詩篇37篇  腹を立てるな


  以下の人には、詩篇37篇が必要です。
 ●料理が来るのが遅くて怒ってレストランを出たことがある人。
 ●学校や職場で怒鳴ったことがある人。
 ●「大きな声を出さないで」と身近な人に懇願された人。

 怒りや憎しみをガソリン代わりに生きている人がいますが、それは無益で有害です。腹を立てないだけで気持ち良い風が吹いてきます。

1、腹を立てない

 主よ助けて下さい苦しいです、という内容の詩篇が多くあります。そんな中で、詩篇37篇は人生の心構えを教えてくれる教訓的な内容になっています。

悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。(1節)

怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。(8節)

 悪い人に苦しめられているなら、腹を立てるなとダビデはアドバイスしました。「腹を立てるな」という言葉は、1節、7節、8節で繰り返されています。

 なぜ、腹を立ててはいけないのでしょう。もし、腹を立てて行動を起こすと、悪人と同じ土俵に入ってしまい、復讐の連鎖を作るからです。「腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」(8節)と書いてあるとおりです。

 腹を立てる必要がないのは、悪人が消え去るからです。「枯れる」(2節)、「いなくなる」(10節)、「彼らの弓は折られ」(15節)、「消えうせる」(20節)、「断ち切られる」(22節)、「もういない」(36節)とあります。草が枯れるように、悪人は必ず消滅します。


2、どのように歩むのか

 悪人に迷惑している時、何をしたら良いのでしょう。主に信頼し、置かれた場所で誠実に歩み、自分の道を主にゆだねることです。

主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。(3~6節)

 ダビデの対策は、対処療法ではありません。悪人と同じ地平で争っていては、根本的な解決はありません。
悪人との水平レベルではなく、主との垂直レベルを見直しましょう。自分と主との関係を健全化するなら、解決の道がおのずから開くとダビデは諭します。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、
悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。
怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。(7~8節)

「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」(7節)と言われています。沈黙とは、何もしないことではありません。自分の要求を上げ連ねることを止め、神が語られる言葉に耳を澄ますことです。私たち人間は、あまりにも神の語りかけを聞かなさすぎです。

あなたと神との関係をまず健全化しましょう。主に信頼し、主に道をゆだね、主の語りかけを聞き、主の介入を待ちましょう。

 

3、正しい者の歩み

 正しい歩みをしている人でも辛いところを通ります。悪い金持ちに比べると、貧しく見えるかもしれませんが、実は豊かなのです。

ひとりの正しい者の持つわずかなものは、多くの悪者の豊かさにまさる。(16節)
その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。(26節)

 七転び八起きで、正しい者も倒れることもあります。でも、主の守りがあります。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(23~24節)

 誠実に歩む者は、主に守られ、安住の地を与えられます。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。(34節)

 主が正しい者を取り囲んで守って下さいます。悪者から解放して下さいます。

正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ。(39~40節)

 あなたは、悪人の愚かな行動に腹を立てていますか。腹を立てず、主に信頼し、主の助けを信じましょう。

 父の思い出に関する英語の本にこんな事が書いてありました。アメリカ人の男性が野球の試合に出場して、子供が応援に来ていました。野球が趣味のお父さんは見事な三塁打を打ったのです。すべりこみセーフと見えましたが審判はアウトを宣告。お父さんのチームメイトは怒って立ち上がり大声で抗議しました。でも、お父さんはそれを制して戻ってきました。お父さんは誠実なクリスチャンでした。息子が納得できないと言うと、試合で勝つより大事なこともあるんだよ、とお父さんは教えてくれました。大人になっても、その時のお父さんの態度は忘れられないそうです。

 →あなたの番です
 □腹を立てない
 □主に信頼し、主に道をゆだねる


愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)


詩篇36篇  寝台から、雲の高嶺へ


 人は二つに分けられます。ベッドの上で悪巧みをする人と、雲の高嶺を見上げる人です。


1、悪人の日常

 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(1~4節)

 ダビデは、悪人の事を考えると心が暗くなりました。なぜなら、「神に対する恐れがない」(1節)からです。
 神を見上げる畏敬の念を持つか、持たないかで、人生は180度違います。神に対する恐れを持たないなら、すべてが自己中心になり、善を行う動機を見失い、不法と欺き事に関心が向かい、寝床で悪事を図る者になってしまいます。

 ある詐欺師は、お年寄りを対象に無作為に電話し、アルツハイマーの度合いを調べてだまします。「あなたが我が社に送って頂いた1200ドルの小切手ですが、額が間違っていました。古い小切手は返しますので、今そこで900ドルと書いて、ここちらに送って下さい。」という具合です。ひどい悪党です。
 
