神の計画  エペソ1:3~4

 昨夜、いつものように妻と二人で手をつないで散歩しました。ドアの前に戻ったとき、「僕を選んでくれてありがとう」と言いました。洋子も言ってくれました。「私を選んでくれてありがとう」結婚して25年以上たっていますが、この感謝の気持ちは変わりません。今日は、神の選びについて考えてみましょう。

1、神をたたえる人生

 パウロは、手紙の本論に入ってまず神をほめたたえました。強烈に、あふれるほどの言葉もって、神を賛美しています。

 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)

 何かを伝えようとする前に、神をたたえる。これがパウロにとってごく自然な行為でした。3節から14節まで原文では区切れのない一文なのです。神をたたえる言葉が泉のようにパウロからあふれ出ました。

 私は、実の娘達からほめられる時、表面ではそれほど表しませんが、内心かなり喜んでいます。身内はお世辞をいいませんし、娘達は本当に良いときしかほめてくれません。そんな娘達が「父さん、かっこいいよ」と言ってくれると嬉しいです。認められるという目に見えない行為が、私の心に喜びを与えてくれます。
 霊的祝福も目に見えませんが確かに存在します。霊的祝福とは、神だけが与えることができる祝福です。その祝福を受けると人は本当の幸せと喜びを感じます。
 パウロにとって、霊的祝福は抽象的な概念ではなく極めて具体的で、はっきりと体験したものでした。パウロはそれを理由に神をたたえたので、賛美の言葉が途切れることがなかったのです。
 天国にもし<霊的祝福発送所>があるなら、そこはもう空っぽです。「祝福してくださいました」と書かれてあるからです。あとは、私たちがしっかりとその祝福を受け止めるかどうかです。キリストを信じることによって、その祝福を受け取ることができるのです。

 あなたにお勧めします。全能の神、聖い神、創造主なる神、永遠の神、まことの神を心からたたえましょう。礼拝で皆と心を合わせてたたえましょう。あなた一人のときにも、神を心からたたえましょう。神を本気でたたえるとき、私たちは本来の人間の喜びを知ることができます。問題が小さく見えます。自分の心が謙虚になります。優しくて柔軟な心が生まれます。


2、神による選び

 パウロがリストアップした霊的祝福の第1は、選びです。この言葉はすぐに誤解されます。選ばれた人と選ばれなかった人がいるのか?神は不公平だ、えこひいきだとか言う人がいます。私はこの箇所を何度も読みなおし、思い巡らし、新しい観点が見えてきました。神に愛された喜びを表す主観的な表現が、選びだと思えるのです。

 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4)

 神が主語となり神が選ぶ行為を実施するなら、私たち人間の側はいつも受身になります。それで、「選ばれた」という表現になります。
 選ばれたという行為は、人間関係でいうなら結婚関係に似ています。あなたを愛しているのであなたを選びましたというのがプロポーズです。そのプロポーズを受けた人は、選んでくれてありがとう、私もあなたを愛しています、と答えます。この場合、プロポーズは非常に排他的な行為で、世界中のすべての人を無視して、たった一人だけを選ぶことになります。選ぶことは、「愛しています」という言葉の最高度の表現だと思います。
 だから、選びとは、誰かを選び、誰かを選ばないという客観的表現ではなく、愛された人による主観的表現だと言えます。

 ある会社の社長は入社式の挨拶の中で、不慣れな中国語で5分間スピーチしました。日本人新入社員に混じった中国人社員一人を歓迎するため社長は二日間徹夜で中国語を覚えました。その社員は、愛された、選ばれたと感じたことでしょう。
 
 一般的に、何かを選ぶとき、自分にとって益になるものを選びます。つまり、利己的な選びです。けれども、神の選びは、違います。罪のけがれを持ち、欠点や不服従の可能性を持つ人間を神はあえて選びました。選びという行為は、相手の将来すべてを引き受ける覚悟です。また、選びは、これからずっとあなたと共にいる、あなたを捨てないという強い決意です。将来、神に逆らい、神の栄光を汚し、神につばするような者となる可能性のある者でさえ、世界の基の置かれる前から、愛すと決めておられたのです。「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」とあるように、神は、私たちの汚れをきよめ、神の前で完全な者にしようとする目的を持っておられます。

 かつてキリスト者を迫害したパウロが、主イエスによって使徒として選ばれました。それでパウロは、自分が愛されたこと、選ばれた事実を感動を持って話すのです。
 「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」(使徒9:15)

 選びに関連した以下の聖句にも心に留めてください。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

 選びも、霊的祝福すべても、私たちの努力や真面目さで入手できるものではありません。十字架で死なれたイエス・キリストによって初めて得られる恵みです。だからパウロは、キリストのうちに、キリストにおいて、と何度も繰り返すのです。

