新しい人 エペソ4:17~32

 最近は、老いも若きもおしゃれに敏感になってきました。クリスチャンは心の服装を大事にしましょう。

1、古い人を脱ぎ捨てる(17~21節)

 パウロは強い調子で古い生き方を捨てよ、と言っています。

 「そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」(エペソ4:17 新共同訳)

 異邦人とユダヤ人は主イエスの十字架により救われ、一つの体とされ、共に成長する者とされたました。パウロそれを踏まえた上で、クリスチャン個々人の基本的な心の在り方に注意を向けます。古い人を捨てよ、新しい人を着なさい、と。

 古い人とは、異邦人の生き方で、私たちが神を知らなかった時の生き方です。その特徴は、暗さ、空しさ、かたくなさ、命のなさ、放縦、滅び、です。

 「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」(18~19節)
 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」(22節)

 こうした異邦人の生き方は、現代の日本人の生き方そのものです。
日本のマスコミに関わる人や知識人と呼ばれる人の数は総人口のごくわずかな人々にすぎません。けれども、パウロが指摘するように本当の神を知らないゆえの心の暗さと命のなさをテレビ、書籍、メディアを通して日本中にばらまいています。
 いじめはいけないとテレビで報道する一方、娯楽番組では人をいじめて笑いの種にしています。また、辛辣な悪口や偏った批判も笑いのネタであり、不健康な生き方がファッションとしてもてはやされています。
 マスコミは、金や権力がすべてであり、勝ち組はどんな不道徳や快楽も許されるという暗黙のメッセージを伝え、それが逆に多くの人の努力目標になっています。金と地位と快楽こそが追及すべき目標だと教えるのがパウロの言うところの「異邦人の生き方」です。それを捨て去れとパウロは言います。

 結婚前にセックスをするのは普通という風潮になってきました。また、妊娠した花嫁が珍しくない時代になりました。それは聖書に照らし合わせればおかしいです。古い人の生き方です。
 アメリカの青年クリスチャンの中でTrue Love Waitsという運動が知られています。本当に交際相手を愛しているなら、結婚までセックスを待つという趣旨です。この時代にあって勇気ある選択です。こうした運動を心から拍手します。


2、新しい人を着る(22~24節)

 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(4:22~24)

 新しい人を着るプロセスを次のように考えてみました。
1)私の仕事=キリストを救い主として信じる。
2)神のみわざ=私たちの心を新しくしてくださる。
3)クリスチャンが日々心がけること=主イエスに頼り、聖霊に導かれ、きよくて積極的で温かい行動を選んで実行する。

 私たちが主イエスを救い主として信じると、神は私たちの内側を変えてくださるのです。クリスチャンとは、変えられ続ける人として召された人々です。


3、新しい人は雪の結晶(25~32節)

 パウロはクリスチャンがしてはならない6つのポイントを指摘し、また、積極的な対処方法を述べました。

 「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。
 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(25~32節)

 ごく簡略化して分かりやすい表現にするなら以下の6つの点になります。
 1)嘘を言わず、真実を言う
 2)怒りに引きずられず、自制する
 3)盗みをやめ、仕事の報酬で困っている人を助ける
 4)否定的な言い方を止め、人を励まし応援する
 5)聖霊を悲しませず、聖霊にいつも耳を傾ける
 6)冷たい心を捨て、親切で温かい人になる

 いわゆるレーダーチャートにしてみましたので、6つの点を自分なりにチェックしてみてください。どの部分が弱いですか。聖霊の助けをいただいて、主が喜んでくださる態度、行動、言葉遣いにさせていただきましょう。きれいな雪の結晶の形になったらいいですね。






















 ジーン・ハーパーという女の子が小学校3年生のとき、将来の夢を書くように先生に言われました。パイロットになりたいと書いたら、現実味がないと先生に言われがっかりしました。高校3年の時の先生も同じような課題を出しましたが、姿勢がまったく逆で、やってみるように励ましてくれました。10年後、1978年ユナイテッド・エアラインで初めて女性パイロット3人が採用されましたが、その一人になれたのでした。

 次のような英語のことわざがあります。

 船は港に停泊しているときは安全だ、
 だが、船はそのために作られたのではない。

 クリスチャンにも応用できます。クリスチャンは、罪を犯さず何の問題も起こさない無難な生き方を選べるが、そのために生まれたのではない。

 古い人を捨て、新しい人を着ましょう。積極的な生き方、主イエスを目指す生き方、身近な人を実際に愛す生活をしてみませんか。


→あなたの番です
 □古い生き方を捨てよう
 □積極的できよくて温かい生き方を目標にする

ヨハネ1:1~5 闇に輝く光 -クリスマスメッセージー

 クリスマスにといえばキャンドルのイメージがあります。今回は、光としてこの世に来られた主イエスに目をとめましょう。

 マタイとルカの福音書はクリスマスの出来事を詳しく描いていますが、ヨハネの福音書にはそれがありません。おそらくヨハネは、クリスマスの本質的な意味を1章の中に要約したのでしょう。以下はその冒頭部分です。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
 ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。
 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 (ヨハネ1:1~5)


1、暗闇の世界に光が来た

 世界は暗い。実のところ、世界は闇だとヨハネは言います。不平等、抑圧、搾取、暴力が世界に満ちています。また、悲劇、苦難、悲しみ、痛みなどが次々に襲ってきます。
 このような闇の世界に主イエスは来てくださいました。

 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(5節)

 子宮癌の手術の結果赤ちゃんが生めなくなった若い女性がいましたが、妹の妊娠の知らせを聞き奈落の底に突き落とされました。その赤ちゃんが生まれても人前では抱くことさえできません。部屋を暗くしていつものようにベッドで泣いていたある夜、ドアが少しだけ開き、廊下の明かりが差し込みました。父親のシルエットが見え、温かい声が聞こえました。「ちょっと言いたいことがあってな、そのままのお前が一番好きだよ」ドアが閉まると、女性は一段と大きな声で泣きました。この一言が、彼女の一生の支えとなりました。

 イエス・キリストは、あなたの希望の光となるために闇の世界に来てくださいました。どんな闇の中でも、キリストは輝くことができるのです。



2、私の内側を照らす光

 闇は私たちの外部にありますが、私たちの内部にも勢力を持っています。罪という闇です。私たちの心の闇を照らす光はこの世に存在しません。
 ただし、光として世に来られた主イエスだけが、すべての人の心を照らすことができます。罪を明らかにするだけでなく、その罪を赦しきよめる光として私たちを包んでくれます。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(9節)

 私たちの内側の闇を解決する道をヨハネは明らかにしています。主イエスを自分の救い主として信じることです。

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(12節)



3、私が輝き出すとき

 光を受け入れると変化が起きます。私たち自身が光り出すのです。

 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

 「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)
 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

 私は小さい火、光りましょう、と歌いだす子供賛美歌があります。私たちも光りましょう。光る男性はみんな「ひかる君」、光る女性はみんな「ひかりちゃん」です。ウルトラマンは光の国から来たという設定ですが地上では3分しか光れません。私たちは主イエスという光を受け、いつまでも輝くことができるのです。

 ある会社のオフィスに赤い薔薇の花束が花瓶付きで届きました。結婚記念日のお祝いとして夫が妻に送った豪華なものでした。一つ一つのバラは君と過ごした一年間を表している、アイラブユー、とカードに書いてありました。オフィスにいた他の女性たちはその日、魔法にかけられたように、うっとりと過ごしました。小さな光が、オフィス中を照らしたのです。

 今年のクリスマス、光として来られた主イエスに感謝し、あなた自身が光となって誰かに光を届けましょう。

 →あなたの番です。
□闇の世界を歩む希望、キリストを見上げましょう。
□主イエスは、あなたに救いをもたらす光です。信じ受け入れましょう。
□主イエスと共に歩み、あなたが光となりましょう。

 
 

 

 

エペソ4:1~16 結び目

 頭に浮かぶのはいやな事ばかり。
 いやな事を何とかやり過ごす。
 そうやって365日が過ぎ、一生が終わる。

 そんな人生でいいですか。今日の箇所から、違う生き方を探してみましょう。


1、ひとつになる(1~6節)

 1節によると、クリスチャンは神に招かれた存在であると分かります。

 「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(1節)

 クリスチャンは、イエス・キリストの姿へ成長するように召されています。

 「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

 信仰の成長に招かれた私たちが学ぶべき最初のことは、ひとつになるということです。

 同じ飛行機に乗り合わせた乗客の心はバラバラです。座席上のボックスに無理やりスーツケースを入れる人を見れば何となく嫌な気持ちがします。でも、その飛行機がハイジャックされテロに使われると知ったなら、同じ目的を共有する同志に変わります。

 「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(5節)

 3章からの流れで言えば、異邦人とユダヤ人が一つになることをパウロは想定していたのでしょう。二者が一つとなるのは、文化的、感情的、歴史的に見て実に困難なことでした。でも、一つになるのは不可能ではりません。
 クリスチャンは同じ神を信じるという意味で、すでに一であり、乗り合わせた乗客ではないのです。一つであることを維持するために、次のような心構えを持つようにパウロは勧めました。

 「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(2節、3節)

 嫌な人のことばかりを考えている。案外、そんな人が多いのです。まるで、嫌な人が亡霊になって周囲に漂う中で暮らしているようです。

 誰かと同じ服装や言葉使いや考え方を強要されたら悲鳴を上げますね。自分自身は誰とも似てないし、ユニークであり、自分に誇りを持っているなら、他の人にもそうする権利があることを認識しましょう。
 神は実に多様な人をお造りになりました。神のみこころの実現には異なるタイプの人が必要なのです。謙遜、柔和、寛容は、こうした広い視点から見ても妥当な態度です。

 違いを喜びましょう。違いから学びましょう。

 主イエスがその人をあなたのそばに置かれたのは、あなたの成長のためかもしれません。


2、結び合わされる(16節)

 16節を見ましょう。私たちの成長は、一人だけの成長ではなく、他の人と共なる成長です。

 「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(16節)

 植物で言えば、ひまわり型ではなく、アイビー型が大事です。ひまわりは単体でニョキニョキと育ち大輪の花を咲かせます。一方、アイビーは蔦の絡まるチャペルのイメージのように、茎と茎とが絡まりあい、相互に支え合いながら上方へと伸びています。

 クリスチャンの成長は、互いに支えあうものです。備えられた結び目が成長を支えてくれます。

 私も今までたくさんのクリスチャンに出会い、そのすべての人から教えられ、祈られ、具体的に助けてもらいながら今日まで生きて来ました。あなたもそうですね。

 誰かと関わりを作りましょう。自分が先に心を開きましょう。

 あなたが結び目になるかもしれません。

 

3、みことばによる成長

 11節から13節で、パウロは牧師の存在理由を説明しています。牧師は、クリスチャン(聖徒)を整え、奉仕の働きをさせ、キリストに似た者となるようにと人々を導きます。

 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(11~13節)

 「整え」と訳された言葉は、ギリシア語でκαταρτισμός、英語で言えばequipという意味になります。
 この用語の使用例を他の箇所で見ると、破れた網をつくろう、不完全なものを完全にする、間違いを正す、訓練する、という意味で使われています。

 クリスチャンを整え、成長を促し、キリストの姿へと導くのは、神の言葉です。みことばを大切にしましょう。みことばの意味を探りましょう。暗記してその意味を味わいましょう。みことばに励まされ、具体的に行動しましょう。

 
 冒頭で言ったように、嫌な事ばかり考え、とにかくやり過ごすという人生はもう止めましょう。

 神は、あなたを成長へと招いておられます。すべての事がキリストの姿に変わるための触媒だと考えてみませんか。

 悔いのない人生を送りませんか。あなたの一番したい事は何ですか。主イエスがあなたの背中を押している事は何ですか。12節の「奉仕の働き」とは、実は、そのことかもしれません。

 あなたにお尋ねます。あなたは以下の働きへと主から招かれていませんか。

・子供にイエスさまを伝える働き
・家庭集会を開く
・個人伝道者
・会社でバイブルスタディーをする
・悲しみを抱える人の痛みを共有する
・留学生を物心共に支援する働き
・お年寄りを支える
・クリスチャンに宿を提供する
・ホームステイ先となり伝道する働き
・牧師になる
・新しく教会を開拓する
・財産を用いて経済的に困った人を支える
・海外で宣教師と伝道する
・政治家として神と国のために仕える
・マスメディアで主をあかしする
・クリスチャンとして小説家になる
・聖書研究テキストを書く
・ホームレスを援助する
・教会を支える忠実な人となる
・とりなしの祈りをする

 他にもたくさんの働きがあります。主イエスが、そうした働きにあなたを召してくださっていると分かれば、毎日の意味が違ってきます。

 ロサンゼルス生まれで18歳の男性がきれいな女の子に誘われ教会に行きました。翌週の集会にも参加しました。6箇所の聖句暗記の宿題をしてきた男性は彼一人でした。彼は聖書を暗記することにより、神のすばらしさを知り、イエスさまを信じるようになりました。
彼はやがて海軍に入り、28歳の時から同僚らに福音を伝え、救われた人を訓練する働きを始めました。聖句暗記を特に奨励し、一人が一人を育てるように徹底した結果、海軍で1000人以上の人がイエスさまを信じるようになりました。
 彼の名はDawson Trotman(1906-1956)、国際ナビゲーターの創始者です。ビリー・グラハムが、もっとも感銘を受けた人物と言及した優れた人です。
 ドーソンは、神のみことばによって整えられ、奉仕の働きへと導かれた人の一人でした。
彼の50年間の人生は、湖でおぼれた少女を助け、そのために自分自身が死ぬという劇的な最後で閉じられました。

 嫌な事ばかりを考え、やり過ごすだけの人生はもう止めましょう。成長を目指す人生、みことばに整えられる人生、勇気ある決断をする人生、生きがいのある人生を送りませんか。


→あなたの番です
□成長を目指しましょう
□違いを喜び、違いから学びましょう
□あなたの方から関わりを求めましょう
□みことばに整えられ、押し出され、あなたの使命を実行しましょう

エペソ3:14~21 パウロの祈り

 パウロの祈りは、普段私たちがしている祈りと違う。何が違うのだろう。

・私たちは他人の不完全さを嘆くが、パウロは他人の信仰の成長を神に願う。
・私たちは目先のことを祈るが、パウロは本質を祈る。
・私たちは自分に目を向けるが、パウロは神の栄光に目を向ける。
・私たちは自分の力を過信するが、パウロは神の絶大な力を信じる。

 なぜ、パウロはこのように祈れるのだろう。それは、神が生きておられることを本当に知っているからだ。神が大いなる力をもって私たちに関わって下さると20節のように確信しているからだ。

 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」(20節)

 3:16~21のパウロの祈りを暗記して何度も口に出してみて、私は多くのことを学んだ。


1、説明文が祈りに変わる

 パウロは、エペソ人への手紙1章から3章で神の救いの素晴らしさを説明してきた。三位一体の神による救い、驚くべき神の恵み、ユダヤ人と異邦人が家族になるという奥義。ここに至って、パウロは説明を止め、祈り始めた。

 パウロの初期の手紙、第1テサロニケ3:10~13にも同じパターンがある。説明がいつのまにか祈りになっている。

「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(第1テサロニケ3:10)

 祈りによって、誰かの信仰の不足を補うことができる。私たちも、誰かの相談を受けたとき、人間の言葉を一時停止し、神に祈ることが必要なのかもしれない。


2、本質的な課題を祈る

 私たちの祈りはたいてい具体的だ。病気のいやし、試練からの脱出、お金が与えられること、子供の非行が直ること、すてきな彼女と結婚できること、希望校に合格すること。
 緊急性が高く切実な祈りが多いが、ときに、周辺的な事柄に何度も振り回されることがある。たとえば、お金の使い方に計画性がなく、支払い期限ですったもんだする人を思い描けば分かりやすい。大事なことは、いつが支払い期限かではなく、その人がしっかりと自分の心をコントロールすることだ。

 パウロは、木にたとえると幹や根の成長を祈っている。内面の成長という中心課題を祈っている。本質が神によって取り扱われれば、周辺的な事柄に毎度毎度振り回されなくてすむ。私たちの本質とは、内なる人が強くなることだ。

 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(16節)

 私たちの祈りを、的を得た祈りにしよう。


3、キリストが心のうちに住んでくださる

 「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(17節前半)

 ルカ19章に、主イエスが悪名高いザアカイの家を訪問した記事がある。罪だらけのまま、心の掃除もしないまま、ザアカイは主イエスを家にお迎えした。主イエスは、ザアカイの心に住んでくださった、それでザアカイの心は前向きに変えられた。

 私たちは、主イエスを私たちの心という家にお入れすることを躊躇している。主イエスに来ていただくことが素晴らしいとは分かっているが、それを邪魔する何かがある。それは、何だろう。

 あなたの信仰によって、主イエスに住んでいただけますように。



4、キリストの愛を深く知ることができるように

 「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(17節後半から19節前半)

 キリストの愛を知る。それを、求道者が信仰を持つための初歩的知識と考えるならば大きな間違いになる。キリストの愛を知ることは、信仰の成長に不可欠で、生涯追い求めるべき中核的な真理だ。

 主イエスの愛の広さは全人類を覆うほど広く、生まれてから今日まであなたを見放さずに愛すほど主イエスの愛は長く、私たちを天に引き上げることができるほど主イエスの愛は高く、どんな汚れた罪人にも届くほどキリストの愛は深い。

 ロバート・マクルキン先生は日本で宣教師をした後、コロンビア・バイブルカレッジ/セミナリーの総長をされた方。奥さんが若年性アルツハイマーになり、マクルキン先生は神に祈ったという。どちらか二つのうち一つがかなうように。妻の病が奇跡的に治ること。もう一つは、自分の心に神の奇跡が起きること。最終的には、祝福されていた神学校の働きを辞し、奥さんの看病にすべてを捧げる道を選ばれた。マクルキン先生はキリストの愛を知っておられた。


5、栄光を祈る

 「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(21節)

 赦された罪人の集まりにすぎない教会が神の栄光をあらわす。救われたけれど不完全なわれわれ罪人が神の栄光をたたえる。罪人の賛美を受け入れる神の謙虚なあり方に感動する。

 成功したとき、失敗したとき、喜ぶとき、落胆するとき、私たちはさまざまなことを祈るが、最後にいつも上を見上げるべきだ。どんなときも神の栄光を見上げる必要がある。私たち人間は、神を賛美するために生まれたのだから。

→あなたの番です

□誰かのために祈ろう
  1)内なる人を強くしてください
  2)キリストが心に住んでくださるように
  3)キリストの愛を知ることができますように
  4)神の満ち満ちた姿に引き上げてください
□同じ祈りを自分自身のために祈ろう
□私たちの願いを越えて施すことのできる神を信じよう
□いつも神の栄光をたたえよう

エペソ3:1~13 「小さな私が」

 なすべき事は分かっているが、どうにも身動きが取れないときがある。パウロもそれに似た状況だった。

1、パウロの自己紹介に目を留める

 パウロはどんなふうに自分を紹介しているか。今日の箇所では、この質問が大切な鍵となる。1、2、7、8、13節を読んでみよう。

 1節では、異邦人に福音を伝えたことにより逮捕されローマで囚人となっていると説明している。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」(1節)

 2節では、神から任務を与えられた者だと書いている。「あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。」(2節)

 7節では、神から賜物をいただき、福音に仕える者とされたと述べてい。「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。」(7節)

 パウロは自分をどう見ているかというと、すべての聖徒たちのうちで一番小さな者。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」(8節)

 今の状況を一言でいうなら、苦難を受けている。「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに」(9節)


 パウロの自己紹介をまとめると次のようになる。

 1)神から特別任務を与えられた。
 2)自分は神の目には取るに足らない小さな人間。
 3)現在は苦難の中にいる囚人。

 普通、このような状況にいたら失望しているだろう。あなたも、この3要素が当てはまるかもしれない。やるべき事は分かっているが、自分には能力がなく、置かれた状況は過酷すぎる。パウロは、それでも、へこんでいない。


2、へこまない秘訣

 なぜ、へこまないのか。

1)今の自分を世間の価値観で見ない

 劣等感が強すぎる人は、人と比べ過ぎる傾向が強い。それをやめればいい。

 主イエスに従った結果、囚人となった。恥ずべきところ一切ない。盗みや殺人をして牢にいるわけではない。パウロは囚人だが、胸を張って生きている。「キリスト・イエスの囚人」(1節)という理解がパウロの力強さの秘訣だ。
 
 人を見ないこと。主イエスを見上げること。それが、へこまない秘訣。


2)取るに足らない者だが、神の特別の力を受けている

 驚くばかりの恵みを神から受けている。自分からは生まれるはずのない絶大な力を神から注いでもらっている。その認識が、失望しない理由だ。

 7節に「神の力の働き」とあるが、この「働き」はギリシャ語でエネルゲイアという。エネルギーの語源になった言葉だ。

 あなたにも同じ力と恵みが注がれている。


3)任務をもらっている

 パウロは、旧約時代の預言者も他の誰も気づかなかった奥義(隠されていた神の計画)を理解した。福音を伝えることでその任務を果たすことができた。

 当時のユダヤ人は異邦人を忌み嫌い、同じテーブルで食事することなどあり得なかったが、パウロは次のように語っている。
 「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6節)
 この理解はパウロにとって心踊る出来事だった。福音をユダヤ人にも異邦人にも語ることは、この任務を実現することになる。

