創世記6:1~22  ノアと箱舟


 ノアは、箱舟を作る時かなり苦労したと思います。変人扱いされたでしょう。でも聖書には、その辺のところは書いてありません。

1、神の悲しみ

さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。(創世記6:1~2)

「神の子」というのは天使のような存在ではなく、セツ、エノシュ、エノクと続いた信仰の家系を指す言葉だと思われます。一方、カイン、レメクの家系は、罪と不道徳と神への反逆を増幅させる文化を作り、女性たちは魅惑的な化粧やファッションを身に着けたのでしょう。信仰を大切にした家系の男たちでさえ、その魅力のとりこになり結婚し、レメクの文化の影響を受けてしまいました。こうして、堕落した文化への歯止めが効かなくなりました。

 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」(5~7節)

 悪が増大し、人々の考えることが悪に傾く時代になりました。神はそれを見て、深く悲しまれたのです。「主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6節)というのは、神が間違えたという意味ではありません。神の悲しみが尋常ではなかったという意味です。断腸の思いで洪水を起こす事を決めました。まことの神は、冷酷な運命とは違います。最も愛の深い方の、最も深い悲しみを考えてください。神は、だれよりも悲しみの人です。もっとも、裏切られた方です。神の悲しみの涙が洪水となって地上に降り注いだように私には思えます。

 あなたに今日、心の悲しみがありますか。神は、その悲しみをすべて分かって下さいます。神にあなたの辛さを、そのまま伝えましょう。


2、正しい人、ノア

 セツ、エノシュ、エノクと続いた信仰の家系に、もう一人、ノアが加わりました。

しかし、ノアは、主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。(8~11節)

 ノアの特徴は5つあります。①主の心にかなう人(8節)、②正しい人(9節)、③全き人(9節)、④神と共に歩む人(9節)、⑤従順な人(22節)。
ノアについては、成功とかお金とか権力などは無縁でした。神との関係がどんな人だったのか、それが一番大事でした。

販売成績を優先するあまり、排気ガスの実数を隠すプログラムを組み込んだ自動車メーカーがありました。成功のためには、人の健康は二の次になります。
「その時代にあっても、全き人であった」とあります。悪に傾く人が多数派であった時、ノアはただ一人で神の前に正しく歩みました。本当の正しさは多数決では決まりません。少数であっても、一人であっても、主の心にかなう歩みをしませんか。


3、箱舟

 あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れてはいり、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。(14~19節)

 箱舟とは、長さ130m、幅22m、高さ13m、3階構造の箱でした。ノアと息子たちの仕事は、この大きな建造物を作ることと、人と動物の食料を確保すること(21節)でした。
 
 ノアは500歳の頃に、息子のセム、ハム、ヤペテが与えられまし。(5:32)洪水が起こるのは、ノアが600歳の時です。(7:11)神がノアに箱舟建設を命じたのは、その期間のどこかでした。箱舟建設にはかなりの日数がかかったことでしょう。
ノアの作業を見た多くの人はその理由を尋ねたでしょう。ノアは、誠実に理由を説明し、神の言葉を伝えました。(「義を宣べ伝えたノアたち」第2ペテロ2:5)けれでも、誰もその話をまともに受け止めません。それほどに人々は堕落し暴虐に満ち道を乱していたのです。

「わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは~箱舟にはいりなさい。」(18節)

 救いは神のイニシアチブで始まります。箱舟に入れば救われるという約束が、神から人に告げられました。大事なことは、箱舟に入ることです。また、妻や夫や子供や大切な人を一緒に連れて来て、箱舟に入れることです。
この箱舟は、主イエスの救いをあらかじめ示したものです。私達も、主イエスという箱舟に入るなら罪ゆるされ、救われるのです。

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)


 →あなたの番です
  □神は悲しみを理解して下さる方
  □この時代に、正しく生きる
  □主イエスは、私の救いの箱舟

創世記5:1~32 神と共に歩む


 人生は旅客機のようです。一度離陸したら、必ず着陸しなければなりません。アダムの子孫の生き方を通して人生を考えましょう。

1、生きて、死んで

これは、アダムの歴史の記録である。神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。(創世記5:1~6)