 まさに、「彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。」(4節)の通りです。
こんな悪人でも、神を恐れ敬う心を持つなら考え方が変わり、人生をやり直せます。


2、恵みは天に

 アメリカで、子供の命を奪われた両親が、犯人に次の事を要求して裁判で受け入れられました。犯人は、その子の命日に1ドルのチェックを書いて被害者の両親に送付し、今後数十年間続けること。これは経済的な罰ではなく、自分の犯した罪を犯人に毎月思い出させたかったのです。これは恵みと正反対の世界です。

 主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(5~9節)

 「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。」(5節)パレスチナの気候はカリフォルニア南部とそっくりです。毎日が晴天なのです。ダビデは青空を見上げ、まるで神の恵みのように晴れ晴れして高いと感じました。
 今から3000年前の人々は自然界を良く知っていました。当時は天気予報もないし、動物の生態を紹介するテレビ番組もありませんでしたが、雲の種類も鳥たちの姿も良く分かっていたのです。

 層雲は霧のような雲で、高さは300mくらいです。羊雲と呼ばれる高積雲は富士山の高さくらい雲で、水のつぶでできています。すじ雲と呼ばれる巻雲は一番高い場所にできる雲で1万3千mの高さがあり、氷のつぶでできています。
低く暗い雲は雨をもたらし、積乱雲は竜巻や豪雨を連れて来るので、ダビデのイメージした雲はエベレストよりも高い高層の雲かもしれません。

 神を見上げ、畏敬の念を持ち、神の恵みの大きさを認めるなら、豊かな人生になります。

 「人の子らは御翼の陰に身を避けます。」(7節)とあります。ハトが両脇の雛を翼で覆い、雛たちが目を閉じて休んでいる写真を見たことがあります。雛は安心しきっています。今でも、雨や風や天敵から守るために親鳥は小さなヒナを翼の下に入れます。
ダビデは自分が弱いヒナだと自覚していました。神が守って下さる方だという確信がありました。今日、あなたも、神の御翼の陰に逃げ込みましょう。

 「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)とあります。ダビデにとって神は、いのちの泉のような方です。岩石だらけのパレスチナ南部の荒地では、泉は生命線です。夏に雨の一滴も落ちない地域ですから、川も流れていないので旅人の命を支えるのは泉だけ。神は、ダビデにとって尽きない泉なのです。



3、注いで下さい

 1994年から1995年、大リーグの野球選手たちは待遇改善を求めストライキをお行いました。野球チームのオーナーは、アマチュア選手を雇い、正式なユニフォームを着せてスタジアムで試合をさせました。ピッチャーの投げる球は遅く、バッターの打球は豪快なライナーやホームランになりません。でも、選手はきわめて楽しそうにプレーをしました。選手たちは、こんな素晴らしい球場で試合ができるなら、お金を払ってもいいと思うくらいでした。
 この選手たちの笑顔を見ると、恵みとは何かが分かるような気がします。恵みは、自分の能力や努力やきよさとは無関係に、一方的に与えられる神の愛、神の祝福のことです。
 へブル語で「ヘセド」という言葉が「恵み」と訳されています。ヘセドは、慈しみ、愛などとも訳されます。尽きない愛、耐えることのない愛、神の愛と言ってもよいでしょう。

 ダビデの祈りは、「注いでください」(10節)という言葉でまとめられています。英語の聖書では、continueという訳になっています。言語のマーシャフは、続ける、絶やさないという意味を持っています。私たちに一番必要なものは神の恵みです。神の恵みや愛が絶えず共にあることが、神から注ぎ続けていただくなら、私たちは生きていけます。私たちも同じように祈りましょう。

 2015年、サウルカロライナの黒人教会でバイブルスタディーの最中に白人青年が乱入し、9人を射殺する事件が起き、犯人は逮捕されました。裁判で、被害者の親や家族が証言に立ちました。「言い尽くせない悲しみを経験したが、犯人には神の恵みが必要だ。私は犯人を赦します」私はこの証言を聞いて驚きました。神の恵みを知っている人は、恵みを周囲の人に届ける人になるのです。

 神の恵みを見上げましょう。そして、恵みを人に分け与える人になりましょう。

 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。
 あなたの義を、心の直ぐな人に。(10節)


 →あなたの番です
  □目を高く上げ、神の恵みを見上げよう
  □神の恵みを私に注いで下さい、私も恵みを届けます


詩篇35篇 うなだれた時に


 ゴミ集積所で、たまにゴミが散乱していることがあり、「こんな事するなんて、人間のすることじゃない」と妻と語り合っていました。ある晩、その大きなゴミ箱に近づくと、アライグマが飛び降りて逃げて行きました。確かに、人間のすることじゃなかったのです。とても、立ち向かえる相手ではありません。