 あなたは、神からどんな任務を頂いているだろうか。その事自体が、あなたの心を喜びで満たしてくれる。


4)神の栄光があらわされる

 パウロは牢獄で自由を奪われ、神の前で自分の罪深さを認識しているが、それで終わりではない。へこんいるだけで終わりではない。パウロの信仰の目は神の栄光を仰いでいた。

 「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(13節)

 13節だけでない。8~12節の流れも、神の栄光を示唆している。
 
 自分の犯した罪、過ちを顧みると、自分はどんなクリスチャンより小さく、価値のない者だとパウロは認識していたが、神はあえてそのような者を用いられる。
 囚人に過ぎないパウロが書いた手紙は、2000年間多くの人を励まし続けている。

 パウロがへこまなかった理由を見てきた。あなたの番です。
 □あなたが神から与えられた任務は何ですか。
 □あなたは、神の前で正しく自分を評価していますか。
 □あなたは、今、苦難の中にいるが、それが誰かの励ましになっていることを忘れてはいけない。

 1970年、星野富弘さんは事故のため首から下が完全に麻痺してしまった。その彼をお見舞いをしたクリスチャンが何人かいて、その中で米谷さんという男性がおり、聖書を星野さんにプレゼントした。事故から4年して星野さんは洗礼を受けクリスチャンになった。あれから40年。星野富弘さんの詩画は世界に知られるようになったが、米谷さんのプレゼントを知っている人はわずかだ。
 米谷さんは神からもらった任務を見事に全うした。また、世間的には「小さな者」と見られる星野さんが、世界の人々を励まし続けている。
 この二人の姿は、私たちの励ましになる。そう思いませんか。

エペソ2:11~22 平和を実現する

 不思議です。
パウロはエペソ2章で平和について語っているのですが、平和になるための段取りを一つも書いていないのです。どうしたら平和を実感できるのでしょう。

1、対立

 人間にとっての最大の問題は罪です。パウロは2章の前半でその解決方法に言及し、神の恵みによって罪が赦されると説明しました。話の筋立ては、かつての罪の姿、「しかし」の神、恵みによる救い、そして、救われた者の歩み方という順番でした。

 パウロが取り上げた次の問題は、対立です。人間社会の問題の大半は、人と人との対立です。あなたは誰かと対立していますか。誰かを憎んでますか。誰かの一挙一動に腹が立ちますか。

 11節以降のパウロの枠組みは2章の前半部分とそっくりです。ユダヤ人以外の異邦人は神から離れ、神との約束の外におり、偶像礼拝する者でした(11~12節)。「しかし」の神は、そうした異邦人を軽蔑せず、ご自身のそばに引き寄せてくださいました。

 「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(2:13)

 神の民として選ばれたユダヤ人は、選民意識のゆえに異邦人を見下げて、付き合いをしませんでした。ですからユダヤ人と異邦人の間には争いや差別がありました。見えない壁がありました。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)


2、平和は主イエスの中にある

 平和になる具体的な方策、和解への段取り等は一切書いてありません。そのかわり、平和がどこにあるかを指し示しています。

 平和は作るものではない。主イエスの中にある平和がある。まるで薄絹のベールが空から降りてくるように、平和は主イエスの十字架から私たちのもとにやってきて静かに私たちを覆うのです。

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし。ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(14~15節)

 もう一度言います。平和は、そこにあるのです。主イエスの十字架を見上げるなら、その平和があなたのものになります。
 私のような罪人のために主イエスは死んでくださったのか。感謝します、イエスさま、という心を持つなら、他者に向かう心が自然と穏やかになります。復讐を誓い、大きな石を握りしめて生きている人がいますが、主イエスの愛を十字架に見ることができるなら、石を捨てたくなります。空になった手を相手に差し出して握手することも可能です。

 あなたには、憎んでいる人がいますか。近づいただけで、無性にイライラさせられる人がいますか。絶対に赦すもんかと決めている人がいますか。
 そういう人は、十字架を見上げましょう。

 18節以降は、ユダヤ人と異邦人が一つになると語られています。一つの家族になり、一つ建築物として組み上げられるというのです。

 「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(エペソ2:18~22)

 1974年12月20日、フロリダで10歳の少年クリス君が誘拐され、銃で撃たれましたが一命は取りとめました。混乱していたクリス君は、犯人の顔写真を見せられても断定できず、犯人は無罪になりました。事件から22年後、犯人が自白したと警察から知らされました。32歳になっていたクリスさんは犯人の男性と対面しました。高齢と衰弱、失明状態になった77歳の犯人に「ゆるしてほしい」と言われ、「もう、とっくにゆるしているよ」と答えました。クリスは毎日のように彼を訪問し主イエス・キリストの十字架を伝え信仰に導き、3週間後犯人は亡くなりました。
 クリスは言います。被害者として生きるか、神の恵みを受けた者として生きるか、二つのチョイスがあったといいます。何度もアイスピックで胸を突かれ、頭を撃たれても片目を失明しただけで弾は脳に触れず、野外で6日間気を失っていたのに救出されたことを、神の恵み、神の奇跡と言わずにいられましょうか。私は守られた、恵みを受けた、奇跡の中にいたと確信したのです。だから犯人と友達になれたのです。

 主イエスは、敵意を廃棄される方です。隔ての壁を取り除く方です。主イエスにこそ平和があるのです。

 壊れた関係を修復したですね。家族とか、身近な人とは、特に心通わせたいですね。あきらめないでください。相手を必要以上に注視しないことです。まず主イエスを見上げるところからすべてが始まります。

 →あなたの番です
□あなたが対立している人は誰ですか
□キリストを見上げましょう。平和があなたを覆います
□キリストが命を捨てたほどの他者を愛しましょう

エペソ2:1~10 恵みによって

 今日からは、エペソ人への手紙の連続メッセージに戻って2章から再スタートします。救いを説明する用語は新約聖書にたくさんありますが、その中で一番大切なのは、「恵み」という言葉です。ギリシャ語ではカリスといいます。特に8節は大事な言葉なので、ぜひ暗記してください。
 

1、私たちの以前の姿

 普段は元気なのに、血液検査の結果コレステロールが高いとか血糖値が高いなどと言われてびっくりすることがあります。1~3節はその感覚に似ています。神を知らなかった時の私たちの実像は以下の通りです。

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1~3)

 私たちはみな罪の中で生活していたのだと1節で説明しています。その罪のせいで、生きているとは名ばかりで実態は死んでいたと言うのです。2節。神を信じないで生きるのはニュートラルな状態で、自由で自立していると考えがちですが、実は違うのです。気づかないうちに悪霊を信じて生きているのだとパウロはいいます。3節では、人間が欲望に引きずられて生きている、とパウロは指摘します。
 きよい神が私たちの心の「血液検査」をするなら、普通で元気な人間でも、罪に罪を重ねた悪人と診断されるのです。

 どうしても見たい芝居があって、「母が危篤で」と上司に嘘をついた人がいました。幕が開く前にちらりと横を向くとそのボスがいて目が会い、恥ずかしさでその場を飛び出したといいます。動転して数時間歩き回り、喉が渇いて喫茶店に入りました。すると、向かいに先ほどの上司がいたのだそうです。

 私たちが神を知らないときは、罪の中に埋もれ、自分が死んでいることも、自分がやっていることの矛盾も自覚できない状態だったのです。


2、「しかし」の神

 止めると言ったのに酒におぼれる、ギャンブルを繰り返す、麻薬に手が出る、盗みが直らない。そういう人を見たらどんな気持ちになりますか。嘘をつく、裏切る、陰湿ないじめをする、人情がない。そんな人をどうしますか。

 まことの神は、私たち人間と違う反応をします。罪まみれになり悪霊に振り回され欲望の奴隷となった人を見て、神は「しかし」と言われるのです。

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。(エペソ2:4~5)

 親から叱られるのは間違いないと覚悟した女の子がいました。ところが、お父さんはどこに行きたいかと優しく尋ね、子供は「チャックEチーズ」と答えました。子供用の楽しいレストランです。お父さんはそのお店で、「これが、恵みと言うんだよ」と教えたといいます。

 私たちの神は「しかしの神」です。人が見捨てる場面でも、決して見限りません。愛していると伝えてくれます。
 アメジンググレイスという賛美歌は日本でもコマーシャルなどで知られるようになりましたが、あの歌は神の恵みの偉大さを歌っているのです。信じられないほど神の愛は大きく、神の恵みは図りがたいと歌っているのです。


3、恵みによって
  
 8節の言葉は福音の中核です。聖書が語る救いを端的に説明しています。

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8~9)

 英語の聖書はギリシャ語の雰囲気をよく伝えています。
For it is by grace you have been saved, through faith—and this is not from yourselves, it is the gift of God— (NIV)
 by grace、救いは神からの一方的な恵みによってもたらされます。人間の努力やまじめさによりません。信仰は恵みを受け取るパイプとして機能します。だから、through faithなのです。

 ウイリアム・ニール・ムーアは1974年のある夜、老人宅に忍び込み金品を盗もうとしました。不審者に気づいた老人に撃たれましたが弾は逸れ、反射的に打ち返した拳銃の弾が命中、77歳の老人は死亡しました。わずかばかりの金を掴んで逃走するも逮捕され、死刑判決を受けました。彼は当時22歳でした。
 幼い息子をかかえ、妻は麻薬中毒、貧困のどん底で魔がさした犯行でしたが、ウイリアムは正当防衛を主張せず、自分の罪を認めました。
 刑務所を尋ねた牧師夫妻からイエス・キリストの話を聞きました。キリストはあなたを愛している。もちろんあなたのした罪を知っている。罪を悲しんでいる。しかう、あなたを愛している。あなたを罪から救うために十字架で死んでくださった。こうした言葉はウイリアムの心にしみこみました。
 ウイリアムは主イエスを信じ、洗礼を受け、人生が180度変わりました。多くの囚人を主イエスのもとに導き、被害者の遺族もウイリアムを許すと正式に伝え、助命嘆願運動が起き、17年後死刑判決が取り消されました。こんな例は後にも先にもありません。それも死刑執行直前のことでした。彼は後に釈放され、現在は牧師となり自分の失敗を告白しながら、キリストの愛を伝えています。

 自分は神の恵みを受けるに値しない人間だと、あなたは思いますか。神の恵みは、そういうあなたに差し出されているのです。受け取ってください。恵みを知ったならば、身近な人に恵みをプレゼントして下さい。

→あなたの番です
□罪を悔い改め、主イエスを救い主として信じましょう。
□「しかしの神」に感謝と賛美をささげましょう。
□恵みで救われたのだから、恵みを誰かにプレゼントを今週しましょう。

第1ペテロ1:3~9 手紙を書いたペテロ 

手紙を書いたペテロ 
第1ペテロ1:3~9
2010年10月31日

 さあ、いよいよ「ペテロの生涯シリーズ」の最終回です。中高年となったペテロの足取りをたどってみましょう。
 中高年という言葉に反応した人は、人生の秋から冬を旅する人です。

1、巡回伝道したペテロ

 前回、ペテロはユダヤ当局に逮捕され危うく殺害されるところでした。その後、エルサレムで公に活動することはありませんでした。使徒の働きの記述を調べても、いわゆる「エルサレム会議」(使徒15章)で証言をした記録しか残っていません。
 書簡を調べると、ペテロがアンテオケに行ったことが分かります。(ガラテヤ2:11)その後、恐らく小アジア(今のトルコ、第1ペテロ1:1)で伝道したようです。パウロの指摘によれば、ペテロは妻と共に伝道旅行をしていたようです。(第1コリント9:5)ペテロの最期は、ローマで迎えたようです。(第1ペテロ5:13)

 AD130年頃ヒエラポリスの司教をしていたパピアスは、「ペテロの通訳であったマルコが記憶していたことをすべて正確に書き下した」と述べています。
 ペテロは通訳者を介して伝道していたのです。考えてみてください、ペテロがエルサレムを離れたのは、50歳を過ぎた頃でしょう。若くないので、故郷を去り、故国を後にし、異文化、異言語で生活をするのは並大抵ではなかったでしょう。

 あなたのミドルエイジはどんな毎日ですか。ペテロの人生は、老いてもなお前向きでした。中高年になったなら、ペテロのように輝こうではありませんか。


2、信仰を貫いた秘訣 
 
 このころ、ローマ皇帝ネロによるクリスチャン迫害が起きました。ペテロもその迫害で殉教したと言い伝えられています。はっきり分かることは、ペテロが二度と主イエスを否むことがなかったということです。

 ペテロが手紙を書いたのは63年頃、殉教は64年と推定する学者がいます。ペテロの年齢は70歳前後か、それ以上ということになります。
 漁師だったので顔は日焼けして、顔に刻まれたしわには、年齢が感じられたでしょう。そんなペテロが、淡々と主イエスとの生活を語ったなら、どんなに人々の心をとらえたことでしょうか。

 ペテロが信仰を貫いた秘訣は、何でしょう。それは、「生ける望み」だったと私は思うのです。

 「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」(第1ペテロ1:3)

 無学で普通の人ペテロは、主イエスに出会ったことにより人生が大きく変わりました。粗野で、自分中心の庶民が、聖徒と変えられました。
 神が下さったものは、生ける望みでした。中年になっても、老年になっても、消えることのない望み。その望みがペテロを生涯導きました。
 生ける望みがあるので、試練を経験することも価値があると言い切りました。主イエスを3度否んだ経験も、火を通して精錬された経験と理解していたことでしょう。

 「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第1ペテロ1:7、関連→第1ペテロ4:12~13)

 教会史家エウセビオスによると、ペテロがローマで殉教するときペテロの妻が先に殺され、主を忘れないようにと妻に語ったと伝えられています。ペテロ自身は逆さ十字架を希望し、その生涯を終えたといわれています。ペテロの最期に関しては聖書に記述がなく伝聞なので真偽のほどは定かではありません。

 さあ、あなたの番です。あなたも、主イエスから生ける望みをいただき、ペテロのように生きていきましょう。
 試練はやがて栄光に変わると信じましょう。やがて、主イエスにお会いする日が来ます。

 星野富弘さんの「きく」という詩があります。

 よろこびが集まったよりも、
 悲しみが集まったほうが、
 しあわせに近いような気がする。

 強いものが集まったよりも、
 弱いものが集まったほうが、
 真実に近いような気がする。

 しあわせが集まったよりも、
 ふしあわせが集まったほうが、
 愛に近いような気がする。

 この詩を読みながら、ペテロの影響力の強さと考え合わせました。人に最も勇気を与えてくれるのは、普通の人です。だから、こんなふうに思いました。

 罪人が集まったほうが、イエスさまに近い気がする。

 普通の人が集まったほうが、ペテロに近い気がする。

 
 先週2010年10月、カリフォルニアの海岸で19歳の青年がボディーボードをしている時にサメから攻撃を受けて死亡しました。ルーカスという男性です。28日、海でメモリアルが行われたと新聞で報道していました。150人の親戚と友人が集まり、そのうちの数十人が海で輪を作り、花を流し、祈りをささげました。参加者の何人かのTシャツには「Ask me about Luke」と書いてありました。ルークはルーカスの通り名で、彼はいい男だった、彼について何でも聞いてほしいという意味ですね。

 私たちクリスチャンは、Ask me about JesusというTシャツを心に着ているのです。ペテロは、イエスさまについて語り続ける人生でした。

 普通の人ペテロが、普通でない生涯を送りました。あなたにもできます。あなたの番です。主イエスの与えてくださった希望を胸に、主イエスの愛と福音を伝えていきましょう。

使徒12:1~17 熟睡できたペテロ 

 ペテロがエルサレム教会の指導者として活躍していたとき、ユダヤ当局に逮捕、投獄された場面を見てみたい。

1、その後のペテロ

 かつては、思い込みが強く不安定なペテロだったが、ペンテコステ後は堂々としたリーダーとなった。
 美しの門で足なえをいやし(使徒3:4~8)、大祭司らの前で大胆に弁明し(使徒4:12~14)、多くの病人を直し(使徒5:15~16)、議会の中でも力強く証言(使徒5:29~32)、ルダでアイネヤを立たす奇跡を行い(使徒9:32~35)、一度死んだタビタを蘇生させ(使徒9:36~43)、ローマ人の百人隊長コルネリオを救いに導いた(使徒10:34~48)。
 エルサレム教会もどんどんと成長していったが、ステパノの殉教をきっかけに厳しい迫害が起こり、十二弟子の一人ヤコブがヘロデ・アグリッパ1世に殺され、ペテロにもその手が伸びた。(使徒12:1~3)

2、牢にいたペテロ

 ヘロデ・アグリッパ1世はヘロデ大王の孫に当たる。ペテロが捕らえられたのは過ぎ越しの祭りの時期だtった。ユダヤの暦でニサンの月の14日が過ぎ越しの祭り、それに続く一週間が種なしの祭り、太陽暦なら3月から4月ごろにあたる。
この出来事は紀元44年ごろの出来事とみられ、主イエスが十字架にかかって10年以上の歳月が流れている。

 ペテロの警護は厳戒を極め、四人一組の兵士が四交代で警備した。ペテロが寝るときには、その両側に兵士が張り付いていたほどで、脱獄は不可能だった。
 ペテロの心中を想像してみよう。ヤコブは殺害された、ならば、自分も殺される。すぐに殺さないところをみると、過ぎ越しの祭りの終了を待って殺すつもりと予想できただろう。
 ペテロの脳裏をかすめたのは、主イエスの最期だ。主イエスが殺害されたのも同じ過ぎ越しの祭りの時。主イエスの足跡をたどるような気持ちになってだろう。

 もしかしたら、あなたも今、牢にいるような経験をしているかもしれない。その時は、祈ってもらうことだ。誰かに本当の祈りの課題を話して、祈ってもらうことだ。

 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12:5)

 一方ではペテロが牢にいる。一方では教会の人々が自分のことのように考えて必死に神に助けを求める。この姿が、教会だ。
 健全な家庭なら同じことが起きる。家族の誰かが苦しめば、残りのみんなが苦しみ、打開策を探し、真剣に祈る。社会だって同じだ。誰かの苦悩を自分の苦しみとするなら、思いやりのある社会ができる。

 使徒12章5節の言葉は教会とは何かを教えてくれる言葉だ「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」

 原文のギリシャ語を見ると、人々が教会で祈ったと書いてない。祈っていた場所はそもそも教会ではない、マルコの母の家だ。この当時、教会という言葉は建物を指して用いられてことはない。教会が祈る、それは、クリスチャンたちが心を合わせて祈ったということだ。NIVと新改訳聖書は、主語を教会にして訳している。これは、この箇所にしか出てこない興味深い表現だ。まさにそれは、教会が祈っていたという状態だった。

3、祈る教会

 教会が祈っていた時刻とはいったい何時ごろだろう。それは、ペテロが牢で熟睡していた時間、つまり深夜だった。教会の祈りは熱い祈りだ。

 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。(使徒12:7~8)

 祈られていたので、ペテロは熟睡できた。明日殺されると思われた夜、ペテロは天使にわき腹をつつかれるまで起きなかった。まるで、寝坊の高校生が起こされるみたいだ。起こされてからも、ペテロは夢を見ているようでぼーとしていた。言われるまま着替え、帯をしめ、履物をはき、第1、第2の関門を通過した。最後に残ったのは鉄の門だった。不可能という文字が立ちはだかるような強固な門だった。

 「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。」(使徒12:10)

 驚いたことに、鉄の門はひとりでに開かれた。これこそ神のなさることだ。あなたの鉄の門は、神の時に開かれる。

 聖書でもっともユーモラスな箇所がこの後に続く。

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。(使徒12:12~15)

 女中のロダは、ペテロだと分かったのに門を開けなかった。嬉しさが勝って、仲間に知らせに走ってしまった。これがまず面白い。次に、ロダの説明を聞いたクリスチャンの反応がおかしい。あなたおかしいんじゃない、だって今は真夜中だ、ペテロが釈放されるタイミングじゃないよ、という雰囲気で取り合わなかった。そもそも、徹夜で祈っていた内容は何だったのか、ペテロの救出だったはずだ。
 その後、門をたたく音がして、用心深く開けてみるとペテロだった。その後は大騒ぎになったので、ペテロが手を使って静止しなければならないほどだった。

 ペテロは押しも押されぬエルサレム教会のリーダーとなり、教会も<祈る教会>へと成長を遂げた。主イエスのまいた種は、こんなふうに育っていった。

→あなたの番です。
□誰かに祈ってもらおう。本当の祈りの課題を分かち合おう。
□鉄の扉が開かれると信じよう。
□あなたが祈る人になろう。祈りのネットワークを広げよう。

使徒2:37~42 聖霊に押し出されて

 今日は、御霊に満たされたペテロの活躍と、御霊に満たされることの意味を考えてみたい。

 クリスチャンとは、聖書を勉強し、暗記し、強い意志の力でそれを実践する人々ではない。聖霊によって内面を変えられ、聖霊に力を頂き、聖霊に押し出さる人々のことだ。

1、教会誕生に関わったペテロ

 主イエスは天に昇られ、地上にはおられない。ペテロと十二弟子、そして、忠実なクリスチャン120人が首都エルサレムに集まって祈っていた。それは、聖霊が下るまでエルサレムで待つようにと主イエスが指示しておられたからだ。(使徒1:4~5)

 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1~4)