「アダムの歴史の記録」(1節)とあります。旧約聖書のギリシャ語訳聖書(LXX)ではこの部分がἡ ββλος γενσεωςと訳され、英語ではBook of Genesisとなります。

1~6節を読むと、アダムが神に似せて造られたこと、神に祝福されたこと、アダムーセツーエノシュと神から受けた祝福の流れが引き継がれたことが分かります。兄弟殺しのカインと神に反逆した権力者レメクの流れが語られた4章とはずいぶん違います。

 「~年生き」「こうして彼は死んだ」。これが、8回繰り返されます。彼らの寿命は、930、912、905、910、895、962、969、777歳です。大洪水で地球環境が激変する前のことなので、長寿が可能だったと考える人がいます。神に祝福されたことを表す象徴的な数字と考える人もいます。

 誰かのメモリアルサービスに出席すると、自分も写真の整理をしておこうと思うものです。葬儀で必要な写真は20枚で十分です。正面に飾る一番気に入った写真が一枚、子供時代や学生時代、働き盛りの様子、結婚式、子供や孫との写真などあれば事足ります。

 不思議なもので、誰かが死んでこの地上からいなくなっても、その人の生き方、その人が話した言葉、その人の笑顔、その人から受けた愛や親切は残ります。その人が生きた証しは、古い写真のように色あせるどころか、むしろ鮮やかに記憶に残るものです。

私が5年間礼拝に通ったハワイのマキキ教会にSさんという年配の女性がいました。細身で、控えめで、笑顔のきれいな方でした。バイブルスタディーが終わると、人がまだ部屋にいても照明のスイッチをすぐに切る方で、電気の節約が身に付いた方でした。身寄りのない方だったので、天に召された後はご自分の家を教会にささげる準備をしました。彼女が亡くなると、その家は売却され100万ドルが教会にささげられました。私にとっても、マキキ教会の人々にとっても、彼女は亡くなりましたが、その信仰と愛と献身は今も生きています。

「~年生き」「こうして彼は死んだ」。人は生まれ、人は死ぬものです。あなたの生きた証しを写真にではなく、日常生活に刻みましょう。



2、神とともに歩む人

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。(5:21~24)

 エノクの地上生涯は365歳で、他と比べるとかなり短い人生でした。ところが他の人にない特徴があります。
「生きて」「死んだ」というフレーズは8回繰り返されましたが、エノクの場合だけ、「生きて」「いなくなった」となっています。新約聖書ヘブル人の手紙では、エノクが通常の形で死んだのではなく、神に<移された>のだと説明し、神から特別な祝福を受けたことが分かります。

「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」(ヘブル11:5)

 「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(24節)、とあります。死ぬことを喪失と考えるのでなく、別な観点からも考えられますね。神がエノクを必要とされたのでしょう。

「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。」(22節)
「エノクは神とともに歩んだ。」(24節)

エノクにとっては、息子メトシェラの誕生が、神と共に歩くきっかけになったようです。それ以上詳しい理由は分かりません。何事にもきっかけがあります。もっと、神と近く歩きたい。私たちも、そう決意する時があります。

私は15年くらい、毎晩、妻と手をつないで歩いています。結婚してから、その時までの18年間、そういう習慣はありませんでした。同じ家にいるから、一緒に歩いて来たと思っていましたが、実際はそうではなかったのです。心は離れていました。おもに私に問題がありました。私の心は、妻からも子供達からも離れ、一人でさ迷っていたのだと、後で気づきました。
 意識して、時間を共有しないと、共に歩くことはできないと分かったのです。それで、手をつないで今、歩いています。

 神と共に歩くとはどんなことでしょう。自分でよく考えて、神と共に歩くとはどんな事か、3つくらい考えてください。
 
 神と話す。神から聞く。神を意識する。神の喜びになることを探す。神を大切にする。神への約束を守る。神の嫌われることをしない。神を尊敬する。神を喜ぶ。神に感謝する。神の助けをもらう。神に見てもらう。神の導きに気づく。神を愛す。神の期待にこたえる。神を誇りとする。神に「ごめんない」と言う。人々に神のことを紹介する。日曜礼拝を最も大切にする。毎朝、聖書を読み祈る。

