主の恵みを忘れない 詩篇103:1~5

 今日は今年最後の感謝礼拝です。それぞれが一年を振り返りましょう。

1、以下の質問に答えてください。

1) 健康面で大変だった事は何ですか。


2) 人間関係でつらかった事


3) 仕事やお金で苦しかった事


4) 家庭のことで悩んだ事


5) その他の苦しみや心配事


2、上記の悩みや苦しみはどうなりましたか





3、2008年を振り返り、感謝な事を3つ書いて下さい。

1)

2)

3)

 礼拝では、一年を振り返った感謝を分かち合っていただきました。


4、明日の希望を与える

 詩篇の作者はまず、自分自身に語りかけ、主への感謝を喚起しています。
<主の恵みを忘れない>それは、あなたの信仰を強め、主への賛美に導きます。さらに、明日への勇気と希望を与えてくれます。

 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ」(ヘブル13:8)方なので、今までして下さったように将来もして下さるのです。

 昨日も、一年も守られた主は、明日も来年も同じように守ってくれます。
どうそ主にあって良い年をお迎えください。

締め出された救い主 ルカ2:4~7

 世の中で行われているクリスマスとかけて、ドーナツととく。そのこころは、中心がない。そうです、中心にあるはずの主イエスさまがないのです。

 ルカの1章を読んで下さい。驚くべきことに、主イエスは、クリスマスの日に締め出されていたのです。
 「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカ2:7)
 神である方が、無視された。人々の罪を赦すために来られた方が拒絶された。「この方は、ご自分のくにに来られたのにご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
 けれども、世界にたった二つの場所だけが、主イエスを受け入れたのです。それは、ヨセフとマリヤの心です。この二人がいたので、クリスマスが成立したのです。マリヤとヨセフの心をそれぞれルカとマタイの箇所から確認しましょう。二人の心にはある種の共通項があることに後で気づくことでしょう。


1、マリヤ    ルカ1:30〜38

 天使はマリヤに、赤ちゃんがあなたから生まれるる、その男の子は「神の子」と呼ばれると知らされびっくりします。マリヤの心に浮かんだ心配事を箇条書きにすれば以下のことでしょう。

・妊娠することへの不安
・大切な婚約者を失う危険
・死刑の恐怖
・将来の生活へのとまどい

 最後に御使いは、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)と語りました。マリヤは、天使の言葉を神の言葉として受け入れました。
「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」(ルカ1:38)マリヤは自分をささげ、神に用いていただく決意をしました。
 不可能はないという約束の中に、婚約者との幸せな結婚を織り込んで信じたのかもしれません。

 神の言葉を受け入れる、勇気を出す、神の言葉を実行するという3つの要素がマリヤの心にありました。


2、ヨセフ    マタイ1:18〜25

 ヨセフは、人間として思慮深く、男として優しかった。ある意味では理想的な男性ですが、マリヤの言葉だけは信じきれません。マリヤは妊娠の事実をヨセフに伝え、天使の言葉も教えたのでしょう。熟慮した上のヨセフの結論は、そっとマリヤを離縁して、さらし者にしないようにとの配慮でした。これが、ヨセフの愛と結論です。人間にできる最善の行動なので、誰もヨセフを責められません。

 そんな時、天使は夢の中でヨセフに明瞭に語りました。「ダビデの子、ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:20~21)
 これでヨセフは、すべての事に納得ができたのです。御使いを通して語られた神の言葉をそのまま受け入れました。将来襲い掛かるであろう、心配や苦難に立ち向かう勇気を持ちました。そして、実行したのです。

 「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、………」(マタイ1:24)


3、マリヤとヨセフの共通点

 ルカの福音書1章では、ヨセフとマリヤが宿屋には入れなかった場面が描かれていますが、これは、二人が苦悩した日々に比べればささいな問題だったと思われませう。
 すでに村ではマリヤのお腹のことで一方的な噂もささやかれていたでしょう。ヨセフも白い目で見られていたかもしれません。でも、二人には共通した喜びと目標がありました。救い主を生み、育てるということです。住民登録のためベツレヘムに行くことが決まっても、神の守りを信頼していたことでしょう。この二人の心の中にはすでにクリスマスが来ていたのです。

 マリヤとヨセフの心に共通していた3点をまとめます。
  1、神の言葉を受け入れる
  2、勇気を持つ
  3、自分を神にささげる

 聖書を心の書物と考えて、日常生活には縁遠いものと考える人がいます。それは、間違いです。聖書ほど実用的な本はありません。
 たとえば、『あなたを美しくする101の方法』という本を買ってきたら、あなたは、「すてきだわ」と喜んで、すぐに本棚にしまいますか。いいえ、そこに書いてあるすべての方法を自分に当てはめてやってみるはずです。
 男性だって、『あなたの税金支払いを半分にする秘訣』という本を買ったなら、「読んで感動したよ」と涙を流して、床に置くでしょうか。税金ソフトのTurbo Taxを使って実行し、「やった、1000ドル安くなった」と喜ぶはずです。聖書も、同じように読むべき本です。

 さあ、あなたの番です。
毎朝読む聖書から、神の言葉を心に受け止めましょう。主イエスがあなたと共におられるのですから、勇気を出しましょう。そして、実際にやってみましょう。

 ある教会で子供たちが降誕劇をしました。ヨセフとマリヤが宿屋を訪ねるシーンになりました。「今晩泊まれますか」「部屋は一杯だよ。ほかに行ってくれ」と宿屋の主人になった子供が順番に答えました。最後は、知恵遅れの男の子の番でした。一生懸命覚えた台詞を観客の前で立派に言えました。「部屋は一杯です。泊まれません。」その子の親は胸をなでおろしました。マリヤとヨセフがとぼとぼと歩く後ろ姿を見て、その子は思わず叫んでしまいました。「マリヤさん、ヨセフさん、イエスさま、僕の部屋なら空いてます。僕の部屋に泊まってください」

 主イエスをあなたの心の真ん中に受け入れましょう。あなたの人生の中心にいてもらいましょう。ドーナツじゃなくて、アンドーナツになりましょう。
 神の言葉を信じましょう。神に不可能はない。
困難に立ち向かう心を持とう。勇気を持とう。主イエスが共におられる。
乏しい自分でも、弱い自分で、神にささげよう。用いていただこう。思い切って聖書の言葉を実行しよう。

考え方ひとつで マルコ9:38~50

 考え方一つで人生は変わります。主イエスは、ご自身が地上を離れた後を想定して、弟子たちを育てようとしておられます。今日の箇所もその一環とみることができます。

1、広く考える

 ヨハネは「雷の子」(マルコ3:17)と呼ばれていました。激しやすい性格を見抜かれて主イエスからあだ名を頂戴したのです。そのヨハネが得意そうに主イエスに報告しました。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」(マルコ9:38)
 いかにもヨハネらしい正義感ですが、主イエスはあっさりとその考えを否定されました。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:40)

 偏った仲間意識が世界中の戦争の原因です。家庭や職場の争いも、同様な理由で発生します。広い心を持ちたいですね。主イエスは、真理と正義に生きた方ですが、<広い方>なのです。
あなたは今、誰かと対立していますか。あなたが作っている壁とは何ですか。あなたがこだわる仲間意識は健全ですか。主にある広い心を持って今週過ごしましょう。


2、結末を考える

 主イエスは、子供のような小さい者にでもつまずきを与えてはいけない、と言われました。さらに、「つまずき」という言葉をきっかけに、主イエスは次のテーマへと話題を展開させました。

 「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ9:43)

 あなたが悪を選べが必ずその結果を刈り取ることになる。主イエスの教えは厳しい。手、足、目、と三段階にたたみかけて、自分を滅ぼす原因を切り捨てるようにと勧めます。
 「ゲヘナ」という言葉はマルコの福音書でここだけに使われています。分りやすく言うと地獄という意味です。ゲヘナは存在する、うじが食らうような不快感がある、火の苦しみが永遠に続く、以上の3点を主イエスは認めておられるのです。主イエスのメッセージは、「ゲヘナに行くな!」という強い警告なのです。
 
 デンマークの作家ハンス・アンデルセン(1805~1875)が書いた『赤い靴』(1845)という童話があります。カレンは赤い靴を履いて教会に出かけました。大事な堅信礼の日でしたが靴のことだけを考えていました。赤い靴の魅力に負けたカレンは、世話をしてくれたおばあさんの看病よりもダンスパーティーを選びました。赤い靴は勝手に踊りだし、自分の意思では踊りを止められません。魔法使いに呪いをかけられたのです。結局、カレンはおばあさんの葬儀にも出られれず踊り続けました。最後には森に住んでいた首切り役人に足を切ってもらいました。悔い改めて、牧師の女中として仕え、礼拝堂で賛美歌を聞きながら心が平安と喜びに満たされる中、天に昇ります。
さきほどの聖書箇所と自分の人生を重ね合わせアンデルセンが、この童話を書いたのだと私は勝手に推測しています。

 あなたが陥りやすい罪とは何ですか。あなたにとっての「赤い靴」とは何ですか。人生の本当の結末をしっかり見据えて、捨てるべきものを今、捨てましょう。


3、影響を考える

 体温が高い人、低い人、握手をするとすぐに分ります。それと同じように。心が温かい人、優しい人、前向きな人、主に信頼している人などは回りにいる人がすぐに分ります。

 「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:50)

 塩は腐敗を防ぎます。良い影響力を与える人になりなさいと主イエスは命じています。周囲に清い影響を与える人になるようにと主イエスは期待されました。あなたは周囲にどんな影響を与えていますか。

 リー・ストロベルという人は、シカゴ・トリビューン紙で13年働き、数々の賞を受けたジャーナリストでした。高校時代の生物学の授業で進化論を学んだとき神はいないと一人で納得し、以来無視論者として生きてきましたが、ある時からキリスト教について真剣に取り組むようになりました。イエスは本当に存在したのか、福音書は信頼できるか、奇跡はあったのか、など信仰の土台となる問題をその道の専門家にインタビューしました。ジャーナリズムで身につけた真実解明の方法論を駆使し問題の核心に迫る切り口は、やがて書物としてまとめられました。
 ストロベル自身は1981年に信仰を持ち、Case for Christ, Case for Faith, Case for a Creatorなど弁証論として優れた本を世に送りました。一人の影響力は、凄いです。ストロベルは大きな励ましや納得を世界中に提供しました。

 心臓の鼓動を作る機械は、ペースメーカー。問題ばかり起こすのは、トラブルメーカー。その人がいるだけで皆が仲良くなる人は、ピースメーカー。あなたはどのメーカーになりたいですか。

 広い心を持つ人になり、結末を見つめて不要物を捨てられる人になり、良い影響を周囲に伝える人になりたいですね。主イエスと共に生きるなら、それは可能です。

仕える者 マルコ9:30~37

 家族が久しぶりに全員集まり、伝統的な料理のターキーやパンプキンパイを食べる。感謝祭は日本のお正月とよく似ていますね。
 サンクスギビングで一番楽しいのはお母さんに違いない。家族のみんなが喜ぶ顔を予想して買い物をし、料理を作り、家を片付ける。そうです。仕える人には喜びが伴うのです。今日は、仕える喜びと受け入れる喜びについて話しましょう。

1、仕える喜び

 ピリポ・カイザリヤでの信仰告白後、主イエスは弟子たちとの時間を最優先させました。十字架にかかるまでわずかの時間しか残されていない。群集を教えたり病人をいやしたりという今までの活動パターンを止め、弟子たちに集中するようになりました。十字架の死、復活、昇天、というプロセスを経て、主イエスは地上を去ることになりますが、主イエスの関心はその後の弟子たちにあったのです。

 弟子達はヘルモン山を降りながらガリラヤ湖付近に戻りましたが、誰が偉いかという話題でかなり白熱していたようです。現代に置き換えて話すとおもしろいですね。
イエスさまが大統領となれば、俺は特別補佐官だとヨハネが言えば、それなら俺は国務長官とヤコブが言い、ペテロは国防長官だと言う。それを聞いた9人の弟子が異議を唱え、最初に俺がペテロを主イエスに紹介したとアンデレが主張。純粋さなら俺が一番とトマスが言う。こんなたぐいの話だったと思います。男という動物は、子供の頃も大人になってもやることは同じです。どっちが強いか、どっちが偉いかです。

 イエスを代表する人物として弟子たちが今後活躍することになるので、仕える姿勢が肝要だとして主イエスは弟子たちを教え諭しました。

 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、
  みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)

 仕えるということは、自分以外の人の笑顔を楽しみにする行為です。

 あなたが今週、仕えようと思う対象は誰でしょう。家族ですか。職場の仲間ですか。お客様ですか。仕える行為を自発的に選ぶ人は幸せになります。


 
2、受け入れる喜び

 主イエスは次に、受け入れるということを教えられました。受け入れるという行為は仕える事と同質の心構えです。

 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、
 わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。
 また、だれでも、わたしを受け入れるならば、
 わたしを受け入れるのではなく、
 わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マルコ9:37)

 幼子とは何でしょう。弱い者、価値のない者のことです。大人の数に入らない標準以下の者です。

 ダウンタウンのある韓国教会で「さあ、今日はホームレスの人を3人ハッグしてキリストの愛を伝えましょう」という課題が牧師から出たそうです。実際に町に出てそれを実行したという人の話を聞きました。最初は戸惑いましたが、笑顔で戻ってきたといいます。

 受け入れるというのは、自分の安全地帯を出ることです。そこに冒険があり、成長があります。家に迎え入れて泊めてあげることも受け入れる事の一つです。誰かの話をゆっくり聞くのもそうです。

 あなたにとって、受け入れるべき人とは誰でしょう。

 主イエスは、道徳を教えているのではありません。少々謙遜そうな人になりなさいというのではありません。主イエスがしてくれた事に気づき、主イエスに感謝し、主イエスのように生きるヒントを与えているのです。

 主イエスは、あなたに仕えるために来られたのです。神である方が、私たちの罪を洗い落とすために、膝をかがめ、足を洗った行為が十字架です。
 主イエスは、他人に嫌われたあなたを受け入れ、いわば身元引受人となってくださいました。主イエスは私たちを喜び、受け入れ、<この人は、私の愛する子だ、私の子だ、私が推薦する人だ>と言ってはばからないのです。

 弟子たちはすぐには主イエスのような謙遜な人になれませんでした。弟子の一人、ペテロはその晩年に次のような言葉を残しました。様々な失敗を重ねた後、聖霊により内側が帰られた印とみることができます。

 「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(第1ペテロ5:2)
 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(第1ペテロ5:5~6)

 さあ、あなたの番です。身近な人に仕え、自分の場所を出て誰かを受け入れましょう。

信じます マルコ9:20~29

 礼拝と洗車場とはよく似ていると感じるます。まず車内のゴミを吸い取ってもらいます。これは罪の悔い改め。洗剤の泡を付けて汚れを水で洗い落とす。これは、聖霊によるきよめ。最後はエアで水を吹き飛ばし水をふき取ります。これは、みことばと祈りによる励まし。洗車が終わり車に乗ると、ガラスがクリアになって視界が広々します。主イエスの価値観で世界を見ることに似ています。

 さあ、今日は、信じるということを中心にお話しましょう。

1、体にしみこんだ<否定的な考え方>

 男の子が連れてこられましたが、てんかん症状をすぐに現し、転げまわってつらそうにしています。主イエスは質問しました。いつからこうなのか。父親は答えます。幼い時からです。
 主イエスは意図的にこのように質問されたと私は思います。客観的に見るとかなり不思議な会話になっています。必死に息子のいやしを望む父親なら、「先生、そんな事を話している暇はありません。すぐにいやしてください」と言うはずですが、なぜか冷静に受け答えしています。主イエスは、質問を通して父親の問題点をあぶりだしたとみたほうが良いでしょう。
 今まで主イエスに近づいた人は、主イエスによるいやしを信じた人ばかりでした。長血の女、バルテマイ、百人隊長、みな信じていましたが、この男は違いました。次のひとことに父親の内面が表れています。

 「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」(マルコ9:22)

 今までもできなかった。弟子にも直せなかった。主イエスにお願いするが無理かもしれない。父親の一番の問題点は、否定的な考え方です。
 この世の中には否定的な考え方で一杯です。弱い者をバカにする世界。人の失敗を笑いのネタにする社会。仲間と少しでも違えば差別する。そんな影響を受けて、自分で自分を否定的な考えに押し込めてしまいます。
 否定的な考え方は、他人のせいにして最後の落ち着き所を得ます。これでは、成長する機会を失います。愛も勇気も信頼も生かして用いる機会を失ってしまいmす。

 あなたが今、否定的になっている分野はどんな事ですか。
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2、信じる生き方


 息子の問題の解決の鍵は、息子ではなく父親が握っていた。それで主イエスは強い調子で父親を諭した。
 
 「できるものなら、と言うのか。
  信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23節)
 
 父親は一瞬のうちに、何が間違っていたのか気づきました。

 「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24節)

 論理的に考えれば、不信仰な人は信仰を持てません。父の言葉は非合理ではあるが、きわめて正直な気持ちの吐露に当たります。信じられない自分だが、今のまま精一杯信頼すれば良い。
 信じますと真心を口にした事が最初のステップだ。父は自分の弱さや不十分さをしっかり認識している。これも大事なことだ。不信仰な者が主イエスを信じる、これが信仰の実像だ。

 あなたも信じよう。これがあなたを守る。信じる心は、積極的な心だ。あてにならない自分を信じるのではなく、決して裏切らない主イエスを信じることだ。

 28節で弟子たちは主イエスに質問した。なぜ自分たちには追い出せなかったのかと。主イエスの答えは簡潔だ。祈りの欠如が原因だと言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(29節)弟子たちは、今までもできたからと自分の力に頼って男の子に接したのだろう。
 ひざまずき神に祈る姿は、自分の活動を封じて、神にだけ頼る姿勢だ。言葉を代えれば、祈りは無力さの表明だ。信じます、力のない者の願いをお聞きください、と言っているのと同じだ。そういう意味で、弟子たちと、この父親に必要なのは同じ事だった。

 ロバート・シューラー牧師の娘キャロルは、14歳の頃、交通事故で左足を失いました。ソフトボールの選手だった彼女は7回の手術を終えて、父に言いました。私はソフトボールを続けます。父はいぶかって、走れないじゃないかと諭しました。娘は、ホームランを打てば走る必要がないでしょと答えました。筋力トレーニングを強化し本当に強打者になりました。
 家族と船旅に出た時に知らない人に義足をじろじろと見られたキャロルは、夜のタレントナイトの時に舞台に上がり、事故で足を失ったことや、ソフトボールの話をし、次のようにまとめました。自分は義足なので普通の人のようには歩けません。でも人生で大事なのは、どんなふうに歩くかではなく、誰と一緒に歩くかだと思います。主イエスと共に歩いている、ということを伝えたかったのですね。

 否定的な考えに負けてはいけません。人のせいにするのもやめましょう。弱く、欠けの多い自分を神の前で認めながらも、主イエスに信頼し、愛と勇気を奮い立たせて進みましょう。

 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

 

わたしのところへ マルコ9:14~19

 失敗や挫折に陥るのは避けられませんが、適切な方法で立ち上がることはできます。そうやって立ち上がった人は、優しい人や謙虚な人になれます。

1、失敗した弟子たち

 弟子達は失敗しました。

 「お弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」(18節)

 一人の男性が息子を連れてやって来て、治癒してほしいと願いました。17節によれば、おしの霊につかれた男の子で、てんかん発作の症状がありました。あいにく主イエスと3人の弟子ペテロ、ヤコブ、ヨハネは山に登っていて不在でした。そこで残りの9人の弟子たちに願ったのですが、いやすことはできません。
 直せない事から、律法学者らが何かの批判をしてのでしょう。それに答えて弟子たちが反論したのでしょう。いつの間にか、男の子は放置され、議論だけが白熱しました。そこに主イエスが帰ってこられたのです。

 「さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。」(マルコ9:14)

 実のところ、弟子たちは悪霊を追い出し病気をなおす権威を主イエスから授けられていました。(→マタイ10:1)また、実際にいやしてきたのです。(→ルカ10:17)

 失敗や挫折 → 不安や混乱 → 他人のせいにする

 この悪いパターンに入り込んで、脱出できずにいました。

 副牧師になってすぐ、まだ25、26歳の頃でした。冬の朝、車のガラスが曇ったまま私は教会に急ぎ、T字路で右折しました。その直後、強い衝撃を感じました。やってしまった。停車していた車にぶつけたのです。私が一方的に悪いのです。
 その後、事故処理で大変でした。自分の車も派手にへこんで、相手の車にも損傷があります。その夜、教会の代表役員が一緒に頭を下げに相手方の家に同行してくれました。
 あんな場所にあの車がいなけれが良かったのにと勝手な考えをしていた自分でしたが、畳に頭を擦り付けて謝罪してくださった役員の野村さんの姿を通して、主イエスさまの十字架を深く感じることができました。
 
 あなたはどうですか。弟子達や私のような悪いパターンに入っていませんか。 


2、ためいきをつく主イエス

 主イエスはその父親の話を聞いて、ため息をつかれました。弟子たち、父親、律法学者、群集のことを嘆かれたのです。

 「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」(19節)

 29節の主イエスのお言葉は、弟子たちに欠けていたものが何かヒントを与えてくれます。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

 祈りとは、自分の無力さを告白する瞬間であるとも言えます。一切の活動を止め、ひざまずき、ただ神により頼む。弟子たちに足らなかったのは、こういう謙虚さ、信頼、一途さなのかもしれません。
 主は最後にこう言われました。

