マルコ14:32~42 ゲッセマネで

  悲しみの人、主イエスの最も苦悩に満ちた祈り、ゲッセマネの祈りに心を向けましょう。
 
世界的に有名な指揮者の小澤征爾は、音楽作品の9割が悲しいとか暗いという要素を持っていて、その悲しさが人間の共感を呼ぶという趣旨のことを語っています。
また、黒人奴隷として生まれ育ったフレデリック・ダグラスによると、奴隷が歌うのは悲しい時だけだったとその体験から述べています。
悲しみや暗黒が慰めを与えてくれる。そういうことがあるのでしょうか。

1、悲しみを表わせる正直さ

ゲッセマネとは、「油しぼり」という意味です。オリーブの木が多数植えられていた付近に主イエスと弟子達が入って行きました。もう夜です。ユダは祭司長のもとに向かったので、弟子は11人。そのうち8人の弟子が「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」(32節)と命じられました。この命令は、外敵に注意を払うという役割なのかもしれません。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。(33節)
そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(34節)

 主イエスというお方は、正直な方なのだと私は思います。悲しい時は、悲しいと言える。死にそうに辛いと素直に言える。主イエスは、建前で生きている人ではなく、最初からずっと、率直で、正直な方だったのです。
 私は、主イエスの苦悩を読んで、ある意味で慰められます。主イエスの肉体は私たちと同じなのだ。主イエスの心は、私たちと同じ弱さをお持ちなんだと。

主が悩むのはなぜでしょう。鞭打ち、屈辱、十字架刑の肉体的苦痛を予想しておられからでしょう。それだけでは、主イエスの恐れを理解したとは言えません。全人類が受ける罰を一身に受ける。その悲惨さは、主イエスだけが理解しておられます。また、父なる神と完全に分離される経験が、どれほどの暗黒かを知っておられのです。

最愛のご主人を失った一人の女性が、墓地に何度も訪ねるうちに、霊園内にあるキリスト像に目が留まりました。そこにあったのは、地にひれ伏して祈る白いキリスト像でした。主イエスの苦悩の姿を見ているうちに、この主イエスを知りたいという願いが起きたそうです。自分から教会を訪れ、やがてクリスチャンになりました。
ひれ伏して祈る主イエスの苦悩の姿は、不思議なことですが、私たちの心をなぐさめてくれます。



2、父さんと呼ぶ祈り

 主の祈りの最初の部分が素直な気持ちで口に出せない人がたまにいます。問題の箇所は、「天にまします我らの父よ」です。父親が飲んだくれや乱暴者で、母親を苦しめ、挙句の果てに蒸発したという父親を持つなら、そういう気持ちは理解できます。
 宗教改革者ルターも厳格な父から罰を受け、父親に対して良いイメージを持てなかったとも言われています。
あなたのお父さんはどんな人ですか。主イエスは、神を父と呼び、最もつらい時に、父なる神を呼び求めました。

それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(35~36節)

 アバとは、当事のユダヤ人が口から発する音で、「お父さん」を意味しますが、小さな子供が呼びかける時に使う、「お父ちゃん」というニュアンスがあります。神を父と呼ぶ。それは、当時のユダヤ人から見れば冒涜行為でした。主イエス独自のユニークな呼びかけでした。
 ローマ8:15では、私たちクリスチャンも御霊によって神を「アバ、父」と呼べると書いてあります。ガラテヤ4:6でも、神の子にされたので「アバ、父」と呼べると説明してあります。

 主の祈りの呼びかけ部分は、ルカ11:2によると、何の修飾語も付かない手「父よ」となっています。放蕩息子も帰って来たときに、「お父さん」(ルカ15:21)と呼びかけて罪の告白をします。

 あなたもちょとやってみませんか。親しみを込めてお父さんと呼ぶとき、あなたは何と呼びますか。その同じ言葉を今、口に出して、神に語りかけて下さい。はい、どうぞ、言って下さい。

 神は、あなたの父親です。あなたに、そう呼ばれることを待っておいでです。



3、みこころを選び取る祈る

 あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(36節)

