マタイ10:34~42 十字架を負って

 十二弟子は二人一組で伝道旅行に派遣されました。それに先立って、主イエスが注意事項を弟子たちに語られた内容が10章です。最初は具体的なアドバイスで、病人をいやしなさいとか、財布は持つなという指示でした。内容は次第に弟子の内面に関するものとなり、今日の箇所はキリストの弟子として最も大切な心構えが語られています。


1、父母よりも

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:34~37)

 旅客機のパイロットはシュミレーターで訓練を受け、突然エンジンが止まるなど過激なトラブルの対処を学びます。
主イエスは、いわば信仰シュミレーターを用いて弟子たちを訓練されました。家族との対立という最も過酷なトラブルを想定させました。良く考えさせ、それでも主イエスに従う事が弟子の道だと教えました。
実際のところ、両親から信仰を反対されるクリスチャンがいます。尊敬し、愛する父母とぶつかるのは精神的にきついです。でも妥協はいけません。主イエスは剣をもたらす方です。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

 誰よりも主イエスを愛します。私を愛し、私のために命をお捨てになった主イエスを誰よりも愛しますと心に刻んでおきましょう。それが弟子の心です。

 

2、いのちを失う覚悟

 今日の中心聖句は38節と39節です。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)

 1909年2月28日午後8時過ぎ、北海道の塩狩峠で、列車の最後尾の客車が外れて峠を下り始めました。乗り合わせた鉄道の職員職員、長野政雄さんは自らの体を車両の下敷きにして乗客を救いました。長野さんは熱心なクリスチャンで29歳、その時携帯していた小型聖書の表紙は赤く染まりました。

 1954年9月26日、アメリカ人宣教師ディーン・リーパーとカナダ人でメソジスト派の宣教師アルフレッド・ストーンは、青函連絡船「洞爺丸」に函館から乗り込みました。台風の直撃を受け船は沈没、その際、自分の持っていた救命胴衣を日本人に与えて命を救い、自分たちは犠牲になりました。

 この人たちは、なぜ、自分の命を捨てて他の人を助けることができたのでしょうか。それは、主イエスの弟子として死ぬ覚悟があったからです。

自分の十字架を負ってついて来なさいと主イエスは言われます。十字架を負うとは、自分のハンディとか運命とか苦悩を背負うという意味ではなく、死ぬ覚悟を意味しています。十字架刑の場合、死刑囚は自分がかかる十字架をかついで刑場に行きました。キリストのために命さえ惜しまない。それがキリストの弟子の心構えです。

この心構えさえできていれば、身近な人を愛すとか、奉仕のために自分を捧げるとか、誰かのために時間を使うとか、大切なものを捨てることができるのです。

キリストの弟子になりたいですか。それなら、キリストのために死ぬ覚悟をしましょう。大切なものをいつでも捨てるつもりで生きてみましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:38~39)



3、私がキリスト?

あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:40~42)

キリストの弟子を受け入れることは、キリストを受け入れることになる。また、それは、父なる神を受け入れることになる。キリストの弟子に水を飲ませる行為は、キリストに水を差し上げることになる。
ここで、キリストの弟子とキリストが同一視されています。キリストの弟子としては光栄なことです。

「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」あなたの存在は、まるでこの地上にキリストが生きておられるのと同じことだと主イエスがみなして下さるのです。あなたや私がキリストの弟子としての心構えを持って生きるなら、地上にたくさんのキリストが生きていることになるのです。


「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

キリストの弟子になりたいですか。生涯、キリストのあとについて行きたいですか。

→あなたの番です
 □家族より、誰よりも、主イエスを愛します
 □主イエスのために命を惜しみません

マタイ10:24~33 一羽の雀さえ

 マタイ10章は弟子の心得を教えた章で、今日のテーマは恐れです。
 恐れは、主イエスの弟子とした歩むことをじゃまします。
 弟子よ、恐れるな、と主イエスは3回も言っておられます。


1、弟子よ、恐れるな

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
(マタイ10:24~27)

 私たちは悪口に弱いです。元気な人も、一言で萎えてしまうことがあります。

 「だから、恐れるな」と主イエスは言われました。だからとは、恐れる必要がないという理由説明です。
 悪口を言われても、馬鹿にされても、恐れるな。先生である主イエスが、ひどいことを言われ続けているのだから、弟子であるあなたたちが罵倒されるのは当然だというのです。