 「その子をわたしのところに連れて来なさい。」(19節)

 主イエスのところに問題をそのままもっていくことが鍵です。あなたの抱えている課題を主の手にゆだねよう。5000人の給食の奇跡の際にも、同種の事を主は言われました。

「それを、ここに持ってきなさい。」(マタイ14:18)

 あなたの番です。あなたの課題をそのまま主イエスの御手にゆだねましょう。

賜物を生かして仕えることが、幸福になる秘訣 使徒9:36~42

 人は、何かを所有していない時に不幸だと感じます。もしあなたが本当に幸せになりたいなら、自分の持っているものを誰かに与えましょう。
 
1、タビタの生き方

 使徒9章に登場するタビタ(ギリシア語でドルカス)の人柄を表す3つの言葉があります。
1)「女の弟子」(使徒9章36節)
2)「多くの良いわざと施し」(36節)
3)「作ってくれた下着や上着の数々を見せる」(39節)

 タビタはヨッパという地中海沿いの町に住んでおり、「女の弟子」と呼ばれています。キリストに似た者になることを願い、キリストの心を実行する人生を歩んできたので、弟子と呼ばれたのでしょう。使徒の働きで唯一「女の弟子」と呼ばれた人です。
 タビタは病気になり亡くなりましたが、他の弟子たちは遺体の処置を終え、近くを訪れていたペテロを呼びに行きました。死んだのです。本来はどうにもなりません。それでも、弟子たちはいてもたってもいられず、ペテロを急いで呼びに行きました。何かに突き動かされるように、主に期待したのです。タビタの生前の人柄がそうさせたのでしょう。
 ペテロが到着し、遺体の安置されている部屋に入ると、数人のやもめたちがペテロを取り囲み、ドルカスが作ってくれた衣類を見せては泣き崩れたのでした。
 下着や上着の数々は、ドルカスの愛、友情、優しさ、細やかさを表す印でした。「多くの良いわざと施し」をしていた証拠です。ドルカスはやもめたちに慕われていました。

 ペテロは皆を外に出し、ひざまずき祈りました。ペテロは生まれた初めての大胆な祈りをしました。死んだ人を生き返らせてほしいと。そして遺体を向いてこう言いました。「タビタ。起きなさい。」(使徒9:40)
 40節によると、タビタはまず目を開け、次に、ペテロを不思議そうに見つめながら、起き上がったのです。その場の雰囲気を伝える生き生きした表現です。

 タビタは取り立てて能力のある人ではありません。当時の女性なら誰にでもできた針仕事を、誰にもできない形で用いたことがタビタの優れた点なのです。

2、人に与えることは神に与えること

 誰かのために親切にし、愛を具体的に表し、持っている物を与える行為は、究極的には神に対してする行為になります。主イエスも以下のように言っておられます。

 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

 だから、あなたは人に仕えながら、神に仕えているのです。

3、あなたの賜物は何か

 あなたの賜物は何でしょう。リック・ウォレンの説明によれば以下の5つの事柄が私たちの賜物と深く関連した事柄です。以下の空白を埋めてください。

神から頂いた特別な賜物は[              ]              
興味や喜び、夢を持つ分野は[              ]             
あなたの持っている能力・技能は[              ]               
あなたはどんな性格[              ]              
どんな人生を経験してきたか[              ]              

 昨年洗礼を受けられたTさんが昨日天に召されました。高齢であることと、呼吸困難な健康状態で酸素ボンベが必要なので自宅療養されていました。亡くなる前に娘さんたちと祈られたのですが、祈った内容は私たちの教会のことでした。私たちの教会をこよなく愛しておられました。また教会が祝福されることを自分のことのように喜んでおられました。
 タビタとTさんが私の心の中で重なりました。

 最後にもう一つお話したいことがあります。あなたが持っている最大の賜物は、あなたという存在です。あなたがいてくれることが一番すばらしいのです。

 さあ、あなたが持っている能力と物資と経験を誰かのために使ってください。そのとき、あなたは自分が幸せになっていることに気づくでしょう。誰にでもできる針仕事を、誰にもできない方法と愛で多くの人を励ましたタビタを模範にしましょう。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第1ペテロ4:10)

福音を伝えることが、幸福になる秘訣 使徒11:19~26

 マリー・カレンダーズのパイは毎年10月に半額で売り出します。ダブルクリーム・ブルーベリーパイとか、チョコレートパイなど私は大好きなので、最後のチャンス10月31日にも買いに行きました。この情報を誰にでも教えてあげたいな。

 幸せになりたいなら、あなたが持っている最も価値ある情報を人に伝えることです。

1、伝道するのは苦手という人の理由

 伝道するのは苦手というクリスチャンが多い。その主な理由は以下の通りです。あなたはいくつチェックが入りますか。

 □ 伝道できるような霊的コンディションにない
 □ 立派なクリスチャンになっていない
 □ 問題を抱えている
 □ 口べただから
 □ 自分は牧師ではないし、専門の勉強もしてない

 伝道にふさわしい理想的コンディションなど、死ぬまで来ないと私は思います。

2、アンテオケで起きたこと

 アンテオケは地中海から24キロ内陸にある交易で栄えた町。当時のローマ帝国では、ローマ、アレキサンドリアに続く第三の町として繁栄、人口は50万とも言われている。
 主イエスの復活から数年後、熱心な信者の一人ステパノがエルサレムで殺害され、これをきっかけに猛烈な迫害が起こりました。多くのクリスチャンは難を避けるために付近の町へと逃げ出しました。アンテオケはエルサレムから距離にしてざっと300マイル以上北にあり、東京―大阪間より遠いことになります。ユダヤの人からみれば外国です。

 「ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシア人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」(使徒11:20~21)

 キプロス人とクレネ人がギリシア人に伝道し始めると、多くの人がイエスさまを信じました。彼らは、家や仕事や家族を失い、体一つで逃げてきた難民クリスチャン。彼らが持っていた唯一の宝、それが主イエスの福音だ。
 第2コリント4:5、7でパウロも言っているように、伝道は自分の優秀さを語るのではなく主イエスを語ることだ。土の器の中にある宝を伝えることだ。それなら、あなたにもできるはずだ。

 私の経験から言うなら、伝道の熱意を持つクリスチャンのそばにいることが秘訣だと思うのです。仲間と祈り合うとき伝道の思いは強くなります。使徒4:23~24、29~31を見てください。ペテロたちは、官憲に釈放された後に教会の仲間と祈りましたが、さらに伝道が広まるようにとの熱い祈りをし、実際に多くの人が救われていきました。

3、福音を伝えようとすると何が起きるか

 伝道できるコンディションになるのを待つのでなく、<伝道したい>という基本姿勢を持つことが、大事なのです。伝道を真面目に考え、祈り始めるとき、あなたは幸せになっているのです。そういう人は以下のような状態になっていることに気づくでしょう。

・霊的に整えられる
・希望や祈りが生まれる
・聖書がリアルに響いてくる
・あなたの愛が育つ
・聖霊の助けに気づく
・主イエスが身近になる
 
 1950年ころ、ウィリーという名の女子高校生がLAにいました。ハンティントン・パークに近いベル高校の学生でしたが、高校生の仲間にイエスさまのことを伝えたいと真剣に祈りました。そして、友達に福音を伝え始めたのです。救われた仲間と毎朝祈りました。その結果多く人がクリスチャンになりました。ある日、突然校長先生に呼び出されました。あなたが学内の多くの人主イエスを伝えたことにより、学校の雰囲気が良くなりました。授業をさぼる学生が劇的に減少しました。卒業式では、代表の一人としてスピーチして欲しいと頼まれました。その後も主のために証しを続け、現在もラジオで主イエスのことを語り続けている、ウィリー・ジューダンという人の若き日の話です。

 1951年、ビルという30歳の男性はUCLAのキャンパスにいました。大学生に伝道したいという強い思いが神から与えられました。大学生に声をかけ主イエスを紹介しました。その年、250人以上の人がイエスさまを信じました。ビルが考案し、ノートに書きながら伝道した『4つの法則』が用いられたのです。
この働きは現在世界の190の国で働きが広まり、2700人のフルタイムスタッフが働いています。この人がキャンパス・クルセードを創設したビル・ブライトです。

 さあ、あなたの番です。今週、主イエスの福音を必要としている人に出会わせて下さいと祈りましょう。そして、聖霊の助けを頂いて、イエスさまを紹介しましょう。そのとき、あなたは、自分が幸せになっていることに気づきます。
あなたの持ち物や地位やお金や健康やその他、幸せに必要と思えるものすべて失っても、あなたには人に分けることのできる価値あるものを持っています。主イエスの福音です。

 あなたは誰に、あるいはどんな年齢層の人に福音を伝えたいですか。

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「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(第2テモテ4:2)

キリストに似ることが、幸せになる秘訣 ピリピ3:12~15

 価値ある目標は人を幸せにします。目標は、繰り返しの毎日に意義を与え、生きがいをもらたします。キリストに似た者になることを、あなたの人生の目当てにしましょう。

1、パウロを変えたキリストとの出会い(ピリピ3:5~11)

 ハワイからカリフォルニアに来て看護士になる勉強をしていた女性、コリン・ワン・コリンズワースさんがいました。クリスマス5日前、レストランで働いていましたが、1時間も何も注文をしない男性が座っていました。担当のウエイトレスが休憩に入ったのでコリンさんは交代してオーダーを取りに行きました。
 男性はナチョスと水とオーダーしました。2ドル95セント、一番安い食べ物です。チップは期待できません。支払う時に男は100ドル紙幣を出し、「つりはいらないよ、今晩お母さんに電話でもするといい、メリー・クリスマス」と言って帰ってしまいました。家に帰るとテレビで片道99ドルのディスカウントチケットの宣伝をしていて、これでハワイに帰れます。
 看護士になったコリンさんは、クリスマスには誰か同じような境遇の人に自分が受けたと同じようなプレゼントをするようになりました。誰かの親切や愛、生き方に触れて、その後の人生が変わるという経験は珍しくありません。

 パウロは、主イエス・キリストに出会って、価値観ががらりと転換しました。イエス・キリストを知っている事だけで、あとはいらない、あとはちりあくたに過ぎないと言い切りました。
 
 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:8)

 ピリピ2章の前半を見ると、イエス・キリストに出会う前のパウロは、現代人と同じ価値観に生きていたことが分かります。自分の生まれが純粋なユダヤ人であることを誇り、現代風に言えば学歴や能力を誇示していました。また、パウロが生まれつきのローマ市民であることが他の聖書箇所で分かりますが、これはパウロの両親が裕福で社会的地位が高かったことを推測させます。

 キリストに出会ったパウロは、キリストをもっと知りたい、キリストに似た者になりたい、キリストの弟子として生きていきたい、という価値ある目標で心は満たされたのです。


2、人間の努力と神の助け

 パウロの使っている言葉に目を留めましょう。その熱意、努力、集中度はまるでオリンピック選手のようです。

「ただ捕らえようとして」
「追求しているのです」
「ただ、この一事に励んでいます」
「ひたむきに前のものに向かって進み」
「目標を目ざして」
「一心に走っているのです」

 キリストのようになりたいが、自分の現状を知っている者としては、それはおこがましいし、無理だと感じる人が多いだろう。
 心配いらない。聖霊なる神の助け、主イエスによる援助がある。

 第2コリント3:18では、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに御霊なる主の働きです。」と書いてある。ピリピ3章12節では、「ただ捕らえようとして、追求しているのです。それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださる。」と主イエスの励ましが明記されている。 


3、パウロの目指したもの

 パウロは何を目指していたのだろう。以下のようなものを目標にしていたようだ。

1)キリストに似た者 品性の向上、御霊の実
2)キリストの弟子 伝道、弟子の養成、愛の実践
3)キリストをもっと知る 聖書と祈り
4)キリストの栄光を表す 礼拝、仕事、人生の目標設定

 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そしえ、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

 メアリー・デントン(1857~1947)はネバダ州生まれ。若い時にはお互いに愛し合い、一時は結婚を約束したファウラーという名の青年がいましたが、日本人への宣教と女子教育の重荷を神から与えられ、1888年31歳の時に日本に渡り、戦争中も日本に帰らず生涯を日本のためにささげました。
 現在京都にある同志社大学の前身となる学校で、ミス・デントンとで呼ばれ、自分の生活を切り詰め、靴下につぎを当てながら、日本人学生たちの学費や生活費を援助しました。
 アメリカを後にして50年たったとき、一人のアメリカ人紳士がミス・デントンのところを訪れ、「これを神さまのために使ってください」と2万ドルを私に来たといいます。その紳士がファウラーさんでした。一生かかって仕事をして貯めたお金を渡しに来たのです。そのお金でできたのが同志社の女子学生の校舎となったといいます。

 能力や地位に関係なく、歳をとっても、病気になっても持ち続けることができるものが、価値ある目標です。キリストに似る者となる、という目標はあなたにとって価値ある目標となるでしょう。
あなたの人生を貫く目標は何ですか。

 キリストのような品性を目指そう。

 キリストのように行動しよう。

 キリストが願われた事を行おう。

 「キリスト・イエスにおいて上い召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)

愛すことが、幸せになる秘訣 ルカ10:25~37

 「愛されていないから私は不幸」と感じる人が圧倒的に多い。本当に幸福になりたいなら、愛されることを待つのではなく、あなたが誰かを愛せばいい。

1、聖書の教え

 以下の聖書の教えを見るとすぐに気がつくことがある。誰かを愛し始めれば、その状態が幸せなのだ。

詩篇41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。
箴言14:21 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。
使徒20:35 受けるより与えるほうが幸いである。


2、良きサマリヤ人のたとえ

 ルカ10章で主イエスは律法学者と対話していたが、「私の隣人とはだれのことですか」(ルカ10章29節)と律法学者は質問をしてきた。この言葉を聞いた主イエスは、律法学者の思考パターンの欠陥を見抜き、たとえ話を通じて大事な事柄を教えようとされた。

 たとえ話を簡単に説明しよう。人里離れた峠道で強盗に襲われた男がいた。3人の人が順番にそこを通りかかった。神に仕える祭司が最初に来たが、反対側を通って男を無視した。次に、神殿で仕事をするレビ人が来たが、同様に通り過ぎた。3番目に来たのがサマリヤ人だ。宗教的・社会的な観点から律法学者はサマリヤ人を忌み嫌っていた。そのサマリヤ人が被害者の男を助け出した。「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」(23~24節)

 「私の隣人とはだれのことですか」と居直る律法学者に、「だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(36節)と主イエスは迫った。律法学者はしぶしぶ自分の問題点を認めた。主イエスは、「あたなも行って同じようにしなさい。」(37節)と諭された。


3、愛すための3ステップ

 このたとえ話から、人を愛する3つのステップを取り出してみよう。

1)見る
 
 髪型を変えたのに夫はまったく気づかないという不満を私は何十回も聞いている。夫たちは奥さんをまったく見ていないようだ。
 幼児が両親に必ず言う言葉は「見て」だ。砂場で山を作ったよ、滑り台を降りられたよ、100点が取れたよ、とにかく見てもらうだけで子供は愛を感じるのだ。

 サマリヤ人は最初の二人と違って被害者を見た。直視した。それが次のステップにつながった。見ることは、それ自体が愛なのだ。あなたも、身近な人に目を向けてみよう。体を向けよう。ありのままを聞いてみよう。瞳を見つめてみよう。
 

2)感じる

 サマリヤ人はその男を見て、かわいそうに思った。相手の心を感じ取ること、これも愛だ。

日本では『~~力』という本がたくさん出版されている。それに習えば、共感力というものをもっと開発してもよいと思う。相手の立場に立って物事を考えてみれば、自然に優しい心が生まれてくる。非難せずに、ありのままを受け止めよう。悲しみ、痛み、苦しみ、不安、孤独、それらを自分の事のように感じる心が愛だ。


3)動く

 サマリヤ人は、その人に役立つことを具体的に実行した。その場で傷の応急処置を行い、家畜に乗せて宿屋に連れて行き、看病した。その上、宿泊費まで出すつもりだった。義務で動いていない。自然に体が動いてる。

 誰かのために体を動かし、お金を使ったとき、見返りを求めてはいけない。これは大事な知恵だ。お返しを求めないことにより、愛が喜びになる。それが幸せになる。もしも、「ありがとう」の言葉をもらったら、それはラッキーな事だ。水を注ぎだすように、誰かを愛そう。

 働く女性が昼休みにクッキーとカフェラテを買い求め、木陰のベンチに腰掛け、お気に入りの雑誌に目を向け、手を伸ばして袋の中のクッキーをつまみました。テーブルの向かいに座った男性もその袋からクッキーを食べているの気づきました。目が会うと男性はニコリとしました。怒りを抑えて雑誌に目をやりましたが、何度も手を出して食べているのが分かりました。最後の一個に同時に手を伸ばしたとき、男性はそれを半分にし。ニコリと笑って女性に手渡しました。憤然としてオフィスに戻り、雑誌を自分のバッグに入れよう開けてみると、顔から血の気が引きました。自分が買ったクッキーの袋がそのまま入っていたのです。<私が、あの人のクッキーを食べていたんだ> それにもかかわらず、あの男性はニコリとしていました。

 私たちはちょうどこの女性と同じようなものです。神の愛を受けながら、主イエスを無視し、自分勝手に生きてきて、愛されていないと文句を言うようなものです。あなたは神に愛されています。あふれるほどの愛を受けています。その証拠は主イエスの十字架です。この女性は、誰かにクッキーを分けたいと願ったことでしょう。それが愛です。私たちの愛です。

 さあ、あなたの番です。今週、誰を愛しますか。どういうふうに愛しますか。あなたが、周囲の人に愛を届ける震源地になってください。

神を礼拝することが、幸福になる秘訣 マタイ22:34~38

 ひとことで今日のメッセージを要約します。神を礼拝することが、あなたを幸せにします。

 私は確信をもってそう言えます。まず体験的な理由から説明しましょう。

1、神を礼拝すると本当の意味で幸せになる

 数学の表グラフには座標軸があり、0、0の原点があります。それと同様に、礼拝に出ると原点である神を見つめることができ、本来の自分の姿が客観的に確認できます。
 また、神の素晴らしさを見つめることにより、私たちは様々な励ましや慰めを受けることができます。それは、つまり、幸せな状態だといえるのです。
 神に注意深く目を留めると何か起きるかを以下にリストアップしました。

偉大な神  → 謙虚な人になる。
聖い神    → 正直になれる。「ごめんなさい」と言える。
愛の神    → 心が温かくなる。人を愛しゆるす気持ちになれる。
生きている神  → 勇気と希望が生まれる。
 

2、礼拝とは神を愛すこと

 礼拝とは何でしょう。簡単に言えば、神を愛すということです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)
「これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:38)

主イエスは、旧約聖書に数ある律法の中で一番大事なのが神を愛すことだと言い切りました。「キミは愛されるために生まれた」というステキなプレイズの歌詞があり、私も大好きですが、同様な言い方をしてみるなら、「キミは神を礼拝するために生まれた」と言っていいでしょう。

 私たち夫婦には3人の子供がいます。どの子もかわいいし、大好きです。子供が小さいとき私は毎日<大好きごっこ>をしました。「父さんはキミのこと、このくらい好きだよ」と子供をぎゅっと抱きしめます。すると、子供は「僕も大好き」といって思いっきり強く私を抱きしめます。「父さんはもっと大好きだよ」「僕のほうが大好きだよ」
 神は、私たちが胎児の時から私たちを知っていて生まれるのを待っていてくださいました。そして、親が赤ちゃんの世話をする以上に私たちをいつくしみ、守りの手を差し出し続けてくださいました。子供が反抗期に入ると親を無視するように、人間は神を無視します。神がいるなら見せてみろ。神を試験管に入れて実験するかのようにしか神の存在を考えられません。そして、あるとき聖書を知り、礼拝に出るようになり、初めて神に戻ります。

 その時、私たちは、「神さま、あなたが大好きです」と言えるようになります。それが歌になれば賛美歌で、形に表せば献金になります。相手の言葉を何時間でも電話で聞きたい恋人のように、私たちは聖書の言葉を聞き、牧師のメッセージに耳を傾けます。大好きな人が急病になったり臨終になれば飛行機に乗ってでも体を運び「ここにいるよ」と私たちは言いますが、礼拝も同じで、あなたに会いたい、あなたがとても大事な存在だと思うので日曜日に礼拝に行くのです。これからは新しい心をもって礼拝に行くことができますね。


3、短い祈りの勧め

 礼拝に出てさわやかに帰るだけでなく、毎日の生活や職場でも神を礼拝できます。この分野ではブラザー・ローレンスの言葉が実際的で示唆に富んでいます。(詳しくは『敬虔な生涯』を参照)

 1614年生まれのブラザー・ローレンスは修道院で料理係りを長年続けましたが、どんな仕事をしているときでも教会堂で礼拝しているような心を内に持つことができました。学問もなく、作業をしても不器用なローレンスは、神を愛することにおいて熱心で一徹でした。40年もの間、主をいつも覚えていたいと修練を重ねるうちに、料理しているときも、材料を買出しに行くときも、主とともに過ごす秘訣を身につけることができました。
 そのローレンスが、短い祈りが有益であると教えています。ですから、短い聖句、信仰的真理、祈りの言葉などを普段の生活で口に出したり、心で祈ったりすることは大きな助けになります。他人がみれば独り言のように聞こえますが、心を込めて言ってみましょう。恋人たちは同じ言葉を繰り返しますが、それは退屈ではなく、自然なのです。

