第1サムエル5:1~12 困った、どうしよう


 
 イスラエル人が一人も登場しない。極めて異例な聖書箇所が5章です。
異教の神殿に奉納された神の箱は、どうなるのか。


1、ひれ伏すダゴン像

 神の箱は、アカシヤ材で造られ、長さは約1.2m、高さも幅も約67cmの箱で、外側を純金が覆っていた。中には、モーセの十戒が書かれた石の板が収められている。神の箱は、イスラエル人の礼拝施設の一番奥の至聖所に置かれる最も大切なものだった。

ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。(第1サムエル5:1~2)

ペリシテ人は、戦いで勝利すると、宿敵の首や戦利品を神殿に奉納する習慣があった。士師記16:23~27によると、ペリシテ人は宿敵サムソンを捕らえ盲目にしてダゴンの宮で3000人の観衆の前で見世物にしたこともあった。第1歴代誌10:8~10によれば、イスラエルの初代王サウルの首はダゴンの神殿に並べられた。今日の箇所では、奪い取った神の箱はダゴンの神殿に置かれた。だが、その翌日、不思議な事が起きた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。(3節)

 ダゴンの像は、上半身が人間で下半身が魚の形をした像だと言われている。神の箱を置いた翌朝、そのダゴンの像が、まるで神の箱を拝んでいるように地にひれ伏していた。あわてて元あった場所に像を戻したが、その次の日、再び像は倒れていた。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。(4節)

 頭部は知恵を、両手は力を象徴する部位。ダゴンの神は主の前に何もできない存在であると示した倒れ方だ。

 さらに、腫瘍ができる伝染病が発生、多くの者が苦しみ、亡くなりました。(6節)

アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」(7節)

ペリシテ人は、ダゴンを守らなくちゃ、と考えました。人間が神を助ける? 逆です。



2、どうしたらいいのか、神の箱

それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。(8節)

主の力を目の当たりにしても、ペリシテ人は主を礼拝する姿勢は取らず、神の箱を他の町に引き取ってもらうという安直な解決手段を取りました。
 ガテでもアシュドデと同じ被害を受けたので、北方にあるエクロンに送ろうと計画しましたが、その町の住民が大反対しました。(10節)

そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。(11節)

 結局、神の箱はイスラエルに返すことに決めました。
イスラエル人に信仰復興が起こったわけではありませんし、勇気を出して神の箱を奪い返したのでもありません。そんな力も信仰もイスラエルにはありませんでした。でも、神の箱はペリシテ人の手によってイスラエルに戻ろうとしています。神は、栄光を失ったのでしょうか。いいえ、ここに栄光が表れているのです。

自分が罪を犯したから、何も良いことは起きないだろう。そう考えるクリスチャンは多いです。また、自分は神の前にだらしない歩みをしているので、自分の周囲の人が信仰を持つはずはないと考える人も多いです。
さて、この考え方は正しいのでしょうか。今日の箇所からいうなら、間違っています。イスラエルの人々が敗北し、罪を犯し、すべての気力が失せていた時に、ダゴンの神殿で像が倒れ、神のさばきが町々に及びました。
あなたや私の状態に関係なく、神は神のお考えに基づいて物事を進め、ご自身の栄光を現します。

幕末から明治時代にかけて活躍した人物の中に、聖書を読んで影響を受けた人が多数いました。新島襄は、クリスチャンの知人もいないし、キリスト教を教えてくれる人にも出会ったことがありませんが、漢語訳聖書の抜粋を読んで天地がひっくり返るほど驚き、単純な信仰を持って、国禁を犯してアメリカに学びに出かけました。
また、西郷隆盛が漢訳聖書を読んだことは歴史的事実で、「敬天愛人」という彼のモットーは、心を尽くして神を愛し隣人を自分のように愛せという主イエスの教えの影響を否定することは難しいでしょう。
ジョン万次郎はマサチューセッツで学んでいた頃、礼拝に出席しました。勝海舟も、咸臨丸でサンフランシスコに約1か月滞在した時、礼拝に出席しました。咸臨丸に乗った福沢諭吉も、自分の子供たちに西洋の神のGODを敬えと教えています。
自由民権運動に関わった人々にはクリスチャンになった者もいて、板垣退助の息子や片岡健吉などが挙げられます。
主イエスを信じて生きる人が少なく、キリスト教禁教下の日本という最悪な環境でしたが、幕末から明治にかけて主は多くの日本人に聖書との接点を与えてくれました。