 よく考えてみると、神は私達のそばにおられ、絶えず見守ってくれています。私達が神と手をつなごうと思うことが大事なのです。
 「生きて」と「死んだ」の間が私たちの人生であり、私達のチョイスです。カインやレメクのように、いつも怒って、神に逆らい、自分の欲望追及する道も選べます。エノクのように、神と共に歩み、神に喜ばれる生き方も選べます。意識して、神と共に歩みませんか。
 
 →あなたの番です
  □生きて死んだ証しを残しましょう
  □今週、神と共に歩みましょう

創世記4:1~26  神なき文化


 あなたの若い頃の写真を誰かに見せて下さい。きっと笑われます。何が面白いのかというと、ファッションが古くて髪型が古いのです。最先端の流行であればあるほど、後で笑われます。私たちはいつの時代に生きていてもその時代の文化の影響から逃げられません。
 
 創世記4章には、人が増え、町ができ、文化が生まれた事が書かれています。ただし、その文化の背景に問題が潜んでいました。

1、怒り

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:1~5)

 アダムとエバに二人の息子が与えられました。子供は作るものではなく、主によって与えられるものです。神との関係が切れ、夫と妻が仲たがいし、それを見て育った子供がひねくれて、最後には兄弟を殺すことになりました。負の連鎖が始まり、もう誰も止められません。

 弟アベルは、貴重な羊の初子の中から、それも最上のものを選んで神にささげました。アベルは神と共にいることを喜んでいたので、その心がささげ物に反映しました。一方カインのささげものについては同じような言及がないことから、おそらく形式的なささげものだったのでしょう。アベルのような心が欠如していました。
弟のささげものだけが神の目に留まったことでカインは怒りました。神はノット・フェアで、私が正しい。自分の怒りが正当で他者が悪いと決め付ける態度は、3章のアダムとエバそっくりです。自分の心を冷静にふり返れば、神に対する尊敬や感謝に欠けていたと気づくはずでした。
カインの様子を見て、「罪が戸口で待ち伏せ」(7節)ていると神はカインに警告しましたが、それを無視し、カインは弟アベルを野原に誘いこみ、計画的に殺しました。(8節)殺害後も、「私は、自分の弟の番人なのでしょうか」(9節)と反省を示しません。

あなたは、いつも怒っていませんか。それは正当な怒りですか。結局は、神を拒絶していませんか。心で、誰かを抹殺していませんか。低い心にさせてもらいましょう。


2、しるし

それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。(4:12~16)

アダムの罪のゆえに被造物はのろわれましたが(3:17)、今度は逆に、アベルの血を受けた地がカインをのろいます。(3:10~12)カインの労働や農作業は今まで以上に困難になり、アイデンティティーを失った「さすらい人」となり実家を離れました。

カインは自分の行く末を案じ、私は誰かに殺されると(13~14節)泣き言を言いました。神は、信じられないほどあわれみ深い方です。神を怒り、神に背を向け、警告を無視し、弟を殺し、悔い改めもなく、復讐を恐れて泣きつくカインでしたが、神は見捨てません。
神はカインに特別な印を付けて復讐から守られました。どんな印かは分かりませんが神のプロテクションが施されたのです。

私達もカインのように自分勝手で恩知らずです。でも、神の守りが今までも、これからもあります。私たちにの目には見えない愛の印が押されています。



3、レメクの歌

レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。(19~22節)