 主イエスの祈りは、率直でした。振り子のように右に左に揺れる心をそのまま表現されました。あなたも、心にあるものをそのまま出して、祈りませんか。

十字架は、自分で飲み干さなければならない毒の入った杯と同じです。杯は飲みたくない。しかし、父なる神のみこころが何であるか、知っています。主イエスの使命が何であるかを見つめると、「杯」の最後の一滴まで飲み干す覚悟ができるのです。

あなたの番です。遠回りの道。かっこ悪いチョイス。長い間、棚上げにしてきた事。今まで勇気が出なかった事柄。そういうものがありませんか。

あなたの「お父さん」、神は、あなたに何を一番期待しておられるのでしょう。あなたの「お父さん」は、何を楽しみにしておられるのでしょう。
 
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(36節)



4、目を覚ませ

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(37~38節)

 私たちは、全員、もれなく弱い。心も弱いし、肉体も弱い。だから、祈りが必要です。

イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(41~42節)

父なる神に何でも祈られた主イエスは、準備が完了し、今、毅然と立っておられます。ゲッセマネに来られた当初と雰囲気が違います。祈りの勝利です。十字架の杯をすでに飲み干されたと言っても過言ではありません。

弱いと自覚しているなら、祈りましょう。
弱いと分かっているなら、誰かに祈りの要請をしましょう。
 祈って下さいと言える人は、祈りの力を知っている人です。
 祈って下さいと依頼できる人は、自分が果たすべき使命を自覚している人です。

あなたの番です。
 □神を、「父さん」と呼んで、祈ってみましょう。
 □あなたにとっての「杯」とは何ですか。それを飲み干しましょう。
 □誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りましょう
 

マルコ14:26~31 私は大丈夫


   「私は大丈夫です」と強がりを言う人が、本当は不安で一杯ということがありますね。

1、強がり

そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。(26節)

エルサレム市内の家で最後の晩餐を終えた主イエスと弟子たちは、賛美しました。裏切りと十字架刑を前にして歌うのです。これが主イエスの賛美です。過ぎ越しの祭りの時に歌う慣わしの詩篇113~118篇を歌ったのかもしれません。

主イエスと弟子たちは外に出ました。過ぎ越しの祭りは毎年満月のすぐ後なので、天気が良ければ月夜です。一行は、城壁を出てケデロンの谷を降り、オリーブ山を上り、ゲッセマネの園を目指しました。

イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。(27節)

旧約聖書ゼカリヤ13:7を引用された主イエスは、12弟子たち全員がつまずき、主イエスを見捨てて散り散りばらばらになると予告されました。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)

ペテロは、自分の決意の強さを表現しようとしましたが、結果的には、他の弟子はつまづくだろうと口を滑らせます。他の人よりはましという理屈を持ち出して自分を正当化しました。

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

まことにあなたがたに告げますという表現は、主イエスが大切なことを語るときの決まり文句で、マルコの福音書に12回使われ、そのうち「あなた」といって個人に向けられたのはこの箇所だけです。主イエスは、ペテロの返答を聞いて、きちんと言っておかなくてはとお考えになったのでしょう。

ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(31節)

声を荒げる。無謀な約束をする。それが、弱い人の印です。

クリスチャンで、ケンブリッジ大学の文学者、C・S・ルイスは、「最も信頼できないものは、自分に対する信頼だ」と述べています。

あなたは本当の姿は、弱い人ですか。あなたは内側は空虚ですか。

自分の不完全さやもろさに気づく事は、他人に優しくなるためのスタートラインです。自分のありのままの姿を主イエスの視点で見られる人は、外側を飾る必要がなく、謙虚になれます。


2、待っている

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

主イエスは、かなり詳細にペテロの失敗を予告しました。夜明けまでの数時間のうちに失敗する。主イエスを知らないと3回言う。その直後に鶏が2回鳴く。それは、何のためでしょう。ペテロが立ち直るための布石なのです。最初から知っていたよ、それでも、あなたを見捨てないという愛がにじみ出ている言葉なのです。