 過ぎ越しの祭りから数えて50日目、その日が五旬節だった。激しい風の音が聞こえた。そこにいたクリスチャンの上に炎のような分かれた舌がとどまり、学んだこともない外国語で神のみわざを語り始めた。
 エルサレムを訪れていた外国暮らしの人々は驚いた。ガリラヤ出身の普通の人々が、色々な国の言葉で神のみわざを語っているのを見たからだ。ペテロは、そこで立ち上がり、この出来事の意味を説明した。ペテロの話はやがてイエス・キリストにフォーカスしていった。主イエスは救い主だ。十字架で死んだがよみがえられた。私たちはその証人だ。悔い改めて、主イエスを信じなさい、とすすめた。その結果、その日、3000人がクリスチャンになった。

 「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」(使徒2:38~41)

 救われた3000人は、どんな教育を受け、どんな生活に入ったのだろうか。それは、主イエスと十二弟子が過ごした3年間とそっくり同じだった。
 ペテロたちは、信じたばかりのクリスチャンにこう言ったのだろう。何も分からなくても心配いらない。私について来なさい。私と一緒に生活しなさい。そうすれば、主イエスはどんな方か、クリスチャンはどう生きたらいいか、それが分かる。主イエスから学んだとおりのことを、教えただけだった。

 「 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:42~47)

 ペテロはこのようにして、見事に<羊を飼う>(ヨハネ21:17)ようになったのです。


2、聖霊に満たされて

 ペテロが用いられた鍵は、聖霊です。聖霊に満たされたゆえにできたことです。

 「聖霊」という言葉は、新約聖書に95箇所にあり、使徒の働きには42回あります。使徒の働きには聖霊様の働きが際立っています。
 <聖霊に満たされる>という用語は、新約聖書に14箇所、そのうち使徒には9箇所ある。その中から主な7箇所を取り上げ、聖霊に満たされるという言葉の意味を考えてみよう。何が共通する要素だろうか。

①使徒2:4
 「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

 ペンテコステに起きた特別な出来事は、聖霊に満たされた結果だった。

②使徒4:8
 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。」

 信じる男性が5000人を越えると、ユダヤ当局はリーダー格のペテロを逮捕して取り調べた。その際、ペテロは御霊に満たされて尋問に応対したが、それはペテロの知識や能力を超えた素晴らしいメッセージになった。

③使徒4:31
 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 ペテロが釈放されて戻ると、仲間のクリスチャンはペテロと共に祈った。たとえ迫害されても主イエスの福音を語らせてくださいと熱い祈りをささげた。そして、聖霊に満たされて、伝道に出かけていった。

④使徒7:55
 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

 ステパノは、信仰と聖霊に満たされた人。生涯の最後となったメッセージは気迫に満ち、ユダヤ人の怒りを招いた結果殉教した。

⑤使徒9:17
 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 クリスチャン迫害の急先鋒のパウロはダマスコ途上で復活の主イエスに会い回心。主イエスが救い主であると証しすることになるが、ユダヤ人がパウロ暗殺に走るのは必至の情勢だった。どうしてもパウロが御霊に満たされる必要があった。

⑥使徒11:24
 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

 彼とはバルナバのこと。迫害で逃げ延びたクリスチャンが外国人にも福音を語り、アンテオケでたくさんの人が救われた。その教会を健全に導くためバルナバが遣わされた。彼は、聖霊に満ちた人だった。困難な状況の中でも素晴らしい働きの実を残した。

⑦使徒13:52
 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 ピシデヤのアンテオケのクリスチャンは、救われた直後に迫害騒ぎに巻き込まれた。伝道者パウロたち一行が去った後も、聖霊に満たされ、喜びは消えなかった。

 使徒の働きで<聖霊に満たされた>おもな箇所に目を通した。7つの箇所に共通する要素は何だろう。3つ考えられる。この3つの要素がそろったときに聖霊に満たされている。

 第1に、問題が起きたり、差し迫った出来事が起きている。そこに迫害や困難がある。伝道の必要性が急に沸き起こっている。

 第2に、特定の人がそれに対処しなければならない。だが、自分の力ではどうにもならない。

 第3に、私を用いて下さい、福音を語らせてくださいという強い祈りを持っている。

 現代の教会では、礼拝や集会の後に、「今日は大変恵まれました。聖霊に満たされる思いでした。では、失礼させていただきます。」という会話が交わされる。使徒の働きでは、そんな例はひとつもない。

 あなたが弱さを感じるとき、怖気づくとき、それでも福音を伝えたいと願うとき、その時が聖霊に満たされる入り口になる。

→あなたの番です
 □聖霊に満たしてくださいと祈ろう
 □自分の無力さを神に告白しよう
 □主イエスの福音を伝えると心で決めよう

ヨハネ21:15~17 出直し

 どうやってペテロは失敗から立ち直ったのか。それが、今日のテーマです。

 最初に結論めいたことを言います。ペテロは自分で立ち直ったというより、イエスさまに背中を押されて立ち上がったのです。再出発のイニシアティブは主が握っておられます。
 もう十分だとか、まだ早いとか、出直しの時期を判断するのは人間ではないと思うのです。主イエスは、なんと裏切られて3日後にペテロに会いに行かれました。(ヨハネ20:19)

 木曜の深夜、ペテロは主イエスを知らないと3度言いました。主イエスは金曜に十字架につけられ、殺され、埋葬されました。土曜日には動きがなく、日曜の夕方、主イエスは弟子たちのいた部屋に突然現れて、手とわき腹の傷を見せ、平安あれと語りかけました。出直しは、主イエスが近づいてくださることによって始まったのです。

 その後、十二弟子はガリラヤに一旦戻ります。天使がマグダラのマリヤに次のように告げたからでした。
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」(マルコ16:7)
 注目してください。ペテロの名前が十二弟子とは別に言及されています。ペテロ、ガリラヤでまた会おう、という主イエスの意図がはっきりうかがえます。

 「夜が明けそめたとき、イエスが岸べに立たれた。」(ヨハネ21:4)

 主イエスがあなたの岸辺に立たれるとき。それが、あなたの再出発の夜明けになるのです。
 主イエスは、あなたの岸辺に立っておられるはずです。

1、原点に戻る

 主イエスは、ペテロの出直しを後押しするため、ガリラヤ湖を舞台に選びました。それは、何のためでしょう。ペテロに原点を思い出させるためです。

 「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」(ヨハネ21:6)

 この出来事、過去に似た出来事がありませんでしたか。漁をしても一晩中一匹も取れず、主イエスの指示に従うと大漁になる。そうです、ルカ5:1~11とそっくりです。

 ペテロたちは、今日の箇所で、主イエスが用意された焚き火で魚を焼き、パンを食べました。3年間、主と共に過ごした日々が否が応でも思い出されたはずです。
 このようにして、主イエスは、弟子たちにの原点を確認させました。主イエスと共に生活したこと、それが信仰の原点なのです。

 ペテロは3度主イエスを否むという失敗をしましたが、失敗だけに目を留めると、大切なことを見失います。失敗は、私たちの生活スタイルの歪みが表出しただけにすぎません。いわば氷山の先端なのです。だから、原点に立ち返ることは、その全体の歪みを正す鍵になります。

 あなたは原点は何ですか。
 自分の罪に気づいて涙した時。十字架の意味が分かったとき。主イエスの愛に包まれたとき。赦されたことが分かったとき。
 毎朝聖書を読んで、祈っていたときの安定感。礼拝のとき、心に迫ってきた神の言葉。これらは、みなあなたの原点です。原点を取り戻しましょう。


2、誰よりも主イエスを愛す

 食事が終わると、十二弟子のいる前で、主イエスはペテロに尋ねました。
 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)

 ペテロが最後の晩餐のとき、「たとえ全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と豪語したことを主は覚えておられました。他の弟子たちも忘れていません。それで、この人たち以上にわたしを愛すかとあえて尋ねられたのです。これは、過去の清算です。けじめをつけることです。
 ペテロはあの時とは違います。自分の愛の限界を悟っていたので、謙虚に答えました。
「『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21:15)

 主は2度目に同じことを尋ねました。わたしを愛すか。ペテロは、同じ答えをします。主は同じ質問を3回されました。ペテロは傷つきました。<主よ、私はあなたを愛しています。心から愛しています。それは、あなたが一番知っておられます。>ここで初めて、主イエスの意図が分かったはずです。自分は3度主を否んだけれど、愛しますと3度言うことによってその失敗を帳消しにされるのだ、と気づきました。
 
 さて、女性は夫にこう尋ねるときがよくあります。「あなた、私のこと、愛しているの?」夫たちは、この瞬間をとても恐れます。愛してるさ、と答えても、妻は納得しないことを経験的に知っているからです。私はあなたをこんなに愛してきたのよ、という大前提があって女性たちは言っているのですから、夫たちに勝ち目はありません。

 「わたしを愛しますか」と主イエスがペテロに尋ねたとき、大前提があることを見逃さないでください。主イエスは、以下のような大前提で語っているのです。
 ペテロ、あなたを愛しているよ。たとえ、あなたが3度私を裏切っても、私はあなを見捨てない。ガリラヤに来たのは、あなたに会うためだ。あなたのために、命を捨てた。わたしは、今までも、これからもずっと、あなたを愛していく。

 深い主イエスの愛にきちんと応答しましょう。主イエスを愛します。これからも先ずっと、これが出直しの原動力になります。罪を振り払い、誘惑に負けない心は、主イエスをまごころから愛すことによって養われます。


3、新しい使命

 アメリカで今年出版された『ザ・メンター・リーダー』という本があります。著者は、トニー・ダンジー。2007年スーパーボウルでインデアナポリス・コルツを勝利に導いた黒人ヘッドコーチで、敬虔なクリスチャンです。その本の中で、スーパーボウルでベテラン選手が負傷したとき新人が立派に役割を果たした例を引き、新人選手はベテラン選手を見て習い、先輩は新人に時間をとって自分が獲得した技を教える、というチームの基本に触れています。

 主イエスは最高のコーチです。まず、「わたしについて来なさい」、見て学べと言われ、3年間が過ぎました。最後には、おまえに任せたと言って、離れて行かれるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」(17節)

 人生の出直しのとき、あなたもペテロのように神から新しい使命をもらいます。それは、あなたの野心ではなく、主のビジョンです。わ・た・しの羊と言われているのは、そのためです。主イエスの羊を養うのがペテロの使命になりました。わたしの大切な人々をあなたに委ねた、あとはよろしくと主イエスが言われているのです。


→あなたの番です。
□あなたの岸辺に立つ主イエスに気づきましょう
□あなたの信仰の原点に立ち戻りましょう
□主イエスを愛します、と主に告白しましょう
□新しい使命、主のビジョンを引き受け、生涯かけて全うしましょう
 

ルカ22:31~34 ペテロの失敗

 失敗は誰でもしたくない。
けれども、本当に大切なことは、失敗を通して学ぶものです。人は、失敗して深く傷つきながら醜い自分に直面し、そこではじめて神の愛の深さを知ります。
 ご一緒に、ペテロの失敗に目を留めましょう。

1、失敗の予告

 今日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。それは、ペテロが主イエスと共に生活して約3年が過ぎた頃です。ペテロは、多くの知識を得、奇跡を目撃し、以前より成長したと感じていたかもしれません。でも。本質は何も変わっていません。グレイトな人と一緒にいると自分も偉いような気になる、つまり錯覚しただけなのです。
 最後の晩餐の席で、主イエスはペテロに向かって特別にこう言われました。

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)

 ペテロが大きな失敗をするという予告でした。主イエスの呼びかけ方も、「ペテロ(岩)」ではなく、本来の名前「シモン」を使われました。
 ペテロは、警告に強く反発しました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33節)

 マタイ26:33では、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と自分の忠誠心をことさらに強調しました。

 主イエスは静かに言われました。
「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(34節)

 この後、ペテロがどう反応したか、記録はありません。
その夕食後、主イエスと十二弟子はエルサレム郊外に出てゲッセマネの園で皆で祈りました。かなり夜もふけていました。主イエスを捕らえるため、祭司たちと役人たちがやって来ました。ペテロと十二弟子は、身の危険を感じ、主イエスを置き去りにして蜘蛛の子を散らすように逃げました。

 
2、失敗して気づく主イエスの愛

 ルカ22:60~62を読もう。

 「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません。』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:60~62)

 ペテロは、夜の闇に乗じて大祭司の庭に入り、捕らえられた主イエスがどうなるか様子を伺っていました。
 ペテロは、中庭の焚き火にあたっていましたが、無意識ながら三度も主イエスを知らないと言ってしまいます。そのとき、鶏が鳴きました。
 取調べが終わり主イエスが移動した時だったのでしょう、ペテロは主イエスの背中を目撃しました。主イエスは、振り向いてペテロを見つめました。目と目が合いました。ペテロは外に出て、泣きました。激しく泣きました。


 このようにして、ペテロの不名誉な失敗は、世界中に知られるところとなりました。主イエスの十字架が伝えられるところには、ペテロの裏切りが必ず伝えられることになったのです。

 ペテロの失敗のストーリーを辿りましたが、あなにも失敗の物語があるはずです。私にもあります。

 ペテロは、痛恨の失敗をしたことにより、大切なものを学びました。具体的にいうと以下の3つになります。

1)こんな私を主イエスは愛してくださった。(31~34節)

 主イエスはペテロの失敗をあらかじめ知っておられましたが、ペテロを捨て去りませんでした。見捨てないこと、あきらめないこと、共にいること。これが主イエスの愛です。
主イエスがペテロを見た眼差しは、厳しいけれども、温かい目だったと私は想像しています。

2)主イエスは、私のために祈ってくださった。(32節)

 主イエスは、こんな失敗をする自分のことをあらかじめ知っていて、祈っておられた。私は祈られていたと気づいたはずです。
あなたの名前は、主イエスの祈りのリストに入っています。あなたは、主イエスに祈られています。


3)主イエスは、こんな私が将来用いられると信じて下さった。(32節)

 人は、失敗に目をやります。主イエスは、失敗の向こうにあるものを見ています。
大きな失敗をしたら、もう終わりと考えるのが日本社会です。失敗をしたからこそ、役に立つと考えるのが主イエスです。 

 31~32節をよく見直してください。ふるいにかけられたのは十二弟子全員ですが、主イエスはペテロのために祈られました。他の弟子たちが立ち直る鍵はペテロにあると主は考えておられたのです。

 「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)

 最も大きな失敗をしたペテロが回復することが、他の弟子たちの励ましになるのです。最も大きな失敗をした者が、他の人のあわれみの見本になるのです。


→あなたの番です
 今日は、主の恵みを味わってください。

□あなたは主イエスに愛されています
□あなたは主イエスに祈られています
□あなたが立ち直ったら、誰かを助けましょう

  愛されて生きる
  赦されて歩む
  祈られて生きる
  励まされ進む

マタイ14:22~33 ペテロの長所

 今回はペテロの長所に目を留めよう。

1、柔らかい心

 ペテロの長所の第1は、柔らかい心を持っていることです。

 まず最初にルカ5章の出来事に目を向けましょう。主イエスがペテロに網を下ろして魚を獲るように命じました。ペテロの答えは以下のようなものです。

 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5)

 網を引き上げると、舟が沈みそうになるくらいの大漁になり、ペテロは次のように叫びました。

 「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)

 今、主イエスもペテロも舟の中にいるのですから、離れてくださいと言っても無理な注文です。この辺が実にペテロらしくて楽しいです。
ペテロは、主イエスが行った奇跡に触発され、この大漁は神のわざだと直感し、自分の罪深さを一瞬のうちに悟りました。この瞬間に、自分の汚さ、小ささ、醜さ、罪深さの認識が理屈を超えて体内を駆け巡ったのです。
 さきほどまで主イエスがあんなに熱心に語られたのに、私は網をつくろうばかりで、まじめに聞いていなかった。徹夜の漁の疲れで否定的な気持ちになっていた。自分は傲慢だった。

 自分の罪深さに気づいて言葉を発したり、態度で表わした弟子は、福音書の中でペテロだけです。ペテロの優れた点は、自分の心を正直に見つめられることです。

 あなたも、柔らかい心が必要です。自分の罪深さに気づく心が必要です。

 ペテロのように、あなたも何かの出来事で心底驚き、自分が見物人でいられない状況に巻き込まれます。そのとき、あなたに必要なのは、ペテロのような柔らかい心です。自分の罪深さに気づくことです。


2、信じて行動する力

 ペテロの長所の第2は、信じて行動する力です。

 マタイ14章を読みましょう。この時、12弟子はガリラヤ湖の向こう岸を目指して舟を操っていましたが、向かい風が強くて前に進めませんでした。

 弟子たちの疲れ、はらぺこになり、体は冷え、いらついていたことでしょう。激しい風のため波は荒れ狂い、夜中の3時になりになりました。不気味な黒い水面を見ていると、漁師出身の弟子が多いとはいえ怖かったはずです。

 主イエスは、そんな弟子たちのため、山で祈っておられました。向かい風や嵐も私たちに必要な時があります。タイミングを見極めて、主イエスは湖の上を歩いて弟子たちに近づきました。主イエスだとわかると、ペテロはこう言いました。

 「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」(マタイ14:28)

 ペテロの長所は、主イエスを素朴に信頼する心。そして、主イエスを信じて実際に体を動かすことです。
 多くの人は、主イエスの言葉が優れた言葉だと理解しますが、主イエスの言葉を実行する人はわずかです。

 主イエスはガリラヤ湖の水面で、「来なさい」とペテロに声をかけられました。「ペテロは、船から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」(マタイ14:29)

湖の水面は波で荒れていましたが、ペテロは思い切って歩き始めました。ペテロには勇気があります。普通の神経なら水の上に足を出すことは不可能です。

 ペテロは、行動する人です。それは聖書の他の箇所からも分かります。主イエスが最後の晩餐の席で12弟子の足を洗おうとすると、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」(ヨハネ13:9)と発言しています。主イエスがゲッセマネの園で捉えられそうになると、剣を抜いて戦いました。(ヨハネ18:10)主イエスが大祭司の家まで連れて行かれると、その中庭まで入って行きました。(マタイ26:58)

 自動車会社GMの経営を立て直したアルフレッド・スローン(1875-1966)という人物はこう言いました。「何の過ちもおかさない人は、何もしない人たちである。」

 たしかにペテロの足や服は水でぬれ、危険な目に遇いました。けれども、水の上を歩いたのはペテロだけでした。主イエスに助け起こされたのもペテロだけが経験した祝福でした。行動する人は、必ず何かを学び取ります。

 あなたは、ロダンの彫刻の「考える人」タイプのクリスチャンになりたいですか。それともペテロのように「行動する人」になりたいですか。
 長年クリスチャンをしている人の大きな問題点は、聖書知識だけが肥大して、行動が伴いことです。ユダヤ人の12部族の名前を言えても、身近な家族を具体的に愛せないなら、聖書の知識は頭の引き出しでほこりをかぶっているノートの切れ端に過ぎません。
 行動しましょう。ペテロは、思い切って水の上に足を乗せた人です。

 主イエスは、頭のいい人や要領の良い人を弟子にしませんでした。失敗を決してしない完全無欠の人を探しませんでした。ペテロのような人を選び、弟子にして、その長所を伸ばされたのです。

 さあ、あなたの番です。あなたもペテロになりませんか。

□柔らかい心で、素直に自分の罪深さを認めましょう。そこから、離れましょう。
□家庭で、職場で、学校で、ペテロのように、主イエスのみこころを実行しましょう。
□恐れを捨てて、主イエスを頼って、あなたの直面している大波に足を踏み出そう。

マルコ3:13~19 訓練を受ける

 「無学な普通の人」(使徒4:13)であるペテロが、聖徒また指導者へと変えられた秘訣は何だろう。
 今日の箇所を最初の手がかりとして、その秘訣に迫ってみよう。

1、ペテロたちは主イエスと共に生活した

 主イエスは、ご自分が地上を去った後を12弟子に任せるおつもりだった。弟子を教え育てる方法は、いわゆる学校教育の形を取らなかった。単に理屈が分かったというレベルでは実生活で何も役に立たない。徒弟制度のように、見て、学び、やってみて、さらに失敗しながら体得して初めて自分のものになる。
 その分野では古典的名著と言われる「伝道のマスタープラン」を書いたロバート・コールマンによると、主イエスの教授法は驚くほど「形式ばらない」方法だったという。

 マルコ3章13~19には、主イエスが12弟子を選び、どのように訓練されたかが書いてあるが、鍵になるのは、「彼らを身近に置き」(マルコ3:14)という言葉だ。主イエスが意識的に弟子たちを身近に置いたことが分かる。

 主イエスも、弟子たちも、共に生活した約3年の日々を忘れなかった。主イエスは、復活後に弟子たちに現れ、「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ」(ルカ24:44)という表現を使われた。また、ペテロもペンテコステ前に「主イエスが私たちといっしょに生活された間」(使徒1:21)という言い方をしている。
 主イエスと寝食を共にすることは、弟子となる上で必須の条件だったことが分かる。自分自身が変えられる3年間となった。主イエスが学校であり、主イエスがカリキュラムだ。

 ペテロたちが経験したことを、5つの<る>としてまとめてみた。(語尾が全部「る」になっている)
  1)びっくりする    マルコ4:35~41
  2)分かる      マルコ4:1~20
  3)あたたまる    ヨハネ8:1~11
  4)広がる      ルカ18:15~17
  5)やってみる    マタイ10:5~23

 ガリラヤ湖の嵐を言葉だけで静めるイエスに弟子たちは驚いた。多くの奇跡に感激の連続だったろう。
 山上の垂訓に感動し、たとえ話については主イエスから直接意味を教わった。パリサイ人と議論する主イエスの言葉からも、大いに目が開いて神の言葉の理解が深まったはずだ。
 姦淫の現場で捕らえられた女を赦す主イエスの姿、取税人や罪人とも食事をする態度に心が温かくなったはずだ。ヨハネなどは、自分こそが最も主に愛されたと公言したほどだ。
 良かれと思って子供たちを排除した弟子たちは結局主に叱られた。それは自分たちの偏狭さを示される経験となり、心が主によってどんどんと広げられる経験になった。
 主イエスは、ある時期になると、12弟子を二人一組で伝道旅行に遣わされた。これは実地訓練だった。

 こんなふうにして約3年間、弟子たちは主のそばにいただけでみるみる変えられていった。主イエスと共に生活する。それが鍵だ。それがすべてだ。


2、主イエスが昇天された後、弟子たちはどうなったか

 主イエスが十字架について天に昇られた後、弟子たちはどうなっただろう。使徒2:40~47を読むとその姿が分かる。結論から言おう。ペテロたち弟子たちは、みごとに主イエスの期待に応えた。
 ペンテコステの日、3000人が主イエスを信じ、ペテロはその人々にどうしたらいいか明瞭に指導できた。信じたばかりの人々に何をしたら良いのか方向性を示すことができた。

 「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:41~42)

 主イエスと一緒にいたペテロたちの経験談は、現代の聖書の役割を果たしていた。弟子たちは、信じたばかりの人たちを、自分が主イエスに受け入れられたように愛した。そして、祈り合い、具体的に助け合い、食事をともにし、賛美していた。主イエスはそこにいないが、まるで主イエスと共に過ごしているようだ。

 主イエスは、弟子と過ごした3年間をそっくりそのまま教会に置き換えるようにと、あらかじ想定しておられたのかもしれない。

 以下の聖句は、主イエスの昇天後、ペテロたちが伝道活動ゆえに捕らえられた時に、取り調べ担当者が気がついた内容だ。
「ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」(使徒4:13)
 英語聖書のほうが意味がストレートに心に入ってくる。
 When they saw the courage of Peter and John and realized that they were unschooled, ordinary men, they were astonished and they took note that these men had been with Jesus. (Acts 4:13 NIV)

 無学で普通の人が変えられたのは、主イエスと共に生活したことのゆえだと、敵までが認めた。あなたも、変えられる。

→さあ、あなたの番です。以下の事を実行して、あなたも主イエスと共に生活しよう!