 イエスは、悪霊の親分=ベルゼブルだと言われていました。悪霊のかしらだから、悪霊を追い出せるのだと律法学者たちは悪口を言い続けました。
 
 隠してはいけない。食卓で主イエスから聞いた話でも、語りなさい。暗闇で聞いたことも明るみで語りなさい。屋上で、街中で語りなさい。
 悪口や陰口を恐れず、律法学者の悪口に気力を削がれず、主イエスから聞いた福音を人々に語り続けなさい。



2、雀よ、恐れるな

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:28~31)

 主イエスの弟子として真剣に歩むなら、必ず、暴力、迫害を受け、時には命の危険にさらされます。そんな時は、良い意味で居直り、死を恐れないことです。

人は人間の体を滅ぼすことしかできません。敵対者は、クリスチャンを迫害し、殺すことしかできないのです。神は体も魂も両方とも滅ぼすことのできる方なので、神のみを恐れよ。人を恐れるな。

1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーの町で、バスに乗っていた黒人女性が白人乗客に席を譲らずに座る決心をしました。静かで勇気あるこの行為が、黒人の人権運動の大きなうねりをもたらしました。その女性ローザ・パークスは、当時42歳。彼女を支えて運動の先頭に立ったのは26歳のキング牧師でした。ローザはこう言っています。「キング牧師は、真のリーダーでした。私は、彼に恐怖心があるのを感じたことがありません。」キング牧師は、自由のため、主イエスの福音を実践するために、恐れを乗り越えて活動しました。その結果、肉体の命を奪われましたが、反対者は彼の魂を滅ぼすことはできず、むしろ、敵対者たちは敗北しました。

自分がちっぽけな者に感じるとき、恐れを感じます。自分が世間に何の影響も与えないし、いてもいなくても同じような存在だと考えてしまうと、恐れが心を支配します。

当時、雀が売られていましたが、1羽では販売されず、2羽でいくらという売り方でした。日本でいえば、メザシ一匹のようなものです。
「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」そうです、そんな雀の一羽であるあなたを、神は守ってくれます。
自分は価値がないと勝ってに思い込んでも、神はあなたを大切に考えています。あなたの髪の毛一本でさえ、神に数えられています。神は、あなたの人生の細部まで知っておられ、あなたを守っておられます。

だから、周囲のすべての人間を恐れるな。神だけを恐れよ。あなたは、神のセキュリティーの中で守られている。一羽の雀よ、恐れるな。


3、人を、恐れるな

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32~33)

周囲からプレッシャーをかけられ、「まさか、君、クリスチャンじゃないよな」と言われたときも、自分の信仰をきちんと告白しましょう。

主イエスの十二弟子なのに、人の目を恐れて、自分の命が惜しくなり、主イエスの弟子であることを否んだり隠したりするなら、その時は、主イエスはあなたを知らないと言われます。

恐れる理由は存在しません。キリストの弟子として胸を張って歩みましょう。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」


→あなたの番です
  □主イエスの弟子よ、陰口や迫害を恐れるな
 □一羽の雀よ、あなたは守られている
  □救われし者よ、主イエスを人前で認めよ

マタイ10:16~23  用心しなさい

 ヨセミテ国立公園にはハーフドームと呼ばれる山があります。お椀を逆さにして半分を切り落としたような花崗岩の塊で、渓谷の底から頂上まで1500mの高さがあります。何度もハーフドームを上った人は初心者に次のような注意をします。登り始めたら5分くらいは決して下を見ないこと。不安だったら命綱のフックを鎖につなぐこと。大の大人が泣いて降りてくるほど怖い場所だと覚悟を決めること。

 キリストの弟子として生活することは、まるでハーフドームを登ると決めることです。もし、キリストのようになりたい、福音を伝えたいと願うなら、今日の箇所のような困難があなたを待っています。嫌なら登る必要はありません。けれども、頂上にたどり着いた人だけが見える景色があります。


1、用心しなさい

 マタイ10章全体の内容は、十二弟子を二人一組で伝道に遣わすに当たって主イエスが与えた注意事項です。特に今日の箇所では、福音を伝えるなら逮捕、尋問、迫害が起こるので心の準備をしなさいという警告です。

いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。(マタイ10:16~17)

十二弟子が各地を巡るようになると、病気がいやされて喜ぶ人や、神の国の福音を歓迎して主イエスを信じる人が多数起こされます。十二弟子や主イエスを憎む者たちは、主イエスや弟子たちの人気を妬み、様々な方法で妨害します。

伝道旅行は、まるで狼の群れに羊を送り出すことです。多数の狼に囲まれて、羊が無事でいられるはずがありません。だから生き残るために、知恵や賢さが必要なのです。人々の悪巧みを見抜く洞察力が不可欠です。相手がどんなに邪悪でも、神の前の素直さは失ってはならないのです。嘘に嘘で対抗してはいけないし、暴力に暴力ではむかってはいけないのです。不必要な逮捕、裁判、暴力を上手に回避しましょう。主イエスも、祭司や律法学者に憎まれましたが、3年間逮捕されずに活動できました。あなたも、周囲の人々を無用に怒らせたり、いら立たせてはいけません。人にはくれぐれも用心して、さとく、素直に生きましょう。



2、心配いらない

また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。(マタイ10:18~20)

 逮捕されたり、訴えられれば、裁判の席で弁明することになります。総督や王たち、また、宗教権威者や議員たちなど地域の有力者の前で話すことになります。それには、主の目的があります。あかしするために、地方法院に連れて行かれるのです。

 そんな時は、足がふるえ、口がからからになり、頭が真っ白になり、質問も聞き取れないかもしれません。でも、「何を話そうかと心配するには及びません。」なぜなら、そういう場面では、あなたが語るのではなく、「あなたがたのうちにあて話されるあなた方の父の御霊」が語るからです。これは、大きな励ましです。

 あなたの人生にも同じことが起こります。親戚の法事に出席した、会社の忘年会に出た、同窓会に顔を出した、そんな時急にあなたの洗礼の理由を聞かれることがあります。テーブルにいる人々があなたの言葉に興味を持っているのが分かります。そんなとき、19~20節を思い出してください。どのように語ろうかとか、何を話そうかと心配する必要はないのです。あなたの内に住まれる神である聖霊が話してくれます。あなたは、逃げずに、祈りながら、あかしして下さい。言葉は聖霊から与えられます。

 

3、耐え忍ぶ

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。(マタイ10:21~23)


 信仰のハーフドームを登ろうとしている人は、大きな迫害を受けます。特につらいのは、親や兄弟や子供たちから受ける無理解や激しい軽蔑や暴力です。ハーフドームを登るつもりのない人は、この種の困難には直面しません。

 家族、親族、友人などの身近な人が、あなたを迫害するときは、最後まで耐え忍ぶと覚悟を決めましょう。耐えるという決意があなたを支えます。

 アメリカ人の最初の宣教師と知られているは、アドニラム・ジャドソンです。名門ブラウン大学を首席で卒業した秀才で、1823年にビルマ(今のミャンマー)に到着しました。聖書をビルマ語に翻訳する作業に取り掛かりましたが、36歳の時(1824年)、イギリスとビルマが戦争になり、スパイ容疑で彼は投獄されました。飢え、暑さ、悪臭、虫、拷問を乗り越え、約2年後に釈放されました。彼の妻アンが夫のために食事を差し入れたことが大きな支えでしたが、同じ年、アンは病のために天に召されました。幼い子供も召されました。しばらくはジャドソンは妻の墓から離れられず、失意と悲嘆に暮れ、自身も死を覚悟しました。その後、聖書翻訳の作業に再び取り組み、完成させ、ビルマの土となるまで宣教を行いました。

主イエスの弟子となると覚悟したなら、御国の福音を真剣に伝えようとするなら、不当な逮捕、有力者の前での尋問、厳しい迫害に遭うかもしれません。そんな時は、不用意に逮捕されないように賢くて素直な心を大切にしましょう。あかしをする場面が来たら、心配せずに語りましょう。そして、迫害が襲ってきても驚かずに耐え忍びましょう。

「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。」(19節)


→あなたの番です
 □賢く、素直で、用心を怠らない
 □あかしする時は心配しないで、御霊にゆだねる
 □迫害に直面した時は、耐え忍ぶ