神を知らない人々の真ん中で、神は神のみこころを行い、栄光を現されるのです。私たちの生きている不信仰な世界にも、神は神の方法で事を行われます。

主は、弱い者や取るに足らない者、見下された者、無に等しい者を選び用いられます。(第1コリント1:26~31)それは、「神の御前でだれをも誇らせないためです。」(第1コリント1:29)私たちの弱さや失敗をはるかに超えた領域で、主は力強く働いておられます。

 →あなたの番です
 □神は人の助けを必要とせず、ご自身の栄光を現される   □弱さの中で主を誇ろう

第1サムエル4:1~22 栄光が去った時


 「勝った試合から学べることは何もなかった」
 とゴルフ選手ボビー・ジョーンズは語りました。敗北から多くを学んだという意味でしょう。
 「栄光が去った」と言わしめた戦いから、大切な教訓を学びましょう。

1、敗北

約束の地に定住したイスラエルにとって最大の敵はペリシテ人でした。ペリシテ人は、海岸に近い5つの町を支配下に置く強い民です。戦場は海から東に15キロ付近の丘陵地帯。イスラエルはエベン・エゼルに、ペリシテ人はアフェクに陣を敷き、にらみ合っていました。緒戦はペリシテが優勢で、イスラエル軍は4千人を失いました。(1~2節)

民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。」(3節)

 イスラエルの長老たちは、敗戦の背後に主の手があったと推測しました。その判断は適切でしたが、後がいけません。「なぜ?」に対する答え書いてありません。答えのないうちに、お手軽で即効性のある解決策を取りました。
 イスラエルの長老たちは、神の箱がありさえすれば勝てるという短慮に走りました。「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。」(3節)

 ヨシュア記7章に敗北の記録があるので比較すると大切な点が見えてきます。
 「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。」(ヨシュア7:6)
 ヨシュアと長老たちは夕方まで悔い改めと悲しみを表明しながら、主に祈りました。「なぜ?」という問いを大切にしたのです。すると、主が応答され、約束を破った者がおり、罪のきよめが必要だと指摘されました(ヨシュア7:10~13)。指示に従った結果、イスラエルは勝利を得ました。

 敗北したら、敵ではなく、主に目を注ごう。主の望まれる道だったのか。罪の悔い改めが必要ではないか。主に頼っていたか。謙虚で平和な心でいたか。砕かれた心で再スタートしよう。

 本当の勝利者とは、敗北から学ぶ人です。

 

2、栄光が去った

神の箱が安置されていたシロは戦場から東に30キロの距離。イスラエルの指導者は神の箱を兵器の一つのようにみなし、神の箱さえあれば勝てると考えました。悪名高い祭司ホフニとピネハスが神の箱運搬の責任者なので、彼らは霊的指導者としては不適格でした。イスラエル兵は神の箱を見ると歓喜の雄たけびを上げ、地がどよめいたといいます。(4~5節)

 ペリシテ人は神の箱到着を知り恐れおののきますが、かえって全力でイスラエルに向かって行ったので3万人を倒しての大勝利となりました。ホフニとピネハスは殺され、神の箱は敵に奪われました。(6~11節)神が予告したとおりになりました。

この知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。(17~18節)

神と民をつなぐ祭司エリはいわば首のポジションに当たります。その首がおられたのは実に象徴的な最後でした。

ピネハスの妻は、急な陣痛で男子を出産して亡くなりました。最後に言い残したのは息子の名で、イ・カボデ。「栄光がイスラエルから去った」(21節)という意味でした。何年も前から、神の栄光はなかったのですが、やっと気づいたのです。

