マタイ3:13~17 父の眼差し


 私の手元に、私の子供時代の白黒写真があります。父が仕事で乗船していた貨物船の煙突を背景に、5歳くらいの私が両手を腰にあて、誇らしげに父の帽子をかぶって笑っている写真です。父の船に初めて乗れた喜びが見て取れます。
 この写真は父がシャッターを押したのだと最近になって気づきました。父の優しさや喜びや希望がこの写真に込められていたと分かってじーんとしました。
 今日の聖書箇所には、御子イエスに注がれた父なる神の愛に満ちた視線が見て取れます。


1、正しい事をする

さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。(マタイ3:13~15)

 主イエスの公生涯の第一歩は、正しいことを行うことでした。
バプテスマをさずけて欲しいという主イエスの願いを聞いて、ヨハネは強く拒否しました。それは、主イエスが罪のない方で(第1ヨハネ3:5)、罪の悔い改めのバプテスマは不必要だったからです。主イエスが神の御子で、ヨハネは主イエスの靴の紐を解く値打ちもないと理解していたからです。

 「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と主イエスは言われました。神は正しいことを行う方であり、神に造られた私たち人間も正しいことを行うように造られているのです。
考えてみましょう。あなたの身の回りにある正しいことは何ですか。職場で正しいこと、家庭で正しいことは何ですか。正しいことを実行しましょう。

悪いことではなく正しいことを選ばれたというだけでなく、主イエスは謙虚に正しいことをされました。主がバプテスマを受けるという事は、謙虚さの極みです。私たちが正しい事をする時も、謙虚さを忘れないように。

 もう一言。主イエスを信じた人で、まだバプテスマを受けていない人がいるなら、受けてください。一般の人は、バプテスマは立派なクリスチャンの印と思い込んでいますが、それは誤解です。バプテスマは卒業式ではなく、入学式です。



2、三位一体の神のフェローシップ

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。(マタイ3:16)

聖霊は、この時、目に見える形をとって主イエスに下りてこられました。聖霊を見たのは主イエスだけではありません。バプテスマのヨハネも、鳩の姿をとった聖霊が下るのを見たと証言しています。(ヨハネ1:32)
鳩の姿は、聖霊が主イエスのもとに、天から下って来たことを表しています。また、平和の象徴の鳩が、聖霊の優しさを示しています。主イエスの生涯はすべては、聖霊と共に歩む日々になりました。

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

 聖書には三位一体の神に言及している箇所が複数あります。たとえば、マタイ28:19、ヨハネ15:26、第二コリント13:13、などは有名です。
今日の場面は、三位一体の神が、歴史の中で、人の目や耳で確認できた唯一の瞬間という意味でとても貴重です。主イエスが神の子であり、まことの救い主であることを客観的に証明する歴史的事実です。

父なる神は天の高みから地上の主イエスに「愛する子」と言われました。主イエスは父なる神から熱烈に愛されていました。主イエスも、十字架にかかるまでの日々に父なる神からの愛がどうしても必要だったのです。
聖書の中で、父なる神が特定の人物に対して、心からの喜びを表したことは、歴史上、この箇所以外はありません。

父なる神は、主イエスがへりくだって洗礼を受けた姿を喜び、これからの活動を応援されました。あなたはわたしの子、わたしはあなたを愛する、あなたの存在は私の大きな喜びだと、父なる神は大声で言われたのです。それは、私たち人間のためというより、愛する一人息子に対する声援だったのです。

1992年のバルセロナオリンピック陸上400mの準決勝で金メダル候補の一人、イギリスのデレク・レドモンド選手(Derek Redmond)は良いスタートを切りました。160mまで走ったところで肉離れを起こし、激痛に顔をゆがめてしゃがみこんでしまいました。ストレッチャーで搬送しようとした医療チームを振り払い、17歳のデレクは片足で走り始めました。しばらくすると一人の中年男性がコースに出て来て、デレクに肩を貸して何かを言いました。それは、デレクの父親のジムでした。「もう走る必要はない」と父が言うと、「最後までやる」と息子は答え、「それなら、一緒にゴールしよう」と父は語り、二人でゴールしました。65000人の観衆は立ち上がって二人の健闘をたたえました。
父の眼差しは息子に注がれていました。