 「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:33)

 神は、罪深い私を選び、世界に向けて、「ほら見てください、私の選んだ人です」と胸を張ってくださる方なのです。選んでくれて、ありがとう。私は、心からそう言いたいです。選んでくださった方に恥じない生き方をしましょう。

恵みと平安 エペソ1:1~2

 これからパウロの獄中書簡の一つ、エペソ人への手紙を学んでいきましょう。今日は、手紙冒頭の挨拶部分を見てみましょう。手紙には定型句がありますが、パウロの決まり文句は、生きた信仰の表れでした。
 
1、神のみこころによる

 「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、……」(エペソ1:1)

 パウロはまず自己紹介をしますが、出身地による説明なら寅さんみたいに「生まれも育ちも葛飾柴又」となります。勤めている会社名や役職で自己紹介をすれば、会社人としての自己認識が高いわけです。パウロは、神との関係でアイデンティティーを確認していました。目的を持って派遣された人、<使徒>、これがパウロの自己認識でした。

 宗教過激派の頭目のようなパウロは、キリスト者を迫害する旅の途中ダマスコで復活の主イエスに出会い劇的な回心を経験、数日後、主から使命を頂きました。

 「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)

 会社人間にとって現役引退は厳しい現実になります。たとえ社長として活躍してきた人でも、株主総会で人事刷新が終わると、とたんに秘書も部下も見向きもしなくなり、ただのおじさんになります。でも、神とのかかわりでアイデンティティーを持っている人は、強いです。

 パウロは、神からの使命を頂いた幸せな人でした。あなたの場合、神との関係でいうと、以下の空欄にどんなことばが当てはまりますか。

 神のみこころによる(                )


2、忠実な聖徒

 「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」(エペソ1:1)

 あなたは聖徒ですか。クリスチャンなら、のこらず聖徒です。第1ヨハネ1:7にも、御子の血によってきよめられると書かれています。主イエスが身代わりになってくださったゆえに、私たちはキリストのきよさを持つ者とされたのです。聖徒とは、レベルの高いクリスチャンを指すことばではありません、私やあなたのよな普通のクリスチャンのことです。

 エペソは現在のトルコのエーゲ海側の海岸近くにあった町。トルコ半島を犬の顔に見立てれば、ちょうど口の位置にありました。現在は遺跡をとどめるだけで、地名も残っていません。パウロの時代は、商業の町、また、女神アルテミスの神殿の門前町として栄えました。

 第2回伝道旅行でパウロがエペソに立ち寄ったのが52年ごろなら、第3回伝道旅行で滞在したのは(使徒19章)55年、この手紙が書かれたのが60~62年ごろになります。パウロの伝道旅行年代は学者により誤差があるので、あくまでも目安としてご理解下さい。

 パウロは、エペソで例外的に長く滞在しましたが、エペソを宣教上の拠点と把握したのでしょう。

 「これが2年の間続いたので、アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた。」(使徒19:10)

 ここで言うアジアとは小アジアのことで、現在のトルコ半島全域を指し、面積で言えば日本の2倍の広さになります。わずか2年の間に、小アジア一帯に福音が伝えられたというのは驚くべきことです。どのようにして、それを実現したのでしょう。
 アルテミス神殿には多くの参拝客がやって来ましたが、パウロ達がこの人たちに伝道し、救われた人を伝道師として訓練し、故郷に帰って伝道するよう派遣することができました。
また、パウロが神学校のようにして、信者を教えるなら、整えられた上で各地に派遣することもできます。この2種類の伝道や教育活動により、広い地域に伝道が可能になったのでしょう。まさに、忠実なクリスチャンの姿です。

 私たちの教会は<幸せの発信地>を目指していますが、エペソ教会はそのお手本になる教会です。エペソ教会はアジア一帯に福音をと伝える発信地となりました。

 現代でも同様のことが可能です。留学のためアメリカに来た人を救いに導き、訓練して、日本に遣わす。また、教会で救われた人を神学校レベルの教育を授け、宣教師のような立場で派遣する。福音を伝えることにより、本当の幸せをもたらすことができます。その幸せの発信地として、主に用いていただきましょう。

 ロン・ヘイファーというバイオラ大学のチャプレンは、新入生に同じような話をするそうです。1934年、ノースキャロナイナでモルデカイ・ハムという巡回伝道者の集会に、ウイリアムという名のおとなしそうな16歳の農家の青年が参加したそうです。彼はそこで、主イエスを信じました。メッセージを語ったハム師も、個人的に救いの祈りを導いた人も、その頼りない青年が後に、世界の伝道者ビリー・グラハムになるなど知るよしもありません。

