えるだけで楽しいと思いませんか。泣いてる人がいて、その理由を知っているのに「なぜ泣いているの」と語りかけるマリヤの姿も想像できます。信じ切れない人がいれば、見ないで信じるんだと諭すトマスの姿が想像できますね。

 「私の主。私の神。」「見ずに信じる者は幸いです。」この言葉を心に留めましょう。

→あなたの番です
 □あなたの悩みと葛藤を知っていて下さる方が、主イエスです
 □あなたの涙と憤りを分かって下さるのが、主イエスです
 □今週、誰かの涙や疑問に付き合いませんか
 


ヨハネ19:1~42 完了した

 十字架は信仰の原点であり、私たちの生き方を根本的に変化させるものです。
 主イエスを助けようとしたピラト、「完了した」と言い残して死なれた主イエス、十字架の最期を見届けた男たちの変化を、ヨハネ19章を通して見ていきましょう。
 


1、ピラトの証言

 ローマ総督ピラトは、主イエスと対話し主イエスの態度を見て、死刑に値する罪はないと判断、助けようと模索しました。4節でピラトは「あの人に何の罪も見られない」と述べ、6節で「私はこの人には罪を認めません。」と公言し、12節では「イエスを釈放しようと努力した」とある通りです。

 共観福音書の記述(マタイ27章、マルコ15章、ルカ23章)では、懲らしめた上で十字架に付けるという流れになっていますが、ヨハネの筆によるとピラトが主イエスを助ける策として鞭打ちを課したと読めます。1~5節を良くお読みください。

 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。(5節)

 ピラトが、この血だらけの男はイエスである、「さあ、この人です」と説明しなければ、主イエスだとは分からないほど無残な姿になっていたはずです。イザヤの預言の通りになっています。(イザヤ53:2~3)
 四十に一つ足らない鞭打ち刑は、それだけで死人が出るほど過酷な処置です。鞭の先に取り付けられた鉛や動物の骨が肉を裂き、背骨や神経をズタズタにする場合があるからです。血だらけの主イエスの姿を見せれば、ユダヤ人指導者たちの怒りやねたみが収まるのではとピラトは願いましたが、期待は裏切られました。

 旧約聖書では、罪のためのいけにえの動物が、傷なく、しみのない動物でした。同じように、主イエスも、何の罪のないお方であるゆえに、贖いとなれるのでした。

 主イエスさま、ありがとう。私の罪のために、罪のないあなたが身代わりに鞭打たれて下さって。私の罪の罰を体で受け止めて下さって。私は心からそう思います。



2、十字架

 共観福音書にあるが、ヨハネの福音書にない事柄を挙げてみましょう。クレネ人シモンが十字架を肩代わりしたこと、群衆から嘲弄されたこと、わが神わが神なぜお見捨てになったのですかという主イエスの言葉、左右にいた犯罪人の言動、百人隊長の証言、地震や裂かれた神殿の幕、などについてあえて書いていません。

 これらを見るとヨハネの意図は明確です。主イエスがたまたま苦しみを受けたのではない。主イエス自ら十字架を選び、人々の罪の贖いのため苦しみを主体的に受けられたと読めます。

 一方、ヨハネだけが書いている事にも注目しましょう。「ユダヤ人の王」との看板が3か国語で書いてあったこと、主イエスの母マリヤを弟子ヨハネにゆだねたこと、「完了した」との言葉、槍で脇腹を刺すと血と水が出たこと、などです。

 ヨハネは、十二弟子で唯一、主イエスの十字架の至近距離まで近づいた人でした。流れ出た血と水(34節)を自分の目で見て、「それをに目撃した者があかしをしている」(35節)と述べています。

 主イエスがユダヤ人の王であることを3か国語(20節)で書かれてあったことは、当時のローマ帝国の西の公用語がラテン語で東がギリシア語であったことから、主イエスこそまことの王であると世界中に宣言したに等しいと、ヨハネは読み取ったのでしょう。

 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。(20節)

 主イエスは、背中の激痛と手足の釘の痛みに耐えながら、母のことを思いやり、弟子のヨハネに母の世話を任せると告げました。ヨハネもマリヤを自分の実の母のようにして最後まで看取るとこの時決めました。十字架に遭遇した者は、誰かと深く結びつき、誰かの重荷を負うことを嫌いません。

 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(27節)

 ヨハネにだけある「完了した」との最後の主イエスの言葉を考えましょう。
 主イエスの逮捕、裁判、鞭打ち、十字架の死に至るすべてのプロセスを、主イエスは自ら引き受け、すべての苦しみを味わい尽くし、罪の贖いのわざを完全に成し遂げたと読めます。私たちの罪がどんなに深くとも、主イエスが罰を代わりに受けて、死んで下さったので、もはや、何も必要としないのです。

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(30節)




3、変えられた二人

 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。(38節)

 アリマタヤのヨセフは、共観福音書においては、有力議員とか金持ちとか正しい人と書かれてありますが、隠れキリシタンだったとヨハネは言い切りました。ユダヤ人を恐れていた男が、大胆にも、主イエスの遺体の埋葬をすると言い出したのです。

 ニコデモについても、「夜イエスのところに来たニコデモ」(39節)と意気地のない姿を暴露していますが、そんな男が公に埋葬を手伝い、高価な没薬をささげたことが分かります。
 この二人の男は、なぜ変化したのでしょう。それは、主イエスの十字架の意味が分かったのです。私のために、主イエスは苦しみを受けられたと心の底で分かったのです。それで隠れキリシタンを止めて、はっきりと主イエスの弟子であることを明らかにしたのです。
 主イエスの十字架は、我がため、と理解できたのです。

 中国で地震が起き、救助隊が生存者を捜していた時の話を知りました。赤ちゃんが奇跡的に生き残っており、救助隊員は喜びました。そばにいた女性は死んでいましたが、手にある携帯電話を読んだ救助隊員は涙を禁じえず、同僚隊員にもそれを見せ、皆が涙したと言います。その携帯電話には、あなたがもし助かったら、お母さんがあなたを愛していたことを忘れないでね、と書かれてあったそうです。恐らく、建物が崩れてくるとき、母親が背中をまるめてわが子を守ったのでしょう。背骨や内臓の激痛で気を失う前に、母はテキストを残したのですね。

 「完了した」と、主イエスはテキストを残しました。しっかり受け止めましょう。



→あなたの番です
 □正しい人が私の身代わりになってくれた。
 □救いに必要なすべての事は完了した。
 □あなたも、アリマタヤのヨセフになれる。