□主イエスを愛している人と時間を過ごす
□いつでも主イエスに話しかけてみよう
□自分の普段の生活とペテロたちの体験とを重ねて考える
□主イエスの言われたことを、実際にやってみる

マタイ4:18~22 最初の一歩

 今日から、ペテロの生涯を8回のシリーズで学んでいきます。
ペテロとは誰でしょう。主イエスが最も手塩にかけて育てた弟子。主イエスの心を最も苦しめた弟子。主イエスがその成長を最も喜んだ弟子。ペテロとは、私であり、あなたです。
 第1回は、ペテロのバックグランドと主イエスとの出会いを取り扱います。

1、ペテロの背景

 父の名は、ヨハネ(ヨハネ1:42)。出身はベツサイダ(ヨハネ1:44)、後にガリラヤ湖畔北西のカペナウムに住む。職業は漁師(マルコ1:16)。
 妻帯者で(第1コリント9:5)、妻の母と同居している(マルコ1:29)。子供についての記述はない。話すことばになまりがあり(マタイ26:73)、「無学な普通の人」と(使徒4:13)みなされた。
 
 私も、あなたも、普通の人かもしれません。(特別に優れた人が中にはいるかもしれません)たとえ普通の人であっても、人生を普通で終わらせたいとは誰も思いません。

2、主イエスとの出会い

 ペテロと主イエスの出会いは、まずユダヤ地方で起きたと聖書学者たちは考えます。初期ユダヤ伝道の時期にペテロは主イエスと知り合いました。きっかけはペテロの兄弟アンデレが作りました。アンデレは当時バプテスマのヨハネの弟子になっていました。

 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネ1:40~42)

 ペテロの本名はシモンでした。主イエスは、彼が成長して、変えられ、用いられる日が来ると確信し、シモンにペテロ(岩)という名を与えました。
そうです。主イエスは未来志向です。成長した姿を思い描いて「岩」という名を与えたのです。
 自分自身を振り返ってみましょう。主イエスは、あなたに新しい名前を下さっているはずです。どんな名前ですか。

 興味心は人一倍強いが不安定なシモン。今、マイナスと見える部分が、将来プラスに転じる。不安定なシモンが岩のような人になると信じますか。主イエスの未来思考を取り込んで、あなた自身に適応してみましょう。


3、大切な決断(マタイ4:18~22)

 人の一生で大切な決断がいくつかあります。その中でも、誰についていくか、という選択はかなり重要なものです。

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイ4:18~22)

 主イエスについていく。これは、その人の人生を決める、とても大切で基本的な決断です。私も17歳のとき、主イエスを信じて、主イエスについてきました。この決断に後悔したことは一度もありません。
 ペテロたちは、網を捨て、父を置いて、主イエスについて行く決断をしました。

 信じることは、ついて行くこと。
 信じることは、主イエスと共に歩くこと。

 声をかけてくださったのはイエスさまなのですから、安心してついて行きましょう。最初の一歩がなければ何も始まりません。

 さあ、あなたも、主イエスを信じ、歩み出し、普通の人が非凡な人に変えられる体験を味わってください。

 

詩篇23篇 主は私の羊飼い

 多くの人に愛唱される23篇。何が、その魅力なのでしょうか。
(今日は年に一度の公園での礼拝です。緑の芝生が目にまぶしいですね。)

1、安らぎと信頼の詩篇

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。(1節)

 出だしの一節が詩篇23篇の明度と彩度を決めました。
神は私の羊飼い、私は弱さを持つ羊。素晴らしい羊飼いについて行く人生に乏しさはない、と告白しています。安らぎと信頼が、この一節にあふれています。

 神を羊飼いと呼んだのは、ダビデが最初ではない。ヤコブが人生を振り返った時に「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)と述懐しています。ヤコブは羊飼いとして20年間働き、昼は暑さ夜は寒さに悩まされる過酷な仕事であると述べたほどです。(創世記31:38~40)ダビデも若いころ羊飼いの経験がありました。神というお方を一言で表現するなら、素晴らしい羊飼い、私の羊飼い、それ以外に適切な言葉がなかったのです。

  主は私を緑の牧場に伏させ、
  いこいの水のほとりに伴われます。(2節)

 パレスチナの気候と地理は、南カリフォルニアとそっくり同じです。緑の牧草地がどこまでも広がる場所など存在しないし、夏には雨が一度も降りません。過酷な環境でも、羊飼いが牧草地と水のある場所に導いてくれるので、羊は食べて飲んで安らぐことができるのです。

  主は私のたましいを生き返らせ、
  御名のために、私を義の道に導かれます。(3節)

 疲れ切った人、取り返しのつかない失敗をした人が多くいます。神は、そういう人の魂を生き返らせ、心をリフレッシュさせ、やり直しを促してくれる方です。

 人間は自分の欲望のために、悪の道を選ぶ弱さを持っています。それで、神は「義の道」を示し、導いてくれます。「羊」にとってベストの道が「義の道」なのです。正しい道は、困難で、遠回りで、恥ずかしい道である場合が多い。それでも、正義を選ぶのは、その道を進むことによって神の栄光が表れるからです。それが、「御名のため」です。

  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。
  あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(4節)

 緑の牧場に行くには、いくつもの谷を通る必要があります。猛獣が茂みや洞穴に隠れている危険な場所です。人生も同じです。試練や苦難のない人生などありません。神は、苦しみの中に共にいてくださる方です。それで、勇気が生まれます。

 余命わずかと悟った人にとり、23篇は大きな慰めになってきました。死ぬ瞬間も、神は共にいてくださるのです。ハレルヤ!

  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
  私の頭に油をそそいでくださいます。
  私の杯は、あふれています。(5節)

 長い人生には、敵と戦わねばなら時があります。虚偽の証言で犯人にされたなら、あなたは戦うはずです。子供が学校でいじめられたなら、あなたは戦うはずです。神は、その戦いの前にあなたを支援すると表明し、実際にサポートしてくださる方です。
5節は、そういう神の支援姿勢を、賓客を向かえた祝宴として描いています。

  まことに、私のいのちの日の限り、
  いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
  私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6節)

 神が羊飼いとして導いてくださるので、この世にいる間、神の愛と恵みは尽きません。あなたがどんな失敗をしても、人に嫌われる罪を犯したとしても、神はあなたを愛す、ゆるす、と誓ってくださいました。いつくしみと恵みがあなたを追いかけてくるというのは、そういう意味です。
こんなに素晴らしい祝福を受けた者は、いつもでも主と共にいたいと願うのは当然です。

 ここまで読んできて、なぜ23篇が多くの人に愛されるのか、あなたにも理解できたはずです。詩篇23篇には、安らぎ、信頼、満足、刷新、英断、勇気、希望、忍耐、成長、友情、励まし、愛、赦し、そして、死を乗り越える力と永遠に残る喜び、これらがすべて含まれています。だから、23篇が好きなのです。


 どのようにしたら、その祝福を受けられるのですか。
自分を羊として認識し、羊飼いである神に信頼してついて行くことです。


 最後に一つ、注目してください。詩篇23篇には過去形がありません。すべてが現在形と未来形です。あの時は良かったという回顧主義に陥らず、過去の大きな祝福のレフトーバーで食いつなぐのでもなく、すべてが現在形に収束する信仰、それが23篇を貫く姿勢です。

 今日、羊飼いである神と共に生きているので乏しくない。明日も、神と共に生きるので心配ない。恵みを過去形にせず、いつも現在形にしたい。あなたも、そう願いますか。ならば、今日も、良き羊飼いの声を聞き分けて、ついていきましょう。

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。

詩篇22篇 わが神、わが神

 22篇は、苦悩の深い詩篇です。

1、 十字架上の言葉

 主イエスの祈りは通常、「父よ」で始まるが、「わが神」と呼びかけた場面が例外的にある。十字架の場面だ。マタイ27:46節を見てみよう。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 聖書学者は、詩篇22篇をメシア預言の詩篇と呼ぶ。人々があざける姿勢(22篇7節)神に救い出させよとの罵声(8節)、渇いた喉(15節)、着物をくじ引きにする様子(18節)、これらは、主イエスの十字架刑の場面で成就している。

 人間が経験する極限の苦悩を、主イエスが体験してくださった。わが神、わが神、と叫ぶ人よ。主イエスも、あなたと同じところを通られた。


2、捨てられた思い(1~21節)
    
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。(1節)

 22篇前半の苦悩は極めては深い。「わが神」との親しい呼びかけを見ると、どれほど神を愛し、神に信頼していたかが分かる。実際に経験している苦しみも耐え難いが、神がお答えにならない現実が辛さを二倍にしている。
 昼、夜、呼んでも答えはない。先祖イスラエルが救いを求めた時に応答して下さったが、私には答えがない。(4~5節)人々に中傷され、まるで自分が虫けらに見える。(6節)11~21節では、どれほどひどい扱いを受けているかを比喩的に描写している。

 神に捨てられた経験。神が遠くに去ってしまった経験。それは筆舌に尽くしがたい。しかし、あえて言いたい。神が遠くに行ってしまったと思える時こそ、神は近くにおられ。そんな時だからこそ、神から離れてはいけない。

しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。
母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(9~10節)

 自分が神を意識する遥か以前、あなたが母の胎にいたときから、神はあなたの神であった。神が見えないほどの試練の中でも、神はあなたの神であり続ける。


3、突然の讃美(22~31節)

 22節から後半部分は、唐突に、賛美の詩篇になる。圧倒的な、洪水のような、周囲の人々を引き込むような神への賛美が始まる。すべての人々が神のもとに来る希望にも言及している。(27節)

主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。(23節)

 苦難の中で、「わが神、わが神」と叫び続ける人は、魂の中で霊的な核分裂を経験することがある。周囲の誰も止めることができない、賛美が沸き起こることがある。
 賛美は、突然に起きる。問題に変化がなくても。暗闇がいっそう深まるときにも。

けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(3節)

 神は賛美を住まいとしておられる。3節がそれを示している。だから、神への賛美が始まると、私たちは神の一番そばにいることになる。

大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。(25節)

 否定的で、近視眼的で、信仰のうすい私たちから賛美は本来は出てこない。信仰年数が長い者でも乗り越えられない試練がある。本物の賛美は神を源泉としている。「私の賛美はあなたから出たものです。」苦難の中でも賛美そするなら、神を身近に覚えることができる。

 私は先週素晴らしいクリスチャン夫婦と語り合った。息子さんを突然失った後、奥さんは癌の手術を受け抗癌治療の最中でしたが、喜びにあふれていました。夜、ご主人がギターを弾いて賛美を始めると、皿を洗う手を休めて、奥さんも賛美に加わるといいます。苦難の中で神を賛美している人を目の当たりにして、深い感動を覚え、主をたたえました。二人の顔は輝いていました。まさに、賛美は力です。

→あなたの番です
□あなたが母の胎にいたときから、神はあなたの神でした
□苦難の中でも、主が共におられることに気づいてください
□苦しみの中でも、主を賛美しましょう

詩篇21篇 主に信頼する王

1、賛美の祈り     

 祈りには5つの要素が含まれてる、といわれます。賛美、感謝、悔い改め、とりなし、願い。あなたの祈りで一番長い部分はどれですが。一番少ないのはどれですか。
 詩篇21篇には、私という言葉が最後の節までひとつも出てきません。最後の節に出てくる「私たち」も賛美の主体として登場するだけです。自分の嘆願が出てこない珍しい詩篇です。つまり詩篇21篇は、その全体が賛美なのです。

 この詩篇は「王の詩篇」というジャンルに含まれます。王が主からの祝福をあふれるばかりに受け、神が敵をしりぞけ、王は神に信頼すると述べています。

 いきなりですが、あなたの番です。今週は、主を賛美する1週間にしましょう。それが、今日のメッセージの適用です。

 
2、21篇の構成

 21篇の全体の流れを見てみましょう。

1)神を喜ぶ王(1~6節)
 詩篇21篇の前半は、神が王を祝福された内容が列挙されている。願いがかなう(2節)、祝福(3節)、地位や富(3節)、いのち(4節)王としての賞賛(5節)、喜び(5節)。
 王を祝福してくださる神をたたえている部分。王自身も、神を喜んでいる。

 主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。(13節)


2)神に信頼する王(7~12節)
 後半は、神が敵から救い出し、滅ぼされる(8~12節)という内容。「あなたに対して悪を企て」(11節)の言葉から、敵と呼ばれている存在は、王の敵でありながら、実は神の敵を指す。

 最後の13節は結論。

 主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。(1節)

 「ウエストミンスター小教理問答」に有名な言葉がある。問い:人の生きるおもな目的は何か。答:神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。

 私たち人間の生きる目的は、神を賛美することである。
 それを、日々にしよう。今週しよう。一生、神を賛美して生きていこう。

 賛美をすると、第1に、人をひがむことから守られる。21篇では、神に与えられた祝福を通して神をたたえている。王の仕事がすべて楽しいはずはない。王に与えられた祝福を数えることから、賛美は始まる。あなたもそうだ。
 人の悲しみを理解するより、人の喜びを共有するほうが難しい。人に与えられた祝福を喜び、祝福を与えた神を賛美することにより、私たちは、ひがみ、嫉妬から守られる。
 賛美すると、第2に、謙遜になる。心の低い人になれる。どんな成功も、賞賛に対しても、いつも人差し指を天に向け、主の恵み、主のおかげ、と言える人は、真の意味でキリストに似た者となり、謙遜な人になれる。
 賛美すると、第3に、信仰の力になる。礼拝で、私たちが恵まれるのは、いいお話を聞いたからではない、歌でもりあがるからでない、神を礼拝しているからだ。つまり、神をたたえ、神を賛美しているからだ。それが、あなたを強くし、あなたを励ます。賛美は、あなたの力になる。

 さあ、今週は、人を見ても神を賛美。自分を見つめても賛美。賛美の1週間にしよう。

詩篇20篇 主の御名を誇る

 人生には、苦難の日がある。今が、その苦難の時かもしれない。

1、苦難の日

 「苦難の日に主があなたにお答えになりますように。
 ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。」(1節)
    
 アメリカ人は生涯に3回レイオフされる、という言葉を昨日知り合いから聞いた。本当かもしれない。

 苦難は突然やってくる。私たちは、その時、へこむ。誰かを恨み、自分を責め、自暴自棄になるかもしれない。

 その反面、苦難が生み出す良い面もある。謙虚になる。思いやりのある人になる。自分の力の限界を認識し、神により頼む者になる。



2、共に祈る

 「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。
 あなたのすべてのはかりごとを
 遂げさせてくださいますように。」(4節)

 詩篇20篇に繰り返される言葉は、「あなた」だ。苦しんでいる人のために祈るとき、その人の名を挙げて祈るが、「あなた」と言って祈る場合は、目の前にその人がいる場合だけだ。

 「あなたのために、今、祈っていいですか。」という前置きがあって、この祈りが始まったのだろう。

 自分は何でもできると考えがちな人は、「私のために祈ってください」と言う心が必要だ。

 私たちは、苦難の日に、願いがかなうことを祈る。人間の願いの結果は3つあると思う。第1は、願いがかなえられる場合。第2は、願いがかなえられない場合。第3は、願いをはるかに超えた神のみわざを見る場合。
 主が、あなたの願いをはるかに超えて答えてくださるように。

 「目が見たことのないもの、
 耳が聞いたことのないもの、
 そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
 神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、
 みなそうである。」(第1コリント2章9節)


3、主の御名を誇る

 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。
 しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(7節)

 苦難の日を迎えていたのは、実は王だった。その王のための祈りが詩篇20篇だった。
 当時の王にとって、軍馬や戦車を代表とする武力は、国の力の象徴だった。本当に誇るべきは神だ。主の御名だ。

 1節では、主の御名を、「ヤコブの神の名」としている。アブラハムの神と言えば、契約に忠実な神のイメージが浮かぶ。エリヤの神と言えば、力ある神。ダビデの神なら、羊飼いの神、赦しの神が思い浮かぶ。ヤコブの神と言えば、あわれみ深い神、決して見捨てない神を指す。
 私たちの弱さ、傲慢さ、罪深さ、未熟さに関わらず、どんな時も共にいて、助けてくださる方が、私たちの神です。だから、誇るべきは神なのです。


 →あなたの番です
  □苦難の日に、主を呼び求めよう
  □「今、祈っていいですか」と声をかけよう
  □ヤコブの神をたたえよう

詩篇19篇  大空は御手のわざ 

 人間が聞きたくないものが3つあります。

1、神をたたえる言葉
    
 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。
 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。
 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。(1~3節)

 最初の1節はハイドンのオラトリオ「天地創造」の中で歌われています。ダイナミックな神への賛美で、私たちも思わず空を見上げたくなります。
 
 人間が聞きたくない声の一つは神をたたえる言葉だと、私は思います。神の存在を認めない人にとって、神への賛美はナンセンスです。
 とはいえ、神を信じない人も、日の出の瞬間を神々しいものと感じ、太陽が太平洋に沈む瞬間は言葉を失います。
 太陽が神だ、などどダビデは考えません。神の栄光をたたえる被造物として天空にあると認識しました。まるで結婚式の花婿が喜んでいるように、戦争で勝利した兵士が味方に伝えるための喜び走るように、太陽が毎日神を賛美していると考えたのです。

 もしあなたに神を信じる心があれば、耳で聞くことができない大空の賛美の声が心の耳で聞こえるかもしれません。ハワイで毎日見られる虹も、アラスカのオーロラも、神の栄光をたたえているように私には思えるのです。
 

2、神の言葉

 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、
 主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、
 主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(7~8節)

 人が聞きたくないものは、神の言葉です。まっすぐな神の言葉は、罪人にとって厳しく聞こえるからです。

 7~8節を見ると、神の言葉は、完全で、確かで、正しくて、きよい言葉です。

 あなたの過去など知りたくないの、という菅原洋一のヒット曲がありました。優しさと情愛に満ちた歌詞が心に染みます。
 もし、主イエスが同じような歌を歌うなら、こう言われるかもしれません。あなたの過去はすべて知っている。だから、十字架で命を捨てたんだ。
 7~8節を読むと、主の言葉は、たましいを生き返らせ、物事の本質を教え、悲しみを喜びに変え、人に活力を与えると書いてあります。
 神の言葉がまっすぐなのに人を生き返らせる力があるのは、神の言葉の裏に神の愛が裏打ちされているからだ。だから、純金より価値があり、蜂蜜より甘いと言えるのです。

 どうか、あなたも毎日、素晴らしい神の言葉に触れてほしい。秘訣は、一日の初めに神の言葉を読む習慣を身につけることだ。聖書を読む椅子を決める、これがあなたに贈る具体的なアドバイスです。


3、自分自身のうめき

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。
 どうか、隠れている私の罪をお赦しください。(12節)

 人は、自分自身の魂のうめきを聞きたくないのです。聖書の言葉では、「隠れた罪」と言っていますが、本当は、隠している罪、自分で意識したくない罪といったほうがいいでしょう。

 空を見上げ、神をたたえ、主の言葉に耳を傾けると、私たちは謙虚になります。自分が見たくないもの、聞きたくない事柄を取り上げる勇気が生まれてきます。あなたの心のきしみ、うめきを聞き取って下さい。それが、あなたを新しくします。