 カインは自分の町を建て始めました。(17節)さすらい人としての定めを無視して定住しました。これは神への反逆です。人を殺して反省しないカインの作った町です。カインの思想や態度は子供や孫に引き継がれ、増幅していきました。
 カインの子孫レメクは、カインの1000倍悪い人間になっていました。自分の力だけを頼り、神に逆らう人間の典型となりました。結婚は、一人の男と一人の女が一体となることですが(2:24)、レメクは神のルールにま正面から逆らい二人の妻を持ち(19節)、快楽を肯定しました。
 レメクの息子ヤバル(20節)は家畜を飼う者の先祖となるほど牧畜業に成功します。ここに人間の力だけを頼った富の蓄積が始ります。次の息子ユバル(21節)は音楽家になり、音楽の力を利用して神なしの文化を広めました。もう一人の息子トバル・カインは(22節)鍛冶屋となり当時の最新技術を駆使して農機具だけでなく武器を作成しました。

 レメクには現代文明のすべてがあります。神の否定、神の定めを無視、快楽と富の限りなき追及、自分だけの正義、武力による権力と収奪。23~24節は、長く歌い継がれた古い歌で、ささいな傷を付けられても殺害するレメクの残忍さが表れています。背信と快楽と富と暴力のテーマソングです。

さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(23~24節)

傲慢で殺伐としたレメクの歌と対照的なのが、アダムの息子セツの子エノシュの祈りです。エノシュは主の名によって祈りました。礼拝を始めたのです。
人間の力や欲望を誇る時代にあって、神を喜び、神に感謝し、神と共に生きる文化を作ったのです。

セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(26節)

 映画や書籍やテレビやインターネットに現代文明がにじみ出ています。神を礼拝するのは愚かな事で、人間の力だけを信頼し、男女の結婚は古くさい束縛で、富と快楽と権力こそ追及すべきものだと、現代文化は大音量のスピーカーで叫んでいます。

新しい文化を作りましょう。神をたたえ、神と共に生きる文化を創造しましょう。Sherwood Baptist Churchが作った劇場用映画の第一作、「フェイシング・ザ・ジャイアント」などはその一例でしょう。星野富弘さんの詩画や三浦綾子の小説も新しい文化の創造に当たります。

 人の悪口を言わないコメディアン。暴力やセックスを売り物にしない映画やゲーム。結婚まで純潔を守るデート。親と子供たちが手をつないで祈り合う家庭。抑圧と搾取と不平等のない経済。神をたたえる音楽や芸術。その他、あらゆる可能性があります。あなたも、神を信じて生きる文化を作りませんか。

 →あなたの番です
  □怒りを捨てる
  □神を否定し人間を誇る文化を見抜く
  □どこででも主を礼拝し、どんな事柄も祈る

創世記3:1~24 御顔を避けて



 なぜ私は嘘をつくのだろう。人を傷つけてしまうのだろう。私たちは皆ボタンを付け間違えたことに気づいています。どこでボタンを付け間違えたか創世記3章は教えてくれます。

1、善悪の知識の木

 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。(創世記2:9)
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(2:16~17)

 「ビーチフロントの豪華別荘を1ヶ月間無料で使っていいよ」と友人に言われたら、どうします。もちろん私は行きます。そして普段以上に大切に使います。
結婚の喜びや祝福を得るには、どうしたらいいですか。結婚式で愛を誓うだけでなく、生涯その約束を守ることです。約束を破ったら家庭は地獄になります。
与えられる特権や祝福が大きければ大きいほど、守るべきルールが自ずと発生します。善悪の知識の木は、それによく似たものです。

神は、人だけを神のかたちに創造し、最大限の自由意志を与え、豊かなエデンの園に置き、すべての被造物を守り導く権限をお与えになりました。人はきわめて大きな祝福を神から頂きました。ですから当然、守るべきルールが発生します。そのルールとは、神に感謝し、神に従い、神と共に歩むことです。命をもらい、食べ物をもらい、すばらしい特権をもらっているのですから、これを守らないなら恩知らずになります。「善悪の知識の木」を食べないということは、神からの祝福を守るためのルールの象徴なのです。

神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(3:22~24)

3章全体から分かるように、人はルールを破りました。神は、その一日中アダムの謝罪を待たれたのでしょう。夕方、そよ風が吹く頃まで待たれました。足音など立てない方が、あえて人に気づかれるように存在を表しました。自分から謝るきっかけを作られたのでしょう。
でも、人は神に謝ることもせず、謙虚にもなりませんでした。それで、罪の報いとして、夫も妻もとても厳しい処罰(3:16~19)を受けました。妻の場合は、夫を恋い慕っても夫に支配される、いびつな夫婦関係が始り、出産の苦しみが増しました。夫は、苦しんで食を得なければならず、人間は永遠の命が奪われました。世界全体も、虚無に服しました。(ローマ8:20~21)