白浜バプテストキリスト教会の藤藪庸一牧師は、三段壁で自殺者を救出する働きを13年間続けておられ、自殺から救い出した人数は500人を越えました。先代の江見牧師から引き継いだ働きで、社会的にも大きく認められた働きです。
助けた人の話を聞き、食事を与え、宿を提供しても裏切られるという体験もあるはずですが、相談に来た人を100%信じるという基本姿勢を持っておられることは本当に立派だと思います。倒れた人が立ち上がれるように全面支援をされる姿と、主イエスのペテロに対する姿勢に何か不思議な関連があるように私には思えます。

主イエスが言われた言葉に再び目を留めましょう。

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。(28節)

28節は、主イエスがペテロたちを見捨てないという証しの言葉です。裏切るペテロたちと再会する予定だと言われます。
どんなに口で立派なことを言っても、自分かわいさで弟子たちが失敗してしまうのは分かり切っています。でも、そんなあなたたちを見捨てはしない。復活後に、ガリラヤで会おう、というのが主イエスのメッセージです。

「あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」実際に主イエスが口から発した言葉はもう少し、色や臭いのある言葉でしょう。ガリラヤで待っている、先にいくぜ。そんな雰囲気が漂う場面です。後ろを振り向かずに先に歩き出すような主イエスの姿を、心の目に焼きつけましょう。

主イエスは、弟子たちを育て、弟子達に将来を託しました。過保護とは程遠い、豪快な人材養成法です。

アラバマ州に7歳の女の子がいました。親はその子のわがままに手を焼き、20歳の女性家庭教師を招きました。女の子は、手に触れるものは何でも壊すような子で、食事中び人の皿に手を突っ込み、スプーンを床に投げつけるほどでした。ある日、その家庭教師は、女の子に指導する際にもみ合いになり、取っ組み合いの喧嘩にまでなりました。その晩、自分の部屋に戻った家庭教師は、ベッドに身を投げ出し、思い切り泣きました。でも、心でこう誓ったのです。私が教えることのできる二つの本質的なこと、つまり、服従と愛を彼女が学ぶまで、あの子とまた何度も取っ組み合いをする必要があるでしょう。
この家庭教師がアン・サリバン、女の子がヘレン・ケラー(1880年生まれ)です。2歳ごろの高熱で視力を聴力を失い言葉を学べなかったヘレンは、親が甘やかしたため自己中心で手に負えない子になりました。サリバン先生が、愛を持って教えたおかげで、やがては大学を出て、立派な教育者、社会福祉事業家になりました。

私たちは、大声を出す必要もない、実現不可能な約束をする必要もない、誰かの欠点を指摘して自分を相対的に高める必要もない。今のあなたのまま、主イエスについて行きましょう。

主イエスがあなたを待っている場所はどこですか。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

あなたの番です。
□強がらず、弱くて空虚な自分の姿を認めましょう
□主イエスは先に行って待っておられます
□主イエスが待っておられる場所に出かけましょう

マルコ14:10~25 裏切る者

あなたは裏切られたことがありますか。
 あなた自身が、誰かを裏切ったことがありますか。
  今日は、重いテーマ、裏切りについて考えてみましょう。

1、ユダの裏切り

 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。(マルコ14:10)  

 十二弟子の一人、ユダは、祭司長のところに出向き、銀30枚と引き換えに主イエスを売り渡すことに心を決めました。悲しいことに、この金額はデナリに換算すると120デンリとなり、ナルドの香油の半分以下の価値しかありません。
 ユダの念頭にあるのは何らかの感傷ではなく、主イエスが確実にそこいいるはずの場所を祭司長たちに伝えることだけでした。

 12~16節には、過ぎ越しの食事場所がどのように手配されたかが記されています。これは、祭司長たちにも、ユダにも、食事場所を知らせないための方策だったのでしょう。

 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」(18節)

 食事の席で主イエスは、十二弟子の誰かがご自分を裏切るとはっきり言われました。弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。(19節)このようなふがいない弟子の姿が記録されたのは、意味があります。ユダと他の弟子たちは、それほど違いがない。聖書を読んでいる私たちとユダとの距離はそれほど離れていない、ということを私たちに警告しているのでしょう。