 もうひとつ付け加えて終わります。3つのプロセスを踏んだあなたならできると思います。あなたの身近な大切な人の言葉を、心をこめて聞きましょう。言葉を挟まず、先回りしたり推測せず、裁かず、沈黙を恐れず、身近な人の言葉を聞いてみましょう。
 

 →あなたの番です
 □神のすばらしさをたたえる大空を見上げよう
 □朝、主の言葉に耳を傾けるため、場所を決めておこう
 □自分の心の深いうめきを聴き取ろう
 □大切な身近な人の声をきちんと聞こう

詩篇18篇 主はわが巌

 強くなりたいと思いますか。詩篇18篇は、あなたを鍛えてくれる詩篇です。

1、自分の弱さを知っている強さ

 ダビデは強いか、弱いか。答えは、イエスであり、ノーです。ダビデは勇敢な戦士で、向かうところ敵なしの状態でした。それと同時に、自分が弱いということを良く知っていました。17節を見てください。

 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。
彼らは私より強かったから。(17節)

 ダビデは自分が仕えるサウル王からねたまれ、命を狙われ、逃亡しました。そのため危険な目に何度もあいましたが、主の助けをいただきました。

 自分の弱さを正直に見つめられるダビデは、強いのです。

 ダビデは、命の危険が迫ったとき、神のふところに逃げ込み、助けられました。だから、神が自分の岩であり、とりでであり、盾だと歌いました。

 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。(2節)

 パウロも自分の弱さを知り、神の力強さを経験した人です。(→第2コリント12:9)

 あなたは、自分の弱さを冷静に見つめられますか。


2、鍛えてくださる主

 不思議なことですが、主のもとに逃げ込むことを繰り返しているうちに、ダビデは強くなりました。
 急斜面をものともせずに登る雌鹿のような強い足。堅い青銅の弓を引けるような強い筋肉。強靭な体と心を、神によって付与していただいたとダビデは33、34節で語りました。

 彼は私の足を雌鹿のようにし、
 私を高い所に立たせてくださる。(33節)

 戦いのために私の手を鍛え、
 私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。(34節)

 鍛えることは一夜でできることではありません。筋力トレーニングをした翌日は、筋肉痛で歩けなくなるだけです。日々訓練する、それが鍛える上での大事な要素です。
 苦しみ、痛み、敗北、罪を犯した後悔、挫折、無念さ、こうした事柄が私たちを鍛えてくれます。



3、神の前で自らを調律する

 ダビデが鍛えられたプロセスは、私たちにも適用できます。

 ダビデは自分の弱さを知り、神のふところに飛び込み助けを求めましたが、そうこうするうちに、神の完全さに直面するようになります。

 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。(30~32節)
 
 神の道は完全です。主のみことばは純粋で純度100%の真実な言葉です。ときおり、神の完全さのゆえに距離を感じることもありますが、完全がどうしても必要な場面があります。
 楽器の調律方法としくみが似ています。元になる音が完全でなければいけません。その音を手がかりに他の音を調整していきます。神こそ、私たちの基準音なのです。私たちの霊的調律をしてくださるのが神です。

 今直面している問題の真の原因は何か。人間関係のもつれはなぜ起きたのか。仕事上の問題はどこから発生したのか。顧客や従業員に満足してもらっているか。家族は幸せか。自分の周囲に問題があるのか、自分自身が問題の発生源なのか。正しく生きているか。自分は本当に満足しているか。

 このようにして、神の前で自分を静かに見つめてみましょう。神は霊的絶対音感をお持ちです。完全な神に向き合うとき心の調律が可能になる。キリストの姿に変えられるのは、聖霊の導きの中で、罪の悔い改めを伴いながら、このようなプロセスを踏んでいきます。

 あるお年寄りの男性が、なかなかうまく祈れないと牧師に相談したところ、食卓の空いている椅子に主イエスが座っていると考えてごらんとアドバイスしてくれました。主イエスに語りかけてごらんなさい、それも祈りだよと教えてくれました。それ以来、空いている椅子を置いて祈る習慣になりました。
 その男性が昇天し、最期の様子を娘が牧師に語りました。父は傍らにあった椅子に手を伸ばして死んでいました。どうして、椅子に手を伸ばして死んだのか理由が分かりません、なんだかちょっと変な姿でしたと話しました。
 牧師は微笑んで、いいえ、ちっとも変ではありませんよ、と答えました。

 主は生きておられる。(46節)

 危険や試練のただ中におられるなら、生きておられる主のふところに逃げ込みましょう。主の完全さに向き合って、霊的な調律を日々にしていただきましょう。そして、主のために美しいメロディーを奏でましょう。主はあなたを鍛えてくださる方です。

詩篇17篇 御翼の陰に 

 誠実さを疑われた。そんな時、どうしたらいいのだろう。

1、正しい訴え  
    
「主よ。聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、
私の叫びを。耳に入れてください、欺きのくちびるからでない私の祈りを。(1節)

 私は潔白だ、とダビデは叫びました。

 誠実に生きることは容易ではありません。努力、自制、忍耐などを必要とする正しい生き方を一夜で身につけることは不可能です。誠実に生きる人にとって最大の苦痛は、ダーティーなレッテルを貼られることです。
ですから、ダビデは辛かったのです。
 
 夜になってもダビデの苛立ちは消えません。自分の言葉や行動を神の前で点検しても、ダビデは汚点を見つけることができないほど、誠実でした。(3~5節)




2、ひとみのように守ってください

 ダビデは袋小路に入ってしまいました。出口がない時の解決策は、覆ってもらうことです。

「私を、ひとみのように見守り、
御翼の陰に私をかくまってください。」(8節)

 ダビデは、神の守りを最後のよりどころとしました。雛が雌鳥の羽の下で守られるように、神の翼の下で保護を求めました。

 体で一番弱い部分は目です。危険物が飛んできたら、私たちは本能的に目をつぶったり、覆ったりして目を守ります。ダビデの祈りは、ひとみのように私を守ってくださいというものでした。

 C・S・ルイスが愛妻を失ったとき、自著『悲しみを見つめて』で以下のような内容を書きとめました。
悲しみが恐れに似ていることを誰も私に教えてくれなかった。誰の言葉も興ざめだ。けれども、誰かが私のそばにいてほしい。何も言わずに、ただそばにいてほしい。
 論理的で知的なことで知られたルイスはケンブリッジ大学の教授でしたが、人のぬくもりが必要な時があると切々と語りました。

 神の翼で覆ってほしいと願ったダビデの祈りに、似ていると思いませんか。

 誠実さが汚されたとき、多くの場合、自分の正しさを主張すればするほど、逆効果になります。道が残っています。神の翼に包まれることです。そこで、平安と守りと愛を経験することができ、人生の荒野を歩き出す力をもらえるのです。



3、神の御姿に満ち足りる

 ダビデは、自分の敵がどんなに邪悪で執拗で凶暴か説明しました。(9~14節)
その後、突然、大きな飛躍点に達します。その鍵は、朝にあります。

 問題そのものや敵に焦点を当てていると袋小路に陥ります。神ご自身を見上げるなら、まったく別の視界が開けます。

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、
目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」(15節)

 苦悩の夜が希望の朝に変わります。

 ラジオ体操の歌は多くの日本人が歌えます。♪新しい朝が来た、希望の朝だ、喜びに胸を開け、大空あおげ~。夏休みの朝、眠い目をこすって広場や校庭で歌った歌を何十年も忘れません。この歌には、さわやかさと希望が込められています。
 ダビデは、ラジオ体操ではなく、主を礼拝することが満ち足りる心の秘訣だと述べました。

 聖書学者の多くが、死後の復活の希望を述べたものと15節を説明します。確かに復活と主にお会いする希望を語っていますが、それだけではないと私には思えます。普段の生活でも、朝、主を見上げることが袋小路の活路を開くきっかけになります。

 目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。

 誠実さを疑われた時の打開策は、朝、主を礼拝することです。まことの神の臨在に触れるとき、人の評判など取るに足らないと思えます。神からの評判こそが大事だと気づきます。
 そうなると、人は強くなり、柔軟になり、人を恐れなくなります。握り締めたこぶしを開いて主を礼拝する人になりましょう。

 ある女性伝道師の電話が鳴った。2年間音信普通だった知人からだ。彼女の夫が別な男のもとに走ったという。「すぐに来なさい」と伝え、久しぶりに会った知人の変容に驚いた。
 洋服はみすぼらしく、以前より太り、髪に櫛を入れた形跡がなかった。彼女の話を聞いた後、女性伝道師はこうアドバイスした。一緒に歌いましょう。Jesus loves me! This I know, for the Bible tells me so. Little ones to Him belong. They are weak, but He is strong.有名な賛美歌だった。その女性は歌いながら泣き始めた。大嫌いな自分を、そのまま愛してくれる主イエスの愛に気づいた。これが主を礼拝したした瞬間とも言える。やがて彼女は生活を変え、自分を大切にし、後に夫を取り戻したとの連絡が女性伝道師に届いた。

 主イエスは、復活した後、ガリラヤ湖で弟子たちとお会いになった。その朝、弟子たちにこう言われた。

「さあ来て、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)

 主イエスが準備してくださった、あなたのための特別メニューの朝食で元気をつけてください。今週、あなたの朝を大切にしてください。

 →あなたの番です
 □神に、あなたの誠実さが汚されたと訴えましょう
 □神の翼の陰にかくまっていただこう
 □朝、まず、主を礼拝しよう

詩篇16篇  私の幸せ 

 詩篇16篇は、本当の幸せが何かを教えてくれる。

1、わたしの幸いは、神にある       

 詩篇16篇の基調にあるものは喜び。今までの詩篇はどちらかというと、叫びや嘆きが多かったが、16篇はどこか突き抜けた大胆さがあり、かなり異質だ。

 神よ。私をお守りください。
 私は、あなたに身を避けます。(1節)

 苦しみのない環境だから幸せになれたのか。それは違う。1節を見ると、苦悩の最中だったことが分かる。本当の幸せは、苦しみの中でも色あせない。

 私は、主に申し上げました。
 「あなたこそ、私の主。
 私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(2節)

 神は私たちに良いものを下さった。たとえば、罪の赦し、平安、自由、永遠の命など。ダビデは、それを感謝するというより、与えて下さった神ご自身の存在を喜んでいる。

 測り綱は、私の好む所に落ちた。
 まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。(6節)

 「ゆずりの地」を口語訳聖書で「嗣業」と訳している。土地を受け継ぐことは、約束の地を受け継ぐユダヤ人にとって大きな喜びとなったが、現代人にとっても嬉しいことだ。ダビデは、神を知っていること、神と共にいることを、土地を受け継ぐ喜びにたとえている。

 生ける神を知っていることこそが、幸せの源泉だ。



2、神を、私の前に置く(3~5節)

 幸せを持続させるコツが、神を自分の前に置くことだ。

 私はいつも、私の前に主を置いた。
 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(8節)

 神を前に置くと、神は私たちの右に来られ、最終的には揺るがされないとダビデは言う。これは、神が私たちと同じ立場から問題を見てくださり、私たちを応援してくださる、と考えることもできる。

 神を自分の前に置くというのは、自分の決断だ。積極的な信仰の姿勢だ。私と悩みの隙間が、私の前という場所だ。そこに神を置くことが鍵だ。

 A・B・シンプソンがニューヨークで牧師をしていた1881年頃、彼は非常に病弱で医師から寿命は40歳までと診断された。その時彼は38歳だった。
夏、シンプソンは避暑地静養し、ある日の午後松林で跪いて祈った。神の言葉を受け入れ、神の使命を果たすまで生かしてくださいと願い、神の大きな臨在に触れた。
 その後、ニューヨークのあらゆる層への伝道に燃え、海外への宣教にも力を入れ、大いに用いられた。結局70歳を過ぎるまで、主のために働くことができた。
神を前に置いた人は、神によって力を受ける。




3、喜びと楽しみの人生へ

 この詩篇では、喜びと楽しみが2回使われている。神こそ幸せの源泉と知り、神をいつも目の前に置く人は、結果として喜びを持つことになる。

 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。(9節)

 悩みがあっても、病があっても、自分の弱さに直面しても、ビジネスの浮き沈みがあっても、家族の悩みを抱えても、神が幸せの源泉だと知る人は魂の奥底で喜びがあふれる。
 
 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
 あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、
 楽しみがとこしえにあります。(11節)

 神こそ私たちの幸せです。

 →あなたの番です
  □あなたの幸せは、神を知っていること
  □あなたの前に神を置こう
  □あなたの神を喜ぼう

詩篇15篇 正しく歩む人 

 人は皆、正しく生きたいと願っています。でも、それは非常に困難です。どうしたら、正しく生きられのでしょう。


1、正しく歩むことの勧め     

 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(1節)

 1節の問いに対する答えが2節です。

 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。(2節)

 「正しく」という言葉は原文ではターミーム。口語訳では「直く」、新共同訳では「完全な道」、NIVでは「非難されるところがない」と訳されています。

 「正しく歩み」とは生活姿勢の正しさを指す言葉で、実際の行動も正しく、口から出る言葉も正しい。分かりやすく言えば、トータルな意味で正しいということでしょう。

 先週金曜夜に、エンジェルズ対マリナーズの試合を見てきました。松井は不調でしたが、イチローは走・攻・守に大活躍、取ったボールを観客に投げてファンサービスにまで心が行き届いていました。トータルな意味で、レベルの抜きん出た選手であることが分かります。

 神は、正しく歩むことを求めています。それも、トータルな意味で、生活の全領域で正しく生きることを願っています。


2、正しく歩むこととは何か

 人間としての尊厳を引き下げたいなら次の3つを行ってみてください。(そんな願いを持つ人はいないでしょうが)第1に、嘘をつくことです。第2に、悪いうわさを流すことです。第3に、あやまらないことです。こうすれば、あなたの品格は急落、軽蔑されるに違いありません。

 正しさとは何でしょう。具体的に説明しているのが3節から5節です。

 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、
隣人への非難を口にしない。(3節)
神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。
損になっても、立てた誓いは変えない。(4節)
金を貸しても利息を取らず、
罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
このように行なう人は、決してゆるがされない。(5節)


 否定的に言うなら、悪口を言わない、悪を行わない。それが正しさです。積極的に言えば、神の視点で物を見て、実際のビジネスや仕事の場面で誠実に行動し、自分が約束したなら損を出しても必ず守る。出エジプト記22:25やレビ記25:36の教えを守って、特に、貧しい人に金を貸すときは利子は取らない。裁判で賄賂を使って有利な証言を引き出したりしない。

 ジョエル・オースティン牧師の子供時代の話をテレビで聞きました。牧師であるお父さんと野球の試合を見に行った時のことです。神さまの御名を使ってやじを飛ばすファンが近くに二人いました。「私は牧師だが、そういう言い方は良くない」とお父さんは諭したそうです。その後、選手がホームランを打ち、その二人は「ハレルヤ!」と叫んだそうです。

 聖書の教えはとても実際的な教えです。信仰と生活を分ける二元論は間違っています。正しく歩むとは、生活ににじみ出る正しさのことです。



3、どうしたら正しく歩めるのか


 子供が何か悪いことをすると、「いーけないんだ、いけないんだ、先生に言ってやろう」と周囲の子供がはやしたてます。何が正しいか、人間は分かっています。人は正しく造られているので、悪いことをしたら良心が痛むのです。問題は、どうしたら正しく生きられるかです。

 人間の正しさには限界があり、偏りがあります。人間の正しさは詰まるところ、<自分の正しさ>です。
自分の正しさと他人の正しさがぶつかるのが喧嘩です。夫婦喧嘩はみな、正義と正義の対立なのです。あなたの正義は、胸を張って誇れる正義ですか。それとも、自我と同義語ですか。
パリサイ人でさえ、自分の正義を主張して主イエスに立ち向かいました。安息日に病人を直すのは正しいでしょうか、と迫りました。自分は正しいと思い込んでいたのです。

 正しく歩む秘訣は、神と共にいるということです。

 「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)

 ノアは神と共にいたので、正しくいられたのです。一人なら周囲に同調しがちですが、神と共にいるなら正しく生きる勇気がもらえます。
 ビジネスでも、神と共にいるなら、誠実に仕事ができます。悪い噂を聞いたなら、悪口で追い討ちをかけずに、その人のために祈ることができます。
 聖霊なる神は、私たちの義が間違いであることを指摘してくれます。

 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)

 正しさは、神を知っている人の心のゆとりなのかもしれません。

 あなたの番です。
  □今週、約束を守ろう
  □誠実な仕事をしよう
  □悪口でなく、とりなしの祈りをしよう

詩篇14篇  愚か者の心

 「愚か者」と呼ばれて、怒るか、納得するか。それは、あなた次第。そこで、あなたに尋ねる。あなたは、「神はいない」と考えるか、神は自分にとっての避け所なのか。


1、「神はいない」という価値観        

 1節から3節は、神なしの人生を痛烈に批判している。

「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、
悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(1~3節)

 この詩篇によると、「神はいない」と言うのなら、その人の本質は腐っており、その人の行動は忌まわしく、神はいないとの認識は愚かだという。

 フランス人、ルネ・デカルト(1591~1650)は近代哲学の祖と呼ばれた。すべてを疑い、悩んでいる自分の存在は疑えず、「我思う、ゆえに我あり」との結論に至った。次に哲学者デカルトが提示したポイントは、驚くなかれ、神の存在の確かさだった。

 日本という国は、アメリカから見ると特殊な国に見える。マスコミがこぞって、神を信じる人間はインテリジェンスに欠けるという宣伝をしている。

 人間にとって、「神はいない」ほうが好都合だ。いまさら、神がいると言われても、軌道修正は無理なので、神の存在は真剣に取り上げたくない。その気持ちは理解できる。

 日本人が苦しいときに、「天照大神」にすがったり、「仏さま」と呼ばず、「神さま」と呼びかける。なぜだろう。それは、人間の作った神ではなく、本物の神を求めているからだ。

 詩篇14篇は、詩篇53篇と瓜二つだ。詩篇が150篇ある中で同じ詩篇を取り上げる理由は、交響曲の旋律が繰りかえされるように、人が心すべき内容だから、と私は勝ってに推理した。パウロは、ローマ3章で14篇を引用し、人間の罪の姿を率直に描いている。



2、神は避け所という信念

「見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が、とりこになった御民を返されるとき、
ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」
(5~7節)

 詩篇14篇後半の主張は以下の通り。正しい者、悩む者、貧しい者と共に神はおられる。神を認める人は、神を避け所としている。そういう人は、真の喜びを見い出す。
 神を避け所とするとはどんな意味か。イザヤ25:4ではこう言っている。「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。」
 さらに思い巡らすなら、「避け所」という言葉には以下の意味が含まれるかもしれない。

 ①善悪の基準としての神
 神がいないなら人生の座標軸の原点はない。自分の都合で正義はいくらでも捻じ曲がる。神を認める心があるなら、自分の罪が分かり、何をすべきか分かる。罪を犯したときに神の前で悔い改めることもできる。神は、私たちにとって正義と聖さを教える避け所となる。

 ②帰る場所としての神
 人には帰る場所が必要だ。神は私たちを愛してやまない我らの父だ。神は心の実家だ。時として父との口論もあるかもしれないが、神に見守られている喜びに変わりはない。

 『ベートーヴェンの生涯』(ロマン・ロラン著)を読むと、偉大な作曲家の苦悩に出会う。耳が聞こえなくなり「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、一時は死をも覚悟するベートーヴェンだが、その遺書に「神よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる」との言葉がある。創造主を何度ものろったと書いた手紙もある。それでも後年の手記には、神が永遠、全能、全知であると記し、「おんみに一切の讃美と恭敬とが捧げられよ」とたたえている。

 ③守ってくださる神
 人は弱い。私もあなたも弱い。だから、人生では、緊急避難所が何度か必要になる。神に逃げ込もう。神は受け止めてくださる。守ってくださる。休ませてくださる。
 詩篇ではじめて「避け所」という言葉が登場するのが14篇だ。詩篇62篇7~8節には2回「避け所」が使われている。もうだめだ、という時は、神に飛び込もう。躊躇はいらない。神は両手を広げてあなたを受け止めてくれる。

 あなたの番です。
 □神を本気で求めよう
 □神を避け所としよう

詩篇13篇 いつまでですか 

 私たちの悩みはエンドレスなのか。

1、いつまで?        