あなたが大好きです
ありがとう
あなたの恵みを受け取ります
一緒にいてください
あなたは生きておられます
あなたの安らぎを下さい
あなたの平安を感謝します

 もっと主を愛して生きていきたいと思いませんか。ヨハネが黙示録に記録した礼拝に関する印象的なシーンを見て終わりましょう。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(ヨハネの黙示録4:11)

主イエスを信じることが、幸せの秘訣 使徒16:25~34

 これから6回シリーズで<幸せになる秘訣>を話します。

 多くの人は、求めている何かが手に入れば幸せになると考えている。その何かを持っていないなら不幸になる。でも、本当の幸せは、所有するかしないかに関わらず得られるものだ。

1、暗闇の中での賛美

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(使徒16:25)

 パウロは、ピリピの町で無実の罪で鞭打たれ、足かせを付けられた上に投獄された。屈辱、痛み、不快、不自由、未来なしの状態となった。普通なら狂乱状態になるところだ。ところがパウロは、神を賛美し、神に祈り始めた。牢屋にいた人々のために、とりなしの祈りをしたかもしれない。
 我々が苦しみに直面すると、「どうしてですか」と叫んだり動揺したりするが、パウロは神に賛美していた。これが本当の意味での賛美だ。
 幸せは、何かを所有していることや、人より優れていることではない。神がいること自体が幸せなのだ。私のすべてを知った上で見捨てない神がいる。私に命を与え、支えてくださる神がいる。最善をなしたもう神がいる。
 「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)
 私たちもこう告白したい。どんな状況でも幸せでいられる秘訣がここにある。

2、喪失ゆえの自害

 真夜中に地震が起きた。牢獄は揺れ動き、ドアは勝手に開いてしまった。眠りから目覚めた看守は、慌てふためき、確認もせずに囚人が逃げたと勘違いした。今後自分に降りかかる責任追及の厳しさを予想、自殺することが最善と結論づけた。暗闇に目が慣れているパウロは、あやしく光る看守の剣を見て取って叫んだ。
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(28節)
 何かを積み上げれば幸せになると考える人は、失敗が何よりも怖い。けれども、大きな失敗を犯しても、主イエスにあっては、やり直しの道がある。

3、新しい出発―信じる生き方

ここで看守と囚人の立場が入れ替わって、看守が囚人に助けを求めた。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(30節)
 パウロの答えはいたって単純だった。
「主イエスを信じなさ。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
(31節)
 信じることが、看守を救った。ただ主イエスを自分の罪からの救い主として信じた。それで充分なのだ。

 主イエスを信じますかと私が問うときに、「いや、信じることができません」と答える人に出会う。その場合、かなりの人が思い違いをしている。以下にその勘違いの3つの種類をリストアップする。
1) 信じるには100%完全な信仰が必要だと思い込み、自分は不完全だからだめ、完全に信じられるようになったら信じる。
2) 信じたら、マザーテレサのような立派な人に瞬時になるべきだが、自分はなれそうにない。だから信じない。
3) 何をやっても中途半端だった自分だから、信じても生涯続けられそうもない。だから信じるとは言えない。

 こういう人たちの勘違いは、自分の力で自分を救おうとするものだ。よく考えてほしい。僕らは主イエスに救っていただく立場なのだ。自分で救えるほど我々の罪は軽くない。以下にたとえ話をしてみよう。

 身寄りのない日本人男性が、アメリカで手術を受け、日本語の話せる美しいアメリカ人女性に介護してもらうことになった。入院数日後、あなたの洋服や下着を洗濯しますよ、と言われたならどうするか。たいていの独身男性なら、申し出を断り、自分で洗うと言うだろう。けれども重体でベットから出られないのだ。清水から飛び降りる気持ちで洗濯を任せると、その女性は数時間後きれいにアイロンをかけて衣類と下着を持ってきてくれる。主イエスの救いはこれに似ている。

 人に見せたくない自分の罪の失敗、過去の汚れた罪、それを主イエスは残らず十字架で背負って死んでくださった。私たちは、ただありがとう、あなたを信じますと言えばいい。

 その小さな一言があなたの人生を変える。あなたを救うのは主イエス。あなたを変えるのは主イエス。あなたを愛すのは主イエス。

 主イエスをあなたの罪からの救い主として信じよう。そうすれば、牢獄のような暗闇でも、幸せになれる。主イエスを認め、主イエスと共に生きるなら、あなたは幸せな人生に入れる。

山を降りながら  マルコ9:9~13

1、誰にも話してはならない

 主イエスと3人の弟子は栄光の山頂を後にした。山を降りる経験、それは山を登るよりも困難な道かもしれない。
 弟子たちは、心躍る経験を山上で経験した。主イエスの栄光の姿を自分の目で見たのだ。だれかれとなく言いふらしたい内容だが、主は他言をゆるさなかった。

 「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。」(マルコ9:9)

 特別に大きな祝福の経験は、時間をかけてゆっくりと心の中で咀嚼する必要がある。さもないと、大きな奇跡や驚嘆する主の介入を、まるで自分が偉大になったかのような錯覚を持ってしまう。
 大きな祝福の後は、ただ主を賛美しよう。土の器の中に表された神の栄光をたたえよう。それが、上手な山の降り方だ。

2、弟子の質問に答えて

 弟子たちは、主の苦難と十字架の死、そして復活という一連の予告の意味が理解できないでいた。それで、さきほど見たばかりのエリヤに関連して主イエスに質問した。

「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょう」(11節)

 マラキ4:5に「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」という預言がある。律法学者も、救い主が来る前に、エリヤが来ると解説していた。主イエスによると、エリヤはもう来ている、というのが主イエスの答えだ。マタイ11:14では、「実はこの人こそきたるべきエリヤなのです」とバプテスマのヨハネがエリヤの役割を果たしたと説明していた。

 バプテスマのヨハネは結局は殺された、と主イエスは言及された。これは、後に控えている救い主に対しても人々は同様に扱うと暗示している。主イエスの苦難と十字架と死は偶然ではなく、旧約聖書の預言の成就であると、主イエスは弟子達にヒントを出しておられる。実際のところイザヤ53章はまさに、救い主の苦難の預言となっている。イザヤ53:4「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。

 主イエスはどんな質問にも答えてくださる方だ。さらに、その質問をきっかけに、もっと大きくて深い真理を開示してくださる方だ。だから、今あなたが持っている疑問、質問をぶつけてみよう。主の答えを注意深く見つめよう。

3、書いてある

 「エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことをしたのです。」(12~13節)

 12節と13節の主イエスの答えに注目しよう。同じ言葉を繰り返しておられる。マタイ4:1~10を見ると、荒野の誘惑の際も3度も用いたのが「書いてある」という言葉だ。主イエスの力強さの秘訣は、神の言葉に信頼することにあります。

 私はハワイに家族で移り住むにあたり、赤坂の米国大使館で永住権の承認書類をもらった。手にした時は、苦労して祈って待った後だったので本当に嬉しかった。これでアメリカに正式に渡れる。入国審査の際、私の立場を客観的に照明してくれるのはこの書類だ。たとい自分の気持ちに不安が起きても、ここに書いてある、と自分を励ました。たった一枚の紙切れが私たち家族の身分を保証してくれた。聖書は、それ以上だ。救われた事を確信させ、神の愛を分らせてくれる。主イエスが共にいることを教えてくれる。<書いてある>、これは私たちの信仰の土台だ。

 2005年3月11日、アトランタに住む当時27歳の女性アシュレイ・スミスさんの家に突然見知らぬ男が入り込んで来た。聞くと、裁判所から逃走してきたブライアンという男で、4人を殺した凶悪犯だと分かった。男がろう城したのが分ると周辺は警察に封鎖された。恐怖の中でもアシュレイさんは、男に食事を出し、対話を試みた。自分が離婚して傷ついたこと、覚せい剤中毒だったこと、主イエスに出会い人生が変わったことなどを心を込めて話した。リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ライフ)の32章を読んで聞かせた。人は神の下さった賜物を生かして生きるように造られた、あなたもそう生きたらいい。自首して人生をやり直せと勧め、男はそれに共鳴して翌日警官の前に出て行った。
 アシュレイさんは、ブライアンから天使と呼ばれたが、彼女はそれを否定した。つまり上手に山を降りたのだった。

 「1トンの興奮より、1グラムの信仰を大切に」とは、確かスポルジョンの言葉だったと思う。あなたも、素晴らしい祝福経験の山から降りることを学ぶ必要がある。徐々に高度を下げる旅客機のように着陸することが必要だ。歳を重ねることも、仕事をリタイヤすることも、恵まれたキャンプから実生活に帰る時も、奇跡を経験した後も、上手に自分と付き合おう。そして、ただ神をたたえよう。謙虚に生きよう。そして、どんな時も「書いてある」というキーワードに戻って、主の約束と愛を確認しよう。山を降りる経験は、もしかしたら、主の山を上る経験なのかもしれない。

高い山で マルコ9:1~8

1、高い山で起きた3つのこと

主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。 近くの山といえば標高2814メートルのヘルモン山と考えるのが普通ですね。 そこで起きた事は以下の3つです。

1)主イエスが栄光の姿に変わった
2)エリヤとモーセが現れた
3)天から声がした

「それから6日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」(2~3節)
マタイの福音書17:2では「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」とその時の様子を説明している。主イエスが本来持っておられた神としての姿が3人の弟子の前で明らかになりました。神が造られ太陽ですら3秒と凝視できないのが人間です。ですから、神の栄光を言葉で説明するのは不可能といえます。

「また、エリヤがモーセとともに現われ、彼らはイエスと語りあっていた。」(4節)
エリヤは旧約時代を代表する預言者。一方のモーセはイスラエルの民をエジプトから導き出し、神の律法を人々に教えた旧約時代最高の指導者・教師。つまりこの二人は、旧約聖書を代表する人物とみてよい。その二人が、主イエスと語り合うという出来事は、主イエスこそ旧約聖書が預言してきたまことの救い主であるという証明になります。ルカ9:31によれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について話していた」という。
 
 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)
主イエスが公生涯の初めにバプテスマを受けましたが、その際天から聞こえた声と酷似しています。明らかにこれは人間の声ではなく、父なる神の声でした。


2、弟子たちの反応

ペテロたちの反応は2つあります。第1は驚き。第2は恐れです。ペトロはあまりに突然な主の栄光とエリヤらの出現に驚愕し、自分が言っていることすら冷静に把握できませんでした。いわば顕現記念チャペルを建立しますと言ってしまったのです。ペテロたちは、恐怖の念にとらわれました。神の栄光は、日常生活に前ぶれなくやってきます。

日本にいた頃の話ですが、大きな茶封筒が届いたことがありました。どうせ何かの宣伝かダイレクトメールだろうとしばらく開けもしませんでした。数日後、開封すると「おめでとうございます。2名様ハワイ旅行当選です」とあり、こういうタイプのキャッチセールスはよくあるんだ、と思って無視しました。家内が、まさかと思って、発送元のホームセンターに行ってみると、家内の名前で当選発表がしてあり、全国30万人の中から選ばれたということが分かり驚きました。家内は娘を連れて、本当にハワイ旅行を無料で満喫しました。これは小さな出来事で、たわいもないことですが、その後すぐハワイで牧師になるように導かれた事を考えると、神の導きの伏線があったこと驚きました。
神の栄光は、日常生活に突然流れ込む神の力と臨在の強烈な印です。


3、神の栄光がもたらすもの

権力者に捨てられ殺されると6日ほど前、主イエスは弟子たちに予告されました。また、主イエスについて来たい者は自分を捨てる必要があると厳しい姿勢を教えられました。それで、十二弟子は恐れと不安を持ったはずです。そんな時に天から父なる神の声がかかりました。

 「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」 (7節)

主イエスの栄光の姿を目撃し、エリヤとモーセと出会った3人の弟子は、主イエスこそまことの神であるという確証をもらい、たとえ厳しくても主イエスに従う道は正しい道であると確信を強めたはずです。ペテロは、生涯この日のことを忘れず、次のように説明しました。

「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(第2ペテロ1:16~18)

あなたの生活に、主イエスの栄光がすでに注がれていませんか。もう一度、信仰の目で見つめ直しましょう。今、暗黒の中にいるなら、主イエスの栄光が光輝くように祈りもとめましょう。

一人の女性が就職試験を受けました。アメリカでは、<落ちた>という知らせは通常来ません。1ヶ月間何の便りもないので、落ちた事実を認め、どこが足らなかったのか聞こうと電話をかけようとした瞬間、電話が鳴りました。取ってみると、その会社からで、「おめでとう、採用されました」という内容でした。彼女はクリスチャンでした。話し終えてから「やったー」と叫んだのは当然ですが、まるで主イエスの栄光に出会ったような瞬間でした。

主イエスは生きておられます。今も、あなたにご自身を知らせたいと願っておられます。あなたの今週の歩みの中に、主イエスの栄光が届きますように。素晴らしい驚きが来ますように。

十字架を負って マルコ8:34~38

 旅に出かけるとき、普通3つの作業をします。第1に、出かけると決めます。第2に、いらない物を置いていきます。第3に、大切なものを持っていきます。

 主イエスは、人生という旅のために必要な忠告をされました。
1、 ついて行く意志
2、 自分を捨てる
3、 十字架を負う

1、ついて行く意志
 
 主イエスは、すでにペテロやアンデレを招いています。「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)それに応えて、12弟子はついて来ているのです。今日の場面で主イエスが再び「ついて来なさい」と言われたのは、弟子たち心を再点検し、基本姿勢を確認されたとみるべきでしょう。
 あなたは、主イエスについて行くと決心しましたか。主イエスの背中が見えるような人生を送っていますか。
 主イエスについて行くと、はっきり心に決めることは、何よりも大切です。
 
2、自分を捨てる
 
 星野富弘さんの詩は、自分を捨てることに関して深い示唆を与えてくれます。

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあうと知った日
生きているのが嬉しかった

 自分に執着すると、かえって不幸になります。もともと、命は神さまからもらったもの。私たちの所持物も、神の恵みで一時的に手元にあるのです。最後は、何ももたずに、神のもとに帰ります。
 旅に出るときや、遠距離に転居する時も、何が大事で、何が不必要か分ります。それと同じように、一旦自分自身を、そして自分が抱え込んでいるもの全部を神にお返ししてみましょう。
 自分の所持品、自分が築いてきた地位や名誉、今後の計画、大事にしている人々。これらのものを、神の御手に一度お返ししましょう。

3、十字架を負う

 十字架とは、何でしょう。当時の意味では、十字架は死刑の道具です。十字架を負うとは、処刑に使う道具を自分で背負って刑場に歩く姿を意味しました。
 人々の罪を赦すための十字架にかかる、これが主イエスの人生の目的でした。イエスさまの生涯は、目に見えない十字架を担う毎日だったのです。十字架にかかる前の苦しみは筆舌に尽くせないもので、恥と辱めと痛みと悩みに満ちたものです。
 そういう意味から、十字架とは、神の使命達成に付随する苦難ということができます。
 あなたの十字架とはなんですか。あなたの生まれつきの苦難、遭遇した苦しみ、絶えがたい悲しみ、などはあなたの十字架になる可能性があります。けれども、苦しみが自動的にあなたの十字架になるわけではありません。その苦しみを、逃げることなく担う覚悟が十字架を負うことにつながります。
 あなたに託された神からの使命を果たそうとすれば、あなたは様々な苦難に出会います。神の御旨を生きようと思えが、苦しみが発生するかもしれません。その苦しみや辱めから逃げない、これが十字架を負うことなのかもしれません。

 1534年8月、イグナチヨ・デ・ロヨラは、6人の仲間と共に、神にすべてを捧げる誓いをパリ郊外モンマルトルで行いました。その中にいた20歳代後半の男性が、後に日本を訪れ福音を伝えましたフランシスコ・ザビエルです。自分を捨て、自分の十字架を負って、主についていった一人です。

 あなたの人生の旅支度は済みましたか。捨てるものを捨て、負うべきものを勇気を持って負い、主イエスの後についていく、これが幸いな人生の秘訣です。

十字架の予告 マルコ8:31~33

ピリポ・カイザリヤへの途上、主イエスは弟子たちの信仰を注意深く確認した。確かに弟子たちは、主イエスを救い主と心から信じている。これは、十字架の予告をするための必須事項だった。

1、人生の目的を持っていた主イエス

「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」(31節)

 福音書に「人の子」という言葉が81回記録されている。主イエスは、言葉を選んで、必要なときは「私」と言わずに「人の子」という用語を使用された。もし<メシヤ>の称号を使えば、政治的な革命指導者と当時の人が理解していたからだ。父なる神が遣わされた真の救い主を指す意味で、主イエスは「人の子」を用いられた。

 ルカ19:10「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

日本のドラマの居酒屋シーンなどで、「とりあえずビール」というせりふがよくある。(私は酒は飲まないのでこういう場面は体験的には知らない。念のため)同じように、とりあえずこの学校に行こうとか、とりあえず近くの会社に勤めよう、と思う人が多い。だから、とりあえずこの人と結婚するか、ということで、後で随分と悩むことになる。気がつくと、とりあえずの連続で墓の前まで行くひともある。とりあえずの人生で、あなたは本当にいいのか。

主イエスは、ご自分が誰かはっきり認識しておられた。人生の目的は、十字架で死に、多くの人の罪を赦すことだった。そのために生きている。主イエスを貫く心棒は明瞭だった。あなたはどうだろう。あなたの人生を貫く心棒は何だろう。


2、弟子たちへの予告

中学校を卒業する時、女性の先生から特別に色紙を頂いた。そこには筆書きで「人生はお茶漬けのようなもの」と書いてあった。中学生の私には意味が分からなかった。でも、今、少しわかってきたような気もする。その時分からないが、後に分かることもある。

主イエスは、弟子たちの信仰告白のレベルを見て、時が来たと感じられたようだ。弟子を子供扱いせず、主イエスの歩む道を率直に開示する必要を覚えたのだ。これは角度を変えて言うなら、主イエスは弟子を信頼されたという意味だ。
もちろん、弟子たちがすべてを理解できるはずがない。だから段階的に、今回も含めて3回に分けて十字架の予告をされた。しかも、一回ごとに内容を深めていかれた。(→マルコ9:31、10:33、34)

 主イエスは大切な事は、レベルを下げずに弟子たちに教えられた。最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗うイエスは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(ヨハネ13:7)と言われたことは意味が深い。

あなたは、今、理解できない事があるかもしれない。分からない事があるかもしれない。大きな命題を神から示され、困惑しているかもしれない。主イエスは、あなたに大切な事を語っておられる。いつかきっとそれが分かる時が来るだろう。

3、人のことを思う弱さ
 
 ペテロは主イエスをわきにお連れして、いさめた。その同じことばが、主イエスがペテロをしかるときにも使われている。ペテロがかなり強い言葉で言ったことが分かる。ペテロの先入観によると、救い主は死ぬことなく政治的にユダヤを解放してくれると期待していたようだ。主イエスの力をもってするなら、ユダヤの政治権力もローマも武力も、一気に壊滅させられると踏んでいたようだ。

 主イエスの反応は非常に厳しいものだった「さがれサタン」(33)これは、公生涯に入る前の荒野の誘惑で、主イエスがサタンの誘惑を退けた場面の言葉と本質的に同じだ。「引き下がれサタン」(マタイ4:10)

 サタンは、主イエスを十字架の道から遠ざけようとした。最大の誘惑とは、十字架の恥と苦しみなしに人々の王になる事だった。今、ペテロの口をついて出たおそらくは常識的な言葉は、主イエスにとってサタンの言葉と同一のものと受け取られた。

 「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33)常識と思える視点が、ともすると人の目を気にした言動であり、神のみこころに真っ向から反対する場合もある。
 今、人のことを思いすぎて判断がぐらついている事柄がありますか。常識的と見えても、実は神に逆らうことを選ぼうとしていませんか。

 ペテロは、主イエスの十字架の死と復活を身近に目撃し、ペンテコステを経験した後、大胆な人へと変えられました。「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)とユダヤ指導者らの前で発言し、命がけで福音を伝える人になったのです。

最近、人のことばかりを気にかけて、神を忘れていませんか。神のことを思い、神に従うべきです。

信仰告白 マルコ8:27~30

 ガリラヤ湖の水面は海より200メートルも低い。主イエスと12弟子は湖の北岸から一路北に向けて出発した。標高2814メートルのヘルモン山に至る上り坂を進んでいった。その中腹にあるピリポ・カイザリヤには、ヨルダン川水源の一つとされた泉が湧き出ている。人ごみから離れた弟子たちは、水音が聞こえそうな道を登りながら、静かな心になっていたかもしれない。木陰に休んだおりに、主イエスは質問されたのだろうか。非常に大切な質問を二つされた。一つは導入的な質問。もうひとつは核心を突いた質問。

1、 人々は何と言っているか

 (27節)「人々はわたしをだれと言っていますか。」

 イエスさまが公に活動を始める前にバプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に罪の悔い改めを勧めた。この活動を見て、祭司とレビ人が尋ねて来て真剣に質問した。「あなたはどなたですか。」(ヨハネ1:19)この質問は、あなたは旧約聖書が預言していた救い主ですか、という意味だ。これに応えてヨハネは、「私はキリストではありません。」(ヨハネ1:20)と否定した。当時の人々は、日々の苦しい生活がローマ帝国による過酷な占領支配と考え、政治的な解放者を救い主として待ち望んでいた。

 12弟子たちは人々の主イエスに対する評価を3つ挙げた。
・バプテスマのヨハネ→「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」(マルコ6:16)
・エリヤ→「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4:5)
・預言者の一人→「ひとりの預言者をあなたのために起こされる」(申命記18:15)