栄光が去ったと認識することが、栄光を取り戻す第一歩です。


 マーサは10歳の時から、ダラスで、お父さん一人によって育てられました。自動車の運転もお父さんから教えてもらいました。大学生で看護実習のある時も、お父さんは5時に起きて朝食を作ってくれました。イエスさまのことも教えてくれて、子供の時も10代の時も教会に一緒に行きました。大学を卒業しヒューストンに就職した時も荷物を運んでくれました。
 マーサは6月から仕事を始め、週末をパーティーやアルコールで時間を過ごし、日曜の朝は起きられず、礼拝に行きませんでした。10月になると、楽しかったはずなのに空しくなり、孤独になり、落ち込み、週末に家に帰ることにしました。敗北者でした。
 父さんは、「ウエルカムホーム」と言ってハグして温かく迎えてくれました。「何があったのかを無理に話すことはない。神さまには全部話すんだよ。」と言ってくれました。
 自宅で過ごした週末、自分を取り戻し神に祈ることができ、帰る前に父さんに何があったのかを話せました。父さんは、それを受け入れ、「毎日祈っているよ」と励ましてくれました。
 飛行機でヒューストンに着くとタクシーに乗り、アパートに戻らず、近くの教会に直行し、日曜夜の礼拝に参加しました。それが、マーサの新しいスタートになりました。


 「神へのいけにえは、砕かれた霊。
  砕かれた、悔いた心。
  神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


→あなたの番です
 □敗北したら、主の前に出ましょう
 □神の栄光は砕かれた心から始まる


第1サムエル3:1~21 主よ、お話しください


 第1サムエル3章の流れを追ってみましょう。
 少年サムエルは祭司の見習い中で、この日は礼拝施設で眠っていました。神がサムエルを呼ばれたのですが、少年サムエルは祭司エリの呼びかけと勘違いしてエリの部屋まで走って行きました。呼んでいないと祭司エリに言われ、サムエルは寝床に戻りました。同じことが、2度、3度と繰り返され、祭司エリは主がサムエルを呼んでいると気づき対応方法を教えました。サムエルは、4度目に呼ばれたとき、「主よ。お話しください」と応えて、主の言葉を聞きました。翌朝、エリに問い詰められ、サムエルは祭司エリ家族への裁きを告げました。祭司エリは、主が少年サムエルを選ばれたことを知りました。サムエルは、やがて、全イスラエルにおいて預言者として認められていきました。


1、語る神

 神はサムエルに声をかけました。(4、6、8、10節)
ハンナは神に心を注ぎ出して祈りましたが、今回は、立場が逆です。神がサムエルに語られました。まことの神は、ご自分の思いを人に伝える方です。
 あなたが心を静かにするなら、主の語りかけに気づくかもしれません。人は何のために生まれて来たのでしょう。その答えの一つは、神の言葉を聞くため、と言っても良いでしょう。

 「主はサムエルに仰せられた」(11節)

 神は、今、あなたに何を語っていますか。

 祈りの時、あなたが語るだけでなく、あなたが黙り、主の語りかけを聞くことが必要です。毎朝、聖書を読むことは、神の語り掛けに耳を傾ける習慣になります。



2、少年を必要とする神

 神は、大人ではなく、少年を選ばれました。

 「少年サムエル」(1節)
「主が少年を呼んでおられる」(8節)

 少年とは何でしょう。未熟という意味です。
 少年とは何でしょう。未来を思い描けない人です。
 少年とは何でしょう。成長する可能性があるということです。
 少年とは何でしょう。純粋な心を持つ者です。

 サムエルは少年でしたが、主に仕えていました。「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。」(1節)「主に仕えていた」(2:11)、「主に仕えていた」(2:18)仕える人とは、神を敬う人で、神の役に立ちたい、私を使って下さいという姿勢を持つ人です。