 「主よ。いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(1節)

 ダビデは「いつまで」という言葉を4回も使っている。詩篇13篇のトーンはこの言葉が決めた。
「いつまでですか」と問うのは、どんな時だろう。それは、苦しみに耐えてきた時だ。これ以上は体力も気力は維持できないという限界状態で発する言葉がこれだ。

 1節から2節を見ると、孤独、思い悩み、悲哀、恥、不当な取り扱いに苦悩するダビデの姿が浮かび上がる。
 あなたも「いつまでですか」と神に訴えているところだろうか。

 神は人間が作った時計の奴隷ではない。これは、著名な説教者チャールズ・スウィンドルの言葉だ。私たちの時計と神の時計は進み方が異なる。



2、立ち向かう祈りへ       

 神への訴えはいつしか祈りに変わっていた。それが3節。これは光を求める祈りだ。目の輝きとは活力と理解することも可能だ。

 「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。
私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」(3節)

 あなたはいつも、やらされていると思っていないか。野球やフットボールでいえば、守備やディフェンスの姿勢だ。追われる、急がされる、せかされる。守りの姿勢では、「いつまでですか」と言うしか道はない。神がくださった人生だ。神が与えてくださる光によって、前向きに立ち向かおう。

 中国のジョージ・チェンは、福音を伝えただけで収容所に入れられた。人の排泄物に膝まで浸かって肥料を作る作業を言い渡された。彼は、18年間、それに耐えた。「悪臭で看守も近づかないので、一日中、祈ったり賛美できた。みじめに見えたが、実は幸せだった。」と語っている。

 人生の難題に真正面から取り組む勇気を与えるもの、それが信仰だ。




3、恵み(חֶסֶדヘセド)に拠り頼む 

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(5~6節)

 祈り始めることにより、ダビデの姿勢が劇的に変わった。ヘセドに信頼する人になった。
ヘセドとは、旧約聖書における中心概念の一つ。契約に基づく愛のこと。恵み、いつくしみなどと訳される。ヘセドは、裏切ることのない神の愛であり、恵みだ。神の恵みに賞味期限切れなど一切ない。

 突き詰めて言うと、私たちの悩みには終わりが来る。

 神の恵みには終わりはない。

 「いつまででですか」という訴えに対する神の回答はこの詩篇にない。その代わり、祈りによって、難問に立ち向かう姿勢が与えられたダビデが描かれ、また、自信を持って神の恵みに立っているダビデがいる。ダビデには今、歌がある。喜びがある。

 神の恵みという言葉を、「イエス・キリスト」と置き換えて読んでみよう。そのままピッタリと当てはまる。

さあ、あなたの番です。

 □ どんな時でも、神のタイムテーブルに信頼しよう。
 □ 「いつまでですか」と訴える姿勢から、
   立ち向かう力を求める祈りを身に着けよう。
 □ 神の恵みは決して変わることがない。

  →神は脱出の道を備えて下さる。第1コリント10:13

詩篇12篇 混じりけのない言葉

 私たちは、人間の言葉という海で漂流している。

 現代社会で生きることは、人間の言葉というオイルやヘドロに汚染された海で泳ぐようなもの。ダビデはその苦しさの中で神を呼び求めた。それが詩篇12篇。あなたも、人間の言葉で窒息しそうですか。


1、不純物だらけの人間の言葉

「主よ。お救いください。
聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。」
(1~2節)

 人間の言葉はつまるところ嘘とへつらいであり、その内面は二心で満ちている。不純物でいっぱいだ。周囲を見回すと信頼できる人がいない。アメリカ社会といっても表と裏が違う人はざらにいる。裏切る人はどこにでもいる。人間の言葉は信頼できない。ダビデも不純物だらけの人間の言葉に傷つけられた。
 
 嘘というのは、ヘブル語で空っぽという意味。「へつらいを」新共同訳は「なめらか」と訳している。二心は、原文では、心と心。

 嘘をつくときは目が泳いだり、口の周辺に手が行く。自分の姿を思い出してみよう。

 あなたも、ビジネスで誰かに裏切られたり、心変わりされたことがありますか。親戚、家族、知り合いに裏切られたことがありますか。ダビデは、誠実でない人々を処罰してくださいと訴えた。
 
 「主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
ことごとく断ち切ってくださいますように。」(3節)

 言葉で不誠実な人は、態度も傲慢だ。

 「彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」(4節)

 私たちの社会には、神とは別の価値観があって幅を利かせています。それで、嘘つき達が大手を振って歩いていられるのです。(8節)

 人間の言葉の中で漂流している我々は、二種類の言葉を本能的に求めている。
 一つは、ほっとできる言葉。もう一つは、正直な言葉。東京農工大の生協の名物店員白石さんの言葉は秀逸。味わい深い言葉で学生の質問に答えている。後者の代表例は、相田みつをの言葉だ。人間の弱さを正直に見つめて多くの共感を得ている。星野富弘さんの詩画も正直で、聖書的な希望が隠し味で入っている。
 ほっとできる言葉は、前向きな言葉と言い換えることもできる。正直な言葉は、キリスト教的に言えば、罪の悔い改めということも可能だ。人は、こういう言葉を求めて生きている。



2、混じりけのない神の言葉

 神の言葉は、三つの要素を持っている。

1)救う言葉(5節)

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」(5節)

 神の言葉は、ほっとできるし、正直で、感動を覚えるが、それだけではない。神の言葉は、私たちを実際に救うことができる。

2)真実の言葉(6節)

 ハワイみやげの定番といえばコナコーヒー。でもコナ原産のコーヒーが10%や20%程度でもコナコーヒーと呼ぶ。高いけど、買うなら100%のコナコーヒーがいい。

 「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)

 当時、銀は炉で溶かされ不純物を取り除いて処理された。7回という数字は完全数なので、100%純粋な銀という意味。神のことばは、純度100%。決して裏切らない。信頼に足る言葉だ。変わることがなく、変える必要がないほど完全。

3)支える言葉(7節)

 私たちが、ほっとする言葉や優しい言葉を求めるのは、前向きの言葉を求めている印といえる。神のことばは、私たちを励まし、支え、守る。

 「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」(7節)

 デンマークの哲学者キルケゴールは今から200年前に生まれた人だが、キリスト教的背景を持って人生を見つめた。彼によると、人間には3つの段階があるという。
   1)美的段階
   2)倫理的段階
   3)宗教的段階

 最初の段階で、人は欲望を追求するが、やがて行き詰まりを経験する。第二の段階では、道徳的な生活を志すが、やはり失望を見い出す。第三の段階は、死すべき自分の罪に気づき、自分自身を神にゆだねる。いわば信仰の飛躍が必要だという。

 私たちもダビデのように率直に祈ろう。「主よ。お救いください。」(1節)

 日曜の朝、行きつけのカフェでコーヒーを注文した人がいた。コーヒー代金は既に支払われていますと店員が告げた。店内を見てもそれらしい人物はいない。「さきほど、あるお客様が20人分のコーヒー代を払って行かれ、お客様は8人目に当たります。」と説明した。テーブルに着いた後、店内の見知らぬ人と目を会わせ、お互いに笑い合った。
 この話を知って、教会の姿に似ていると思った。命という代価を主イエスが先に払ってくださった。主イエスによる罪の救いを無代価で頂いた我々が今、教会で出会っている。目を合わせ、お互いに、感謝ですね、主イエスは素晴らしいですね、ともっと言い合ったらいい。

 あなたの番です→
  □否定的な言葉のプレイバックは止める
  □毎日、聖書を読む
  □示された聖書の言葉を握って、解決を信じる

 純粋な神の言葉に信頼して、困難な人生の荒海を乗り越えよう。

詩篇11篇 主に身を避ける 

 行き詰ったらどうするか。11篇はその答えです。

「主に私は身を避ける。」(1節)

 冒頭の一節がその詩篇の結論ということがしばしばありますが、11篇もそうです。主に身を避けるという言葉は、詩篇7、16、31、57、71篇にも使われています。これはきっぱりとした信仰告白です。この言葉が出てきた背景を考えてみましょう。


1、まずは逃げる

 ダビデは友人たちから1~3節のような忠告を受けました。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、
暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(1~3節)

 いつ殺されてもおかしくない状況だから、逃げたほうがいい。社会の道徳基盤が崩壊しているので、正しく生きようとしても何の役にも立たない。

 逃げる。切羽詰ったときに最も有効な手段は、逃げることです。自殺するより、自己破産したほうがいい。殺されるより、学校を辞めるほうがいい。あなたが行き詰ってしまったなら、逃げましょう。

 ダビデも実際のところ、サウル王に命を狙われた時や、息子アブシャロムのクーデターの時には、逃げました。
 多くの人は、問題から逃げるだけで終わっています。ダビデは逃げただけでなく、神に逃げ込みました。これが神に身を避けるということです。




2、みそなわす主 

 「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。
その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」(4節)

 口語訳聖書の4節には「みそなわす」という言葉が使われています。私が高校時代に通った教会に年配の男性がおられ、祈るとき必ずこの言葉が使ったことを懐かしく思い出します。みそなわすとは、<見る>の尊敬語です。神は見ておられます。
 
 ダビデの視点は、神に向けられていました。見ている方がおられる。たとえ、敵がいようとも、社会が堕落しようとも、神は見ていてくださる。逃げるとき、敵だけに注目してはいけません。復讐だけを考えてはいけません。逃げながら、神の視線を感じましょう。そこに、安らぎを見出しましょう。これも、神に身を避けることです。

 5~6節には、神が必ず正しい裁きを下してくださる事への信頼が語られています。これもまた、神に身を避けることです。

 ドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーはヒットラーの政策を批判したことで知られています。1939年、亡命のため渡米しましたが1ヶ月で帰国、6年後に銃殺されました。勇気ある人です。39歳で昇天。短い生涯でしたが、その生き方と文章が今も多くの人に感銘と勇気を与えています。彼も、主の視線を知っていた人に違いありません。



3、御顔を仰ぎ見る 

 私たち人間は、誰一人例外なく正義を求めていますが、自分の物差しに応じた正義に偏りやすいのです。ですから、混じりけの無い正義を持たれるただ一人の神を礼拝することが必須となります。祈りが、どうしても必要になります。

 「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイド(1865-1912)は27歳の時インドに向けて出発しました。現地での宣教に困難を覚え、病気に倒れ、やがて祈りの中に大きな慰めと力を感じるようになりました。長時間の祈り、徹夜の祈りで知られ、祈りの実として多くの人が救いに導かれました。
 ウィルバー・チャップマン博士は、この祈りの人ハイドと共に祈った経験がありました。扉を閉めた部屋でハイド師と彼は跪きました。5分間、ハイド師は何も言葉を発しませんでしたが、チャップマン師の目から涙があふれ出ました。今、神とともにいる、と気づいたと彼は述べています。

 主イエスは言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

 主に身を避けるとき、私たちは神の御顔を見るのです。その時、大きな慰めと力、安らぎがやってきます。

→あなたの番です
 □ 信頼できるクリスチャンに悩みを聞いてもらう
 □ 場合によっては、思い切って緊急避難をする
 □ 心を込めて主を礼拝する

詩篇10篇 主よ、立ち上がってください 

 不適切な質問は否定的な答えしか生み出さない。コミュニケーション・コンサルタントのドロシー・リーズが、そうした指摘をしています。
 「私は、なぜ不幸なんだろう」、「あなたは、なぜ、いつでもそういう態度なの」こうした種類の質問は、質問自体に問題があります。

1、見当はずれの質問

 「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」(1節)

 かつては神が自分のすぐ隣におられると感じた。でも今は距離がある。神がお隠れになったとしか思えない神の不在がある。そこで神に訴え出た。

 これは否定的な答えしか引き出さない不適切な質問なのです。


2、偏った視点

 「悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』」の一言に尽きる。(3~4節)

 神を近くに感じられない詩篇の作者は、悪者にばかりに目を向けました。3節から11節には、悪者の言動、習性、思考パターンなどをつぶさに描かれています。

 欲望の塊(3節)、低次元の宗教心(4節)、高慢な態度(6節)、毒舌(7節)、悪辣な習性(8~9節)、横柄な確信(11節)。

 通常、悪者にばかりに目を向けると良いことは一つもありません。否定的な気持ちがエスカレートするばかりです。

 あなたの身近に「悪者」がいますか。職場の同僚や上司、学校の教師や同級生、家庭の夫や妻、親や兄弟、あなたの周囲にいる人を悪者にすることは可能です。
悪者の欠点を101挙げなさいと言われたら、いとも簡単にできるでしょう。その際、自分の欠点が一つも言えないなら、あなたの視点は偏っており、あなたの考えはバランスが取れていません。



3、自分の歪みに気づく

 自分は清廉潔白で相手は限りなく悪人だという迷宮に入ると、そこから出てくることは不可能になります。
ですが、主のあわれみのゆえでしょうか、詩篇の作者は神への積極的な祈りに突然転じます。

 「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」(12節)

 なぜ、前向きになれたのでしょうか。鍵は11節かもしれません。

 「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)

 悪人の主張に目を留めたとき、自分の心の中で不協和音が響き始めました。どこかで聞いたフレーズです。神は忘れている。神は隠れている。神は見ていない。
これは、詩人の言葉と酷似しています。神に訴えた自分の言葉と本質的に同じです。

 そうです。これでは、信仰者である自分と悪人は同じになってしまいます。違う。違うはずだ。神は隠れてなんかおられない。神が見てないわけがない。神は今もここにおられる。それで、14節になると確信を持ってこう言いました。

 「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)

 詩篇の末尾では、神の守りと主権を心からたたえています。

 あなたの心をチェックしてみましょう。
 ・あなたの訴えは、適切ですか。
 ・「悪人」ばかりに視点を向けていませんか。

 神はあなたのそばにいるだけでなく、あなたを背負って歩いてくれます。あなたが母の胎内にいた時から(イザヤ46:3)、白髪頭になっても、神の姿勢は変わりません。

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)

 どんな時も、どんなあなたも、神は目をそらせず、あなたと共にいてくださいます。

詩篇9篇 主に感謝します 

 9篇は初めて登場する感謝の詩篇です。ヘブル語ではacrostic形式を取り、頭文字がヘブル語のアルファベットになっています。それが10篇まで続いているので、本来は一つの詩篇だったと思われます。

1、感謝は、探すもの         

「私は心を尽くして主に感謝します。
あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」
(1節)

 人間が不幸なのは、自分が本当は幸福であることを知らないからだ、とドストエフスキーは言いました。
 
 ダビデは苦しみの中にいました。3節によれば、敵と相対する緊迫した状況にあり、13節を見ると、悩みと死の危険にあることが分かります。それでも、第一声は感謝でした。

 旧約聖書において「奇しいわざ」とは、神の世界創造のわざ、あるいは出エジプトにおける救いのみわざを指します。あなたにとっての「奇しいわざ」とは何でしょう。
ダビデは、苦難に目を向けるのではなく、あえて神のみわざを注視しました。それが、感謝する秘訣なのです。日常生活の背後にある神のみわざを探すとき、感謝が生まれます。

 感謝する人になりましょう。感謝は積極人生のトレードマークです。感謝は、愛の宅急便を受領した後の<受け取り通知>です。感謝は、明日のドアを開く鍵です。


2、賛美は、存在を喜ぶこと           

 家内が日本に1週間帰っていた間、我が家の夕食は短時間で終わり、みんなの食欲が低下しました。料理の出来、不出来という問題はさておき、なんだか変だと感じました。家内が帰って来て謎が解けました。家族団らんの雰囲気を作っていたのは家内なのだと。温かさ、楽しさ、ゆとり、それらは家内がいたから成り立っていたものでした。エアポートに迎えに行ったとき、おもわず「帰って来てくれて、ありがとう。いつも一緒にいてくれて、ありがとう」と言いました。

「私は、あなたを喜び、誇ります。
いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。」
(2節)

 賛美は、神の存在自体を喜ぶことです。心を開いて、<あなたがいてくれることが嬉しいです>と神に伝えることが賛美です。

 神の誠実さ、神の愛、神の赦し、神の守りを思い返してみましょう。神は賛美を受けるにふさわしい方です。
11節には、「主にほめ歌を歌え」とあります。14節でも、「あなたのすべてのほまれを語り告げる」とあります。

 賛美していると、悩みは小さくなります。まるで縮小コピーするみたいに、みるみる小さくなります。賛美によって主が共におられる事を確信できるので、悩みに立ち向かう体勢ができるのです。


3、信頼は、感謝と賛美の轍(わだち)が導く           

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」
(10節)

 感謝と賛美は、信頼への轍を作ってくれます。御名を知る、つまり、神をもっと知ることができるならば神に拠り頼むことは容易になります。神に拠り頼むなら、明日への希望がわいてきます。

 9節で「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで」とあります。12節で「血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない」とあります。マイナスの状態でも、神に信頼するなら勇気が生まれるのです。
 
 さあ、あなたの番です。
 1)本当に感謝できる事を5項目探しましょう
 2)「あなたがいてくれてありがとうございます」と神に伝えよう
 3)苦しみにではなく、神に意識を向けましょう。

詩篇8篇 人とは何者なのでしょう 

 詩篇8篇は、星空を見上げたダビデの感嘆と賛美です。大自然を造られた偉大な神をご一緒にたたえましょう。

 哲学者カントが『実践理性批判』の中で、感嘆と畏敬の念で自分の心を満たすものが二つあると述べたことを思い出しました。それは、我が上なる星空と我が内なる道徳律、です。

1、星空を見上げて

「私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたはご威光を天に置かれました。」
(詩篇8:1)

 現代人に最も欠けているのは、神を畏れ敬う心でしょう。都市文化は傲慢を下敷きにして成立しています。街を出て、森林、山々、湖畔に足を踏み入れると、私たちは都会のよろいを脱ぎ捨てることができ、穏やかな心になれます。それはなぜでしょう。自然は、神のふところを思い出させてくれるからです。
 満点の星空を見上げる時、その素晴らしさのゆえに私たちは言葉を失います。人間という地平線をはるかに越えた偉大な創造主を想起せずにはいられません。
 ダビデは神の御名をたたえ、天に表わされた神の素晴らしさをたたえました。

「あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、」(詩篇8:3)

 詩篇8篇の中心思想は、同じ言葉が繰り返されていることから1節と9節であることが分かります。

「私たちの主、主よ。
あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」
(詩篇8:9)

 さあ、あなたの番です。家を出て、木々を見上げましょう、花々に目を向けましょう。星空をしばし見つめ、山の頂に残る雪を凝視しましょう。ダビデと同じ心で主をたたえましょう。



2、自分を見つめて

 ダビデは偉大な神の前で自分を振り返り、自分がちっぽけな存在であることを深く認識しました。ダビデの疑問はそこから発します。
 3節の「人」は原文でエノシュ、4節の「人」はアダムになっています。前者は弱さを持つ者、後者は土を意味します。弱く小さな者にさえ目を留める神に、ダビデは畏敬と喜びを同時に感じています。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」
(詩篇8:3~4)

 5~8節を見ると、神が人をご自身の形に造り(創世記1:27)、栄光を付与し、多くのものを「治め」(6節)るように命じたことが分かります。
 人とは弱い者、はかない者でありながら、神の期待に応えることができる存在だと分かります。
 
 あなたの番です。神があなたにゆだねて下さったものが必ずあるはずです。それを、きちんと治めましょう。誰かの役に立つ仕事、生き方を選び取りましょう。大いなる神の前で謙虚に、しかも、はつらつと愛と真実を実行しましょう。また、神が人に委ねられた自然を保護・育成しましょう。

 テキサス州ダラス郊外で3月7日、ブランディ・トッドさん(28歳)が公園で二人の子供を遊ばせているとき、背後から薬物中毒の男に刺される事件が起きました。背骨を損傷する深い傷で下半身不随となりました。ブランディさんは事件後、「これで終わりじゃないわ、私は生きてるし、両手も使える。幸せになるわ」と子供たちに伝えたといいます。夫も犯人をゆるすと発言しました。小さな町の人々は事件を悲しみ、4歳と8歳の子供の母、ブランディさんのためにできることを始めました。車椅子で動けるように家の改造工事を町の人々がボランティアで行い、地域の2つの教会は改造費用のかなりの額を負担しました。医師は、無保険だった女性の医療費を肩代わりしました。

 さあ、あなたの番です。大いなる神をたたえながら、あなたらしい応答をしましょう。あなたの命は、このために神から頂いたのかもしれません。

詩篇7篇  正しい審判者

 怒っていますか。この詩篇は、怒っているあなたのための詩篇です。

 アメリカに住み始めた人は、たいていカルチャーショックを経験します。日本で当たり前にできたことが、ここではうまくいかない。英語が下手なので、無視される。小さなフラストレーションが積み重なって、怒りが爆発してしまう。これは、誰もが通る道です。

 ダビデの怒りは、それとは違いました。表題にあるように、ベニヤミン人クシュに対して強い怒りを持っています。巨人ゴリアテに勝利するほどの勇士が、大勢の敵を向こうに回してもひるむことない戦士が、たった一人の男の挙動に悩まされています。この敵がサウル王だと言う人もいますが、推測の域を出ません。あなたにも、「ベニヤミン人クシュ」がいますか。


1、正しさを主張するダビデ

 「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら」(3、4節)

 ダビデは自分の正しさを主張しました。裏切ったこともなければ、陥れたこともない、自分のメンツにかけて、そんなことはしていない、と敵の悪口、批判に強く反発しました。

 「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。」(8節)

 ダビデは自分が正しいことを強調し、誠実に歩んで来たと述べました。それも神の前で言い切りました。ダビデは窮地に陥っていたのでしょう。敵の非難が身にしみたのでしょう。

一般的に言って、自分の正しさを頑固なまでに振りかざすときは、自分自身を落ち着いて省みることが必要かもしれません。


2、怒る神?