 ジョージア州シャーウッドバプティスト教会が作成した劇場公開映画「Courageous」はとても良い映画です。そのワンシーンに、メキシコ系のクリスチャン男性が信仰の葛藤で悩むシーンがあります。工場のマネージャーに登用したいが、虚偽の報告をするようにと会社から迫られ、クリスチャンとして嘘は言えないが断れば職を失うという危機に立たされます。
 私たちも、ユダになる可能性を持っています。

 あなたは、死ぬまで、主イエスについて行きますか。どんなことがあっても主イエスを裏切りませんか。


2、裏切る者の心

 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(20~21節)

 おそらく、これは、主イエスが語られた言葉で最も厳しい言葉でしょう。なぜ、主イエスはこう言われたのでしょうか。

 その理由を考える上で裏切りについての考察が役立つかもしれません。

 今まで大好きだった、最も尊敬していた、けれども、何かが原因して手のひらを返す決意をする時があります。深い失望や誤解がきっかけになるかもしれません。相手に対する強烈で否定的感情が沸き起こると、過去の良い関係を捨てても裏切ることができます。
 また、自分にとって大きな利益が得られる時にも人は裏切ります。利益とは、自分が望むものを得るため、そして、自分の命を危険から救うことです。

 裏切る人の特徴は、自分の裏切り行為が正当でしかも必然性があったと自分に言い聞かせることです。なぜなら、裏切りほど社会的な批判を受ける行為は他にないからです。正しいのは私のほうだと正当性を主張し、相手が悪いのだと責任転嫁をせずには人は生きていけないのです。

 夫の携帯電話を見て不倫に気づいた妻が、逆に夫に責められることがあります。「恥ずかしいと思わないのか。こそこそ携帯を調べるなんて。それが、夫婦の絆を壊す原因だ。全部はお前のせいだ。離婚だ。それがお前の報いだ。」自己正当化と責任転嫁は、このようにして行われます。あなたは、自分の中に同じメカニズムにあることに気づきますか。

 太宰治の短編小説『駆け込み訴え』は、ユダをテーマにしたもので、裏切る人の心がみごとに描かれています。見事と言ったのは、裏切る人間が、正当性をどう説明するか、責任転嫁をどのようにするかを、見事に描ききったという意味です。小説では、ユダが主イエスを逆恨みし、反感を持ち、失望し、誰よりも主を愛していると自分に言い聞かせますが、太宰の筆は執拗で、行き場を失った人間の悲哀と滑稽さが語られています。

 実際のところ、2000年前のユダの心は誰も分かりません。ヨハネ12:6によると、ユダは弟子たちの会計係りで、その金をごまかしてきたことが分かります。自分の罪を悔い改める勇気がなく、銀30枚を得ることで金銭問題を帳消しにし、同時に、主イエスを死に追いやればユダの罪意識も解消できると短絡的に考えたのかもしれません。裏切りの論理は、いつでも自己中心で愚かな論理に過ぎません。

  「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(21節)

 この言葉で、一つだけ分かることがあります。主イエスが、ユダに対して心底怒っておられたということです。本気でユダにアプローチしておられます。
 正当化と責任転嫁という鋼鉄の鎧で全身を覆ったユダの心に届くためには、特に鋭い言葉が必要だったのでしょう。目を覚ませ。呪われるような人間になるな。生まれなかったほうがよかった、という人間になるな。あなたは、そんな人間じゃない。それが主イエスの真意だったと私は理解しています。

 あなたの番です。あなたが悪いのに、自己正当化をしていませんか。責任転嫁をして人のせいにしていませんか。神は、無責任な人間にするためにあなたを造られたのではありません。
 あなたが「ごめんなさい」というのを主イエスは待っておられます。裏切りを考えている人がいますか。愚かなことはやめましょう。



3、パンとぶどう酒

 この後、主イエスはパンとぶどう酒の意味を語られました。人類の歴史で最初の聖餐式です。

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(22~24節)