 人間がどのくらいの能力を持っているのか、神はあまり関心がないと私は思うのです。だって、神から見れば、人間の能力など大差ないからです。
 人間は、分厚い布のようなものです。そのままでは何の役にも立ちません。けれども、船のマストに結び付ければ、立派な帆になり、神が送ってくれる風により大きな船を動かせます。私を用いて下さいと自分をささげる人は、主が用いてくれます。

あなたは、少年ですか、青年ですか、中年ですか、老年ですか、定年ですか。そんな事は関係ありません。主は、神のために生きたいと心に決めた人を求めているのです。
あなたは自分が未熟だと言って主の招きを断りますか。主は、あなたが未熟なことを主は百も承知です。大事なことは、あなたが主の前でAvailable かどうかです。

私は、自分が大学3年で主の招きを確信して、卒業後に神学校に行きました。当時、自分の能力を客観的に測ることはできなかったし、未来の自分の姿を思い浮かべる事も不可能でした。経済的にどうなるのかは考えるだけ無駄でした。計算していたら、自分の生涯を主にささげることはできなかったでしょう。主の招きを聞いたなら、動きましょう。



3、名前を呼ぶ神

 神は、サムエルの名前を呼びました。
 
 「サムエル。サムエル。」(10節)

主は1度、2度、3度、4度、サムエルを呼んだことになります。主は100回でも1000回でも、あなたが気づくまであなたを呼んでいます。世界に何十億の人がいようと、神はあなたが必要だと言っておられるのです。

旧約聖書では、同じように名を呼ばれた人がいました。「アブラハム、アブラハム」(創世記22:11)、「ヤコブ、ヤコブ」(創世記46:2)、「モーセ、モーセ」(出エジ3:4)。神は、彼らの名を2度呼び、注意を喚起しています。
神は、あなたの名を知っています。あなたのパーソナリティーや背景を知って、あなたが必要だと声をかけています。

アーサー・アッシュ(194393という黒人テニスプレイヤーをご存じですか。貧しく生まれ、7歳から始めたテニスで頭角を現しました。ウォルター・ジョンソンという黒人医師が10歳のアーサーを引き受け、テニスも勉学も経済面も支え、フェアプレーの精神を教えました。まさに、少年に声をかけ、少年を育てたのです。
彼はテニスの4大大会に優勝、全米テニスチームの監督にまでなりました。また、黒人スポーツマンを励まし、人種差別反対運動を行いました。
Start where you are, Use what you have, Do what you can. これはアーサーの言葉です。
アッシュは心臓手術の輸血が原因でエイズになり49歳で死亡しましたが、7歳の娘に次のような言葉を言い残している。「神に祈りなさい。頼みごとをするためではなく、何が正しいことか、神が何を望んでおられるかを知る知恵と、それを実行する意志を祈り求めなさい。」

 主は、今日も、あなたの名を呼んでいます。それは、あなたと語り合いたい、あなたに託す使命があるという意味です。あなたが任された仕事は何ですか。

 →あなたの番です
  □主は、あなたに、何を語っていますか
  □「少年」のあなたを主が必要としています
  □主はあなたの名を呼んでいます


第1サムエル2:1~26 主にも、人にも愛されて


 
 「神は、本当にいるんだ。」
 そう体感した瞬間がありますか。
 背筋がぞくぞくして、鳥肌が立って、目が大きく見開かれる瞬間のことです。


1、ハンナの祈り

ハンナは男の子を授かった経験を通して神の力を目の当たりにしました。それで、ハンナは1節から10節で、比類なき神をたたえました。

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(2節)

 圧倒される経験、言葉を失う体験、現代人はそれを失いました。オーロラをこの目で見たい、氷河が海に落ちる音を聞きたい、アラスカの海でセミクジラがジャンプする姿を至近距離で見たい、それらを体感して大自然を造られた神をたたえたい。
 自分が思い描く神は、私が期待する神の姿であり私の創作物です。まことの神は、私たちの枠組みを超えた方です。6節を読むとそれが少し理解できます。