主イエスのバプテスマの瞬間、父なる神の眼差しはひとり子イエスに注がれていました。主イエスの十字架に至る走路には数々の困難の待ち構えていました。へりくだってバプテスマを受けるところから一歩を踏み出した御子イエスを父なる神は喜び、天からはっきりと声をおかけになりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」主イエスも、その声でどんなに力づけられたことでしょう。

主イエスは、神の国は近づいたと宣言されました。愛を注ぐ父なる神。鳩のように穏やかな聖霊。謙虚な神の御子イエス。この三位一体の神の温かい交わりこそが、神の国の始まりを知らせています。私たちもそのフェローシップに招かれています。

仲良し家族の夕食に招かれたゲストにように、私たちも神の愛の交わりの中に包まれ喜びをもらいましょう。そのような交わりの中で、私たちは正しいことを謙虚に行えるようになるのです。


→あなたの番です
 □正しい事を謙虚に行いましょう
 □三位一体の神とのフェローシップの中で生きていこう

マタイ3:1~12 バプテスマのヨハネ

 一人のテニス審判がこう言い残して死にました。「あの試合は清水が勝っていた。」
 1921年のデビスカップで、日本の清水善造選手とアメリカのチンデル選手が戦い、清水選手の鮮やかなサーブが決まり、チンデル選手は握手のためにネットに歩み寄った時でした。審判のフォーテスク氏は、ボールがネットにかかったと宣言しました。落胆した清水選手はそれをきっかけに崩れて試合に負けました。ボールはネットに触れていません。誤審ではありません。日本人に負けたくなかったのです。
 何年間も、フォーテスク氏は自分の過ちを忘れることができず、告白してから亡くなりました。

 人は、自分の人生を清算したいと思っています。そのきっかけを探しています。
 


1、荒野の矢印

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。(マタイ3:1~4)

私が映画監督なら、この箇所を以下のように撮影します。
最初のシーン:荒涼とした死海周辺の景色が左から右にゆっくり見せます。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という声が聞こえ、叫んでいる人物は映しません。ヨハネの本質は声だからです。ヨハネが活動した場所は、死海にヨルダン川が注ぎ込む付近の荒野。ヨハネのメッセージは主イエスと同じで、悔い改めと神の国です。主イエスを信じた後、あなたも、神の国を建設することが人生の主な目的になります。
第二のシーン:道行く旅人に叫ぶ男の姿をカメラで下から上に見せる。らくだの毛皮の着物、皮のベルト、伸びきった髪の毛。2000年前のユダヤでも、こんなワイルドな服装をした人は皆無でした。預言者エリヤを彷彿させます。
第三のシーン:ひげ面の口をクローズアップ。イナゴが放り込まれてむしゃむしゃと食べる。棒の先に付けられた蜂蜜が口に入る。これが荒野で手に入る食料でした。
第四のシーン:洗礼者目線でヨルダン川の水中から上がる場面を撮る。そこにヨハネの顔のクローズアップ。イザヤ書40章3節の言葉が画面に映し出され、ナレーションが入る。「彼はバプテスマのヨハネと呼ばれた男、救い主の道を用意する預言者、荒野で叫ぶ声」

ヨハネが祭司の家系に生まれ、救い主の道を整える者になると出生前に天使が告げられた人物(ルカ1章)だったことを、マタイは意図的に書きません。
ヨハネの本質が、荒野で叫ぶ声だからです。彼は救い主を指し示す道先案内の看板です。ただただ、人々に罪の悔い改めをうながし、救い主に会う備えをさせました。

私たちもバプテスマのヨハネと同じ使命を与えられています。生活の場で、職場で、学校で、どこででも、救い主イエスがいると矢印を出しましょう。


2、人生のリスタート

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(3:5~10)

 バプテスマのヨハネは、誰も恐れずに同じメッセージを語りました。ヨハネは国主ヘロデの罪を指摘し(14:4)命の危険も恐れません。宗教家のパリサイ人や祭司のサドカイ人にも手加減しません。お前たちは偽善者だ、お前の本質は毒蛇だ、まむしの末だ。悔い改めの実を結ばないなら、形式的なバプテスマは無意味だと責めました。実を結ばない木を農夫が斧で切り倒すように、罪人には神の処罰が待っていると告げました。