 主イエスの血が流れるときは、主イエスが死ぬ時です。血の一滴一滴は、主イエスの命です。私たちが本来流すべきだった血のしずくです。
 自分の命欲しさに主イエスを見捨てる弟子たちのために、主イエスは十字架にかかられました。イエスの血潮はユダのためにも流されたものです。

 「取りなさい。これはわたしのからだです。」(22節)

 私たちがすべきことは何でしょう。受けることです。主イエスの命を受けることです。主イエスの愛を受けることです。それが、主イエスが願っていることです。

 2000年9月15日、カリフォルニア州のあるキリスト教の大学でいつものようにチャペルの時間が来ました。大勢の学生たちが心から罪を悔い改めた出来事がその大学の歴史に何度もあったと説教者は語りました。それに応答して、学生が一人、また、一人と、自分の罪を正直に告白し始めました。やがては、自分の番を待つ人が長蛇の列となり1000人が自分の罪の話をして、大学の雰囲気が一新したといいます。
 主イエスに背いていた自分に気づき、自己正当化や責任転嫁をせずに、自分のぼろぼろの姿を真摯に見つめました。

 ユダに裏切られた主イエスは、今も、私やあなたによって裏切られ続けています。私たちは意図も簡単に主イエスへの約束を破ります。それでも、主イエスは私たちを見捨てない方です。

 わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)
 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)

 →あなたの番です。
  □主イエスや大切な誰かを裏切ろうとしていませんか。止めましょう。
  □誰のせいにもせず、自分の罪を神の前で認めましょう。
  □主イエスの差し出されたパンとぶどう酒を受け取りましょう。

ルカ24:13~35 心が燃えるイースター

復活された主イエスに会いたいと思ったことがありませんか。実際に主イエスにお会いできたら、私たちの信仰は飛躍的に高められるはずだと誰しも思います。
 でも、主イエスを目の前にしても、それが主イエスだと気づかない人たちがいたのです。


1、 失望と疑い

 主イエスが十字架にかかられたのが金曜日、翌日が土曜、そして、日曜。その日曜日に、二人の男がエルサレムからエマオへと歩いていました。二人はイエス・キリストに従う弟子です。一人の名前はクレオパで、二人とも失望と疑いの中にいました。

 失望とは何でしょう。19~21節を見て下さい。

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。(ルカ24:19~21)

 ローマ帝国からユダヤを解放してくれる人物が救い主だ。当時のユダヤ人の誰もがそう思っていました。ですから、主イエスが殺されたことは、二人にとって大打撃でした。
  「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」信じて来たが、期待が裏切られた。がっかりした。悲しくて力が出ない。それが二人の本音でしょう。

 二人の弟子が抱えていた疑いとは何でしょう。21~24節を見て下さい。

 事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:21~24)

 23節は「と言うのです」、24節でも「というのです」と記されています。女たちの言うことは聞いたが、復活は信じられないという意味です。彼ら二人は混乱していました。信じたいが、信じられない。確信が持てない。
 二人が「暗い顔つき」(17節)になって急に立ち止まったのはもっともです。
 
 今日あなたは、失望と疑いの中にいますか。それなら、この二人と同じです。


2、横を歩く主イエス

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(ルカ24:15)
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(ルカ24:16)

 後から加わった男性は、エルサレムでの話題沸騰の一大事件をまったく知らなかったのです。二人は、あまりの驚きからその人物の顔をまじまじと見たことでしょう。でも、その方が主イエスか分からなかったのです。「目がさえぎられていた」からです。

 主イエスが急に二人の正面に現れて、わたしだ、ほらこの手のひらを見てごらん、と語られたら、二人の悩みは霧散して、その場で喜び踊ったことでしょう。
 でも、主イエスはそうしませんでした。主イエスは、どんなお考えがあったのでしょうか。

 主イエスはそっと二人の横に行かれました。共に歩かれました。何を話しているのかと、その話に耳を傾けました。これが、主イエスのなさったことです。
 主イエスは、ふたりの嘆きを聞き、愚痴を聞き、否定的な言葉をきちんと最後まで聞かれたのでしょう。夕暮れ時まで、ずっと一緒にいて下さったのです。
 主イエスは、今日もそうして下さる方だと私は思いますが、あなたはどう思いますか。