1、強敵と出会ったら

 詩篇35篇をものすごく簡単に要約します。

 1)敵は私より強いので、主よ、私の代わりに戦ってください。(1~10節)
 2)あんなに良くしてあげたのに、裏切られました。(11~18節) 
 3)敵に嘲笑されて辛いです。主よ、立ち上がって下さい。(19~28節)

 3つの段落の末尾の10、18、28節に、賛美の言葉があるのは偶然ではありません。何が起きていても賛美を忘れないダビデの姿勢です。今、賛美できなくても、必ず賛美できるとも信じています。 

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。
盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。
槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。
私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ。」と。(1~3節)

 ダビデはうなだれていました。でも、主に祈りました。
私を強くして下さい、そうすれば戦えます、とダビデは祈りませんでした。敵は強すぎると、はっきり認識していたので、主に戦ってほしいと願いました。
当時、国内で最強の戦士だったダビデですが、敵は自分より強いと判断しました。なぜなら、敵は、一国の王のサウルで、軍隊を従えており、執拗に命を狙って来るからです。

あなたは、自分より「強い者」(10節)に、今、直面していますか。ならば、主に前面に出てもらって、戦ってもらいましょう。必ず、主を高らかに賛美する事態がやって来ます。

私のすべての骨は言いましょう。「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」(10節)


2、敵は穴を掘る

 第1サムエル16:23を読むと分かりますが、サウル王が心の病で苦しんでいた時にダビデは琴を演奏して心を静めました。ダビデはサウル王のことを身内のように心配し、断食して祈ったのです。でもサウルにねたまれ、命を狙われる事態となりました。

彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。
しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。
私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。
私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、
母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。(12~14節)

ねたみにかられた人は、網をしかけ、穴を掘るものです。それは、相手の苦しむ姿を見たいからです。

 まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、
ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。(7節)

そんな中でもダビデは、敵が死ぬことは求めませんでした。自滅して、自分の掘った穴に落ちれば十分でした。

思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。
ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。
こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。
私のすべての骨は言いましょう。
「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。
悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。
悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」(8~10節)

学校でも、職場でも、先輩が後輩をいじめることは良くあります。場合によっては、家庭でも起きます。そんな中で、誠実に歩み、苦しくても主に助けを求めた人を私は何人も知っています。そして、主が助けて下さった例を見て来ました。

あなたも今、誰かに罠をしかけられていますか。自分で復讐はせずに、ダビデのように祈りましょう。神があなたを罠から守って下さいます。神に戦ってもらいましょう。


3、笑われる経験

あなたの義にしたがって、私を弁護してください。
わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。
彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ。」と。
また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ。」と。
私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。
私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。(24~26節)

一番辛い経験とは何でしょう。信頼していた人に裏切られ、笑われることです。
たとえば、夫と妻の不倫、嫁と姑の争い、尊敬していた上司の態度の硬化、友達の陰口などは嫌です。そんな相手に馬鹿にされ、嘲笑されることはとても辛いことです。

ある幼稚園の運動会の時、徒競走で子供がころびました。その子は涙をこらえて、立ち上がらずに、手足を四つんばいにしたまま前に行きました。そばにいた園長先生の女性は、その子と同じポーズを一緒にして進み、ゴールインするとその子を高く持ち上げてほめてあげました。最後はみんなから大きな拍手をもらいました。
その人の失敗や恥を笑わず応援する姿はすがすがしいものです。

十字架を思い起こして下さい。主イエスは着物を剥ぎ取られて釘付けられました。本来なら、私の罪や恥が人々の物笑いの対象になるべきはずでしたが、主イエスが身代わりに引き受けてくれたのです。

あなたは、今、敵の攻撃を受けて、笑われていますか。馬鹿にされていますか。主は、あなたの悲しみを知っておられ、その屈辱を取り払ってくれるお方です。ダビデのように主に願いましょう。

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。(1節)

 →あなたの番です
  □主に、私と争う者と争ってもらう
 □敵が掘った穴に落ちますように
  □恥を取り去ってください

詩篇34篇 どんな時も賛美


 「月なきみ空に、きらめく光、ああその星影、希望の姿」この歌、ご存知ですか。1910年文部省唱歌の『星の界(よ)』という歌です。このメロディーは、実は、賛美歌の『いつくしみ深き』なのです。
 親子で歌える歌が家庭にある。アメリカ留学時に、それに感激した人がいたようです。おそらく、その歌は賛美歌だったのでしょう。文部省唱歌が作られるようになり、メロディーが讃美歌という曲が13曲はありますが、こうした背景を考えるとうなずけます。