 なぜ、こんなに男たち女たちが、わざわざ荒野までやって来て、バプテスマを受けたのでしょう。ヨハネは、神の愛を語りません。優しい言葉や慰めを言いません。罪を悔い改めよと命じただけですが、立派な大人たちが公の場で自分が罪人だと告白したのです。

 人はみな、過去を清算したいのです。ごめんなさいと神に言って、人生をやり直したいのです。

 昔、朝日新聞の投書欄に中年男性の告白がありました。つまらぬ事で、夫婦が言い争いになり、妻が出て行く言い出しました。奥さんが荷造りしたバックの中身をちょっと見ると、テッシュペーパーに包んだ宝石類がありました。女房が自分で買った安物で、目の奥がつんとしました。俺は、今まで指輪ひとつ買ってやったことがない。すまん。オレが悪かったと、書いてありました。素直にゴメンがいえない中年男の悲哀です。
新聞に投稿せずに、ごめんなさいを奥さんに言いなさい!と思いました。

今日、あなたは、ごめんなさいと言いたい事がありますか。神に向かって罪を悔い改めましょう。必要ならば、目の前の人にも、ごめんなさいをきちんと言いましょう。

自分の犯した過ちを進んで告白した人がいたら、その勇気をたたえ、良く言ったと受け止めてくれる家庭や職場があったら素晴らしいと思います。ごめんなさいと子供に言える父親。私が悪かったと夫にあやまれる妻。そんな互いを抱きしめられる家庭になりたい。
 

3、救い主を指し示す

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(3:11~12)

 ヨハネは、自分が尊敬されること、目立つことを嫌がりました。自分は救い主を指し示すだけの看板だ。口から発したら消えてしまう荒野の声に過ぎない。だから、救い主の履物を脱がせる価値もないと言いました。
 また、ヨハネは水のバプテスマをさずけるが、救い主のイエスは聖霊のバプテスマを授けて下さり、人々を聖霊の交わりと守りの中に入れてくれる方だと説明しました。自分と主イエスは次元が違うと述べました。
 主イエスは救い主ですが、世の終わりには裁き主にもなるとヨハネは語りました。ちょうど農夫が脱穀された麦を箕に入れ、風の力で籾殻を飛ばして実を選別し、いらない部分を焼いてしまうように、世の終わりに主イエスも同じことをされると述べました。
 だから、悔い改めるなら、今、なのです。

 今日のポイントは二つあります。
 罪を悔い改めて、人生のリスタートをしましょう。
 ヨハネのように、主イエスを指し示す矢印になりましょう。矢印は立派である必要はありません。まっすぐ主イエスを指させば良いのです。

 ロンドン市内の駅でアジア人女性を見つけ、「おいしいインド料理の店を近くで知っていますか」と私たち夫婦が尋ねたことがありました。彼女は親切に教えてくれて、実は日本人でした。話の最後に彼女は、「私は日曜日は教会に通っています。今度の日曜日においでになりませんか」と言いました。私たちはにっこりして、牧師夫婦であることを告げました。その数週間後、私はその教会の礼拝でメッセージを語らせてもらいました。
 あなたも、あなたの方法で矢印になれます。

 →あなたの番です
  □罪を悔い改めよう
  □いつでも、主イエスを指し示す矢印になろう
 


マタイ2:13~23 夜のうちに


1、逃げる

彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。(マタイ2:13~15)

マタイ1:20を見てください。ヨセフが夢の中で主の使いの言葉を聞くのは今回が始めてではありません。婚約者マリヤの妊娠で悩んだ時に、それは聖霊による妊娠であり、救い主の誕生なのだと主の使いが教えてくれました。
東方の博士が帰った後、ヨセフは夢を見ました。主の使いは、エジプトに逃げなさいと指示しました。理由は、ヘロデ王が殺そうとしているということでした。

ヨセフの行動は敏速でした。ヘロデの兵隊が明日来るかもしれない。夜、動いた方が人目につかない。夜のうちにマリヤも赤ちゃんも連れてベツレヘムを去りました。博士たちからもらった宝物はエジプト滞在費になりました。