 二人は胸に抱えている問題のすべてを言い尽くした後、主イエスは、はじめて口を開かれました。大変だったね、など同情しません。あなたたちは愚かだと言い切りました。

 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(ルカ24:25~26)

 英語の聖書では「How foolish you are, how slow of heart to believe」(NIV25節)と訳しています。預言者たちの言葉を一つも聞いていないじゃないかと、叱責されたのです。

 主イエスは、旧約聖書を引用し、救い主である印は、第一に「苦しみを受け」ること、第二に「栄光にはいる」こと、つまりよみがえる事であると説明されました。以下は、主イエスが語られたかもしれないと私が推測した聖書箇所です。

 裏切られる→詩篇41:9、不正な裁判を受ける→イザヤ53:8、裁判で弁明しない→イザヤ57:3、捨てられる→詩篇118:22、銀貨30枚で売られる→ゼカリヤ11:12、十字架でとりなしの祈りをされる→イザヤ53:12、乾きを経験する→詩篇22:15、父なる神との分離の苦悩→詩篇22:1、骨が砕かれない→詩篇34:20、槍で突かれる→ゼカリヤ12:10、死んだままで終わらない→詩篇16:10

 主イエスの解説をその場で聞いてみたかったとあなたも思われるでしょう。

 主イエスが現れて、わたしだよと言われてこの二人の目を開く代わりに、旧約聖書の意味をこんこんと二人に説明されました。聖書を正しく知ることのほうが、よみがえられた主イエスに出会うことよりも大切だと主イエスはお考えになったようです。

 さあ、あなたも、主イエスのこのパターンを見習うことができます。失望している人の横に行くこと、話を聞くこと、そして、聖書を教えること。気落ちしている現代のクレオパがあなたの周囲にいませんか。



3、心が燃える時

 日も暮れてきたので、二人は同行者と夕食を共にしました。その人物の食前の祈りで、主イエスだと気がつきました。すると、主イエスの姿はもうそこにありませんでした。

 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32節)

 良く読みましょう。二人の心が燃えたのはいつですか。食事の席で、目の前におられる方が、復活された主イエスだと気づいた時、心が燃えたのですか。いいえ違います。

 同行者が誰だか分からない時に、すでに心は燃えていたのです。英語訳聖書では、32節を「he … opened the Scripture to us」と直訳しています。心で聖書が読めるようにしてくださるのが主イエスなのです。
 奇跡を見たり、特殊な経験をしたら心が燃えるのでしょうか。いえ、むしろ、聖書が開かれ、聖書の意味が分かったときにこそ、心の奥が力強く燃え上がるのです。
 
 第二次世界大戦で日本の敗北が近いと感じられる夏。お父さんと海岸を散歩していた男の子がいました。突然現れた米軍艦載機が機銃掃射をしてきたので男の子は地面に伏せ、お父さんは上から覆ってくれました。激しい機銃の音が去ると、男の子は動けませんでした。お父さんの体の下からもがくように這い出ると、お父さんの背中と頭部から激しい出血があり即死でした。
 助けられた男性は、毎年夏になるとその日のことを思い出すのだそうです。お父さんの背中に助けてもらったことを。

 主イエスは、私たちの身代わりになって十字架にかかって下さいました。身代わりとは、主イエスが死ななかったなら、私が死んだという意味です。主イエスがよみがえったのは、主イエスが間違いなく、聖書が預言していた救い主であるという意味です。
 私たちも、イースターのたびに、主イエスの愛を感謝し、よみがえられて私たちの横を歩いてくださる主イエスを思い起こしましょう。イエスさまありがとう。ハレルヤ!主はよみがえられた。

 →あなたの番です。
  □失望と疑いの中にいるなら、主イエスは横におられます
  □あなたのそばにいる現代のクレオパを励ましましょう
  □あなたの心を燃え立たせてくれる聖書を毎朝読みましょう