3:15には、救い主イエスがサタンに勝利することが予告されています。また、3:21では、神が裸の二人に衣を着せて下さいましたが、動物の命を犠牲にして人を覆われたので、主イエスの身代わりの十字架の予告となっています。

3:23~24によると、アダムとエバは「いのちの木」から隔離されて永遠の命を失い、エデンの園から追放されました。「エデン」は本来「喜び」を意味しました。
黙示録22:2では救いの完成の時が語られ、巨大な都、新しいエルサレムに「いのちの木」があることが分かります。永遠の命が再びもたらされる印です。



2、神のようになる

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:1~6)

 へびは、「どんな木からも」食べてはいけないのか、と神が意地悪という印象を作りました。「ほんとうに」と念を押して神を疑わせます。最後には、神の言葉を完全否定します。そして、「神のように」なれると強調しました。女は誘惑に負け木の実を食べ、夫にも食べさせました。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(8~12節)

本来、人間は絶対に神にはなれません。造り主と被造物とでは天地の違いがあります。では、<神のようになる>というのはどんな意味でしょう。最高権力者になったと錯覚すること、能力もないのに全能感だけ持つこと、決して自分は失敗を犯さないと思い込むこと、です。

ですから、神から「食べたのか」と問われても、アダムは「ごめんなさい」と言いませんでした。悪いのは妻だと責任転嫁しました。本気でそう思ったのです。
神が置かれた女が悪い、つまりは神が悪いと責めました。これが、神に背を向けた人間の行き着く姿です。神のようになっていたので、自分が悪いとは思わないのです。
かばってくれないアダムを見て妻は怒ったでしょう。妻も過ちを認めず、へびが惑わしたと述べて自分が犠牲者のように振る舞い、神の創造に落ち度があったと言っているのです。

まったく逆の場面も想定できました。アダムが、「私が食べました。ごめんなさい。妻は悪くありません。私が責任者ですので、私が処罰を受けます。」それを聞けば、エバはこう言うでしょう。「いいえ、私が悪いのです。最初に食べたのは私で、夫をそそのかしたのです。私だけを処罰して下さい。」「いや、僕だけが悪い。」「いいえ私です」こんな夫婦になりたいです。

あなたの番です。
あなたが、「神のよう」になっていませんか。家庭や職場や友人の中で、悪いのはいつも自分以外の誰かだと考えていませんか。自分ひとりで怒りまくっていませんか。絶対に正しいと言い張っていませんか。相手の言葉を冷静に聞けなくなっていませんか。夫婦のどちらかが、相手の怒りを恐れるあまり、自分の意見を押し殺していませんか。

私たちはみな不完全です。助け手がいないと一人では何もできないのです。その唯一の助け手を否定したり、無視したり、ひどい点数を付けるなら、神があなたのそばに置いた配偶者を拒絶することになります。神を非難したアダムと同じになっています。

「あなたは、どこにいるのか。」(9節)という神の言葉が聞こえたら、低い心になって神の前に出て、神にごめんなさいと言いましょう。そして、配偶者、あるいは身近な家族に「ごめんなさい」と言える人になりましょう。それが、私達の家庭をエデンの園をする合言葉になります。

末期がんで闘病中のある男性は、ある日、奥さんにこう言いました。「僕は、死んでも君と会いたい。天国で君に会いたい。だから、僕は主イエスを信じて洗礼を受ける」

 神の「御顔を避け」た(8節)二人でしたが、黙示録22:4では、栄光のエルサレムに住む人々は「神の御顔を仰ぎ見る。」と書かれています。

「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(第1コリント15:22)

→あなたの番です
 □「神のよう」にならない
 □「ごめんなさい」と妻や夫や子供に言う
 □救い主イエスに希望を置く