 逃げる。それは立派な選択肢です。

 学校でいじめられたり行き詰ったら、転校しましょう。
会社の職場環境が劣悪なら、良い仕事を探して、転職しましょう。
疲れきったり、燃え尽きたら、リタイヤしましょう。
近所とのトラブルで苦しむなら引越しましょう。
借金解決の最終手段として自己破産もあります。お金のために死ぬことはありません。
 暴力亭主、アルコール依存の夫に殺されそうなら、逃げましょう。
 アメリカでダメなら、日本に帰ってやり直しましょう。

逃げることは敗北ではなく、人生を立て直す道です。家族を立て直すための勇気ある決断です。立ち向かえない強敵ならば、戦わずに去りましょう。
逃げてもよいのです。



2、歴史上の事実

その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタイ2:16~18)

 ヘロデ王は巨大な建造物をいくつも作った権力のある王でした。同時に猜疑心の強い人物で、息子のうち3人を殺し、妻を殺し、義理の母を殺し、家臣たちを殺害した人物でした。新しい王として生まれた赤ちゃんの所在がつかめないので、ヘロデはベツレヘムで生まれた赤ちゃんを皆殺しにしました。

 預言者エレミヤは約600年前、ラマという町に人々が集められバビロン捕囚として連れて行かれる様子を、エレミヤ書31:15に記録しました。バビロン捕囚とは、つまり奴隷になるということです。ラマはベツレヘム近郊の町でした。
そのずっと昔、ヤコブの妻ラケルはこのベツレヘムに埋葬されました。ラケルは二人目の子供ベニヤミンを生んで直ぐに死亡しました。ベツレヘムにはラケルの涙も染み込んでいたのです。そして今、ベツレヘムで赤ちゃんを失った多くのお母さんたちの涙が流れました。預言者エレミヤは、未来を知らないままこの悲惨な出来事を予告していたのです。聖書が神の言葉といわれる理由の一つは、こうした預言の成就にあります。

ベツレヘムの赤ちゃん虐殺事件をマタイが記録したのは理由は二つあります。第一は、エレミヤの預言が成就したことです。第二は、博士がヘロデを訪ねた事が歴史的事実だということを指摘したかったのです。博士たちがヘロデ王に面会したからこの虐殺が起きたのです。

聖書が道徳や哲学の書と考える人がいますが、聖書はまず第一に歴史的な記録であることを忘れないでください。道徳、ことわざ、教訓、知恵は役にたちますが、人を罪から救うことはできません。主イエスは、歴史的に実在したお方で、実際に十字架で死に、よみがえってくださった方です。そこにキリスト教の独自性があります。



3、帰る

ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。(マタイ2:19~23)

 ヘロデは紀元前4年に亡くなりました。
3度目になりますが、主の使いが夢に現れてヘロデの死を告げ、エジプトを離れるように命じました。ヨセフはそれに従いました。さらに、主の使いは4度目に現れ、ヘロデ王の息子アケラオが支配するユダヤ地域を避け、北部に住むように命じました。それで、北部の田舎町ナザレで生活することになりました。

 主イエスの母マリヤの信仰が素晴らしい事は良く知られています。神への従順、神に不可能はないと理解する心、忍耐などがマリヤの素晴らしい点です。今回、夫ヨセフの行動を見て、彼もまた立派な信仰者だと思いました。

 「立って」という言葉を主の使いは用いました。ヨセフは慣れ親しんだ環境に留まりたかったでしょう。でも、そこを出よとプッシュする意味で「立って」と強調しました。今度は、帰れとの命令です。それは、使命達成のためでした。救い主は、エジプトにいては何もできないのです。

あなたは、主から、帰れと言われているかもしれません。あなたが使命を果たすのは今いる場所ではなく、ホームです。故国に、故郷に、本来いるべき所に帰りましょう。

 「ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」(2:14~15)
 「彼は、立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」(2:21)