 実は、これ以外にもイエスさまに対する見解はいくつかあったが、弟子たちはは無視した。
・ナザレの人々→この人は大工だ。ヤコブ、ヨセ、ユダの兄にすぎない。(マルコ6:3)
・律法学者→イエスは悪霊に取りつかれている。(マルコ2:22)

 現代も主イエスについての評価は色々ある。四大聖人の一人とか、思想家、哲学者、道徳の教師、革命家など。

2、 あなたは何と言うか

 (29節)「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 キリストとは、イエスさまのラストネームではない。ヘブル語のメシア(油注がれた者)をギリシア語で表すとキリストになる。キリストとは、旧約聖書で預言されていた救い主のことを指す。
 ペテロは主イエスの質問を聞き、今まで過ごした主イエスとの年月を振り返ったことだろう。盲人の目を開ける奇跡、ヤイロの娘をよみがえらせた力、ガリラヤ湖の上を歩く姿、5千人にパンを与えた出来事など思い起こし、山上の垂訓など主イエスの深遠な教えを振り返ったことだろう。

 ペテロの答えた、「あなたはキリストです」(29節)。

 ペテロは確信を持って答えた。人々の意見に流されずに答えた。

 フランスの数学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)は、イエスさまを救い主として受けれた出来事を以下の言葉で表現している。
 「歓喜、歓喜、歓喜。火、イエス・キリスト。哲学者の神にあらず。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
 パスカルは上着の襟にこの言葉を書いた羊皮紙を縫いこんで、生涯離さなかったという。

 あなたも、ペテロのようにはっきり信仰告白しよう。あなたは、私の救い主です。私のような者を救ってくださり感謝します。私はあなたを誇りとします。あなたを目標にして生きて生きます。
 実は、小さな信仰告白に様々な意味が込められている。信仰告白とは、単なる今の感想で終わらず、生涯継続するものだ。プロポーズの言葉が、その時だけで終わらず、一生連れそうという決意であるのと良く似ている。
 あなたにとって、一番大事な人、イエスさまとずうっと一緒に生きていこう。誰にでも胸を張って紹介しよう。信仰告白は、イエスさまこそ私の救い主であり、私は生涯あなたといっしょに生きて行きますという表明なのだ。

何か見えるか マルコ8:22~26

1、手を取るイエス

ベツサイダは「漁師の家」という意味の町。ガリラヤ湖畔の町で、北から川が注ぐ付近にある。主イエスと12弟子の一行が訪れると、一人の盲人男性が連れてこられた。さわってほしい、とはつまり癒してほしいという意味だ。
主イエスは、わざと人々の目の前でいやさなかった。病気のいやしをテレビや大規模な集会でクローズアップするキリスト教の流行とは、まったく対極にある。いやしは見世物ではないのだ。

 「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた」(23節)

主イエスは、盲人の手を取り、静かな場所を探して歩かれた。しばらくの間、盲人は何かを話しただろう。「あなたがうわさのイエスさまですか。病人をいやすというのは本当ですか。あなたはどなたですか」
 
盲人は、文字通りに言えば、主イエスの後に従う人になっていた。主イエスを信頼して歩く人になっていた。人々の興味本位の目から遠ざけてくださった。主イエスの心は温かい。信頼できる人だと気づき始めた。
 主イエスは、興味本位で否定的な世界からあなたを連れ出すお方なのです。


2、段階的に導くイエス

(23節)「両手を彼に当ててやって、『何か見えるか』と聞かれた。」

普通、主イエスは一瞬で病をいやします。長血の女も主イエスの衣に触れた瞬間に直りました。中風の男もたちどころに歩けるようになりました。ところが、主イエスは、段階的に盲人をいやされました。なぜでしょう。

おそらく、盲人の信仰を引き出すためでしょう。自発的信仰を与えるためでしょう。いやしのショーの実験動物の立場から、ひとりの信仰者へと導くためです。

「何か見えるか」という主イエスの問いに、男は真剣に見ようと試みます。歩いている木が見えてきて、期待が高まったでしょう。もっと見たい。完全に見えるようになりたい。主イエスさま、あなたを本気で信じます。いやしてください。

主イエスは今日もあなたに問いかけています。何が見えるか。あなたの内面で起きている信じる心の変化は何ですか。あなたの問題の中で起きている、希望の光が見えますか。



3、新しい出発を促すイエス

 「すべてのものがはっきり見えるようになった。」(25節)

男は、ついに完全にいやされました。もう昨日までの自分ではありません。ここで言われた主イエスの助言はちょっと不思議に聞こえます。

(26節)「そこでイエスは、彼を家に帰し、『村にはいって行かないように』と言われた。」

なぜ、村に入るなと言われたのでしょう。男に新しい方向性を示された、と考えることができます。当時の盲人は、地べたに座る乞食としてしか生活できませんでした。見下げられた極貧の人々でした。もう昔の世界に戻るな、自分の家に帰り目が見えるようになったことを告げ、別な町に働きに出て行き、人生をやり直せ、という励ましの言葉として私には受け取れます。

主イエスは今日、あなたにどんな新しい道を示されましたか。

主イエスは、あなたの手を取り否定的で興味本位な世界から引き出すお方です。そして、あなたを段階的にいやし、あなたの信仰を引き上げる方です。最後に、あなたに新しい方向性を示してくださる方です。主イエスの手をしっかり握って離さないでついていきましょう。

まだ悟らないのですか マルコ8:1~21

 学生で、宿題やレポートをぎりぎりに出す人がいます。礼拝で手を手を上げてもらいましたが、ほとんどの学生はラストミニッツ型ばかりでした。大人の人は、税金書類をぎりぎりに出す人は、思ったより少なかったです。
 あなたの直面する問題は、かつて経験した問題と類似点がありませんか。経済的問題、人間関係、家族の問題、病気の問題、あのとき主が助けてくださったなら、今度も主にすがったらどうでしょう。ところが、なかなかそうはいかない。今日登場する弟子たちを責められませんね。

1、なかなか悟らない弟子たち

 弟子たちは同じ失敗を繰り返しました。かつて主イエスは5000人をわずかなパンで養うという奇跡を行いましたが、弟子たちはすっかり忘れています。
 「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」(4節)
 主イエスに信頼しきっている弟子なら、「イエスさま、前回と同じように、この人々の空腹をいやしてください」と願い出ることもできました。でも、それができないのです。

 その後は弟子たちは、パンを持ち帰ることを忘れたため、お互いに言い争いました。
 「パンを持ってくるのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。」(14節)
 「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論になった。」(16節)
 主イエスは、そういう弟子たちを見て、今までの二つの奇跡に言及し、次のように言われました。
 「まだ悟らないのですか。」(21節)

 人というものは、過去の経験から学んでも忘れやすいものですね。

 あなたは今、困難に直面していますか。その困難とは何ですか。かつて経験した悩みに似ていますか。
 
 今までと違う方法で、問題にアプローチしてみましょう。主イエスをあなたの前に置くのです。主イエスと二人で問題に当たるのです。かつて主イエスが助けてくださったなら、同じように主イエスに信頼できますね。

 森永太一郎(1865-1937)は九州伊万里の人ですが、22歳でアメリカに渡り、親切なアメリカ人クリスチャン夫婦に導かれ洗礼を受けました。日本にいったん戻り、伝道しましたが成果がなく、アメリカの菓子を日本で売る仕事をしようと再び米国へ、33歳で帰国。赤坂に2坪の敷地で仕事を始め、マシュマロなどを売り始めます。透明ケース付きの屋台に菓子を入れ、上には看板を取り付けました。そこには、<キリスト・イエスは罪人を救うために世に来たれり。義は国を高くし、罪は民をはずかしむる>と書いてありました。
 事業成功後、信仰の意欲が鈍りますが、妻の死により熱意が戻ります。関東大震災のおりには、保管していた菓子すべてを被災者に配りました。69歳で退職後は、日本各地を巡り「我は罪人の頭なり」と題して伝道を行いました。

2、自分のゆがみに気づかないパリサイ人

 パリサイ人は、自分は真面目で純粋だ、主イエスが本当の救い主か調べている、と思い込んでいました。実のところ、頭から信じる気はなかったのです。あら捜しをしているだけでした。
人は、自分のゆがみに気づかないものだ。

 歳をとると年輪を重ねた大樹のようになるのかというと、そうでもありません。ばあさんという言葉の前には「意地悪」が付きやすいし、爺さんという言葉には「頑固」が付きやすいのはなぜでしょう。心の傾きを持ったまま歳をとるので、悪い傾向が増加し、固定してしまうのです。

 「イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」(12節)

 あなたのゆがみは何でしょう。あなたの心の傾きは何でしょう。あなたの弱さは何でしょう。
その部分に主の恵みがしみこむといいですね。

 小林富次郎(1852-1910)は、36歳でクリスチャンになりました。後に、宮城県石巻に工場を作り、フランスの機械を取り付けました。北海道から木材を多量に買い付け、マッチを作る予定でした。ところが大洪水で原木すべてが流され、工場は浸水、進退窮まり、北上川にかかる橋に出かけた夜、自殺するつもりでした。そのとき、神戸の長田牧師からもらったはがきに書かれていたみことばが心に突然きらめくように現われました。

 「すべての懲らしめはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になるとこれによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)

 それで、自殺を取りやめ、心機一転東京で石鹸とマッチの取次ぎ商店を始め、後にライオン石鹸として有名になりました。

 今日は、二人の明治時代のクリスチャン実業家の話をしましたが、それぞれ、再起、やり直しの物語です。困難に信仰によって立ち向かったものストーリーです。

 今度はあなたの番です。主に嘆息されるクリスチャンは卒業しましょう。まだ悟らないのですか、と言われるのはこれで最後にしましょう。
 主イエスさまを、あなたの前に置く人になりましょう。

「私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)

主の計画 創世記45章

 1944年、コーリー・テン・ブーム(Corrie ten boom 1892-1983)は占領下のオランダでドイツ軍に逮捕された。コーリーは52歳のクリスチャン女性で、ユダヤ人を保護した理由で捕らえられ、ラベンスブルクの収容所に送られ、その間に父も姉も死亡、からくも事務処理の単純ミスで釈放された。戦後ドイツで後援を行い、礼拝で神の赦しを語った後、見覚えのあるドイツ人男性が前に進み出た。残酷きわまりない看守がクリスチャンになっていて、「私をゆるしてくれますか」と手を差し伸べてきた。コーリーは、祈りながら手を出した時、電流が流れるようにして神の愛を感じた。


1、心を開く

 赦すとは何だろう。それは、自分の心を開くこと。また、握り締めていた武器を捨てること。

 ヨセフは本来兄たちを赦すつもりはなかった。ところが、ユダの真実な心に触れ、涙と共に冷たい心が流れ去った。

「ヨセフは兄弟たちに言った。『私はヨセフです。父上は元気ですか。』」(創世記45:3)
「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」(45:4)

 ユダの真実な心に触れたとき、ヨセフは頑なな態度を一変させ、泣き崩れた。優しい心や真心に触れると、温かい気持ちがわいてくる。

 ヨセフは、隠していた自分の素性を明らかにし、予定していた自己本位の計画を捨て去った。ヨセフは言葉で、「ゆるす」とは言っていないが、言葉と態度が赦しを物語っている。

 あなたの敵対者は誰ですか。あなたは、いつまで自分の本当の優しさを隠して生きていくのですか。手に握り締めた憎しみと復讐という武器を捨てましょう。すべて捨て去った手で、その人を抱きしめればいいのです。

 ドクター・ドブソンの本に、グレッグ・クレブスさんとその息子の話がでていた。生まれつき体が不自由で、脳性麻痺で生まれたクリスが7歳のときのことです。父親は妻の職場の病院に息子を連れて待合室で帰りを待っていました。近くにホームレスの男性がいました。父親が妻の残業が終わる時刻を尋ねて戻ってくると、男が声を殺して泣いていました。「すみません、息子が何かひどいことをしでかしましたか」と尋ねると、「俺は20年間、誰にも抱きしめられたことがなかったが、おたくの坊やがさっき私をハグしてくれたんだよ」と応えました。

 人の優しさに出会うと、私たちは心が一変します。敵対している人にも、そんな真心が隠れています。神が、その優しさをあなたに見せてくださいますように。
 

2、神の計画に気づく

 ヨセフは兄たちを赦しただけでなく、神の大きな計画に同時に気づきました。

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(45:5)

 振り返ると苦悩の多い人生でしたが、そこに神の計画があることをヨセフは理解しました。17歳の時に見た夢は、神の計画をあらかじめ私に知らせてくださったのだと合点がいきました。

 神の目的とは、神の期待と言い換えることができます。人間にとって最も幸せな人生は、神の目的、計画に沿った生き方をすることです。

 あなたは自分の欲望を達成するだけの、ちっぽけな人生を送るだけで満足ですか。

 ギャリー・ホーガン(Gary Haugen) ハーバード大学、シカゴ大学を卒業の法律専門家で、南アフリカのアパルトヘイイト処理でツツ主教の下で働き、フィリピン警察や軍隊の権威乱用問題に対処、米国司法省で働いた後、国連で人権問題に取り組み、International Justice Missionを創設してアフリカやアジアでの寡婦、孤児問題、人身売買、奴隷、監禁、拷問などの問題に12カ国以上で対処している。正義の働きは、神の働きとして、祈りながら実際的に対処している。こうした生き方に私は感動します。

 バイオラ大学で25年学長を務めたクライド・クック学長(Clyde Cook 1935-2008)が今年4月11日に召された。クック学長は、ご自分が何のために生きているのか明瞭に理解しておられた。多くの学生は、学長と学生食堂で話した、学長は私の名前を覚えていた、そっと昼食代をおごってくれた、娘が入院したときお見舞いに来てくれた、大学職員の結婚式には必ず出席した、そして、ある卒業生は「学長は毎年きまって、留守番電話にハッピーバースデイの歌を吹き込んでくれた」と語った。世界を変えるために学生を育てるという目的のため生涯をささげた人であった。

 あなたはなぜ、カリフォルニアにいるのでしょう。神は、あなたに何を期待しておられるのか。これから、神のために何をしますか。

 ヨセフが自分の目的に気がついて、世間の評判とか、地位とか、一切気にしないで、神のために生きた姿は実に爽快です。次はあなたの番です。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。」(エレミヤ29:11)

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。」(箴言16:1)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

 7月2日日本で14階建てビルの12階部分のひさしに38歳の女性が乗り、飛び降り自殺を図ろうとした。高さは地上50メートル、幅は75センチしかない。
 消防隊員がはしご車で近づき説得すること30分。「みんなが心配してるよ」「私のことなんか誰も心配していない」背中を向けた女性のベルトをつかんで、消防隊員は命綱で自分と女性をつないだ。抵抗して暴れた女性に、「あなたが落ちれば私も一緒に落ちるよ」と声をかけ、救出された。

 私はこのニュースを知って、イエス・キリストの十字架を思い起こした。イエス・キリストは、まさにあなたに命綱をくくりつけ、あなたは私の目に高価でたっとい、私はあなたを愛しているよと言っているように私には感じられる。主イエスはあなたを期待している。その愛にこたえよう。

この子の代わりに 創世記44章

 あなたが仲間や家族と一緒にレストランに行って、一人だけオーダーした食事が出てこない時、あなたならどうしますか。ウエイトレスに文句を言ってあげる人、料理が来るまで自分の分を食べない人もいます、そうかと思えば、冷めてしまうので先に食べるという人もいます。自分の分を分ける人もいます。あなたはどのタイプですか。
 人というものは、自分本位ですね。

1、ヨセフの悪意と自分本位

 ヨセフが奴隷に売られたり牢獄に入れられた時には、主が共におられる、という聖書の記述が続きました。けれども、ヨセフがエジプトの宰相になった後、そのようなコメントが消えてしまいました。

 「私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」(創世記44:2)

 兄たちと再会した際に、ヨセフの悪意や復讐心が表面化しました。兄たちにスパイの嫌疑をかけたり、投獄したことに、ヨセフの暗黒部分が表れています。今日の箇所では、ベニヤミンひとりを残す口実として、杯を盗んだように工作しました。血のつながった兄弟ふたりで再会を喜び、一緒に暮らす計画だったと思われます。

 みんなで撮影した写真をもらったとき、あなたは最初にどこを見ますか。そうです、自分ですね。完成した卒業アルバムを見て、良くできているかどうかの評価は何によって決まりますか。自分が良く映っているか、たくさん登場しているかで判断します。

 ヨセフの心には、明らかに悪意と自分本位、過去を引きずる思いがありました。あなたの心には今、何が隠れていますか。

2、ユダの変化

 ユダは、約22年前、ヨセフを奴隷に売るようにと提案した冷酷な人間でした。ところが、ベニヤミンの袋からヨセフの銀の杯が見つかったとき、神が自分の罪を暴かれたと理解したのです。ユダの心には、神の語りかけを聞ける謙虚な心が備わっていました。

 「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。」(16節)

 ヨセフを見捨てた冷たい兄たちです、22年前と同じ態度に出て、ベニヤミンを捨てて帰るだろう、とヨセフは予想しました。ところが、突然のユダの申し出がヨセフを激しく揺り動かしました。

 「このしもべを、あの子の代わりに、あなたの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(33節)

 ユダは、わがままで、えこひいきな年寄りとなった父を受け入れ、他者の幸せを喜ぶ人に変わっていました。今のユダは、昔のユダとはまったく違う人になっていました。

 人は、こういう真実さに心動かされ、目が開かれていくものです。あなたの生活でも、きっと同じようにして神が働かれる場面があるはずです。今週は、あなたの身近な人が示す真実さに注意を払いましよう。
 また、あなた自身が、純真な心を取り戻す週としたいですね。
 

 

ベニヤミン 創世記43章

1、ためらい

 「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに2度は行って帰って来られたことでしょう。」(創世記43章10節)

 高齢のヤコブ(イスラエルと呼ばれている)は大家族の長であったが、執着、溺愛、わがままのため、適切な決断ができなかった。エジプトに息子達を派遣し、穀物を買い付けないと一族が死に絶えてしまう。
ヤコブの目を覚ましたのは、4男ユダの捨て身の提案だった。(9節)

 問題の種類によっては、先延ばしすればするほど悪化する事がある。虫歯を放置したら良い事はひとつもないのと同じだ。<ためらい>それ自体が、自分を窮地に追いやる。
 
 あなたが今、ためらっていることは何ですか。良い事なのに、行動を起こさないのはなぜですか。神が喜ばれると知っていながら、あなたは動かない。今が、アクションを起こすときだ。

2、全能の神

 神はかつて、全能の神としてご自身をヤコブに現したことがあった。

「神はまた彼に仰せられた。『わたしは全能の神である』」
(創世記35:11)

 そのときから約30年が過ぎていた。ヤコブは長い期間、横道にそれていた。ついにヤコブは神への全幅の信頼を取り戻した。

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失うときには、失うのだ。」(14節)

 あなたの信じている神は、お財布を無くした時に見つけてくれる便利屋程度のお方なのか。学校のテストで、4択問題の回答をくれるだけの方なのか。

 ヤコブは、全能の神にすべてを任せることにした。たとい大切なものを失うようなことがあっても、主の最善を信じることにした。

 羽根田敏さん夫婦はクリスチャン医師としてネパールの田舎の病院で2003年から07年献身的に働いた方々です。その間、ネパール王政に対する反政府運動が高まり、各地でデモ行進が起き、道路が封鎖されました。日本から来ていた女性ゲストの帰国に合わせ、危険を感じていた羽根田さんたちも帰国する決意をしました。唯一動いていた外国人観光客用バスを待って、バス停前のレストランで待つこと2日。ためらっていてはいけない、と最終手段に打って出ました。病院の救急車を出し、ゲストの女性には急遽患者になってもらい、点滴をしながら検問所を5、6箇所突破、無事にカトマンドゥに到着しました。レストランでともに聖書を学んだとき、不思議にも表を行進する数千人のデモ隊にも恐れを感じなくなりました。全能の神は、道を開いてくださいました。

 あなたは、全能の神を信じていますか。全能の神に自分自身と問題のすべてを、しっかりとお任せしましょう。

希望に溢れています  ローマ5:1~5

 主イエスを信じてクリスチャンになった人には、いくつかの特徴が見受けられます。今日は、その特徴を6つ取り上げてみます。それらの特徴は、努力の結果ではなく、神からのプレゼントと見るべきでしょう。

1、ごめんなさいと言える人

自分が罪人だと心底気づいた人は、神に「ごめんなさい」と言える。そういう人は、人にも「ごめんなさい」と言える。私の高校時代、ある女子高校生がクリスチャンになった後、心に刺さる過去を思い出しました。電車でキセルをして罪を神に示され、駅長に謝りに行き、弁償しようとした話を聞きました。私は、驚いたし、胸を刺されました。
クリスチャンになった人は、ごめんなさいと言える人になりますね。
ローマ4:7~8「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

2、ありがとうと素直に言う
 罪深い私のために、主イエスが身代わりになって十字架で死んでくださった。それで、主イエスに「ありがとう」とクリスチャンは言います。それで、どんな小さな事に対しても感謝の心が出てきます。生かされていること、命があること、健康であること、家族がいること、小さなことを感謝できる人になります。