 あなたには何ができますか。あなたの知識、経験、賜物、発想、時間などを用いてください。神を愛し、人を愛し、福音を伝えてキリストの弟子にするために、あなたができることは何ですか。

3、恵みと平安
 
 「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(エペソ1:2)

 恵みとは、受けるに値ししない者が受ける祝福。平安とは、神だけが与えることのできる魂の平和。パウロが書いた13の手紙すべての冒頭で使う挨拶が、恵みと平安です。

 恵みといえば、主イエスの恵みを思い出します。ヨハネ1:14によると、「この方は、恵みとまことに満ちておられた。」とあります。ヨハネは、主イエスから恵みを受けたと書いています。(ヨハネ1:16)恵みは、愛、罪の赦し、守り、など多くの意味を内包しています。主イエスだけが与えることのできる祝福と言うこともできます。

 また、平安についても、主イエスの言葉を思い出します。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)病気の人、試練の中にいる人、孤独な人、落胆している人に、平安は特に必要です。

 パウロは自分が受けたものを人にも分けたいと思っていました。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(第1コリント15:10)

 パウロの挨拶は、挨拶のための空疎な美文ではなりません。パウロが実際に主イエスから受け取った実体のあるものでした。恵みと平安という実体を、エペソの人にも持って欲しかったのです。
あなたも、礼拝でもらった祝福を自分で独り占めしないで、持ち帰って他の人に差し出して下さい。

 あなたにも、神の恵みと平安がありますように。神のみこころの真ん中を進み、福音の拡大のために自分をささげてください。
 

幸せの発信地  マタイ22、28章

 教会は何のために存在しているのでしょう。神を愛し、人を愛し、福音を宣べ伝えてキリストの弟子を育てることです。つまり、God, Others, Disciples となり、頭文字はGODとなります。

 これを、私たちの人生の骨組みとしよう。それが、私たちを本当の意味で幸せにします。

1、<G> God 神を愛す  

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マタイ22:37)

 旧約聖書の中心メッセージを要約すれば、神を愛し、人を愛す、となります。心を尽くして神を愛しましょう。

 心を尽くして神を愛すようにと主イエスは言われました。神を私たちのプライオリティーの第一に据えるためには、努力が必要なのです。神は目に見えません、神の声は聞こえません、だから、神との約束を無視したり、目に見える人間との関係を優先しがちです。だから、意識的な献身がないと、神を愛すことはできないのです。

 教会で開いているお母さんと幼児のクラスで、「お母さん、大好き」と子供に言わせています。3歳の子供たちは、手を広げて、お母さんを見つめ、嬉しそうに、大好きといいます。それを聞いたお母さんは、思わず子供を抱きしめます。ある子供は、寝る前に、「お母さん、大好き」と言うようになったと聞きました。
 神を愛す人も、同じことをしているのです。神さま、あなたが大好きですと祈ったり、賛美したりします。すると、あなた自身がニコニコになるのです。

 あなたにとって、神を愛すとは何をすることでしょう。見えない神を心を込めて礼拝しましょう。神の言葉、聖書を読みましょう。優先順位の第1に神を置きましょう。


2、<O> Others 人を愛す      

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

 知っているという事と、行うという事は天地ほどの差があります。愛は、形にしないと伝わりません。
身近な人を大切にし、具体的行動で愛しましょう。「ありがとう」と「ごめんなさい」と「大切に思っているよ」を言葉ではっきりと伝えましょう。
 隣人を愛すときは、心を尽くしではなく、自分自身のように、と注意書きが添えられていいます。そうすると、思いやりが生まれてきます。相手の喜ぶ顔を想像して、何が最善かを考えます。そこが大事です。
 あなたにとって、人を愛すとはは、誰のことでしょう。そして、何をすればいいのでしょう。


3、<D> Disciples 福音を宣教しキリストの弟子を作る
      
 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19~20)
 
 1980年、26歳の男性が不動産屋を訪れました。ここに引っ越してきました。教会を新しく作ります。住むところが必要ですが、金がありません。不動産屋は、笑いながら話を聞き、コンドミニアムの家賃を最初の1ヶ月無料にしてくれただけでなく、「私が教会員になりましょう」と申し出ました。これが、サドルバック教会開拓の第1歩でした。その青年牧師が、リック・ウォレン牧師です。
 3月30日、高校のシアターを借りて、次週から始まる礼拝のリハーサル礼拝をしました。そこで、彼は夢を語りました。20000人の教会、50エーカーの敷地と施設、大勢の宣教師を世界に遣わし、クリスチャンの霊的成長を促すセミナーやクラスを開き、何よりも、心の傷ついた人々のいやし、壊れかけた家庭の再生、失われた人々を主の救いに導くことを優先しました。最初の礼拝には、205人が参加して、夢の実現が始まったのです。