→あなたの番です
 □必要なら、そこから逃げましょう  
 □指示があったら、ホームに帰りましょう

マタイ9:9~13  罪人を招くイエス


 マタイの福音書は、主イエスの十二弟子の一人マタイが書きました。今日の箇所は、著者マタイが自己紹介をしている箇所と考えることができます。

 キーワードは、三つ。①見る。②ついて来なさい。③罪人を招く。


1、マタイを見る主イエス

マタイの職業は取税人でした。当時ユダヤはローマに占領されており、ローマ政府への税金集めを請け負ったのが取税人でした。ローマ権力の後ろ盾を利用し、過酷で乱暴な税金取立てをしたので人々に嫌われました。ひとことで言えば、マタイは悪党です。

イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。(マタイ9:9)

9節に、「収税所にすわっているマタイという人をご覧になって」とあります。
主イエスはマタイが税金をふんだくる様子を見ていました。主イエスは罪をいい加減にする方ではありませんが、マタイをそのまま受け入れ、愛しました。現代風に言い直せば、セブンイレブンで万引きして出口から逃げる時に、主イエスにお会いしたという感じです。

漫画のドラえもんが<だれでも週刊文春>という新しい道具を作ったとします。のび太君は「それ、どんな道具?」と尋ねるでしょう。「これはね、君が昨日悪いことをしたら、その場面の写真が週刊誌に印刷されて家族・友人・会社や学校の人・地域の人に配達されるという道具だよ。」盗み、いじめ、偽装工作、手抜き、不倫、その他すべての悪事が暴露されると考えたらいいです。
「もう一つの道具もあるよ。<本音掲示板> これはね、お世辞を言っても、本音が漫画の吹き出しみたいに出る道具。『社長、ナイスショット』と言っても、掲示板には、へたくそ、ケチおやじと出てしまうんだ。」

ドラえもんの道具は非現実的ですが、みんなが悪事をして隠して生きているというのは本当にリアルな現実なのです。また、心の中では悪いことを考えているのも事実です。
そんなリアルな悪党である私たちを主イエスを見ています。そんなあなたのことを心配し、ずっと温かい目を注いでいます。これを、神の愛といいます。

「わたしについて来なさい。」と主イエスは言われました。マタイがすぐにこの語りかけに従ったのは、このチャンスにかけようというマタイの決意が感じられます。マタイは人生にチェンジをしたかったのです。悪い金儲けはもう十分だ、まっとうな人生を送りたいと考え、変化するチャンスを探していたのでしょう。主イエスに言われて、マタイはついて行く気になりました。

「わたしについて来なさい。」という言葉は魅力的です。こう言える人はそうそういません。ついて来るなら必ず面倒をみる、最後まで助ける、君はやり直せるさ、あきらめるなという意味が込められています。

「わたしについて来なさい。」という主イエスの言葉はマタイの暗い心に光となって差し込みました。マタイは立ち上がって、主イエスの十二弟子のひとりになりました。


2、新しい始まり

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」(10~11節)

 取税人を廃業するお別れの会をマタイが開いたのでしょう。仲間を集めてリタイヤする理由を話し、主イエスをみんなに紹介したはずです。それを見た律法の専門家、宗教者たちは主イエスを批判しました。罪人、取税人と食事を一緒にするなどイエスのすることではないと言いたいのです。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12~13)

主イエスは、世の中で悪者と呼ばれる人々の本質を一言で説明しました。あの罪人たちは、病人なのだ。病気だから直る。

旧約聖書の「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」という旧約聖書の言葉の意味を良く考えてみなさいと主イエスは言われました。神が望むのは形式的な従順のふりではなくて、心からの真実なのです。主イエスがこの世に来た理由は、罪人を招き、その病をいやすためなのだと最後に言われました。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」13節のこの言葉は、マタイの宝となりました。それはこう読めるからです、主イエスは罪人マタイを招くために来た。

さあ、あなたの番です。
あなたも私もマタイに似ていて、罪人です。<だれでも週刊文春>を使われたら社会から見捨てられます。けれども、主イエスはあなたを見つめ、そのままのあなたを愛してくれました。そして、あなたに声をかけてくれます。「わたしについて来なさい」私たちも主イエスについて行くなら罪から離れ、主イエスの弟子となり、新しい人生が始まります。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」

→あなたの番です
 □主イエスはあなたを見て、なおしてくれる医者   
 □主イエスについて行き、新しい人生を始めよう