3、心が落ち着いている 
主イエスを信じると、神との根源的な平和が与えられる。だから心が落ち着くのです。神を知り、主イエスの十字架の愛を知った人は、心が静かになります。実は、この平安こそ、人間が求めている基本的幸福なのです。
『NHKラジオ英語会』で有名な講師、東後勝明先生は、人の一歩前に出るが信条で他人を寄せ付けないほど仕事に追われていたので家の飼い猫も寄って来なかったそうです。イエスさまを信じて救われたら後、そのネコがひょいと膝に乗ったそうです。動物は、ひとのかもし出す殺気や平安を見分けられるのですね。

4、神の栄光を願う人
主イエスを信じると、主イエスのために生きていきたいと自然に思います。それで、自分のことはどうでもいい、神の栄光が表れてほしいと願います。それで、「私にやらせてください」とか「やったことがないけど、やらせてください」と言えるようになります。
よく言われるように、JOY(喜び)にはある種の法則があるらしい。最初に求めるものはJ:Jesus、次はO:Others、最後はY:YOURSELVES。これは律法として守ることではなく、人間の心の底から湧いてくる自然の情となるときに本物になる。

 ここまでが、1節から3節までの部分だ。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たち立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
主イエスに救われ、変えられと、今までと異なる価値観で生きるようになる。それが、次の特徴になって表れる。」
 義認による罪の解決をプレゼントとして受けると、「ごめんなさい」と「ありがとう」となる。それに続くのが、恵みの実感。そして神の栄光を求める姿勢につながる。そうなった人が、次にことが言える。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(3~5節)

5、苦しみの受け止め方が違ってくる
 試練や苦しみは辛い。貧乏くじを引いたとか、なぜ私だけ苦しむのか、と後ろ向きになるのでなく、主イエスが共におられる、主イエスが共に苦しんでくださる、その中で患難、忍耐、練られた品性という希望の連鎖があることに気づく。根本的な価値観に変化が生まれる。

6、希望が与えられている
 本当の希望は、人間の計算を超えたところにある。まるで、突如目の前に現れる鮮やかな虹のようなものだ。“上から”降って来るもの、与えられるものです。

今日は飯島寛子さんに礼拝の中で体験談を話していただき感謝でした。夫で、世界的ウィンドサーファーだった飯島夏樹さんが書いた『ガンに生かされて』のあとがきを読み、私は一瞬固まりました。

「以来、今に至るまで、体調は悪化しても、心は希望で溢れています。」

 飯島夏樹さんは肝細胞癌になり、数度の手術を受け、最後は治療方法が無くなり余命宣告を受けてハワイに移住、自宅で半年以上闘病生活を続けました。教会の仲間の一人として私もその姿に大きな感銘を受けました。腹水を3度抜いた後、天に召される5日前に書いた文章がこの文章です。なんという突き抜けた姿勢でしょうか。主からの希望を頂いて走りぬけた爽快感がそこにあります。 
 
 あなたには、どの特徴が与えられていますか。そして、あなたが今日、一番ほしいものは上記の中で、どれですか。主イエスに願いましょう。

再会 創世記42章

1、隠れていた怒り

 ヨセフは当時38歳前後、幸せで満ち足りていた。結婚して二人の息子が生まれ、地位と名声を得て働き盛りの真っ最中にいた。夢の解き明かし通りに豊作が7年続き、やがて凶作の時期に入った。ヨセフは外国から穀物を買い付けに来た人々を監視していたが、とんでもない人物たちが目の前に現われた。兄たちだ。自分を奴隷商人に売り飛ばした兄たち10人だ。

 ヨセフは意図的に荒々しい言葉を使い、スパイの嫌疑を一方的にかけた。(7節)自分も気づかないくらい憤っていた。兄たちの言葉、「正直者でございます」(11節)、「もうひとりはいなくなりました」(13節)を聞いて苛立ちはいっそう激しくなった。

 ヨセフは無意識のうちに意地悪な処置を言い渡し、10人を一時軟禁した。

 あなたにも、隠れた怒りがあるかもしれない。まるで地雷のように普段は隠れているが、何かの拍子に、死んでいた凶暴な怒りが頭をもたげることがある。
 あなたの隠れた怒りを発見する方法がある。ある事柄やある人の話題に触れただけで、極端に無口になる、攻撃的になる、冷たくなる、という事があれば、それがあなたの隠れている怒りだ。

2、涙が生み出すもの

 ヨセフは3日間、兄たちを牢に閉じ込めた後、「私も神を恐れる者だから」(18節)と本来のヨセフに近づき始めた。さらに、通訳を介さずに兄たちの言葉が耳に届き(21節)、ヨセフは心を揺さぶられた。兄たちは、悔いている。兄たちは、反省している。神から罰を受けたと自分達の行為を責めている。
 「ヨセフは彼らから離れて、泣いた」(24節)涙が何かを流し出した。ヨセフが抱えていた怒りの一部が流れ出た。ヨセフは、変わり始めている。
 
 あなたの番です。一番身近で大切な人の本音が聞こえれば、あなたの心も変わります。神がヨセフに兄たちの肉声を聞かせてくれたように、神は同じことをしてくださいます。心の耳を開きましょう。“敵”の心すら、親身になって聞くことさえできます。心の耳を澄ませてくださいと祈りましょう。それが、身近な人との和解の第一歩です。

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」(詩篇37:7)
「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。」(詩篇37:8)

 


 
 

新しく生まれる 第2コリント5:17

 日本語、ギリシア語、英語で第2コリント5:17を見てみましょう。新約聖書はギリシア語で書かれています。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5:17新改訳)
 ὥστε εἴ τις ἐν Χριστῷ, καινὴ κτίσις• τὰ ἀρχαῖα παρῆλθεν, ἰδοὺ γέγονεν καινά. (ギリシャ語)
 Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come! (NIV)

 今日は、男性3人がビーチで礼拝後洗礼を受けます。嬉しいです。礼拝の中で3人の方が、どのようにしてイエスさまを信じるようになったかを話してくれました。

 今日の聖書箇所に注目しましょう。まず、「だれでも」と書いてあります。泥棒でも、殺人犯でも、詐欺師でも、どんな人でも「だれでも」の中に入ります。あなたも、もちろんその一員です。どんな人でも、「キリストのうち」(ἐν Χριστῷ in Christ)にあるなら例外なく人生が変わります。

 主イエスを信じる行為は、自分の中にイエスさまを取り込む事と理解されがちです。でも聖書によれば、これは逆です。信じた私たちがイエスさまの中に取り込まれているのです。イエスさまの愛の中に入れられました。主イエスの守り、いのち、平安の中に招き入れられたのです。主イエスの命が届いた人は、どんどん変化していきます。変わるのではなく、変えられるのです。信じて飛び込むというより、主イエスに迎えられるのです。

 主イエスを信じた人は、新しく造られたものです。「造られた者」とはギリシャ語本文ではκτίσις(creation)と書かれています。これは、他の箇所で<被造物>、<創造>、などと訳される言葉です。主イエスを信じた人は、神によって新しく創造されたものなのです。

 別の言い方をすれば、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」となります。新しくなったという言葉はギリシア語でγέγονενです。完了形が使われていることから、神が私たちを作品として造ってくださり、それが完成したことが分ります。私たちは、神による作品なのです。
  
 主イエスさまを信じた多くの人が異口同音に言う感想があります。「自然が美しく見える。見えるものすべてが全然違う」周囲のものは以前と同じですが、自分が変化したのです。

 エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。」

 主イエスだけが、あなたを、新しく創造してくださる方です。主イエスにあなた自身をお任せしましょう。

神の霊の宿る人 創世記41章

 ユダヤ人ヨセフは、17歳の時に奴隷に売られ、数奇な運命をたどり30歳にしてエジプトの宰相となって(41:46)国家的な危機を救いました。「神の霊の宿る人」(36節)とエジプト王に賞賛されたその人、ヨセフはどんな特徴を持つ人だったのか。

1、生きておられる神

30歳のヨセフは、監獄から突然呼び出されエジプト王の前に出ました。王の見た夢を解き明かすようにとの命令でした。夢を解く能力を王に指摘されると、ヨセフは思わず次のように語りました。
 
「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」(16節)

抽象的な神、あるいは思索上の神、それらには何の意味もありません。神がともにおられる人、ヨセフは、生ける神を身近に知っていました。それで、臆することなく生ける神を紹介しました。

本当に謙遜な人とは、ヨセフのような人です。自分の、能力も、知識も、理解力も、生まれも、技術も、経験も、努力さえ、神から頂いたものと理解しています。その上で、必要な時には、おしげもなく他人や神のために自分を差し出す人、それが真に謙遜な人なのです。

 あなたの信じている神は生きておられますか。あなたは、頂いた能力を“謙遜”に用いていますか。

2、生きて働く信仰

 「パロは、国中に監督官を任命するよう行動を起こされ、豊作の7年に、エジプトの地に、備えをなさいますように。」(34節)

ヨセフはエジプト王に今後の計画を進言しました。「備える」とは、5分の1を取ること。つまり20%の租税を豊作時に集め、凶作の7年に備える計画です。ヨセフの信仰は抽象的な信仰ではありません。具体意的で、生きて働くものです。
豊作時を通常の120%の収穫とみなし、20%の租税をかけると、全収穫の24%が備蓄できます。これを7年続けた後に、凶作の年は租税を免除、政府が24%を配給すれば、たとえ通年の60%の収穫でも84%を利用できます。(詳しくは前原利夫師著『聖書が語るビジネスの基本』を参照)

「あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」(ピレモン6)

渡辺潔氏(1889-1977)は17歳で主イエスを信じ、25歳から牧師として働き、45歳の時に米国の神学校で学んだ人です。太平洋戦争勃発に伴い、英語能力のゆえに52歳で香港に遣わされ、捕虜収容所で通訳の働きを日本政府から命じられました。捕虜の置かれた悲惨な状態と、白人達に対する日本兵の残虐行為に驚き、一人で神の前で跪き祈りました。それ以来、外部からジフテリアなどの血清、医薬品、食料などを密かに収容所に持ち込み、救援活動を始めました。
渡辺氏の行為が明るみに出た後、死刑が言い渡されましたが、からくも終戦を迎え命は助かりました。白人捕虜たちは、渡辺氏を心から尊敬し、賛辞を惜しみません。なぜ、命をかけてまで助けてくれたのですかと問われると、「私ではありません。神がなさったのです。私は神に用いられただけです」と渡辺氏は答えたと記録に残っています。

 あなたも、具体的に、実際的に、信仰を生かしましょう。ビジネスの世界でも、家庭でも、政治でも、学校でも。

3、信仰的視点で自分の人生を振り返る

ヨセフは、生まれた長男にマナセ(忘れる)という名を、次男にはエフライム(実り多い)という名を付けた。(51、52節)

神と共に歩む人は、辛い人生を振り返る時、新たな視点が与えられる。暗い陰に覆われた過去を<忘れる人>になれる。寄留者のように過ごす場所で、神の恵みを見つけられる。

米田豊牧師は、「過去を思えば感謝、現在は平安、将来に対しては信頼あるのみ」という言葉を残しました。6人の子供を失い、妻を失い、戦時中の弾圧のため投獄された最中に述べた言葉です。

あなたにとって過去とは何ですか、そして現在は、未来は。あなたの人生を、共におられる神の助けを頂いて温かい目で見つめましょう。

監獄で 創世記40:1~15

 面白い計算をしてみましょう。1から10の数字を選んでください。それに1を足し、答えに2を掛け、4を足し、2で割り、最後に選んだ数で引いてください。おもしろいことに、最初にどの数を選んでも答えは全部3になります。これと同様に、どんな道を選んでも、最後には苦しみが待っている、これがヨセフの人生の常でした。

1、最悪に届く恵みと臨在

 ヨセフが奴隷として働くことになったのはエジプト王の側近ポティファルの家でした。能力とリーダーシップをポティファルに認められたヨセフは、家の管理すべてを任されました。ここまでは良いのです。我がままでKY(空気が読めない)な17歳のヨセフも、随分と成長したものです。
ところが、主人の妻に言い寄られ、拒絶したところ、事実無根の性的虐待容疑の訴えを起こされ、怒った主人はヨセフを牢屋に投げ込みました。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)

 ヨセフの最悪、最低の苦しみの場所に、主は共にいて下さいました。どんな事態でも、神の恵みが届かない最悪や最低は存在しないのです。よく考えて下さい。主人の妻に性的乱暴をしかけた奴隷なら、殺されて当然です。ヨセフのいる監獄は、ポティファルの大きな屋敷の敷地内にあった特別の監獄だったことも分かります(40:3)。監獄という状況の中にも主人の温情が見て取れます。

 あなたの“監獄”に注がれている主の恵みを捜しましょう。

 ヨセフは17歳の時のヨセフではありません。27、8歳のヨセフは、主が共におられることを知ったヨセフです。一時は落胆したでしょうが、主人や奥さんを呪う過ちから守られ、監獄でできる仕事を自分なりに積極的にこなすようになりました。

 「それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことをかんりするようになった。」(39:22)

 奴隷であっても家の監督官になったヨセフは、監獄でも一人の囚人ではなく、監獄管理者の立場になっていました。

2、神のなさること

 監獄に新入りの囚人が入ってきました。エジプト王の側近で、ひとりは献酌官長、もう一人は料理官長でした。王様に差し出したぶどう酒に、不幸にしてハエが飛び込んだりしても処罰されるような時代でした。

 ヨセフが政府高官に仕えることになり、身の回りの世話をしました。空気の読めなかったヨセフが、40章7節で二人の顔色まで注意していた事が分かります。
聞くと、夢を見たといいます。献酌官の夢は、ブドウがなってエジプト王の杯に注ぐという夢で、料理官の夢は、料理の入った籠が取りに食べられるというものでした。

 ヨセフは、その解き明かしを申し出ました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」(40:8)

 主が共におられると知った人は、主に問題解決をゆだねることができます。ヨセフは誰よりも働いて、努力した人だったでしょう。けれども、能力も、頑張りも、知識も、理解力も、神からもらっているとヨセフは理解するようになったのでしょう。だからこそ、謙遜だけれども、大胆になれるのです。本当の謙遜は、見せ掛けだけの謙遜そうなポーズではなく、自分を用いて頂きたいという大胆さに現れるのです。
 
 真剣に二人の話を聞いたヨセフには神からの知恵が与えられ、献酌官が3日後に元の地位に戻ることを説明し、料理官は処罰されるであろうと指摘しました。事実、ヨセフの解き明かしの通りになり、これが、後のヨセフの人生を方向づけます。

 残念なことに、献酌官長は、ヨセフのことを忘れて2年も時間が流れることになります。またまたヨセフは苦しみが続きます。どう転がっても「3」に戻る人生なのでしょうか。いいえ違います。どう転がっても、主が共にいてくださる人生です。最悪、最低にまで神の恵みは届くのです。

 あなたの最低、最悪は今ですか。そこにも主の恵みは届いています。
「あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物をまかせよう。」(マタイ25:21)
 神が事をなさる、あなたがそう期待する事柄は何ですか。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。」(マルコ10:27)
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:48)

逃げる 創世記39:1~18

奴隷としての苦労

 奴隷としてエジプトに連れて行かれたヨセフには、どんな苦労が待っていただろう。最初の壁はエジプトの言葉だろう。アメリカに住む日本人は英語で苦労するし、馬鹿にもされる。ヨセフも同じだろう。次は、奴隷労働の過酷さだろう。汚い、きつい、繰り返しの三拍子のそろった奴隷労働は出口がない。うまくできなければ容赦なく鞭が飛ぶ。ゴキブリとねずみに囲まれて夜は寝たことだろう。孤独で、情けなくて、兄たちを恨んで当然だろう。
 あなたにとって、エジプトでの奴隷生活とは何だろう。今の生活そのものが奴隷労働かもしれない。

ヨセフはなぜ変化したのか。

 兄たちに妬まれ奴隷に売られたヨセフは当時17歳だった。生意気で、わがままで、端にも棒にもかからなかった。
 それが、27歳前後には、エジプトの高官ポティファルから信頼される人物と変わっていた。また、ポティファルの妻からは、実に魅力的人物とみられていた。
(祝福された人にこそ誘惑が襲ってくることに注意しよう。主が共におられても、誘惑はあるし、誤解されて不遇に投げ込まれることもある。誘惑からの回避方法は、逃げるの一言につきる。戦うな。逃げよ。)
 確かに、ヨセフの中で何かが大きく変化した。その理由は何だろう。キーワードは「主がともにおられた」だ。

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(2節)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」(3節)

 主語はヨセフではなく、神だ。神がヨセフと一緒にいてくださった。これが、変化の根源的理由だ。
 兄達が妬み、憎み、殺したいほどの人物のそばに、神はおられた。ここに、神の愛が現われている。惨めで、裸で、罪だらけの私たちを見捨てない。これが神の愛だ。ヨセフは、いつの間にか、神を求め始めた。後ろ向きで否定的な生き方が徐々に変化していった。気づくと、仕事を積極的に行い、工夫し、仲間の和を作り、リーダーシップを発揮していた。家畜も穀物も豊かになり、家の中には活気と調和が生まれ、主人もヨセフに一目置くようになった。主がヨセフとともにおられたからだ。
 
 主イエスは、憎まれ者で金の亡者ザアカイにご自分から声を掛けられた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)

 また、主イエスの復活が信じられない二人の弟子にエマオ途上で現われて、主イエスは一緒に道を歩かれた。
「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ24:15~16)

 イエスはそういうお方なのだ。

 今週は、主イエスがあなたと共におられることを意識して過ごそう。主がともにおられることを拒絶してはいけない。主がおられることにもっと敏感でいよう。車の助手席、食卓の空席、職場や学校やリビングルーム、ベッドルームにも主は共にいてくださる。生活のどんな場所にも主イエスがおられると知った人は、大きな慰めと勇気を得る。

夢見る者  創世記37:1~8

 これから8回に分けて、ヨセフの人生を見ることにしましょう。大雑把に言って3500年以上前の出来事になります。アブラハムの子がイサク、その息子がヤコブ、その子がヨセフです。

Ⅰ、ヨセフに関わるキーワード

 最初にヨセフのキーワードを3つ取り上げてみます。「17歳」。「そでつきの長服」。「夢」。

1、17歳
 ヨセフは、37章の時点で17歳。2節から分かるように、まだ一人前の羊飼いではなく、手伝いでした。
セブンティーン。まさに青春真っ只中のまぶしい年齢。若さ以外には何も持っていない。人生経験もない、結婚もしていない、勢いはあるが不安定という年頃。

 →あなたは今、何歳ですか。その年齢は何を意味しますか。

2、そでつきの長服
 3節を見ると、ヨセフが「そでつきの長服」を着ていたことが分かる。これは、年老いた父親ヤコブのえこひいきの象徴。ヨセフだけをかわいがっていた証拠。洋服なのでいつまでも同じものは着られない。何年かに一度、豪華で目立つ服を新調したことだろう。今風に言えば、歳の離れた兄さんたちは10年落ちのフォードを買ってもらっただけ。ヨセフは2年ごとに真っ赤なフェラーリを買い与えられたといったところだ。

 →あなたの性格や人生を象徴するものを選ぶとすれば、それは何ですか。

3、夢
 ヨセフは、夢を見た。7節と9節に2種類の夢の話が出ている。ヨセフは得意げに話したことだろう。兄さんたちが、ボクに頭を下げたという夢だ。やっぱり、ボクは特別なんだ。兄さん達なんかより、ボクは偉いんだぞ、という雰囲気が見え見えだ。
 この夢には実は深い意味が隠されていたが、ヨセフにはその意図が分からないまま、ただ有頂天になっていた。ヨセフは17歳、人生を何も知らず、生意気で、わがままで、ちゃらちゃらした嫌なやつだった。

 →あなたの夢は何ですか。神があなたのために立てている計画は何ですか。

Ⅱ、突然の災難

 ある日、ヨセフに事件が起きた。それは37章12節から35節に詳しい。簡単に言えば、兄達が共謀して、ヨセフを奴隷証人に売り飛ばしたということだ。フェラーリから無理やり降ろされて、リヤカーを引く身分に落ちぶれたというわけだ。

 ヨセフは、奴隷商人に拘束されて南に向かっていることは分かる。おそらく、手を縛られ、逃げることは不可能な状態だ。ラクダを連ねたキャラバン隊の一員になって焼ける地面を裸足で歩かされていただろう。ヨセフは、なぜこうなったのか分からない。

 いくら叫んでも助けはなかった。一番の見方だと思った長男ルベンは、肝心な時にどこかへ出かけてしまった。怖い兄たちは、長服を乱暴に脱がせて、穴に投げ込み、一時は殺される事も覚悟した。
 少し前までは、毎日が楽しく、気ままだった。そでつきの長服を着て得意満面だった。かなり歳の離れた兄たちがいたが、少しも怖くなかった。それは、父親に特別にえこひいきされ、守られていたからだった。
 ボクはこれからどうなるのだろう。怖い。僕はまだ17歳だ。あの夢の話をしたのがいけなかったのか。あんな夢、見なければよかった。

 あなたも、ヨセフのような突然の災難の中にいるかもしれない。

 主イエスは、非常に意味の深い言葉を残されている。最後の晩餐前に弟子たちの足を洗われた時、主イエスは以下のように言われた。

「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
(ヨハネ13:7)

 堀 肇(ほり・はじめ)先生は『百万人の福音』(3月号)で、苦しみに遭遇した人と出会ったとき、自分勝手な解釈をしないようにと勧めている。その人に寄り添い、心の痛みを真実に聴くという<解釈しない優しさ>が必要だと述べている。大切な視点だと思う。