主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。
主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。(6節)

 神は、神の時に、神の方法で、事を行われます。それゆに神なのです。ちりとか、ゴミ捨て場の灰からも、主は人を引き上げて栄光を与えることができるのです。
成功者の多くは横柄になって(3節)身を滅ぼしますが、ハンナは一層謙虚になり、ただひたすらに神をたたえました。

比類なき神、圧倒的な存在、真の主権者、全能者、まことの神の前で、心ひれふしましょう。
圧倒され、言葉を失い、神を礼拝しましょう。


2、祭司エリの息子たち

 祭司エリの二人の息子たちホフニとピネハスは、圧倒的な神に目を向けようともぜず、神を無視しました。彼らは、よこしまな者で、主を知ろうともしません。(12節)神へのいけにえの肉のうち一番おいしいところを腕ずくで奪い(12~17節)、性的な逸脱行為(22節)を平気で行い、親の叱責を無視しました。それで「彼らを殺すことが主のみこころ」(25節)だと主は厳しい最終結論を出しました。

 ホフニとピネハスの問題点は4つああります。1)我慢ができず欲望のままに行動する 2)他者を力ずくでコントロールする 3)神を無視し、親を尊敬しない 4)ごめんなさいと言えない

赤ちゃんや幼児は自分を中心に世界が回っていると考え、親や周囲の者を泣き声や笑顔でコントロールします。エリの息子たちの内面は幼児そのもので、心の成長が止まっていたのです。

 祭司エリは教育に失敗しただけでなく、大人になった息子たちへの警告と処罰を先延ばしにした。それで主は、「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじ」(29節)と叱責され、アロンの家系というプライドも家系断絶という厳しい処罰を言い渡された。(30~34節)

“ホフニとピネハス度”を自己チェックしてみましょう。
□最後は自分の主張が必ず通る
□周囲の人を自分の願うとおりに動かせる
□いつもイライラして、身近な人があなたの顔色を気にしている
□悪いのは自分以外の人間だと考えている

 多くの男性は二つの事しか考えていません。仕事の成功とストレス解消の自由時間。そこには妻や子供たちの入るスペースが存在しません。結局自分のことばかりです。

 もしあなたがエリの息子と似ているなら、あなたの身近な人は苦しんでいます。わがままを悔い改め、主イエスを信じて頼り、家庭や職場での行動パターンを変えましょう。
 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)


3、サムエルの成長

 祭司エリの劣悪な家庭環境に接していても、サムエルは立派に成長しました。

 「幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。」(11節)
 「サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。」(18節)
 「少年サムエルは、主のもとで成長した。」(21節)
 「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(26節)
 「わたしは、わたしを尊ぶものを尊ぶ。わたしをさげすむものは軽んじられる。」(30節)

サムエルが健全に育った秘訣は何でしょう。それは、「主の前に」、「主のもとで」という要素です。圧倒的な存在、言葉が出ないほどの比類なき神の前に立つようにと教えられました。

 また、仕えるという経験が有益です。仕える生活は、わがままの対局にある生き方で、尊敬、従順、自己管理、忍耐、創造力を養います。

 東大に入学できる子にするとか億万長者にするのが親の夢なら目標が小さすぎます。世界を変える人材を育てましょう。神にも人にも愛される人を育てて世に送り出すのが母の役目であり、教育の目指すところです。救世軍創始者の妻、キャサリン・ブースは、「世界はあなたを待っているよ」と子供たちを腕に抱きながら語り掛けていたといいます。

 圧倒的な存在の神の御前で謙虚に生き、神と人に積極的に仕える人になれるように育てましょう。これが教育の目指すところです。神を尊ぶものは神に尊ばれる(30節)のです。

 「少年サムエルは、主のもとで成長した。」(21節)

 →あなたの番です
 □比類なき主権者の神をたたえる
 □他人も自分も不幸にする自分勝手を捨て去る
 □主と隣人を愛する者になる