 ダビデは自分の怒りを神の姿に投影している、と私には思えるのです。

 「主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください。あなたはさばきを定められました。」(6節)
 「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(11節)

 ダビデによると、神は「日々、怒る神」です。けれども、ダビデは別な詩篇でこう言っています。「私は悩み、貧しいのです」「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵とまことに富んでおられる方。」(詩篇86篇1、15節)

 どちらのダビデと一緒にいたいですか。自分が誠実だと神に訴えているダビデと、自分が貧しいことを認め、神が怒るのに遅い方だと告白するダビデ。私は後者のダビデと一緒にいたいです。
家内は私に、「落ち込んでいる時のあなたが、ステキ」と言ってくれて、とても慰められています。

 あなたは、無実の罪で疑われたことがありますか。そんな時、この詩篇7篇に流れる強い言葉に共鳴することでしょう。


3、いと高き方

 怒りを神にぶつける祈り。自分の正しさを主張する祈り。敵に鉄槌を下してほしいと懇願する祈り。いずれも、悪いことではありません。霧が晴れて、遠景が見えてくるように、神の前での祈りは、2つのものをはっきりと見せてくれます。神がどんな方か。自分はどんな人間か。

 「その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」(17節)

 最後の節、この詩篇の結論で、神を「いと高き方」と呼びました。詩篇の中で、神を「いと高き方」と呼んだのは7篇がはじめてです。地上の様々な権力の上に神はいます。遠いのではなく、はるかに超越している事実を「高い」と表現しています。

 正義、メンツ、こだわり、勝ち負け、などからまったく離れた視点を持ちませんか。正しい審判者を、落ち着いた目で見上げることができたなら、敵が小さく見えます。敵が掘った落とし穴に、敵が落ち込むと確信できます。「彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。」(15節)勝った負けたと騒ぐじゃないよ、です。私たちの神は、高みからすべての地上の営みを曇りなく見ることができるのです。あなたが貫いている正義の辛さや無念さを神は理解してくださるのです。

 「義は天から見おろしています」(詩篇85:11)


 あなたは今日、不当な扱いを受けていますか。無実なのに訴えられましたか。卑劣な中傷を受けていますか。

→あなたの番です
1)あなたの怒りを、そのまま祈りにして、神に聞いていただこう
2)いと高き方を見上げよう
3)悪者はおのれの掘った穴に落ち込むと達観しよう

 今週、がっかりするようなことが起きたら、「いと高き方」を見上げよう。

詩篇6篇  涙の祈り 

 涙といっても色々な涙があります。無念の涙。抗議の涙。幸せの涙。温かい涙。今日の詩篇の涙は、どんな涙でしょう。
 
 詩人は、何らかの処罰を神から受けているように見えます。

「主よ。御怒りで私を責めないでください。
激しい憤りで私を懲らしめないでください。」(1節)

 神からの処罰に納得していますが、その厳しさに音を上げ、助けとあわれみを求めています。病気になっているかもしれません。(2~3節)神が遠くにいるように感じるほどです。(4節)一人で夜を迎えると、とめどなく涙が出ます。(6節)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、
夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。」(6節)

 涙でぐしゃぐしゃの状態ですが、最後の節では涙を拭いて立ち上がっています。

「私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。
彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。」(10節)

 いったい何が起きたのでしょう。回復の鍵は何だったのでしょう。


 ポイントは、8~9節にありました。

「不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。
主は私の泣く声を聞かれたのだ。
主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」(8~9節)

 私たちの涙には様々な不純物が含まれています。憎しみ、怒り、事故憐憫、自己弁護が私たちの涙に含まれるうちは、神に受け入れられる涙とは言えません。
 そんな時は、泣きましょう。もっと泣きましょう。主の前で泣きましょう。6節のように泣き続けましょう。そうするうちに、不純物が取り除かれていきます。
 自分は本当に汚れた存在だ、誰が悪いのでも、めぐり合わせが悪いのでもなく、私が悪い、と虚心になって気づくなら、あなたが流す涙は真珠のようにきれいになります。砕かれた心、不純物が取り除かれた涙は、神が喜んでくださる涙です。

 神は預言者イザヤを通してヒゼキヤ王に次のように言われましたが、これも純化された涙だったのでしょう。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」
(イザヤ38:5)

 駅に向かうバスの中でこんな事があったそうです。
冬の寒い日、一台のバスが病院前のバス停に止まりました。大勢の人がそこで乗り込み、車内は満員、室温は不快になるほど急上昇。そのせいで、赤ちゃんが大声で泣き出しました。車内は険悪な雰囲気になりました。次のバス停で何人かが降りましたが、赤ちゃんを抱えた若いお母さんが「降ります」と声を上げて、料金を払おうとしました。
 「ここが目的地ですか」と運転手が尋ねると、「いいえ、でも赤ちゃんが泣くので、降りて駅まで歩きます」と答えました。運転手は、マイクのスイッチを入れ、「このお母さんは、迷惑になるので歩いて駅まで行くと言っていますが、赤ちゃんの仕事は泣くことです、どうでしょう、このまましばらく皆さんとご一緒できませんか」と乗客に語りかけました。数秒の沈黙後、一人が拍手、その後全員が拍手して賛同しました。
 
 あなたは今、泣いている赤ちゃん自身かもしれません。あるいは、赤ちゃんを抱え心で泣いていたお母さんかもしれません。神は、あなたが乗るバスの最良の運転手で、あなたの涙を見ていてくださいます。あなたの涙から、憎しみや自己憐憫、怒り、自己弁護が消え去ったとき、あなたの肩に手を乗せて、こう言ってくださるのです。「ここで人生を途中下車してはいけない、目的地まで行こう。私は、あなたの涙を知っている。あなたの涙は尊いものだ。」

 さあ、あなたの番です。泣きましょう。神の前で泣きましょう。自分の本当の心が見えるまで涙しましょう。あなたは、涙の向こうにおられる神をきっと見い出すことでしょう。

 「主は私の泣く声を聞かれたのだ。」

詩篇5篇  朝明けの祈り

朝の祈り、それが詩篇5篇です。

朝、それはあなたの生き方を映し出す鏡です。
絶望という毛布をベッドから引きずって起き上がる人がいます。
起きぬけの音楽として、恨みや憎しみの再生ボタンを押す人もいます。
否定的で消極的な気分を朝食にする人もいます。

それでは、人生変わりません。


1、朝の祈り

私の言うことを耳に入れてください。
主よ。私のうめきを聞き取ってください。
私の叫びの声を心に留めてください。
私の王、私の神。私はあなたに祈っています。
主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。
(詩篇5:1~3)

この祈りは、真剣で、悲痛な叫びです。
朝、心を注ぎだして祈っています。

朝の祈り、それは、あなたの人生を変える力です。
朝の祈り、それは、あなたを変える秘訣です。
朝の祈り、それは、今日に備える心構えを与えてくれます。
朝の祈り、それ自体が、解決に踏み出す一歩です。

朝の新鮮な空気の中で最初に神と語り、一番大切なことを神に教えていただいき、一番伝えたい願いを神に祈りましょう。


2、神が見えてくる祈り


あなたは悪を喜ぶ神ではなく、
わざわいは、あなたとともに住まないからです。
誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。
あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。
主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。
しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、
あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。
(詩篇5:4~7)

朝、神に祈ると、心の朝霧が晴れてくる。
神が正しいお方であることが確認できる。
神は、悪と同居できる方ではない。悪者は神とは相容れない。
自分が神とどんな関係にいるかも見えてくる。
神の<ヘセド>によって、礼拝者として神に近づくことができていることに気づく。
ヘセドとはヘブル語で、旧約聖書の中心概念の一つ。愛とか恵みと訳される言葉だ。新改訳で「恵みによて、あなたの家に行き」と書かれているのがヘセドだ。


3、敵が見えてくる祈り

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。
彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。
神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。
(詩篇5:8~10)

この部分で「助けてほしい」と神に願っている。
敵がどんなに陰険な人々かが分かる。言葉でダメージを人に与える者たちだ。パウロはローマ3:13でこの箇所を引用し、罪人の代名詞としている。
詩篇には、敵に対しての基本姿勢があるようだ。それは、攻めの姿勢ではなく、守りの姿勢。つまり、敵が掘った穴に敵が落ちるのを見るという姿勢だ。自分の義を掲げ、敵に攻めかかるとき、自分自身が罪を犯したり、加害者になることもある。「彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。」という姿勢は、敵を冷静に見させてくれる。神の解決を落ち着いて信じることができる。


4、周囲が見えてくる祈り

こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、
とこしえまでも喜び歌いますように。
あなたが彼らをかばってくださり、
御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、
大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。
(詩篇5:11~12)

朝の祈りで心を注ぎだすと、自分だけでなく周囲に目が向かう。これは実に不思議なことだ。自分が苦しいはずなのに、回りの人のため祈るようになる。

『夫を支える30の祈り』という本がある。音楽家の夫と結婚し、苦しみの中で祈りの秘訣を学んだクリスチャン女性、ストーミー・オマーティアンが書いた良書だ。
妻がその本を持っているのを私は知っていた。昨日、ちらっとページをめくってみた。そこには、たくさん線が引いてあった。<妻は私のために祈ってくれた>という事実に改めて気づいた。ありがとう。こんなにも真剣に祈ってくれて。

祈りは、夫や妻、あるいは子供をコントロールする道具ではない。自分自身が神の手によって練り直される大切なプロセスだ。祈りこそ、自分自身が変えられる道だ。私たちの今日を変革し、私たちの将来を築くのが祈りだ。

あなたの朝を、真摯な祈りの時に変えてみよう。
明日の朝から、祈りの人となろう。

そのとき、あなたが神の盾に守られていることに心底気づくだろう。

詩篇4篇 私が呼ぶとき

夜の祈りと呼ばれる4篇を見ていこう。夜の祈りとみなされる理由は、床の上で自分の心に語る箇所(4節)と身を横たえ眠る(8節)という部分に由来する。

1、呼べば答える神      

3篇と同じくこの4篇も苦難の中での祈りだ。根底に流れる思想は信頼。苦しくても、神への信頼に陰りはない。まことの神は、私たちが呼ぶとき明確に答えてくださる神だ。

私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。(詩篇4:1)

苦しみのときにゆとりを与えてくださったと過去形で訳すのは口語訳、新改訳。ゆとりを与えてくださいと訳すのは新共同訳と英語聖書NIV。誤訳ではない。前者は直訳。後者は聖書ヘブル語文法に基づき<願い>を<完了形>で書き表す「祈願的完了形」であるとの認識。

第1ヨハネの手紙にはこの事と関連して興味深い聖句がある。祈りがきかれたと先取りする信仰姿勢を推奨している。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(第1ヨハネ5:14)

詩篇4篇の作者は、過去の試練において神からゆとりを頂いた経験があるのだろう。困難に出会った今、ゆとりを神に願っている。

4篇のような落ち着いた祈りができること自体が、既に<ゆとり>をもらっている印。


2、自分の心との対話

詩篇2篇と似た構造が2節にある。人々の一部が神から離れ、むなしいもの、まやかしを求めている姿をまず描き、3~5節で問題への対処方法を述べている。


恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。(詩篇4:4)

夜の闇は神からの贈り物だ。明るい昼間、人間の目は自分の外にだけ向く。夜の闇が私たちを覆うと、目は自分の内面に注がれる。心を静めよう。自分の心と向き合おう。そのとき、自分の本当の姿が見えてくる。これなしには、本当の幸せをつかむことができない。

3、あなただけが!

7節は、物質的喜びを超えた真の喜びに言及している。

あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。(詩篇4:7)

私たちも神の恵みに目を留めよう。神がくださる喜びは物質的な喜びと次元が異なる。神からの喜びは以下の4つにまとめることができると私は考えている。

1)愛されている そのままのあなたが愛されている
2)罪赦されている どんな罪も赦された
3)主がともにおられる 一人ではない、神と共に歩むことは幸いだ
4)主に期待されている 自分が必要とされている、為すべき事がある

これらの恵みを夜、振り返るなら、大きな感謝に包まれ、熟睡することができる。

ところで、超豪華ホテルの理念には素晴らしい姿勢が掲げえられています。お客様がベッドで休むひとときを大切に考えていると公言するホテルもあります。ベッドに入り一日を振り返り、「このホテルに来て良かった」とお客さまに満足してもらうため、心温まる思い出作りのためにホテル従業員は働いているといいます。

神は、私たちが試練の中や苦難の中でも落ち着いて眠れるようにとすべてを整えておられます。あなたの安眠は神の贈り物です。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、
私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4:8)

神に、心から「ありがとう」と言って今晩眠りにつきましょう。
本当の幸せは、主だけから来るのです。


→あなたの番です

1)自分の心を静かに見つめ、感謝と悔い改めをしよう
2)真の幸せは、神からだけ来るのです。そのことを心に刻みましょう
3)主が、あなたの願いにすでにかなえられたと先取りしよう

詩篇3篇 信頼して眠る

 元気ないですか。誰のサポートも得られないと感じますか。
それなら、詩篇3篇はあなたのものです。

1、根底に流れる落ち着き

 ダビデはすべてを失いました。
詩篇3篇の表題によれば、この詩篇がダビデの人生のどん底で作られたことが分かります。第2サムエル15章~17章を見ると、ダビデ王は息子アブシャロムのクーデターにより王宮を追われました。
 詩篇3篇の根底に流れる通奏低音は、落ち着きです。



2、今日の詩篇のキーワード

 第3篇のキーワードは、「盾」と「眠る」です。

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(5~6節)

 ダビデにとって、ホームレスに落ちぶれるほどの厳しい試練となりましたが、まるで他人事のように敵が増えてきたことに驚いています。(1~2篇)
 都を出るときにシムイに石を投げら悪口を浴びせかけられましたが、それはダビデの心に重くのしかかりました。それが2節に影響しているのでしょう。

 ダビデは最悪のコンディションの中で、神に目を上げます。神が盾であると告白しました。盾とは何でしょう。いうまでもなく、防御の武具です。鋭利な槍の先を受け止め、鋭い剣をとどめるのが盾の役割です。盾は傷だらけになりながら、主人を守るのです。
 誰かが窮地に陥ったとき、他の誰かが援助したり弁護するなら、その人も非難の矢面に立たされます。それは、盾になってくれたことになります。神は、私たちの盾です。体を張って、命をかけて、私たちを守ってくれます。

 ダビデは、敵に追われ野宿するような生活になりました。それでも、眠れたことを感動しています。感謝しています。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の生活」なのです。神は、ダビデに普通の眠りを与えてくださる方です。

 7節以降では、ダビデは神に立ち上がってくださるように願いました。詩篇3篇全体には、神への非難や不平はありません。救いが神にあることをダビデははっきりと知っていました。


3、落ち着きを自分のものにする

 ダビデの信仰の秘訣とは何でしょう。どうしたら、私たちも同じ姿勢を持てるのでしょうか。それは、朝の聖書、祈り、思い巡らすこと、だと思います。

 →あなたの番です

1)あなたに与えられている「普通」を発見しよう
  目を開いて、あなたの普通が普通でないことに気づきましょう。
  
2)あなたの周囲の「盾」に気づく
  聖書を読み、目を閉じ、思い巡らし、祈りましょう。

3)神こそがあなたの究極の盾
  誰も頼りにならない最悪の時、神は盾としてあなたの周囲を覆ってくださいます。

 ペテロは死刑を前にして眠り込むことができました。(使徒12:6~7)あなも静かな心で眠れますよ。

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

詩篇2篇 国々は騒ぎ立つ

 詩篇2篇は、1篇に比べると難解だ。誰が、何のために、誰について語った詩篇なのか?その謎を解いていこう。

1、王の即位の詩

 謎解きの第一は、誰が書いたか。それは分からない。

 謎解きの第二は、書かれた目的が何かだ。王の即位式に用いられた詩篇だろうと言われている。内容を確認すれば、すぐに分かる。

 1~3節:近隣の王たちが、イスラエルの新王に対決姿勢を示す。
 4~6節:神は、王たちの態度を笑い、イスラエルに王を立てたと宣言する。
 7~9節:神から受けた信任を、王が表明する。
 10~12節:御子に忠誠を誓うようにとの呼びかけ。

 2篇の中心人物は、「油注がれた者」(2節)だが、6節で「王」と呼ばれ、7節では「わたしの子」、2節では「御子」と呼ばれている。

 第2サムエル5:17以下には、エルサレムで即位したダビデ王にペリシテ人が戦いを挑んだ史実が書かれている。詩篇2篇の内容によく似ているが、ダビデがその「油注がれた者」かというと違う。2篇が語る王は、神から完全な信任を受けた特別の存在で、ダビデと言い切ることは困難だ。

 神はダビデに以下のように約束された。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(第2サムエル7:12~14)

 「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」この約束は、詩篇2篇の内容とぴたりと適合する。

 「あなたはわたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ」(詩篇2篇7節)

 そうすると、ダビデの子孫から生まれた王が、詩篇2篇の想定する王だということができる。多くの聖書学者たちは、主イエス・キリストを指し示す詩篇だという。


2、新約聖書に引用される詩篇

 新約聖書に直接引用された詩篇は104箇所、間接引用も含めると400箇所にのぼると言われている。その多くが、主イエスの受難、死、復活、栄光を預言している。

 復活後の主イエスは弟子たちに現れて、詩篇が主イエスについて証言しているとご自身の口で言われた。
 「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44)

 詩篇2篇を直接、間接に引用している新約聖書の主な箇所をあげると、以下のようになる。マルコ1:11、使徒13:33、ローマ1:4、ピリピ2:10~11、ヘブル1:5、ヨハネ黙示録2:27

 詩篇2篇は、やがて来られる救い主であり、王である、主イエスを、あらかじめ指し示した詩篇であると理解できる。


3、王なる御子に栄光をささげよう

 詩篇2篇10~12節で勧められているのは、悟れ、慎め、主に仕え喜び、御子に口づけせよ、という内容になっている。

 神と御子が文章の流れではほぼ同格に扱われており、旧約聖書における三位一体に関する言及の一つとなっている。

 詩篇1篇は、詩篇150篇全体の序論であり結論だと前回言及したが、2篇は<序論その2>という位置づけになる。それは、2篇の最後「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」(7節)が、詩篇1篇冒頭の「幸いなことよ」と呼応することが根拠になる。

 詩篇2篇を大胆に要約すればこうなる。神の御子、イエス・キリストを王として栄光をささげよ。

 一人の男性がいた。56歳。生涯で最も暗い日々を送っていた。脳卒中で半身が不自由になり、リュウマチの苦痛とも戦っていた。そんな彼が作曲の依頼を受けた。歌詞は聖書、それもイエス・キリストこそまことの救い主、王の王という内容だった。24日間かかって一気に書き上げた作品は「メサイヤ」として広く知られるようになった。この男性が作曲家のヘンデルだった。
 私はこう想像している。ヘンデルは、自分の部屋で一人きりのとき、主イエスを王としてたたえていたのだと。

 礼拝とは、神が良きものを下さったがゆえにささげるものではないと私は思う。もちろん主への感謝は礼拝の大切な一部だ。けれども、主イエスが王の王である、ただそのことにゆえ礼拝に値すると私は信じている。

 本当の幸せは、御子イエスを信じて、共に歩くことである。あなたも、主イエスをあなたの王として心の中心にお迎えしよう。

→あなたの番です 
□神の御子イエスを礼拝において心からたたえよう
□あなた一人の場所で、主イエスを王としてあがめよう
□王に仕える者として、誇りを持って今週も生きよう

詩篇1篇 主の教えを喜びとし

 今日から詩篇を順番に見ていきましょう。

1、詩篇とは何か

 詩篇とは何でしょう。ひとことで言えば、人間の魂の叫びです。それは、人の本音であり、神への祈りです。

 聖書全体は神から人に下された啓示であり、いわば下に向けられたメッセージです。詩篇はその逆に、人から神への上向きの方向性を持っています。それで詩篇には、賛美、祈り、涙、ため息、疑い、のろい、訴えさえも含まれているのです。

 詩篇1篇は、詩篇全体の序論であり、同時に結論です。


2、悪者とは何か

 詩篇1篇は、人の生き方を白と黒とにあえて簡略化しています。あなたは、正しい人として生きるか、悪者として人生を終えるか、詩篇の読者に二者択一を迫る目的です。

 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(1節)

 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。(4節)

 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(6節)

 神との関係を絶ち、自分中心に生きる人を、詩篇1篇では「悪者」と呼んでいるようです。正しい者とは、神と共に歩く人を指すのでしょう。

 神からの愛、神からの励ましを受けることなく、神と共に歩くことがない人は、悪者のはかりごとに近寄ってしまいます。やがて、罪人の道に入ることが習慣になり、あざける者の座に落ち着いて動きがとれなくなることは理解できます。
 悪者の本質は、むなしく、籾殻のように空っぽで、最後には滅びが待っていると聖書は語ります。



3、幸せとは何か

 本当の幸せとは何でしょう。それは、神と共に生きることです。これが、詩篇1篇の言いたいことであり、詩篇全体の中心主題です。

 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3節)

 神と共に生きる人は、水路のそばに植えられた木のようだと描写されています。イメージが残るほど鮮やかな描写です。

 嬉しいときは、歌いだします。
 悲しいときは、泣きます。
 切ないときは、うめき、助けを求めます。
 混乱したときは、抗議します。

 どんなに苦しくつらくても、神と共にあるなら、乗り越えられます。

 神と共にいる秘訣は、神の言葉を愛し、神の言葉を思い巡らし、神の言葉を口ずさむことです。

 朝に読んだ聖書の言葉を、まるで弁当を持って出かけるようにして心に蓄えて持っていきましょう。日曜の礼拝で読まれた聖句は、レストランでもらうボックスに入れるようにして、持ち帰りましょう。

→あなたの番です
 □礼拝の聖句を持ち帰ろう
 □朝読んだ聖書を「お弁当」にして持って出よう
 □神の言葉を思い巡らそう
 □いつでも、どこでも神に語りかけよう

 あなたも、しあわせをつかんでください。

ギデオンの剣 士師記7:9~25

 ギデオンのシリーズ最終回となります。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし

 ご存知のように、平家物語の冒頭部分です。源義経が「一の谷の合戦」でひよどり越えをする場面は、ギデオンの戦いを彷彿させます。どちらも奇襲作戦で大軍勢を打ち破りました。

1、さあ、攻め下れ

 その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。(9節)
 