  「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

マルコ14:1~9 主イエスのために

ヨハネの福音書12:3によると、ナルドの香油を注いだ女性はベタニヤのマリヤであることが分かります。けれども、マタイもマルコもあえて名前を書き入れませんでした。
それは、女性の行為に焦点を当てたいからだ、と私は理解しています。

1、むだ

 「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)

 私の知り合い夫婦は、新婚旅行の費用を海外宣教のために全部ささげて旅行には行きませんでした。若い二人は献金できたことを喜び、他人は「もったいない」と言うことでしょう。

 さて、ナルドの香油は、ヒマラヤ原産の植物の根から作られ、インド経由で輸入される貴重品でした。当事のユダヤでは、もてなしのためにお客様の頭に一、二滴の香油をかけるという習慣があったようで、旅の疲れを癒す良い香りだったといいます。

 弟子たちは憤然としていました。もったいない、と思ったからです。女性が一度に注いだ香油は300デナリの価値があり、男性の年間所得とほぼ同じ額になります。無駄だ、と言いたい気持ちは分かりますが、香油はその女性の持ち物です。とやかく言われる筋合はありません。

 私は「むだ」いう言葉に心を刺されました。私もそんな陰口を言われてみたい。なぜ主イエスのために、そんな無駄なことをするのか、と。

 主イエスのためのむだ、とは、あなたにとって何ですか。


2、主イエスのため

 ある時私は、既婚の男性と話していました。妻が喜ぶ事が何か、私は日常的に考え、捜すようにしていると話したのです。彼は、全身が「愕然」という文字になって固まっていました。妻が喜ぶことを捜す、そんなことは考えたことがないという顔でした。偉そうなことを言っていますが、私も、妻の喜びを捜すという発想は最近身に付けたものです。

 「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(6節)

 この女性は、なぜこんなにも思い切った事ができたのでしょう。死んでしまった肉親のラザロの命を返してくれたことへの感謝もあったでしょう。主イエスにすべてを受け入れてもらえた喜び理由かもしれません。主イエスの言葉を誰よりも聞き取った女性でしたから、主イエスの心を理解できたのかもしれません。いずれにせよ、この女性の自発的行為はキラリと輝いています。

 私はマルコの福音書を読み直しました。十二弟子が主イエスのために自発的にした愛の行為はひとつもありませんでした。弟子たちは、主イエスに助けてもらってばかりの幼子のようで、自分たちから主イエスのために何かをしたという記録は、一つもないのです。ひとつもです。

 この女性だけです。主イエスのために、何かをしたいと自発的に考え、実行したのは。主イエスは、女性の行為が「わたしのため」であると、はっきり分かって下さいました。
 
 あなたは、主イエスの喜ばれる事は何かと、考えたことがありますか。それを、実行したことがありますか。


3、自分にできること

 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(8節)

 マタイ26:1によると「二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」と主イエスは弟子たちに語られました。この女性もその場にいて聞いていたのかもしれません。

 女性は、自分の持ち物を見渡したのでしょう。自分の能力や権限の範囲で実行できることは何かと考えたのでしょう。今のタイミングでできることは何かを思いめぐらしたはずです。
 まもなく主イエスは死なれる。十字架刑ならば香油をぬって埋葬することは許されないだろう。今、私にできることは、手持ちのナルドの香油を注いで、埋葬の用意をして差し上げることだと考え至ったのです。

 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)

 主イエスは、女性の行為は福音と共に伝えられるべき事柄だと、異例の形で女性を高く評価されました。


 ナルドの香油を注いだ行為は、ひとことで言えば愛です。
 主イエスに対する自発的な愛です。

 むだをむだと思わないようになるのが愛です。
 自分のことでなく、主イエスの喜ばれることを捜すのが愛です。
 先延ばしせず、今自分にできる事を、今することが愛です。

 あなたの「ナルドの香油」とは何でしょう。


あなたの番です。
 □主イエスのために、大胆に、むだなことをしましょう。
 □主イエスの喜ばれることを捜して、自分から実行しましょう。
 □今この時の私にできることは何か、熟慮し、勇気をもって行いましょう。