 新約聖書の中心命令は、主イエスの福音を宣べ伝え、キリストの弟子を育てることです。私たちも主イエスの福音を伝えましょう。そして、救われた人をキリストの弟子になれるように励まし育てよう。
 あなたは誰に福音を伝えたいですか。あなたは誰を弟子として育てていますか。


 神を愛し、人を愛し、福音を伝えて弟子を育てることが、教会の存在目的です。また、これこそが、私たちの人生の目的です。

 福音を受け入れた人には、本当の幸せが届きます。その喜びは、信じた人の家族にも伝わります。家の中が明るくなり、平和になります。つまり、福音こそ、真の幸せをもたらすものです。

 私は夢をみます。私たちの教会が、幸せの発信地になる夢を。アメリカに住む日本人とその家族に本当の幸せを届ける発送基地になりたいのです。いかがですか、あなたもその一部をいっしょにになってくれませんか。3つの骨組みに肉付けをするのは、あなたです。あなたの賜物を生かして、この3つを実行しましょう。

パラダイスはそこに ルカ23:39~43

 主イエスによる救いについて4回シリーズの今日は最終回。主イエスとともに十字架につけられた犯罪者二人について考えてみよう。

1、第1の犯罪人

 自分と向き合えない男が、最初の犯罪人だ。
あなたは、どうだろう。本当の自分の姿に向き合う自信があるだろうか。

「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(39節)

 十字架に釘で打ち付けられた男は、自暴自棄になった。死刑を見に来た群衆や律法学者が主イエスに投げつけた言葉を聞いて同調した。いっしょになって怒りを主イエスにぶつけた。俺が救われないのはお前のせいだ、とばかりに悪口を言った。

 いつでも、人のせいにする人がいる。親が悪い、先生が悪い、友達が悪い、社会が悪い。自分を見つめる勇気がないので、いつも他人を悪者にしている。それでは、何も始まらない。「ごめんなさい」と言えるなら、人生は新しく始められる。

2、第2の犯罪人

 もう一人の犯罪人は、死を目前にして自分の罪を認めた。死ぬ間際に信仰を持ったのは、聖書の中でこの男ひとりだ。

 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

 男は、自分の罪を認めた。主イエスが罪のない方だと知った。男は、ひとつだけ願いごとをした。

 「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(41~42節)

 普通、こんな場面なら、「助けてください」と言うところだ。「罪を赦してください」と願うはずだ。「天国に入れてください」と懇願したことだろう。けれども、この犯罪人は、思い出してくださいと語った。

 きっとこう思ったのだろう。俺には資格がない。罪を赦していただく資格がない。悪い事をさんざん繰り返し、死ぬ間際に「ごめんなさい」では都合がよすぎる。それで、私を思い出してくださるだけでいい、と言ったのだろう。
 資格がないと気づくことが、罪を赦していただくための資格かもしれない。

3、パラダイスに招く主イエス

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)

 主イエスは、この犯罪人を門前払いしなかった。むしろ、心を低くした男の姿勢を評価したように思える。条件を付けず、今までの生活を叱責することもなく、パラダイスを保証された。

 第2の犯罪人が、主イエスの真の姿に気づいたのはなぜだろう。

 この男が主イエスと一緒にいたのは、たぶん数時間程度だ。その日、十字架を背負って死刑場のゴルゴタまでエルサレム市内を歩き回った期間と、十字架に付けられてからの数時間だけだったろう。
この間、主イエスは、山上の垂訓のような高邁な教えを語ることはなかった。輝く笑顔と澄んだ瞳を男に向けたこともなかった。腰を抜かすほどの奇跡もしなかった。

 第2の犯罪人が見た主イエスとは、弱く、みじめな姿だった。殴られた後が痛々しく残る顔。目も開けられないほど顔は腫れ上がっていたはずだ。茨の冠をかぶせられたので、顔は血だらけ。リンチを加えた者たちが吐き付けたつばが眉毛に付着したままかもしれない。背中は激しい鞭打ちのため、ざくろのように割れ、血潮が流れ落ちていた。十字架の上では、人々の罵倒を聞き続けたが、一言も答えなかった。

 この姿を見て、犯罪人は主イエスが罪のない救い主だと確信した。

 あなたも、試練の中で苦しみうめく時、弱さ丸出しの姿でいるとき、それを恥じることはない。弱さの中に表れる神の力を信じよう。

 「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(第2コリント12:9)

 自分自身と向き合ってください。

 罪赦される資格がないと思うなら、あなたには主イエスの救いを受ける資格があります。主イエスを救い主として受け入れましょう。

 あなたが今、試練の中にいて、揺れ動く心でいるなら、神の力があなたをおおってくださるように祈りましょう。その姿を通して、主イエスをあかしできるように祈りましょう。