 今日は、詩篇34篇から、賛美について考えましょう。

1、詩の背景

 若い頃のダビデは力と純粋さにあふれていました。ダビデはサウル王にねたまれ、殺されかけたので隣国に逃げ、身元が判明しそうになった時に気が狂ったように見せかけて難を逃れました。(第1サムエル21:10~15)表題から分かるように、これが詩篇34篇の背景です。でも34篇には、落胆もなく、神への賛美であふれています。

2、貫く賛美の姿勢

私はあらゆる時に主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(1~3節)

 ダビデのような失敗をすれば、惨めさで潰れるところです。でも、この詩篇は、最初から最後まで賛美が貫いています。まさに、あらゆる時に主をたたえています。感謝は良いことがあった時だけするものですが、賛美は成功や失敗に関係ありません。むしろ、苦悩や落胆の最中でもできることなのです。

 親は子供に、「ありがとう」と「ごめんなさい」を教えます。その言葉は、神に向かって使うと、感謝と悔い改めになります。賛美は、私たちの日常におきかえれば、ほめるという行為です。人をほめる人は、神をほめることができます。人をほめない人は、賛美は難しいはずです。あなたは、人をほめますか。神をほめますか。

2歳の孫がわが家に遊びに来たとき、脈絡もなく、突然こう言いました。「おじいちゃん、かっこいい」。それを聞いて嬉しくなりました。その調子で人をほめることを身に着けて、神を賛美する人になるんだよ、と思います。

 神を知らない人の辞書には賛美という言葉はありません。神の素晴らしさを知ると、賛美できます。賛美せずにはいられないはずです。英語のbeliveやtrustは、日本語では「信仰」になります。信じて、仰ぐ。いい言葉ですね。神を見上げるなら、私たちは自然に笑顔になります。

 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
「彼らの顔をはずかしめないでください。」(5節)

自分ではなく、主を見る。それが悩みの中で輝く秘訣です。あなたが光に背を向けていると暗いままですが、光を見るなら、あなたの顔が輝きます。

主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(8節)

 高級フランス料理を食べた時のように、神の素晴らしさを味わってください。主のして下さったことを思い返しながら、主の愛と主の恵みを喜ぶのです。
 ネガティブな人や恨みがましい人は賛美の達人になる素養があります。嫌な出来事を思い出し、人の欠点をあげつらい、悪口を言い続けてきましたが、その特技をひっくり返してみましょう。悪口や愚痴を賛美にして、しつこいくらい繰り返してみましょう。

私はあらゆる時に主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。(1節)

今週、何があっても、主を見上げましょう。状況に関係なく主を賛美しましょう。自分から目を離し、主に注目しましょう。イエスさま、かっこいいと言ってみましょう。



3、主は助けて下さる方

 主を賛美していると、主がまことの神だと確信できるので、主は必ず私を助けて下さるという結論になります。救って下さった主をふり返り、救って下さる主に信頼できます。

 私が主を求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった。(4節)

この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。
こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。(6節)

主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。(7節)

主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。(9節)

彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。
そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
(17~20節)

恐れ、敵、経済的困難、落胆、悩みから、神は救い出して下さるとダビデは書いています。あなたも同じ苦悩の中にいるなら主の助けを信じましょう。

 また、苦しみの中にいるなら、悪口を言わず復讐せず、神の介入を信じて誠実に歩み、平和を作りましょう。(13~16節)

アイルランド生まれのジョセフ・スクライブン(1819~86年)は、二度も婚約者に先立たれました。最初は25歳の頃で、結婚式前夜に婚約者が溺死しました。二度目はカナダ移住後ことで、婚約者は肺炎で亡くなりました。その苦悩は計り知れません。その後、ジョセフは、貧しい人や病人を助ける働きを続け、その生涯を終えました。
ジョセフは、自分の心境を一つの詩に書き下しました。自分で悩みを抱え込まないで、主イエスに何でもゆだねたらいい、祈って任せたらいい、なぜなら、主イエスは素晴らしい友なのだから。まるで、自分自身に言い聞かせる内容であり、また、信仰告白でもありました。この詩が後に、『いつくしみ深き』という讃美歌になりました。
ジョセフの詩は、ダビデの賛美に通じるものがあります。自分の環境が最悪でも、主イエスの愛や誠実さは不変だと言いたいのです。

What a friend we have in Jesus, All our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry, Everything to God in prayer!
Oh, what peace we often forfeit, Oh, what needless pain we bear,
All because we do not carry Everything to God in prayer!

 さあ、あなたの番です。感謝だけでなく、悔い改めや願いだけではなく、賛美をまず主にささげましょう。賛美が、あなたを苦しみから守ります。輝かせます。

正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。(19節)

 →あなたの番です
  □自分ではなく、目を主に向けて賛美する
  □主は助けて下さる方です