 堀先生が引用されたアイルランドに伝わる祈りは、困難に出会った人に贈ることばとして温かみのある言葉だと思う。

友よ、あなたの行く手の道が、
身を起こしてあなたを迎えるように。
風が、あなたの歩みを励ますように。
太陽が、あなたの顔を温かくてらすように。
雨が、あなたの畑をやさしく潤すように。
私たちがふたたび会う日まで
神が、あなたを大いなる掌(たなごころ)のうちに
おいてくださるように。
               (『祈りの花束』から)


 ヨセフの出会った苦しみを、ヨセフのわがままのせいだと決め付けず、温かい目で見たいものだ。人間に見える事象を越えた神の大きな計画があることは、後になって分かる。ヨセフは、奴隷となって苦しみ、内面的に成長し、神と共に歩む者に変えられていく。
 ヨセフの歩みは、私や、あなたの歩みそのものだ。

逃げる人から逃げない人へ ヘブル10:35~36

次の聖句を読んで、気がついたこと、励まされたことがあったら、配布した紙に書いてください。そして、近くの人と分かち合ってください。

ヘブル人への手紙10:35~36
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

「ですから」というのは、32~34節の背景を受けての言葉です。手紙の受け取り手達は、信仰を持った直後から、凄まじい試練や苦難に出会っています。馬鹿にされたり、ののしられたり、財産を没収されたり、投獄されたりしました。殴られたり、辱めをうけたかもしれません。その中で、仲間をかばい、自らも喜びを持っていた信仰の勇者たちでした。その喜びを思い出すようにとの勧めになっています。

確信というものは揺るがない強い信仰のことで、「大胆」という意味合いを含んでいます。確信を持っている人は、普通は投げ捨てたりしません。それでは、どんなときに確信すら投げ捨ててしまうのでしょう。耐え難い試練。肉体的、経済的、精神的、社会的に限界を感じた時でしょう。信仰の勇者たちが信仰を投げ出したくなる苦しみがあるのです。

あなたも、今、もう信仰を投げ出す寸前なのかもしれません。確信を投げ捨ててはいけません。それ自体が、大きな報いをもたらします。自分なんか、いてもいなくても同じだと感じてますか。多少努力しても、何も変わらないとあきらめてますか。なんで自分だけ貧乏くじを引いてんだとがっかりしていますか。泥沼のような毎日は終わりそうもないと感じてますか。問題からいつも逃げてばかりいませんか。

ヘブル人への手紙の主題は第1に、主イエスがどのような意味でまことの救い主であるかを旧約聖書を土台に詳細に解き明かしています。第2に、キリストご自身が苦難を体験されたので、私たちの弱さを分かってくださる方だということです。以下は、第2の部分に関連する聖句です。

ヘブル2:18
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
ヘブル4:15
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

ヘブル5:8
「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、」

ヘブル12:3
「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまらないためです。」

ヘブル13:5
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

ヘブル13:8
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 こうした主イエスがおられるので、確信を捨てる必要がないのです。こういう主イエスがいて、私たちを支えてくれるので忍耐できるのです。

 「チェインジ」シリーズは今回で終了です。神によって考え方を変えていただき、神の力で行動を変えましょう。主イエスは今も生きていて、あなたの全存在を変革してくださることを世界にあかししていきましょう。

祈らない人から祈る人へ

 今日はショートメッセージです。いつもと違って、聖書箇所の解説ではなく、聖書全体から祈りについてワンポイントの考察をしましょう。言いたい事はただ一つ、「祈りましょう」それだけです。

 あまり祈らない人がいます。なぜ、祈らないのですか。
おそらく、祈らない人には理由があります。

・ 祈る必要を感じない。
・ 何でも願うのは自分勝手だし、失礼だと思う。
・ 祈りの言葉が上手ではない。
・ やれることは、自分でするから。
・ 祈って、答えられないと、自分の信仰の薄さが暴露されるから。
・ 神が生きておられると、本当は信じてないから。

 おそらく、最後の理由が最も重要だと思います。
あなたは、神が生きているお方だと、本当に信じていますか。

 第1列王17:1「私の仕えてるイスラエルの神、主は生きておられます。」
 
 預言者エリヤの神は、生ける神です。だから、神に頼り、神に聞き、神に願うことができました。あなたは、本当に生ける神を信じていますか。

 祈りとは実際のところ何でしょう。何でも願いに答えてくれる万能自動販売機のスイッチとしてだけ祈りを捉えるなら間違いですね。
 祈りは、会話です。私たちが生ける神に語り、神がそれを聞いてくださること。神が私たちに語り、私たちが聞くことです。この両方が祈りです。
 
 祈りは、知識として学ぶだけでは体得できません。実際に祈ってみないと、祈りとは何かは分りません。だから祈りましょう。今、祈りましょう。

 一人になれる場所で祈ってください。朝や夜は、心を静めるのに良い時間帯です。私は、散歩しならが、神と自分だけになる中で祈るのが好きです。「神さま」と心を込めて語りかけてください。そうすると、次に何を言ったらよいか自然に分かってきます。

 第1テモテ2:8「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

 上の聖句は、男にとって祈るのが困難な行為であることを暗に示しています。男は、道が分らない時でも聞きたいないプライドがあります。神に対しても、祈りたくない本性があるのかもしれません。男よ、祈りましょう。祈らないと何も始まりません。男が、膝をかがめて祈る姿は美しいです。今週、祈ってみましょう。


 

負ける人から勝つ人へ 第1コリント9章24~27節

 人生の真の勝利者とは、どういう人のことを言うのでしょう。日本には、「勝ち組」と「負け組」という嫌な言葉があります。ビジネスに成功した人、出世した人、高級車に乗れる人、を勝ち組というなら、ほとんどの人は負け組みになってしまいます。おかしな基準ですね。

 主イエスは、ご自分が勝利者であると言われました。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 第1ヨハネの手紙を見ると、主イエスを信じる者が勝利者であると書いてあります。
「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第1ヨハネ5:5)
「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。わたしたちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(第1ヨハネ5:4)

 事業に成功して若くしてリタイヤ、残りの人生は世界旅行とグルメ生活。こうした「勝ち組」人生の夢なんて、たいしたことはありません。小さい、小さい、考えることが小さいです。

 パウロは第1コリントで主イエスを信じる人の人生を競技にたとえています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(第1コリント9:24)
当時のコリントでは、オリンピックのような競技大会が2年に一度開かれていたようです。一等の賞品は植物で編んだ冠で、まさに「朽ちる冠」です。その朽ちる冠のために選手たちは節制し努力をするのですが、クリスチャンも同様に目標を目指した生き方をするように励ましています。

 大切なことは、価値ある目標を定めることです。「勝ち組」なんて目標はベニヤ板みたいに薄っぺらいものです。目標を、神の栄光と定めましょう。パウロは、第1コリント9章23節で、「私はすべてのことを、福音のためにしています。」と言いました。神の栄光という概念を別の言葉で言い換えたと考えても良いでしょう。

 岐阜県のコロッケ屋を経営する79歳の男性のことを知り、さわやかな思いに満たされました。高校生がテストで80点以上の成績を取ったら、コロッケ2個をただで進呈するというのです。6年間続けているので、大学に合格した生徒がお礼に来たこともあります。この歳になったら、利益よりも、人に喜んでもらうほうが嬉しい、という気持ちだそうです。この店主の目標は単なる利益でなく、誰かの役に立ちたいというところにあります。だから価値があるし、生きがいも生まれます。

 あなたも、パウロが勧めるように、価値ある目標を定めましょう。その次に、あなたの持っている能力、経験、財産、気力、努力のすべてを集中して、走りましょう。そういう生き方をしている人は、さわやかで、楽しくて、生きがいがあります。

 50歳の男性が東京マラソンに参加したときのことでした。41キロ付近を走っているとき、警察官があわただしく動いている場面を見てレースを中断、近寄りました。意識不明の男性が横たわっているの見て、自分が消防士で資格のある救護士だと告げ、蘇生作業を開始、電気ショックを与える機械を操作して心臓機能を回復させました。しっかり呼吸ができるのを見届け、コースに戻ってゴールインしました。ゴールした男性の顔は、満足感と喜びに満ちていたといいます。

 私たちが、単に「勝ち組」になりたいという欲望で生きているなら人生なんてつまらないもので、優越感と劣等感を行き来するだけです。けれども、神の栄光を表すという価値ある目標を定めるなら、たとえ途中で遠回りをしても、貧しくなっても、倒れても、病気になっても、すべての事に意味が生まれます。神の栄光のために生きて地上の生活を終え人生のゴールに走りこむなら、主イエスがあなたを喜び迎えてくれるでしょう。「よくやった、忠実なしもべだ。わたしは、あなたの歩みを知っているよ。誰も見ていなくても、わたしは見ていたよ。あなたは立派に走った。あなたは、勝利者だ」と言ってくれるでしょう。

 決勝点をしっかり定め、あなたも持てるもの総動員して、意義ある人生をおくりましょう。
「私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:2)
 

後ろ向きの人から、前向きの人へ ネヘミヤ2:17~20

 あなたの部屋のカーペットは何色ですか。すぐに言える人は問題ない。雑誌や洋服、買い物袋で床が見えない人はすでにブロウクン・ウインドウ状態だ。
 「ブロウクン・ウィンドウ理論」とは刑事司法学者ジェイムズ・ウイルソンとジョージ・キリングが、1982年に提唱した考え方。建物のガラス窓を割れたまま放置しておくと、やがては、そのビルが犯罪の温床となり、地域全体の風紀を乱していく。
 この理論を土台に、壊れた窓直していけば社会の治安回復ができると考え、考えただけでなく実行したのがニューヨークのジュリアーニ市長と言われている。地下鉄の落書きを消し、空き缶の投げ捨てを禁止、歩行者の信号無視も取り締まり、数年後には凶悪犯罪数が激減した。

紀元前430年前後のユダヤ人は廃墟となったエルサレムを見ていたが、何もできないでいた。後ろ向きの心に支配されていた。ネヘミヤは違った。ネヘミヤは、前向きにこの問題に対処した。

 今日のテーマは、どうしたら前向きの人になれるか、いうことだ。そうは言っても、無理して前向きのフリをする必要はない。神の栄光を求めればいい。そうすれば自然に前向き思考になる。

 問題を知らされたネヘミヤは以下のように行動した。
1、問題を覚えて祈る
2、自分ができる事は何か見極め、計画を立てる
3、生ける神を意識しながら、他の人に声をかける
4、困難や反対にひるまずに成し遂げる

1、問題を覚えて祈る
 1章4節でネヘミヤは祈っている。祈ったから1章9節で神の約束を思い出した。過去の失敗を嘆いたり、愚痴や不平を言ってるだけでは後ろ向きだ。祈ることだ。祈ることが問題解決の第一歩だ。神の栄光は、祈りの中から輝き始める。

2、自分ができる事は何か見極め、計画を立てる
 ネヘミヤがアルタシャスタ王の献酌官であると1章11で言及されているが、これはネヘミヤが自分の地位を自覚したという間接的な表現だろう。2章5節でネヘミヤは王に城壁再建の願いを打ち明けると、王から具体的計画を尋ねられ、即座に日程、必要書類、資材の調達などを答えている。(2章6~8節)単なる願いじゃだめだ。具体的に計画を立てよう。

3、生ける神を意識しながら、他の人に声をかける
2章17節でネヘミヤは、エルサレムの住民に計画を伝えた。困難を見ているだけでは何も始まらない。「さあ、エルサレムの城壁を立て直し、これ以上そしりを受けないようにしよう」(2章17節)と述べた。人々は共鳴し、協力を誓った。
ネヘミヤは18節で、「私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。」とあかしをしている。生ける神をあかししている。ネヘミヤ記には、「私の神」という表現が9箇所にある。(2:8、2:12、2:18、5:19、7:5、13:14、13:22、13:29、13:31、<「わが神」6:14>)ネヘミヤにとって、神と生ける神であり、その神と生き生きした交わりを持っていたのだ。神との生きた関係を持っている人にだけが、神の栄光を求めることができる。

4、困難や反対にひるまずに成し遂げる
 エルサレム周辺で権力を握っていたサヌバラテ、トビヤ、ゲショムなど有力者は、ネヘミヤに反対した。ネヘミヤはそれにひるまずに、「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる」(2章20節)と目を天に向けさせた。
城壁工事が進んでいると聞いた反対者らは、さらにひどい妨害を行い意志をくじこうとした。(4章2、3、11節)人々は、疲れと作業進展の遅さから弱気になり、不可能だと後ろ向きな発言をしはじめた(4章10節)。4章14節でネヘミヤは恐れるべき方は神だと信仰を鼓舞した。反対や抵抗が増えてくるのは、問題解決が近い証拠だ。人々は、片手に槍を持ち、片手で城壁修復作業を行った。52日かけて城壁はついに完成した。(6章15節)

ネヘミヤは前向きな人だと思う。それは、生ける神を知っており、神の栄光を求めて生きたからだ。あなたも同じようなプロセスを踏んで進もう。そうすれば、あなたは神の栄光を表す、結果的に前向きな人になる。

賛美歌や聖歌の歌詞を合計5000曲作ったファニー・クロスビーは、1820年ニューヨーク州に生まれたが、生後6ヶ月に医師のミスが原因で失明、生後1年ほどで父を失う。信仰深い祖母と母に育てられ8歳にして自分は幸せ者だと心から発言している。
27歳で盲学校教師になり、38歳で結婚、二年後に子供を生むが亡くなってしまう。そんな時に作った歌詞が多くの人を慰めている。
もしあの医師に出会ったならこう言いたいと自伝で書き残した。あなたは失敗したかもしれないが、神には失敗はない。確かに目は見えないが、多くの素晴らしいものを見てきた。賛美歌の歌詞を通して多くの人を励ますことができた。私は世界で一番の幸せ者だ、と。
賛美歌の歌詞で100万人の人々を主イエスに導きたいと願ったクロスビーのビジョンは、実現したと言うことができる。後ろ向きにならず、前向きに生きた人の模範だろう。

 後ろ向きの人が、前向きになるのは、実はかなり大変だ。小さいことが気になる人、勇気がない人、こだわりの強い人、色々なタイプの人がいる。それでいいと思う。そんな事はどうでもいい。神の栄光を見たいと望むなら、あなたは前向きの人になれる。

弱い人から強い人へ 士師記6章11~16

 アメリカのビジネスマンは握手で自分の積極性をアピールしますが、ふにゃっとした握手はビジネスマンとしては失格。時には、まるで腕相撲のような握手になり、ギュー、やりやがったな、俺も負けないぞ、ということになります。

 ここに絵本があります。タイトルは『ラチとライオン』(マレーク・ベロニカの文章と絵、とくながやすもと訳)書き出しはこうです。「この家にラチという男の子が住んでいます。ラチは世界中で一番弱虫でした。」子供たちは、この書き出しに引き込まれます。自分よりも弱虫な男の子がいると知らされて、僕のほうが強いぞと嬉しくなるのです。でも本当は、自分と同じ弱虫に出会えて、ほっとしているのです。ラチは、意気地なしで、体力も劣り、犬が怖くて、暗闇が大の苦手です。ポケットに入るくらいの赤いライオンが現れ、ラチを体力的に鍛え、心を強くするというお話です。ラチは、ライオンがいるときは勇気が出て強くなれるのでした。(続きは絵本をゆっくり読んでください。とても良い絵本です)

 弱い人から強い人へ、というのが今日のタイトルです。強い人というと何を連想しますか。力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ボブ・サップ、時代によって連想する格闘家も違いますね。
強い人というと、何か弱肉強食、弱い者を踏み潰す乱暴者というイメージが出やすいですね。ドラえもんならジャイアンですね。(ジャイアンは普通のテレビ番組ではいじめっ子なんですが、映画になるとのび太の仲間になるのが不思議ですね)

 エペソ3:16にこういう言葉があります。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」

 私たちが必要とする強さは、レスラーのような筋肉ではありません。IT長者のような知識や財力の強さでもありません。ジャイアンのようなわがままな強さでもありません。内なる強さです。内なる強さは以下の3つの要素があると思います。

1)苦しみに耐える強さ
2)神のみこころを行う強さ
3)あなたらしく輝くための強さ

 あなたが望む強さとは、どれですか。ヘブル11:34では「弱い者なのに強くされ」と書かれてあります。主はあなたを強くしてくださいます。
さて、今日の箇所にも大の臆病者が登場します。ギデオンです。イスラエルは当時ミデヤン人に悩まされていました。大勢のミデヤン人がラクダに乗って現れ、イスラエルの産物を根こそぎ奪っていくのです。7年間も同じような苦しみに悩まされていましたが、打開策はありません。
 ギデオンは、ミデヤン人を恐れて、酒ぶねの中で作業をしていました。突然現れた主の御使いにギデオンは自分の意見を述べました。

13節では、神が共におられるなら、今でも出エジプトのような奇跡が起きても良いはずだとギデオンはいらだちをぶつけました。

15節では、「ご存知のように私の分団はマナセのうちで最も弱く、私の父の家では一番若いのです」と自分の弱さをたてにとり、自分にはイスラエルを救い出すリーダーにはなれないと言いました。

 何かに似ていませんか。今のあなたです。環境が悪い。周りが悪い。私になにか行動しろったって、私にはできませんよ。

 神は、臆病者、弱虫のギデオンをご存知の上であえて言われました。

 「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」(士師記6:12)

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」(6:14)

 それも、ギデオンが反論する前に言われたのです。ギデオンは後に本当の勇者になりますが、先回りして、君は大勇者になる、と宣言されたのです。これが神のやり方です。イエスさまも同じことをされました。信仰的にまだ固まらないシモンに、お前は「ペテロ」(岩)だとおっしゃいました。

 それでは、神は今日、あなたにどんな新しい名前を付けてくれると思いますか。何を先取りして、宣言してくれますか。ちょっと考えて下さい。

 ギデオンは、この後少しずつ強くなっていきます。小さなことを手始めに、神のため戦います。国中に声をかけ32000人の兵士を呼び寄せ、その中から精鋭300人を選び出し、いなごの大群のようなミデヤン人の陣営を襲う計画を立てます。詳しくは7章15節からをご覧下さい。ギデオンにしかできない、緻密な夜襲が功を奏し、多国籍軍だったミデヤン軍の盲点を突き、同士討ちになるのです。

 神が共におられることが、強さの源泉です。6章16節でも繰り返し「わたしはあなたといっしょにいる」と書かれてあります。弱いあなたのそばに神がおられると知ることが、本当の内面的強さにつながります。

 ハワイで有名なベサニー・ハミルトンの話をします。ハワイ州カウアイ島で幼い頃からサーフィンをしていた13歳の女の子です。全米ジュニアのトップレベルの選手でした。2003年10月31日、いつものようにサーフボードの上でパドリングをしていましたが、バキッというもの凄い音と突然の痛みで辺り一面は血の海になりました。左肩から下をサメに食いちぎられたのです。サーフボードも半円形に切り取られていたことが後で分かりました。4メートル以上の大きなサメでした。仲間に助けられ、病院へ、そして緊急手術が行われ、出血多量で死の危険を乗り越え、命を取り留めました。
 ベサニーは、事件から1ヶ月で海に出ました。2ヶ月を過ぎた頃にはサーフィンのトーナメントに出ました。ベサニーはこう言います。私は神さまに愛されているんです。大きなサメに命が取られないように神はしてくださいました。私にはキリスト教信仰があります。だから強くいられます。今の私を見て、希望を持つ人がいたら、私が片腕を失ったことに意味があります。彼女のホームページにはみことばが掲げられています。

 強くしていただきましょう、全能の主に。

 苦しみに耐える強さ
 神のみこころを行う強さ
 弱さを受け入れ、あなたらしく輝く強さ

 神は、今日もあなたと共にいます。どんなにあなたが弱くても問題ではないのです。全能の神があなたと共におられるなら、あなたは強くされるのです。

希望のない人から、夢のある人へ ヨシュア記14章7~12節

今日は希望について話します。あなたは希望を持っていますか。
「はい。私も希望を持ってます。今朝、目覚ましをかけわすれて、遅刻しました」という人は希望じゃなくて、寝坊。「お料理のキンピラに使う野菜ならもってます」という人は、ゴボウ。「最近、忙しくてね」と言う人は、多忙。

 現代人の多くは希望が持てないでいます。理由が4つぐらいあります。
1)自分の能力に限界を感じ、自分に自身がもてない。
2)社会は不平等で、冷たい。
3)今までの経験や、失敗が夢を奪っている。
4)新しい事への恐れ。やっても無駄、どうせできやしないと諦めてる。

1、希望は神ご自身のうちにある

 今日の登場人物エフネの子カレブから、希望について学んでみましょう。カレブは85歳。本来なら引退年齢をとっくに過ぎた人です。ところがです。カレブはこう言いました。

 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。
(ヨシュア記14:12)

 この時から遡ること45年前、カレブを含めた12人の代表が神に約束されたユダヤ人の定住予定地を偵察するために出かけました。詳しい様子は民数記13章1~33節にあります。帰って来て報告した10人は、征服するのは困難で、自殺行為だと否定的な内容を伝えました。カレブは、約束の地は「乳と蜜の流れる」素晴らしい地で、神がおられるので「必ずできる」(民数記13:30)と述べましたが、イスラエルの民は歓迎するどころか、彼を撃ち殺そうとまでしました。それで、不信仰に陥ったイスラエルの民は荒野で40年間を過ごし、地上での寿命を終え、約束の地に入れたのはカレブとヨシュアの二人と亡くなった人の子孫だけでした。

 カレブは40歳の時にも希望を持つ人で、85歳になってもその希望を持ち続ける姿勢に変化はありません。カレブの生涯は「主に従い通す」という言葉で特徴づけられます。(ヨシュア記14:8、9、14節、申命記1:36)これが希望を持つ人生の秘訣です。

 ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼の踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。(申命記1:36)

 カレブは自分の能力を理由に約束の地を獲得できるとは考えませんでした。「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」(民数記14:9)カレブは希望の土台を神ご自身に置いていたのです。他の聖書の箇所でも、希望は神ご自身にあると繰り返し述べています。

 主よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。
(詩篇39:7)
イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。(エレミヤ14:8)

2、希望は、今日を生き抜く力を与える

 希望とは何でしょう。希望はどんな役割を持つのでしょう。希望は人生の目標になります。希望は暗い人生の荒海に輝く灯台になります。希望はまた、今日の生きがいをもたらします。
希望があるなら、苦しみに遭った時に辛さに耐えられます。繰り返しの毎日でも、希望があるなら繰り返しに意味を与えてくれます。

 確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。
(箴言23:18)

 主は仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。-主の御告げー彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。(エレミヤ31:16~17)

 カレブは85歳でしたが、現代世界にも<遅咲き>の巨人たちが多数います。たとえば、ゴッホは27歳で初めてデッサンを勉強し始め、37歳で地上を去るまで絵を描きました。夢を実現させるのに遅いことはありません。
 カーネル・サンダースは40歳の時、6席しかない小さなレストランを開店、フライド・チキンがおいしくて繁盛したのですが道路事情が変化し撤退を余儀なくされました。夢を失わないサンダースは65歳でチキンのフランチャイズ事業に乗り出し成功しました。今の日本なら引退年齢を過ぎてます。
 66歳の乗馬選手として北京オリンピック出場を決めた日本選手がいます。95歳で100メートルを走りマスターズ世界新記録20秒69を打ち立てた日本男性もいます。
 これでもあなたは、年齢を理由に希望が持てないと言いますか。

3、あなたの希望を書き出そう

 あなたの希望は何ですか。紙に書き出してみましょう。

 希望といっても色々なタイプの希望があります。どんな夢でもかまいません。
a) 自分の夢や願い。
ヨーロッパ旅行。マイホームを買う。願った大学に入る。ハーレーのバイクを買う。
b) 自分の人格や内面に関わる希望
愛の人になる。勇気のある人になる。きよい人になる。
c) 自分の将来に関わる希望
健康になる。幸せになる。経済的に安定する。
d) 自分の働きに関する希望
生きがいのある仕事に就く。自分の賜物に合ったポジションにつく。神の栄光をあらわす仕事を行う。
e) 身近な人に関する希望
夫の幸せ、妻の喜び、親の生活、子供の将来などについての希望。
f) 人生の出直し
大きな挫折から立ち直る。夫婦関係を修復する。

 希望を実現させるためには、今日から始めることができます。
1) 希望実現のため祈り始める、そして、祈り続ける。
2) カレブのような人から励ましを受け、あなたも誰かのカレブになる。
3) できることを、今日始める。

 そうです、ヨーロッパ旅行に行きたいなら、今日1ドルを貯金箱に入れましょう。

さあ、始めよう。希望を神におきましょう。
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

「嫌われる人から好かれる人へ」 マタイ7:12

 これから「チェインジ」と題して7回シリーズのメッセージをします。全体を貫くポイントは、聖書を読むだけで終わらせず行動に移そうという趣旨です。
 今日は、「嫌われる人から好かれる人へ」というテーマです。

1、「くれない族」を卒業する

 嫌われる人とはどんな人でしょう。

   自己中心で我がままな人。
   劣等感が強すぎる人。
   否定的な人。
   不誠実な人。

 子供のころ愛されなかった。嫌われる人に共通した原因は、これかなと私は思います。お前は馬鹿だ、ブスだ、デブだ、要領が悪い、そんな事を言われ続けた人は、曲がった盆栽のような大人になります。自分の中に問題の原因があることに気が付かず、周囲の人だけ責めて生きる人が多いのです。
 「愛してくれない」「分ってくれない」「聞いてくれない」「一緒にいてくれない」。こいう人たちのことを、私は「くれない族」と呼んでいますが、周囲を責めるのはやめて、くれない俗は卒業しまししょう。

 まったく笑わない少年がいました。お母さんに捨てられ、片身の狭い思いをして他人に育てられた少年でした。成長したある日、母の日記を読む機会が訪れました。文章を読んで驚きました。息子を捨てた後悔と痛みがつづられていました。自分を責める思いから、包丁で指を切り落としたという記述を見て、母の気持ちが伝わってきました。この男性は、私が尊敬する伝道者の若き日の姿です。

 イザヤ49:14~16
しかし、シオンは言った。
「主は私を捨てた。主は私を忘れた。」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
この私はあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ。」

 福音とは神があなたを愛していること。これは、マザー・テレサによる福音の定義です。神は今のあなたを、そのままで愛しています。神に愛されていることに、安らいでください。これが、くれない族を卒業するコツです。

2、キリストだけを見る

 青年たちに助言します。女の子しか見てない男、男性に評価を受けてない男は、将来の伴侶としては除外しておいたほうが賢明ですよ。
 キリストを見ている人は、男でも、女でも、魅力があります。好かれる人になりたかったら、人を見ずに、キリストを見る人生を送ることです。
 
 大学生の夏のキャンプが開かれて、分科会で議論が沸騰したことがありました。一人の男性大学生クリスチャンが女性クリスチャンと意見がぶつかったのです。主イエスのために、こう思うとお互いが譲らす、分科会が終わっても二人は議論を続け、もっと長く議論したいと結婚してしまいました。私が高校時代に導かれた教会の牧師先生の結婚の逸話です。

信仰の創始者であり、完成者である方から目を離さないでいなさい。
(ヘブル12:2)

 修養会の講師であった佐藤彰先生に昨年私の家に泊まっていただきましたが、「イエスさまだけ見ていこう」という事で意見が一致し、意気投合しましたことを思い出します。キリストだけ見て、歩いている人は、実に魅力があります。

3、小さな愛を実行する

 チャップリンの映画『ライムライト』に有名なせりふがあります。「人生には、勇気と想像力、そしてほんの少しのお金があればいい」。私も同感です。人生には勇気がどうしても必要です。自分から一歩を踏み出すことが必要です。
 日本人女性クリスチャンの特徴をひとことで言うなら、「おしんクリスチャン」です。夫の横暴に耐える、夫の無視に耐える、夫の悪口に耐える、こういう姿が思い浮かびます。耐えることと似て非なるものは、具体的に愛すことです。耐えるという受身形から、愛すという能動態に変える必要があるのです。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、
ほかの人にもそのようにしなさい。
これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 主イエスは、「そのようにしなさい」と言っています。僕らも、そのように実行しましょう。

 私のアパートにメンテナンスのワーカーが昨日来てくれました。苦虫をつぶしたような顔のメキシコ中年男性でした。浴槽の蛇口の水漏れを修理して一息ついたときに、私はこう言いました。うちの娘はスペイン語を勉強していて、グラシアスとかオレ!とか単語を教えてくれるよ。すると、表情がみるまに変わり満面の笑みになりました。帰り際には、メキシコに来なよ、案内するよ、と言ってくれました。一人の人間が、ニコッとしてくれたら、それで僕らは幸せです。

 マザー・テレサは言いました。愛は、家庭から始まるものだと。さらに、愛は祈りから始まる、と言いました。本当にそうだと思います。あなたの身近な人、家庭の親でも、配偶者でも、子供でも、そういう人に愛を届けましょう。

 『愛を伝える5つの方法』(ゲーリー・チャップマン、いのちのことば社)という本は実に具体的で、生活を変える力のある本です。その中に、ジムとジャニスの夫婦の話が書いてあります。結婚12年、子供が3人、夫のジムは真面目ですが、モノサシが歩いているような人で、妻の立場からは心が通じないし、愛されていないと感じ、ジャニスは離婚を口にしていた時でした。チャップマン先生の結婚セミナーに夫婦で出席しましたが、夫は表情を変えません。翌週のこと、月曜に、夫はバラの花を持ってきました。火曜に、夕食用ピザを買って帰りました。水曜は、子供にはお菓子、妻には鉢植えの花。木曜は、カードを渡し<自分は愛を伝えるのが下手だけど、君を愛してる>と書き添え。金曜は、奥さんの大好きなクッキーを持ち帰り。土曜は、子供をベビーシッターに預けてディナーに二人で出かけました。同じようなことは毎日できないけど、1週間に一度これから愛を形で伝えるよとジムは約束、1年で52回の贈り物を愛を込めて渡し、それを3年間続けて、チャップマン先生に報告したというのです。

 自分にしてもらって嬉しい事、それを相手の立場になって考え、祈り、あなたの愛を伝えましょう。今週、何か一つ、具体的に身近な人に愛のアクションを取ってください。そして、来週、教えてくださいね。聖書はあなたを変える、あなたは、家庭を変える。家庭は社会を変える。勇気を持って実行しましょう。



 

ヨブ記42:1~17 「ちりと灰の中で」

 我が家では今、第3次ジグソーパズル・ブームの真っ最中です。「あんなもの、何が面白いのか」と昔は思っていたのですが、やってみると案外面白いのです。小さなピースが一つ入るだけで達成感が得られ嬉しいのです。
 人生とジグソーパズルには共通点があるように思うのです。一つのピースだけでは何が何だか分りません。それでも、忍耐深く完成図を見つめると、それがどこにはいるべきか分ってきます。残念ながら人生の完成図は僕ら人間には見えません。けれども、神はそれを確かに持っておられるのです。湖のほとりに立つ白亜のノイシュバインシュタイン城の美しい景色がよくパズルの絵柄に使われますが、神が私たち一人一人のために作られた人生の絵柄はその何倍も美しいものに違いありません。

 ヨブは一日にして子供全員と財産のすべてを失い、つらさに耐えかねて生まれた日をのろいました。慰めに来たはずの友人3人はヨブを誤解し、悔い改めよと強い調子で迫り、議論は平行性を続けました。「ヨブは自分が正しいと思っていたからである。」(32:1)とありますが、これを理由に友人3人はヨブを見限りました。その後、エリフが若者らしい純粋な視点から持論を展開、その間に友人3人は席を外したり、家路についたのかもしれません。

 38章で、神は嵐の中からヨブに現われ、ヨブの直面したすべての事柄の中に、神の摂理があることを説明しました。
ヨブは神の知恵と神の創造のみわざに圧倒され、自分の愚かさにはじめて気づきました。
「ああ、私はつまらない者です。
あなたに何と口答えできましょう。
私はただ手を口に当てるばかりです。」(40:4)

 神はヨブの問題点を容赦なく指摘しました。
「あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。」(40:8)

 神は、ご自身が造られた自然の脅威をヨブに示し、やぎ、ろば、牛、だちょう、馬、ワシ、カバ、レビヤタンなどの動物を列挙、神の知恵と力の偉大さをヨブに示されました。

 ヨブはついに、悔い改めます。友人から何度も悔い改めを迫られても心を硬化していたヨブが幼子のように素直になりました。
「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。
知識もなく、摂理をおおい隠した者は、
だれでしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分で知りえない不思議を。」(42:2~3)
「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、
ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5~6)

 ヨブの悔い改めを聞いた神は、ヨブの友人3人に対する怒りを表明されました。
「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)
 神は、友人らの意見が神についての真理ではないと糾弾されました。その代わり、ヨブを<神のしもべ>と認知し、高く評価されました。ヨブにとって溜飲の下がる場面だったでしょう。

 友人3人は戻って来て、罪の悔い改めと神との和解を意味する<全焼のいけにえ>をささげました。ヨブは友人たちのために祈りました。祈りの内容は、友人らの非道、誤解、中傷を赦すという意味でしょう。この祈りがささげられると、ヨブの体は元通りに回復しました。また、財産も当初の二倍となり、10人の子宝に恵まれ、親戚知人がヨブのもとに戻ってきたことが伝えられました。3人の娘の美しさの描写は、ヨブの後半の人生の豊かさや彩を象徴的に表すものです。

 神の前で、徹底的に打ち砕かれた人の姿は美しいものです。ヨブが、友人3人のために祈る姿もまた美しい姿です。ヨブのように、非難する者のために祈ることが真の回復につながるのです。

 フランスの医師であり、クリスチャンである、ポール・トゥルニエは著書『人生を変えるもの』の中で、「生きる目的は苦しみをなくすことではなく、苦しみを実りあるものとするところにあります。」と述べています。

 1877年岩手県生まれのキリスチャン男性がいました。軍国主義化の日本で、さらに田舎でクリスチャンになることは、親戚から絶縁されたり村八分になることを意味していました。教師であった彼は、仕事を辞めざるを得ませんでした。親への迫害は、その子供に対するいじめの連鎖を生み、1908年彼の9歳の娘は子供仲間から腹部に暴力を受け、それが元で翌年亡くなります。隣家で火災が起きれば、ドサクサに紛れ家を破壊されました。彼はそんな中で新聞配達の仕事を黙々と続け、子供に出会えば飴玉をやり、病人がいれば見舞い、悩みのある人の友になりました。そんな生活を20年続け、1926年9月、内村鑑三に呼ばれて町を離れ東京に旅立つことになりました。見送る人は誰もいないと予想した彼でしたが、駅には、町長、学校教師、僧侶、神主など町の名士はじめ、多くの町の人が彼を見送るために集まっていました。誰もが、彼との別れを惜しみました。それほどに尊敬される人になっていたのです。その群集の中に若き日の宮沢賢治も見送りに来ていました。見送られる40歳過ぎの男性の名は斉藤宗次郎。内村鑑三の最後を看取り、後に同氏の全集を編集した人物です。宗次郎の日記や手紙などから宮沢賢治との交流が知られる事となりました。有名な賢治の詩「雨ニモマケズ」のモデルになった人物といわれています。「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」の言葉が印象的です。
 斉藤宗次郎の生涯は人に知られず、苦難だけで終わった人生に見えましたが、実は多くの人を励ます人生と変えられていたのです。神のジグソーパズルは、荘厳で美しい絵として完成したのです。
 
 あなたの人生には、深く温かい神の摂理があります。我々は何も知らない者なのです。静かな心で、神を見上げましょう。穏やかな目で他者を受け入れましょう。今日なすべき事を神と共にしていきましょう。
 あなたの出会った不条理ともいえる苦難が、ため息と絶望に終わるのでなく、誰かの慰めになり、深いうなずきとなり、最終的には主への賛美と変わるように私は祈ります。
 「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(42:12)

ヨブ記38章1~41節 嵐の中で語られる主

ヨブ記の結論部分に入ります。

 ヨブと友人3人の対話は、平行線をたどり、感情的にもつれ、堂々巡りに陥り、ついに31章で暗礁に乗り上げました。「この三人はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。」(32章1節)
 議論を聞いていた若者エリフは怒りに燃え、32章から37章で持論を展開しました。荒削りで率直な若者らしい意見です。その中身は、38章以降で神がヨブに直接語りかける内容に、かなり似ています。ヨブが神を見上げるための道筋をエリフが整理したともいえます。

 それまで沈黙を保ってこられた神が38章でヨブに語りかけます。
「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
知識もなく言い分を述べて、
摂理を暗くするこの者はだれか。」(38:1、2)

 第1に、「答えて仰せられた」に注目してください。
神の沈黙と感じられた長い時間は、神が傾聴しておられた時間だったのです。苦難の中でヨブが発したすべての言葉は神に聞かれていたのです。それで、神は答えたと書かれているのです。深い思いやりと忍耐があって初めて、打ち明け話や恨みつらみを長時間聞けるのです。神はあなたに沈黙しているのではない。神は、あなたのうめきと悲しみ、祈りにできないあなたの心を聞き取っておられるのです。
 エリフは36章15節で「神は悩んでいるものをその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」と言っています。

 第2に、「あらし」に目を留めてください。
嵐とは何でしょう。神の怒り。神の力。神の臨在。それらすべての表れとみることができます。いつもの風が止み、黒雲が湧き出て周辺を暗くしたかと思うと、強烈な風がゴーゴー吹き荒れたのでしょう。稲光が怪しく光り、大音響の落雷も起きたかもしれません。おそらくヨブは、風をまともに顔で受け止めながら、神の声に耳を傾けたことでしょう。
 順風満帆のとき、人はのほほんとなって神を忘れるものです。けれども、人生の嵐に直面すると、真剣に神を求めます。そういう意味から、嵐の経験こそが意義深い経験と思える日がきます。

 第3に、「摂理を暗くする」を見てください。
 神がヨブに語られた中心メッセージは、ヨブの知識があまりにもお粗末だという指摘です。不十分な知識で語り続けるなら、節理を暗くすると指摘されました。有限で罪深い人間は、実は何も知らないのです。
 摂理を暗くするとは、どんなことでしょう。ヘブル語で「エーツァー」という言葉を、新改訳聖書は「摂理」と訳し、他の聖書は「はかりごと」、「経綸」などと訳しています。摂理とは、私たちが知りえない崇高で深遠な神の支配を表します。
 その神の支配や深いみこころ、思いやりを疑ったり、曲解してはいけません。運命は冷たいものですが、摂理は温かいものです。私たちの試練や苦しみを大きく包み込む神の摂理に信頼しましょう。


 

上滑りする言葉 ヨブ記22章1~30節

 今日のメッセージの副題を、「信仰ゆえの楽観・積極人生の勧め」とします。

 あなたは悲観的な人ですか。楽観的な人ですか。今、ため息をついた人は悲観的な人です。自分が楽観的な人だと思う人は手を上げてください。手を上げられた人は本当に楽観的な人だと思います。「あの人がそうは思えない」と心で思った人は、間違いなく悲観的な人です。

 ヨブ記22章は、議論がちょうど三巡目に入った場面です。ヨブの友人三人の中で最長老格に当たるエリファズが意見を述べたのが今日の箇所です。エリファズはヨブとの対話を重ねるうちに苛立ちが先行するようになり、なりふり構わずヨブを説き伏せようという姿勢になりました。
22章でエリファズは、否定的で、上滑りした意見3種類を述べます。

1) ヨブがどんなに正しくても神には関係ない。

「人は神の役に立つことができようか。
賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。
あなたが正しくても、
それが全能者に何の喜びであろうか。
あなたの道が潔白であっても、
それが何の益になろう。」(2、3節)

 なんと悲観的な意見でしょう。罪深く、有限で、弱い私たち人間をご存知の上で、神は様々な使命を人間に与えてくださいました。神は人間に失望してない、神は人間に期待している、というのが聖書を貫く中心思想です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:3)とはっきり書かれています。時として我々もエリファズのような悲観論に飲み込まれるときがあります。

 悲観的な人の声は巷にあふれています。人間の声を録音しようした人がいました。そんなもの不可能だと意見が出ました。いまだかつて誰もできなかった、というのが反対理由でした。それを無視してエジソンは1877年蓄音機を作りました。
 ミルトン・ライト牧師は、人間が空を飛ぶなどありえない事だとメッセージで語りました。その息子のウィルバーとオービルは、1903年12月17日キティーホークの海岸で12馬力の飛行機で世界ではじめて人間の乗った飛行機を飛ばすことに成功しました。
 1978年、日本のある電気会社で録音ができないテープレコーダーを発売することにしました。<録音できなければ誰が買うか>、<そんな変な和製英語では恥ずかしい>とか、否定的な意見が出ましたが、やってみました。これがSONYのウォークマン誕生の経緯です。


2) ヨブはひどい悪を行っている。

「あなたは理由もないのに、
あなたの兄弟から質を取り、
裸の者から着物を剥ぎ取り、
疲れている者には水も飲ませず、
飢えている者に食物を拒んだからだ。」(6~7節)

 これは、事実ではなく、エリファズの邪推です。第一、裸の人からは着物は剥ぎ取れません。
思い出してください。エリファズが最初に口を開いたとき何と言ったか。4章3~5節で、ヨブの善行を高く評価して、しっかりしろ、お前は他人が苦しんだときは助けてきたじゃないか、それが自分に及んだ時にはしゃんとしろ、と言っていたのです。

 悲観的な人は、人の悪い面ばかり見ます。人の欠点だけが目に入ります。さらに、かってな妄想、思い込みで、人をどんどん悪く仕立て上げていきます。人の良い点を見ましょう。

 日本プロ野球伝説の打撃コーチと呼ばれる高畠という人がいました。首位打者や盗塁王などのタイトル獲得選手を30人育てあげ、引退後は福岡で高校教師になり、NHKドラマにもなりました。その原作『甲子園への遺言』という本を読んでなるほどと思いました。
高畠コーチは選手の悪い癖や欠点は直らないものだと言い切りました。それではどうするか。徹底的にほめるのだといいます。30年間、ほめ続けました。あるときは、スイッチヒッターへ転向させた選手に秋から春まで付きっ切りで指導しました。はじめて左打席に立ったとき、「いけるぞ、これならいける。いいセンスしてるな」最初からほめ続けたといいます。この選手は後にパリーグ首位打者になりました。良いところを伸ばす。これが高畠コーチの秘訣でした。ほめた時はじめて人は伸びるのです。

 世界には、見方と敵がいるのではありません。自分の心が敵を作るのです。世界にいるのは隣人だけですね。その隣人を愛しましょう。その隣人に励ましの言葉を贈りましょう。

3) 神に立ち返れば、幸せになれる。

「さあ、あなたは神と和らぎ平和を得よ。
そうすれば幸いが来よう。」(21節)
 