 主は、優しさと配慮のある方です。心配なら偵察してきなさいとギデオンに言われました。彼は密かにミデヤン兵の世間話に聞き耳を立てました。大麦のパンが下ってきて、陣営が破壊される夢を見たと一人の敵兵が語り、聞き手は、それはギデオンに違いないと話していました。
 ギデオンはその場で礼拝しました。勝利の確証を得て、また、敵陣の偵察も同時に終えて自陣に帰還、兵士らに作戦をさずけました。

 神は、あなたに、今だ、と語られるときがあります。はっきりとそれが分かったのなら、躊躇せずに攻めくだるべきです。あなたの手に渡したと主は言われるのです。


2、私を見よ

 大麦のパンは小麦のパンに劣り、いわば貧乏人の食べ物として知られていました。ギデオンはミデヤン兵の夢を聞いて痛快な気持ちになったでしょう。くらえ!貧乏人の食物を、弱虫の勇気を、といったところです。

 それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。(17節)

 あの臆病なギデオンが、私を見なさい、私のやるとおりにせよ、と命令をしています。神は、弱い者を選び、育て、用いてくださる方です。

 あなたが現代のギデオンです。


3、主の剣だ

 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
(20~21節)

 ギデオンの古戦場を実際に訪ねた人に聞くと、丘のような山に囲まれた場所だということでした。
 ギデオンは、秘策を授けました。たいまつを壷で隠し、敵陣の上方に待機させました。ギデオンの合図で、300人が壷を割ります。すると周辺一帯が大音響に包まれます。寝入っていた敵軍は大慌てで起き上がり、たいまつの明かりが周囲の山を取り囲んでいることに気づきます。「主の剣、ギデオンの剣」とイスラエル兵が大声で叫び、左手にたいまつを掲げながら、右手の角笛を高らかに吹き鳴らします。
 集結したはずのイスラエル軍が突然消息を絶ったので、ミデヤン軍は疑心暗鬼になっていたので、奇襲攻撃を受けると同士討ちを始めるほどの混乱をきたしました。ミデヤン軍は一枚岩ではなく、寄り合い所帯の同盟軍であったので、見方がイスラエルに寝返ったと思い込んだのかもしれません。
 22節によれば、ギデオンの兵士は角笛を吹き続けました。本来は通信係である角笛担当者の背後に何千、何万というイスラエル兵がいると考えたのは無理もないことです。同士討ちによりかなりの数の兵士が戦死したと思われます。
 ギデオンは、一旦返した兵士らを呼び寄せ、ミデヤン人討伐を慣行しました。勝利です。主の勝利です。人間の力によらない主の栄光です。


→あなたの番です
 
□ミデヤン人とは、今のあなたにとって何ですか
□あなたにとっての角笛とたいまつとは何ですか

 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
(出エジプト記14:13)

精鋭300人 士師記7:1~8

 ギデオンの声に応答して、3万2千人が集まった。ところが、イスラエルの兵が多すぎると主は言われた。

 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。(士師記7:2)

 敵のミデヤン人らは、8章10節によると13万5千人。普通に考えるなら、イスラエルの兵が多すぎることはない。主が望んでおられるのは、人間の力と勇気の総和による勝利ではなく、人知を超えた神の栄光だった。

 そこで、ギデオンは主の指示に従い、二段階に分けて兵隊を厳選した。

1、勇気ある者

 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。(3節)

 敵が圧倒的に多数であると知るなら、悲観的な者は弱音をはき、志気をくじくだろう。否定的な態度は一気に伝染する。主が取られた方法は、勇気ある者のみを残す方法だった。

 ところで、あなたは勇気があるだろうか。

 勇気は、ある種の訓練によって鍛えることは可能だ。本番前に入念にリハーサルを繰り返せば、舞台では冷静になれるように。
 ただし、人間の深い恐れに対しては訓練はあまり意味をなさない。恐れの原因は以下の3つが考えられ、それのいずれもが、底なしの恐れに人間を引きずりこむ力を持っている。

1)将来が見えない
2)自分の名誉が失われる
3)自分の命を失う

 神の約束、神が共にいてくださることが、恐れを乗り越える本質的な力となる。

 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。(イザヤ41:13)

 明日が見えなくても、確かな方が手を握って誘導してくださる。

 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)

 人間の名誉がなんぼのもんじゃ。すべての人間は100%死ぬ。イエスさまは、器の大きな方だ。このお方に励まされて、恐れに立ち向かおう。



2、備えのある者

 残った兵士は最初の3分の1、1万人になったところで、主から指示があった。ハロデの泉の水を兵士に飲ませ、その態度で判定を下すようにという指示だ(4~7節)

 犬のように両手をついて水を飲んだ者は失格となった。敵が近くにいるにも関わらず、あまりにも無防備だ。片手で水を飲み、周囲に目を光らせていた兵士を残した。その数、わずか300人となった。勇気と判断力のある兵士だけが残った。

 備えある兵士。我々もその一人になれる。聖書と祈りの中で、状況判断ができる。また、自分が何のためにここにいるのか分かっているなら、自分の普段の態度に緊張感が生まれる。「こんなことは、していられない」という使命感が育つ。パウロが言うように、キリストの兵士としての自覚が大切だ。

 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。(第2テモテ2:3~4)


 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。(8節)

 残った兵士は最初の1%にすぎなかった。300人。この人数で大軍に当たることになる。

 あなたの前に立ちはだかる大軍とは何だろう。経済的な問題。子供の問題。親の介護。仕事での悩み。人間関係のもつれ。自分の病気や死の迫り。心の健康状態の悪化。逃げていれば、ふたをしておけば、と目をそむけて来た問題。

 クリスチャンにとっては、多くの人が神を知らないという現状も立ちはだかる大軍のように見える。

 主が共におられるなら、立ち向かえる。去るのではなく、共に戦おう。

 ジョージア州のシャーウッド・バプテスト教会の牧師の一人が、統計結果を見て唖然とした。今日のアメリカ人に最も大きな影響を与えるのは聖書でも教会でもなく、映画という統計結果だった。
 祈りの中で、ビジョンが与えられた。まるで、ギデオンが300人の兵士で大軍に当たるように、<それなら、映画で福音を伝えよう>と立ち上がり、教会もそれに賛同、教会員が俳優となり、教会員が撮影ボランティアとなり映画作りを支え、一般劇場で上映するまでとなった。それが、Facing the Giantsというスポーツ映画で、低予算ながら大きな反響を呼び成功した。2008年にはFireproofという消防士の物語を映画を世に送り、興行成績上位の大ヒットになった。内容は、壊れた夫婦の再構築で、主イエスの十字架の福音が鮮やかに語られている。

 さあ、あなたの番です。
□あなたの恐れは何ですか。
□主によって、恐れを乗り越えよう
□あなたの弱さや小ささの中に、神の栄光が表れることを信じ祈ろう


 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

導きを求めて 士師記6:33~40

 士師記は、神が不完全な者を用いる物語だ。今回は、不完全な者を大きな器に広げる神のみわざについて見ていこう。

1、逆風が勇者を作る

 33節によれば、ミデヤン人は他の東方民族と同盟を結び、ヨルダン川をすでに越えてイズレエルの谷に終結していたことがわかる。すでに、イスラエル人の喉もとに短刀を突きつけたも同じだ。これは大きな問題だ。逆風だ。まさにその時、主の霊がギデオンに下った。

 「主の霊がギデオンをおおった」(34節)

 真の勇者とは、逆風を推進力に変える者だ。まるでヨットのように逆風を前に進む力に変えることができる。

 あなたにとっての逆風とは何だろう。避けられない問題。すでに起きてしまったアクシデント、必ずやってくる嫌な事。それが、あなたを強くする。

士師記に登場するリーダーたち、オテニエル、エフタ、サムソンにも主の霊が力強く下っている。(士師記3:10、11:29、15:14)

主の霊におおわれた人は何かが違う。神の力があふれ出る。神からの知恵が与えられ、見事な判断を下す。器が大きくなる。輝きが出てくる。

 これは、共にいる(6:16)との主の約束が成就したといってもいい。

 あなたも、祈ろう。主の霊があなたをおおってくれるように。逆風の時こそ、神の力はあなたに現れる。


2、一人では何もできない

 ギデオンが次にしたことは、仲間を集めることだった。

 「彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。」(34節)

 親戚ともいえるアビエゼル人を角笛をならして召集した。偶像を破壊するというギデオンの勇気と姿勢はすでにこれらの人々に伝わり、尊敬を集めていたことだろう。ギデオンはアビエゼルの仲間にこれからすることを告げたはずだ。敵は大群だ、人数がいる。自分たちが所属するマナセ族への使者となってくれと頼んだはずだ。
 マナセ族が集まると天使がギデオンに現れた次第を語ったことだろう。北部にいた3部族、つまり、アシェル、ゼブルン、ナフタリ族にも声をかけることにした。最終的には、約3万人がギデオンのところに集合した。
 ギデオンは、これから何をするのかを明確に語った。。リーダーのすべきことは、目標をはっきりさせることだ。その目当てが、誰にとっても納得でき、かつ、心ときめくものなら、人々は自分の力をささげたいと思う。

 私たちは、一人では何もできない。誰かの助けが必要だ。あなたも、身近な人に声をかけよう。助けてほしい、祈ってほしいと、仲間を集めてほしいと声をかけよう。

 私たちも、主のために力を合わせよう。本当の幸せは主イエスを信じるところから生まれる。福音を伝えよう。神の愛を伝えよう。


3、寄り添う神

 ギデオンは主の霊におおわれていても、弱さを持っていた。3万人がそろっても、リーダーだけが経験する恐れや不安のため弱気になっていた。それで、神に再度、再々度、確認を求めた。
 最初は、羊の毛にだけ露が降りるように願った。次の日は、その逆に、羊の毛だけに露が降りないように願い、聞き届けられた。

  「ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。」(38節)

 神は、ギデオンを叱ったり、罰したりしなかった。むしろ、リーダーとしての孤独に悩むギデオンに寄り添ってくださるった。

→あなたの番です
□あなたの逆風とは何か
□私をおおって下さいと祈ろう
□他の人に伝えたい<幻>は何か
□力を貸して下さいと頼もう
□あなたは、ひとりじゃない

最初の使命  士師記6:25~32

 神は、不完全な者を育てながら、用いる方である。ギデオンの物語を読んでいて強くそう感じる。

1、小さく、すぐに、足元から 

 ギデオンは主に自分を用いていただこうと心に決めた。その夜、主が最初の指名を彼に与えた。

 その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。(士師記6:25)

 主は、規模で言えば小さいことをギデオンに命じられた。時間の流れで言えば、その夜すぐに命じられた。父親の偶像を壊す命令という視点でいえば、足元の問題から始めるようにという指示だった。

 主に用いられたいなら、小さく、すぐに、身近な事から始めよう。それが、弾みをつける。


2、70点の勇気でも

 ギデオンの勇気は100点とはいえなかった。昼間、大胆に父の偶像を壊すということはできなかった。夜、こっそりと、反響を恐れながら実行した。70点程度だが、最初はそれでいい。

 そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。(27節)

 かっこ悪くてもやってみよう。不完全ながらも実行しよう。祈り、決意し、勇気を振り絞り、体を動かしてみよう。


3、計算を超えた何かが起きる

 周囲の人々は像が壊され、祭壇が破壊されたのを見て腹を立てた。犯人探しをしてギデオンだと分かったので、彼の父親に処罰を迫った。殺せというのだ。

 すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」(31節)

 ギデオンの父親は、ギデオンの想像を超えた動きをした。ギデオンの肩を持ったのである。もし、バアルが神なら自分で身を守れというのだ。それを聞いた民衆は、突然のように納得し、ギデオンの行為は蛮行ではなく、適切な行動であり自分たちの目を開いてくれた英雄としてあだ名までギデオンに付けてしまった。ありえないことが起きた。

 神に従う人は、計算を超えた偉大なことを起こす。神が介入してくださるので素晴らしいことが起きる。


→あなたの番です
□神が、あなたに与えた使命とは何ですか
□あなたの最初の一歩はどんな事ですか
□主のみわざが現れることを信じましょう

勇士よ 士師記6:11~24

 今日からシリーズでギデオンについて学びます。今年のテーマ「用いてください」をギデオンの成長の記録を通して掘り下げたいと願っています。

 指導者不在の時代、それが士師記の背景です。モーセが天に召され、後継者ヨシュアも死んだ後、イスラエルの民は約束の地に到着しながらも神を離れ、自分勝手に生きるようになりました。その結果、社会は乱れ、外敵の侵入を招きました。人々がやっと神を真剣に求めるようになると、神は指導者(士師)を用いて助けられました。士師記全体を読むと、不完全なリーダーすら用いられる神の姿が浮かび上がってきます。
 ミデヤン人は、らくだで移動する遊牧の民で、イスラエル人は彼らに7年間も悩まされました。(士師記6:1)大切な穀物を奪われ、町は荒れ果てました。


1、Mighty Warrior  <神の視点>

 そんなとき、主の使いがギデオンに現れ、こう言いました。

 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(12節)

 「勇士」(Mighty Warrior)と呼ばれてもギデオンは何の反応も示しません。むしろ憤りを伴う否定的な返答をしました。神がいるなら、なぜこんな事が起きた。かつての神の奇跡はどこにいった。神に見捨てられたも同然だ。(13節)

 ギデオンは、悲観的で懐疑的でした。しかし、神は、現在のギデオンの中に、未来の勇者の姿を見ておられました。ここに神の視点があります。
 我々はともすると人の目を気にしがちですが、神の目にもっと注目しましょう。

 主イエスが、頼りないシモンにペテロ(岩という意味)という名を与えたことをみると、神というお方は人を全く違う視点で見ていることが分かります。

 神は、今日、あなたをどんな名で呼んでくださるのでしょう。


2、You  <動き出せ>

 神はギデオンの「なぜ」という質問にどう答えたでしょうか。御使いの答えは神の答えと考えることができます。

 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(14節)

 神はギデオンの質問を完全に無視しているのでしょうか。いいえ、神はギデオンの質問に正面から答えておられるのです。答えは、YOUです。あなたの疑問、悲嘆、絶望に対する答えは、<あなた>だ。ミデヤンから人々を救うのは、あなただ。

 ダイアナ妃は1991年、AIDSの病院を訪ねました。弱りきった男性患者のそばに来たダイアナ妃は、患者のベッドに腰掛ました。その時、自分自身にこう言ったそうです。Diana, do it, just do it. ダイアナ妃は心を込めて、その患者を抱きしめました。男性は泣いたそうです。この瞬間が、彼女を次のステップへと引き上げました。

 神は、あなたに言われます。問題解決の鍵はあなたが握っている。あなたがしなさい。

 神は、不完全で欠けの多い者すら用いることができるのです。


3、I will be with you. <主はこれからも共にいる>

 主は、ギデオンをサポートするために、こう約束されました。

 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。」(16節)

 さあ、動き出そう。長い列車の先頭の機関車があなただ。神は、その列車の最後部に強力な機関車を連結し、こう言われる、「さあ出発しよう。わたしがいっしょだ。急勾配も心配いらない。わたしが力を貸そう。わたしはいつもいっしょだ。」

 I am with you.と神に言われると嬉しいですね。この箇所の英語聖書NIVにあるように、I will be with you.と明確に言われると、将来の保証も含むのでさらに勇気が出てきます。

 モーセも、ヨシュアも、同じ励ましを神からもらい、奮い立ちました。(出エジプト3:12、ヨシュア1:5)十二弟子も同じです。(マタイ28:20)

 1996年2月ワシントン州の中学で14歳の男子学生が銃で生徒2人、教師1人が射殺した。学校を守ろうと父兄たちが立ち上がったが、その中に、コリーン・トラフスという主婦がいた。毎日のように学校にでかけ、生徒に声をかけ、10月には専任の職員となり生徒に心を配ったが、12月、別の生徒が家庭で女兄弟と母親を殺害する事件が起きてしまった。
 コリーンは、祈った。祈り続ける中で、アイディアが生まれた。同情心、尊敬、責任、忍耐力、の4つを生徒に教えよう、考えさせよう、学校を挙げて、地域を巻き込み、大切な心を育てようと立ち上がった。布に書いた4つの言葉を150枚学校に張った。地域の店にも張らせてもらった。町は変わり始めた。
 
 ギデオンは、神の言葉を受け止め、いけにえをささげ、祭壇を築くことで献身の姿勢を表明しました。(9~24節)

 さあ、あなたの番です。
 
□問題解決のスタート地点が自分にあると認識しよう。
□隣人を愛すため、動き出そう。
□主と福音のため、あなたのできることをしよう。
□小さな一歩があなたを励ます。まず、小さな事を今日しよう。

用いてください マルコ11:1~10

 新年明けましておめでとうございます。新年は私たち日本人にとって、心をリセットするのに良い機会です。
 当教会の今年のテーマは「用いてください」です。私たちが、<主よ私を用いてください>という姿勢でいると、私たちの人生はまったく違うものになります。
 
1、驚き

 今日の聖書箇所には、意外性の気分が漂っています。「えっ!」ロバですか。

 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコ11:1~3)

 主イエスは都エルサレムに入る際、あえてロバの子に乗って行かれました。救い主の登場、旧約に預言されたダビデの子なら馬に乗ってさっそうと登場してもいいはずですが、選ばれたのはロバでした。

 主イエスがロバを必要とされたのは、旧約聖書の預言の成就のためでした。神が遣わされる救い主は同時にまことの王であり、ロバに乗って来られるとゼカリヤ書に預言されています。

 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9:9)

 主イエスは、馬ではなくロバが必要だったのです。

 オリーブ山は、山というより岡で、約4キロにわたる峰です。ベタニヤからエルサレムまでは3キロという近さでした。主イエスは、オリーブ山からロバに乗り、谷を下り、谷を上り、エルサレムの城壁の東側にあった門を目指して進まれたことでしょう。

 主イエスがロバに乗ってエルサレムに向かうと、沿道の人々は「ホサナ」と叫んで喜び迎えました。
 ホサナは、アラム語の「ホーシーアー・ナー」で、元来は「今、救ってください」という意味です。この言葉は、本来の意味が失われて、賛美に伴う感嘆詞として使われ、「栄光あれ」とか「万歳」という意味になっていました。人々が主イエスを救い主として喜んで迎えた場面が生き生きと伝わってきます。

 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11:7~10)


2、忘れがたい言葉

 1~6節は、主イエスがロバを必要とされ、弟子たちがそのために使いに出されたという内容です。全体の話の流れから、それほど必要と思われない挿話です。
 ですが、マタイもルカもこの出来事を記録しています。それも、主イエスが弟子に依頼した同じ言葉を実際に弟子が繰り返している場面まで書かれています。

 こうしてみると、主イエスの言葉は弟子たちにとって忘れがたい言葉になったようです。主イエスの言葉は、私たちの心の中に良い意味で引っかかりを残すものが多いのです。

 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」(マルコ11:3)

 弟子たちは、ロバの持ち主に正しく伝達するため、心で反復したことでしょう。主がお入用なのです、主がお入用なのですと。
 NIVでは、The Lord needs it. となっています。主はロバを必要としている。ロバは。馬のように速く走れない。馬のようにかっこよくない。ロバとは自分のことではないか、と弟子は考えたかもしれません。



3、あなたの応答

 主イエスは、今日、あなたを必要としています。あなたでなければできない事があるのです。全能の神である主イエスが、あなたを必要としています。どうしてもあなたが必要なのです。

 一人の男の子が1918年、ノースカロライナのシャーロットという田舎町の農家の息子として生まれました。16歳の時、主イエスを信じましたが、背が少し高いくらいでどこにでもいる普通の男子高校生でした。
友達を伝道集会に誘うのに熱心だったので、先生にそのことを皮肉られ、クラスの仲間に笑われたりしました。先輩のクリスチャンに誘われて刑務所伝道にでかけて初めて救いの証しをした時は膝ががくがく揺れて決して伝道者にはなるまいと心に決めたといいます。でも、主イエスを伝えたい熱意が強く、フロリダの聖書学校に入学しました。礼拝の説教を依頼され、一生懸命準備して、何度も声に出して練習し、当日を迎えましたが、メッセージは8分で終わってしまいました。練習では30分かかった内容だったのに。
 そんな彼でしたが、次第にクリスチャンでない大勢の人の前で主イエスが救い主であると力強く語れるようになり、多くの人が信じるようになりました。
 テンプル・テラス・ゴルフコースの18番ホールである晩彼は祈りました。If you want me to serve you, I will. これがビリー・グラハムの20歳の時の経験です。
 ビリー・グラハムはラジオやテレビを含めると20億人に福音を伝えたことになり、250万人の人がクルセードで前に出て主イエスを信じました。
 ビリー・グラハムは、この地上を終えて主イエスにお会いできたときには、「なぜ、私を選んだのですか」と聞きたいと自伝に書いています。取るに足らない農家出身の自分を用いられた主イエスへの驚きがそこにあります。


 さあ、あなたの番です。

 自分が弱くて、罪深いと思っていますか。でも、主イエスはあなたじゃなければだめだ、と言っているのです。主イエスが求めているのは、あなたの能力なんかじゃないのです。「あなたが必要だ」と言われる主イエスの言葉への従順さです。

□あなた自身を、「用いてください」とささげましょう。
□あなたのどんな分野を通じて主に用いていただきたいですか。
□あなたの親友を教会に連れてくるとしたら、どんな教会であってほしいですか。そのためにあなたは何ができますか。
□<幸せの発信地>になるため、あなたに何ができますか。
□用い続けていただくために、毎朝聖書を読みましょう。