エリファズは、邪推に基づきヨブを悪人に仕立て、どんなに潔白であったとしても神の役には立たたないとやる気を失わせた後で、こういう正論で説教しました。
ヨブは聞く耳を持ってなかったでしょう。文脈を無視して読めば、まぎれもなく聖書の真理です。良い言葉です。正しい言葉です。でもこれがヨブに向けられた言葉なら、むしろ逆効果でしょう。

 22章は、さしずめ、人の振り見て我が振り直せという箇所ですね。反面教師、他山の石ですね。こうならないようにしなさい、というのも実は後ろ向きですね。積極的な表現でメッセージを締めくくりましょう。
誤解しないでください。皆がイケイケのあっかるい人になれと言っているつもりはありません。神を信じているなら、全能者である神に頼って楽観的に行きましょうと勧めているのです。

最後にあなたへの具体的な3つの提案をします。

① <やってみよう>の精神を持ちましょう。
② 人をほめて励ましましょう。
③ 心からの言葉を伝えましょう。

 エリファズは、やってもダメだと言いました。そんなことないですよ。神がおられるんだから、あきらめることはないのです。やってみよう。神は私たちを絶えず応援しておられる。
エリファズは人の悪い面ばかりを強調した。むしろ、人を応援する者になろう。あなたも雇われてプロのコーチになったつもりで、身近な人をほめて、ほめて、励まし続けよう。
エリファズは上滑りする言葉でお説教しました。それより、何千倍も価値があるのは、前向きで、さわやかな積極的言葉だ。
  ありがとう。
  嬉しいです。
  やってみましょう。
  感謝します。
  おはようございます。
  おいしいです。
  私がやります。

さあ、あなたの番です。神の力によって、やってみましょう。
 
 

贖う方 ヨブ記19章1~29節

 海外に生活する我々は日本の流行語に言葉に面食らいますが、「KY」という言葉を知っていますか。政治家までが使っていますよ。K(空気が)Y(読めない)という意味らしいです。「あいつはKYだからね」と使うようです。使い方が間違っていたらお許しを、私もKYの部類かもしれません。
 私たちの日常生活は困難が多いですね。空気を読めば、「もうだめだ」と結論付けたくなる状況ばかりです。あなたは現実だけに目を留めていませんか。神の真実に目を向けてください。あれもこれも頭の痛い問題ばかりですが、朝、一人で聖書を読むと、神の真実に目が行きます。

 ヨブは実に惨めな状況にいましたが、神の真実に突然のように気づいた人です。今日の箇所にはヨブ記の重要聖句が25節に登場します。
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 ヨブは、神に責められたと感じていました。
「神が私の道をふさがれたので、
私は過ぎ行くことができない。
私の通り道にやみを置いておられる。」(8節)
 栄光も望みも神に奪われた(9~12節)とヨブは一人で思い込み、神の軍勢に攻め込まれていると感じていました。もちろんこれはヨブの主観的な判断です。

 ヨブは友人や家族からも見捨てられたと感じていました。
「私の親族は来なくなり、
私の親しいともは私を忘れた。」(14節)
「私が自分のしもべを呼んでも、
彼は返事もしない。」(16節)
「私の息は私の妻にきらわれる。」(17節)
「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、
私の愛した人々も私にそむいた。」(21節)

 自分の置かれた空気をヨブが読むなら、出口なしです。でも、出口なしという空気を読まずに、前に進んだ人の姿は多くの人に勇気を与えます。

 小学校の先生が中学に進学した女の子を次のように励ましました。水泳が大好きでオリンピックに出たいと言ってたじゃないの、学校にプールがないくらいで夢を捨てちゃだめ。それに勇気を得て、水泳を続けた女子有名選手がいます。

 次に、自分の声が人と違うので恥ずかしいと思っていた少女がいました。親からもらった声を大事にして、むしろ鍛えなさいと励ましたのがお母さんでした。演劇部に入って前向きな人生を選んだこの女性は、後に有名な声優になりました。人とは違う変わった声こそがむしろチャームポイントになったのです。

 KYなんて打ち破って生きたこれらの人々は多くの人を力づけます。ヨブも、神に苦しめられたと思い込み、人には見捨てられ、出口なしの状況でしたが、前後脈絡関係なく、唐突に、魂を貫くような信仰告白を25節でしました。「私は知っている」という言葉に注目しましょう、ヨブの強い確信がにじみ出ています。

「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 「贖う」という言葉の意味を考えましょう。経済的に困窮し先祖代々の土地をやむなく売り払った時、落ちぶれて奴隷になってしまった時、身内の者が高価な代価を払って買い戻すことを普通「贖い」といいます。
 聖書では「贖い」を広義に使用しています。「敵」(ヨブ6:23)、「労役」(出エジプト6:6)、「苦しみ」(詩篇25:22)、「いのち」の危険(詩篇103:4)、「しいたげ」(詩篇119:134)、「罪」(イザヤ6:9)などからの救いのときに、「贖い」を使います。

 父なる神を贖い主と呼ぶ箇所は聖書に多いのですが、主イエスが生まれる前にヨブは救い主を信仰の目で見て、贖うお方であると言い切っています。イザヤ53章を除くと、こんなに鮮やかに救い主の姿を予告した箇所は旧約聖書にはないと私は思います。

 贖う方がちりの上に立つ、とヨブは言っています。ちりとは何でしょう。ヨブが今座っている場所こそが、ちりです。ヨブにとって「ちり」は、悲しみと絶望と惨めさと死を象徴するものでした。1日に10人の子供と全財産を失った悲しみから、ちりを頭からまき、ちりの上で悲しんだのです。ヨブが慕う贖い主も、ちりの上に立つというのです。イエス・キリストは、ユダヤ人指導者に誤解され、ねたまれ、弟子に裏切られ、死の苦しみを通った方でした。まさに、ちりの上に立つ救い主です。

 神を信じ仰ぐ行為は、合理的でも論理的でもないと見える時があります。まわりの状況からいうと、とんでもなく飛躍しているとみられます。でも、神というお方が本当に生きておられるなら、それは無茶でも、無謀でもないのです。一番安全で確かな生き方なのです。「私を贖う方は生きておられ」とありますね。
 現実だけに振り回されず、神の真実に立って進みましょう。私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方がおられるのです。そのお方が生きているのです。勇気を出して進みましょう。

「木には望みがある」 ヨブ記14章1~22

 14章でヨブが語ったことを4つに整理してみます。
1)人は弱く、はかなく、罪深い。
2)人は死んだら終わりだが、木には望みがある。
3)私をよみの深みに連れていき、罪を見過ごしにしてほしい。
4)けれども神は、そんな望みすら砕いてしまう。
 今日はこの中で、第2の「木には望みがある」ということに絞って考えてみましょう。

ヨブ記は、シンフォニーのようなものだと、私は思います。ベートーベンの交響曲第5番を例にして話しましょう。この曲は、1808年ウィーンで初演されました。最初にダダダダーンと第1主題が鳴ります。ベートーベンの弟子アントン・シントラーが冒頭の4つの音は何を示すのかと質問しましたが、「運命はこのように扉をたたく」と答えたそうです。主旋律のモチーフは既に1798年に記録があり、彼の耳が悪くなる時期と重なります。第1楽章は、運命に翻弄される弱い人間を表すといわれています。30歳でほとんど耳が聞こえなくなったベートーベンですが、1804年からの10年間に、エロイカ、運命、田園、ピアノソナタなど代表作を次々に世に送りました。苦悩を経て歓喜に至るというベートーベンの生き方が端的に表れている第5番です。

ヨブ記には、4つの主旋律があると私は思います。ダダダダーンに匹敵する第1主題が、「なぜ、正しい者が苦難を受けるのか」。第2主題は、「女から生まれた人間はは罪深く、弱い」です。第3、第4テーマは結論を話す42章前後に詳しく触れる予定です。

女から生まれた人間は罪深く、弱いという内容は最初エリファズの言葉で登場します。
「人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前にきよくありえようか。」(4章17節)。
次はヨブの言葉で今日の箇所にあります。
「女から生まれた人間は、日が短く、
心がかき乱されることでいっぱいです。」(14:1)
さらにエリファズの言葉が登場します。
「人はどうして、きよくありえようか。
女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか」(15章14節)
最後は、ベビルダデの言葉です。
「人はどうして神の前に正しくありえしょうか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。」(25章4節)

 小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」の歌や、平家物語の書き出し、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」などを思い起こします。


あなたの人生を交響曲にたとえると、第1旋律は何ですか。そして、それを受けたあなたの弱さの告白である第2旋律はどうなりますか。


ハワイにモアナルアガーデンがあります。「この木何の木、気になる木」という日立のコマーシャルにより日本で有名になりました。樹齢100年を越していると管理人に教えてもらいました。
ハワイに住んでいたとき、その木を1時間、見続けた経験があります。実に、堂々としています。一人でどこにも動けないのに、人に安らぎをくれます。木陰、風に揺れる枝や葉っぱ。鳥たちや虫たちを呼び集める木。素晴らしい木です。
近づいて、木陰から枝を見上げて驚きました。枝が蛇行しているのです。人に剪定され切られています。嵐のせいでしょうか、折られてます。自分の意思のとおりにまっすぐ伸びなかった木です。

「木には望みがある。
たとい切られても、また芽を出し、
その若枝は絶えることがない」(14章7節)

ヨブは、自分の境遇を嘆き、自分はだめだとため息をつきますが、何気なく目をやった木を見て、憧れを語ったのだろう。
この木に、自分の名前を入れてみましょう。それが、聖書から来る励ましです。この木にイエス・キリストの名を入れよう。それは、事実であり、真実です。

私たちは、人生の嵐に翻弄されます。病になり、失敗し、道を外れます。そのうえ、弱く、罪深い。でも、それで終わりではない。私たちがより頼む主イエスがともにおられるので、失望することがないのです。

あなたの人生を襲った運命のため、私たちの主旋律は苦しみや悲しみ、怒りになりやすい。けれども、主イエス・キリストという最高の指揮者がいるので、暗い短調のメロディーでは終わらないのです。
手のひらに釘のある指揮者、イエス・キリストがあなたのメロディーを歓喜と賛美にあふれる第4楽章に必ず導き入れてくれるでしょう。7節を暗記して、あなたの力と希望の源泉にしましょう。

「ツォファルの言葉」 ヨブ記11章1~20

 今日は、「オムニポテンス」という言葉を心にとめてください。ラテン語で全能を意味する言葉です。オムニはすべて、ポテンスは可能とか力などを表します。ハレルヤコーラスでも、オムニポテンツという英語で主をたたえますね。
 7節の言葉を中心にすえて考えてみましょう。

 「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。」(7節)

 ヨブの友人の3番手はツォファルで、自説を11章で披瀝します。(翻訳によってはゾパル。原語のヘブル後の発音としてはツォファルに近い)どうやらツォファルは3人の中で一番若いようです。そのせいか、語気が強いですね。ヨブの言葉にかなり苛立っています。20章、2巡目のツォファルの言葉にも怒りが感じられます。3巡目でツォファルの番がやってきても、結局は声を発していません。<切れた>のかもしれません。

 ツォファルの要点は3つです。
1) ヨブのおしゃべりは詭弁であり、無駄話だ。

「ことば数が多ければ、
言い返しができないであろうか。
舌の人が義とされるのだろうか。」(2節)

ツォファルは、魂を削るようなヨブの叫びを表面的にしか聞けない人です。実に残念で、さびしいことです。4節でヨブの言葉を引用しますが、ヨブが9章21節前後で述べた苦悩など見過ごしています。

2) 神は全能者であり、人間は及びもつかない。

「あなたは神の深さを見抜くことができようか。
全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。
それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。
それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。」(7~9節)

ツォファルは神についての真理を語りました。残念なことに、否定的な調子を含んでしか話せません。全能者の前で人は何もできない、神と争えないし、神のすべてを知りえない。ヨブのしている事は無意味だと説得している。

3) 自分の悪を神にわびれば、幸せが来る。

「あなたの手に悪があれば、それを捨て、
あなたの天幕に不正を住まわせるな。」(14節)

他の友人二人と同じ主張で、ヨブに罪を悔いるよう勧めました。そうすれば、明るくて、安らぎに満ちた未来が待っている(17~18節)と諭したのです。

 ヨブは、また一つため息をつき、否定的に真理を語ったツォファルの言葉に打ちのめされたことでしょう。けれども、神が全能であることは、まぎれもない真理です。ですからツォファルの言葉は、全能者を見上げる機会を多くの人に提供しています。

 横田めぐみさんのお母さんは、友人に勧められてヨブ記を読んだのですが、1章21節の言葉が心に染みただけでなく、今日の7節にも強い印象を受けたと言われています。全能の神は、人間の力では及ばない、深くて大いなる方だと気づきました。全能者。その大きさの前で、なにか心にストンと府に落ちるというか、心のうなずきが生まれたようです。

 私たちも、全能者である神の前に静かに立つことが必要ですね。ヨブは、ツォファルの言葉を承知済みであると12章で反論しますが、ヨブの結論的な言葉として次のような内容を心から語っています。

「あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成しとげられることを、
私は知りました。」(42章2節)

 オムニポテンス、全能。神が全能であることを、はっきり理解できたら、人生はきっと大きく変わるでしょう。全能の神に人生をゆだねることができます。困難なとき、安らぎを持てます。あなたも、全能者に信頼して歩きましょう。

 ニール・アンダーソンという聖書翻訳宣教師がパプア・ニューギニアで20年間活躍しました。村の人がジャングル奥地に入って狩に出ると聞き、彼は同行しました。ノブタやニシキヘビ、小動物や鳥を捕まえた夜、二人の村人の間に座って雨宿りをしました。右の人は、カブトムシを焼いたものを食べてます。左の人は、カブトムシの幼虫を竹筒に入れてあぶり、うまいよと宣教師の膝に置きました。アメリカ人宣教師が清水から飛び降りる覚悟で口に含むと、村人が背中をたたいて喜んでくれました。
 ある朝、イワシの缶詰のように同行者20人と横になって眠った翌朝、誰かの独り言が聞こえます。よく聞くと、祈りの言葉でした。「ここはあなたの森ですが、どうぞ獲物が捕れるよう助けてください」。別な男も祈っています。「残してきた妻や子供たちが守られますように」。次の祈りも聞こえます。「アメリカ人宣教師が村の言葉を理解して、神の言葉を俺たちに伝えてくれますように」
 素朴で、力強い、本音の祈りでした。アンダーソン宣教師は、村人の祈りに深く心動かされました。

 全能者を信頼した人は、人生が変わります。オムニポテンス、全能の神を生活の場で信じましょう。




 



 
 

「仲裁者」 ヨブ記9:1~35

 今日は、無力感について考えましょう。

 象は信じられないほど大きな力を発揮しますが、サーカスの象は杭につながれただけで静かになるといいます。それはなぜでしょう。鎖で杭につながれた小象時代、いくら暴れても逃げ出せないと学習したからです。それで、簡単に引き抜けるはずの杭につながれても、あきらめています。
多くの人が「サーカスの象」になっています。無気力におおわれています。

 ヨブ記8章では、了見の狭い学校教師のようなビルダデが意見を述べ、ヨブはその言葉を聞いて落胆しました。そんなこと、言われなくても知ってるよと1節で言い捨てました。ヨブは9章全体で神に反論しています。最初は間接的に、27節からは直接的に、神に反論しました。けれども、ヨブの心を支配していたのは圧倒的な「無力感」でした。

 ヨブの無力感を4つのフレーズでまとめました。

1、神は力が強く、とうてい太刀打ちできない。(3~12節)
「たとい神と言い争おうと思っても、
千に一つも応えられまい」(3節)
ヨブは神の創造の偉大さに思いを馳せ、おうし座、オリオン座など天体と造られた神に言及するが、その目は虚ろになります。

2、神が決めたことには逆らえない。(13~19節)
「神はあらしをもって私を打ち砕き、
理由もないのに、私の傷を増し加え
私に息もつかせず、
私を苦しみで満たしておられる」(17、18節)
 災難は神から来たのではないが、ヨブは神のせいだと誤解する。

3、神に自分の潔白さを主張しても、相手にしてもらえない。(20~31節)
「たとい私が正しくても、
私自身の口が私を罪ある者とし、
たとい私が潔白でも、
神は私を曲がった者とされる」(20節)
 ヨブは、22節のように、神の前では悪者も正しい者も結局同じ災いを受けるに過ぎないと無気力を加速させている。

4、神とヨブの間に、仲裁者がいない。(32~35節)
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいない」(33節)
誰か、私を助ける人はいないか。神の前に立ってくれる人がいないか。私を弁護する人がいないか。これがヨブの叫びです。救い主を求める悲痛な叫びです。


 無力感に捕らわれている人は普通、二箇所にしか目が行きません。第一は、直面している問題。もうひとつは、弱い自分です。神を信じている人の場合は、もう一点が加わります。神をゆがんで見てしまうのです。色眼鏡をかけて神を見ます。不可能を可能にする神を忘れます。思いやり深い神を忘れます。

 理解してくれる人との接触がないと、人は孤独感が深まります。最後は、圧倒的な無力感に支配され、固まってしまいます。

 一人の日本人婦人がアメリカでポリスに呼び止められました。車の中から、「何か、私が悪いことをしましたか」と尋ねると、「あなたは、最低速度違反だ」と言われチケットを切られました。遅すぎるというのです。
 道路工事のため、道路には赤いコーンが置かれ、車線が規制されていたので、ゆっくり注意しながら走っただけでした。憤懣やるかたなしですが、お上には逆らえません。無力感でいっぱいになりました。
職場の同僚に話すと、「ノット・ギルティー」と主張して、裁判で戦ったらいい、「私も応援するよ」と励ましてくれました。現場の写真を撮り、交通裁判所に出廷する準備を始めました。クリスチャンの仲間に話して祈ってもらいました。
 祈って、祈って、ドキドキしながら当日を迎えると、法廷内に例の警察官がいます。やがて自分の番になりました。ふたを開けてみると、相手側のポリスは、「手元に資料がない」と説明、ポリスが争う意思を撤回したと判事は判断、女性に無罪を告げました。いわば不戦勝の勝利です。ハレルヤです。主をたたえ、感謝しました。

 あなたには、今日、無力感がありますか。そこから出る道筋を紹介しましょう。

1、 勇気をくれる人に相談する。
2、 小さなアクションを今日から始める。
3、 あなたの横に立つ主イエスに信頼して、勇気を出す。

「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出してなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(使徒23章11節)
主イエスがそばにおられる、それが勇気の源です。

 仲間に話そう。主イエスに話そう。小さく始めよう。勇気を出そう。主イエスを信じて進もう。あなたも無力感から解放されます。

「キリストのために生きる」 ピリピ1:20、21

 新年あけましておめでとうございます。

 悔いのない人生を送りたいと、思いませんか。年の初めは普段考えない大きな事を考えましょう。ドーンと大きな視点で自分を見つめましょう。

 ハワイではどんな家にもアリが入ってきます。高層コンドミニアムにもアリは来ます。ある日私は、透明なコップの縁にアリが一匹いるのに気づきました。アリは左周りに歩き出し、出発地点に戻っても左に左に歩き続けました。いつまでたっても回り続けました。毎日の生活にだけ追われている人はこのアリと同じです。そこから抜け出しましょう。

「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、
いつものように今も大胆に語って、
生きるにしても、死ぬにしても、
私の身によって、
キリストのすばらしさが現されることを求める
私の切なる願いと望みにかなっているのです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」。
(ピリピ1章20、21節)

 パウロは、自分の体を通してキリストの素晴らしさを現すために生きていました。ですが、パウロのこのときの状態を考慮すると、よくも言えたと感心します。この時、パウロは牢獄にいたのです。
過去を振り返ればクリスチャンを迫害し死に追いやった暗い過去があります。現在は牢獄の中にいて、パウロの素行を疑問視する向きもありました。将来はというと、何の保障もなく死刑の可能性もありました。
 そのパウロはそんな「自分の身」をもってキリストをあかししたいと願っているのです。突き抜けています。牢獄の天井を突き破るくらい、目が天に開いています。貫く心棒がはっきりしています。このパウロの言葉を読んだ多くの人が2000年間励まされているのです。

 1964年の東京オリンピックからもう40年以上時が過ぎていますが、私が記憶に残っている陸上選手の名前があります。カルナナンダ選手です。
 1万メートル決勝に出場したセイロン(現在のスリランカ)の選手です。400メートルのトラックを25周し、有名選手は30分を切ってゴールします。すべての選手がゴールしましたが、カルナナンダはまだ走っています。苦しそうに走ります。1周したときには、7万5千人の観衆からあざけりの反応が出ました。2周しました。まだゴールになりません。3周して、あきらかにラストスパートをかけ、全力で走ってゴールしました。観衆の空気はがらりと変わり、感動と声援がスタジアムを包みました。
 カルナナンダ選手は、インタビューに答えてこう言いました。昨晩高熱が出ましたが、力を振り絞って走りました。娘が大きくなったら、父さんは東京で頑張ったと言ってやりたい。28歳、ゼッケン67。

あなたもキリストのために走ろう。この世界の基準なんてたいしたことはない。カルナナンダ選手も、勝利のために走らなかった。記録のために走らなかった。故郷にいる家族と娘のために走ったのです。
僕らもキリストのために生きよう。キリストに再会するとき胸をはって語れる人生を送ろう。「いつか、そうなりたいね」と言っているなら、左周りのアリと同じになる。悔いのない人生を送りたいなら、今、この瞬間からそれを始めればいい。
キリストのために、という生き方を始めたら、誤解されるかもしれない。笑われるかもしれない。損するかもしれない。それでもいい。キリストのため、具体的なアクションを始めよう。