詩篇103:1~5 年末に主をほめよ


 今日は、年末感謝礼拝でした。私たちは、礼拝の中で、主から受けた恵みを分かち合うことができました。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
(詩篇1-3:1~5)

 聖書では、主の恵みを振り返ることを繰り返し勧めています。
 それは第1に、私たちが忘れやすいからです。過去の恵みを忘れるので、現在の課題に右往左往してしまうのです。第2に、歩いて来た道を振り返ることは、主への信頼を深めるからです。主の愛、主の配慮を思い起こすと、そのタイミングとクオリティー、その方法に驚きます。

 嬉しかったこと、感謝だったことをピックアップしましょう。逆に、辛かったことや、悲しかったこと、苦しかったことも思い出しましょう。むしろ、マイナスと思えた経験の中に主の大きな恵みが隠されています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 あなたの番です。あなたは、今年、主からどんな良いことを頂きましたか。ダビデは6つの項目を思い出して主を賛美しました。

1、咎を赦された 私たちは大きな失敗をしました。主と身近な人を傷つけました。でも、その罪、咎が完全に赦されたのです。神だけが赦せます。罪が赦されることは、最大の恵みです。
2、病を癒された 私たちは今年、風邪もひきましたし、病気や怪我をしました。でも、主がいやしてくださいました。元気になっても、そのいやしに感謝しましょう。
3、穴から救い出された事 大きな試練や問題や悩みを経験しました、まるで、墓穴に片足いれた苦悩から救い出されました。
4、恵みとあわれみの冠を受けた
躍り上がるほど嬉しかった、主の恵みとあわれみを受けた瞬間もありました。誉れや栄光の瞬間もあったでしょう。
5、一生を良いもので満たして頂いた 人と比較して幸せを感じるのは不健全です。生まれて来て良かった。私の人生は満足です。主にあって、こう言えるのです。
6、新しくされた 鳥の羽は春と秋に生え変わります。鷲の夏羽は力強さを感じさせます。私たちが疲れ果て弱り切ったとしても、やり直す意欲や立ち向かう勇気が与えられます。
 あなたは、今年、どんなことを感謝しましたか。年の終わりに主をほめたたえましょう。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

 

ルカ1:29~55 マリヤとエリサベツ


 クリスマスの裏舞台で何が起きていたのでしょう。

1、マリヤ、エリサベツに会いに行く

天使ガブリエルは、ナザレに住んでいたマリヤのもとに突然現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます。」(ルカ1:28)と語りました。マリヤは驚き、恐れました。天使の語った内容があまりにも突飛だったからです。マリヤが聖霊によって妊娠し、男の子が誕生し、名前はイエスになり、その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれるというのです。

マリヤは、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」(ルカ1:38)と、信仰を持って天使の言葉を信じ受け入れいました。

結婚前に身ごもった女性は死刑になる可能性があります。また、いいなずけのヨセフがどんな態度を取るか未知数です。
聖母マリヤと呼ばれるように、マリヤを理想的な女性としてとらえる人が多いです。当時の結婚では、花嫁の年齢が十代というのが普通でした。ですからマリヤも二十歳に満たない女性だと考えるのが妥当です。これからどうしよう。マリヤに恐れと心配が生まれたことでしょう。マリヤの取った方法は、親戚のエリサベツに会いに行くことでした。エリサベツなら分かってくれる。

 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39~40)

ナザレからエルサレム近郊のユダの山地までの距離は直線距離で100キロ以上あります。でも、どうしても会わなくてはいけないのです。

マリヤがエリサベツに会いに行ったのは、エリサベツ夫婦が特殊な経験をしていたからでした。エリサベツの夫ザカリヤは祭司でした。天使ガブリエルが高齢のザカリヤ夫婦に、子供が生まれると予告したとき、彼は素直に信じなかったため、言葉が話せなくなりました。(ルカ1:5~23)その後、エリサベツは妊娠し、妊娠5ヶ月になっていました。そのエリサベツのことは、天使ガブリエルがはっきり指摘していましたが、そのエリサベツの経験こそが、マリヤを励まし、支えてくれるはずだと悟ったのです。

 あなたの番です。
 あなたが信仰上で何か課題を抱えた場合、尊敬できる信仰者のところに行って、相談しましょう。マリヤのように。これは、あまりにも当たり前のアドバイスですが、訪ねて行かない人が多いので、あえて言います。
 遠くても出かけて行って、ゆっくりと時間を取ってもらって、あなたの心の中にあることを話し、信頼できる人に祈ってもらって下さい。



2、神は大いなることをしてくださる

 エリサベツはマリヤの母親と同じくらいの年齢でしょう。(7節)もっと上かもしれません。エリサベツはずいぶん長い間、子供が与えられるようにと主に祈ってきました。(13節)
御使いガブリエルがエリサベツの夫のザカリヤに現れてから、月日は流れ、今は、妊娠6ヶ月になり、お腹も大きくなったことでしょう。
マリヤがエリサベツに会えた時の感激は言葉に言い表せませんでした。

そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(40~45節)

 エリサベツからみれば、娘か孫のようなマリヤですが、エリサベツがマリヤの挨拶を聞くと、特別なことが起きました。エリサベツは聖霊に満たされたのです。また。エリサベツのお腹の中にいた赤ちゃんが、喜んで踊ったことが分かりました。単に、赤ちゃんが動いたというのと違うのです。その赤ちゃんとは、将来、バプテスマのヨハネになる人です。

 エリサベツはマリヤを励まして言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(45節)

 エリサベツは、マリヤの生き方を100%認めてくれました。また、マリヤを賞賛しました。それは、マリヤにとって、何よりも必要な励ましでした。マリヤの体験したことも残らず聞いたはずです。
 それでいいのよ。世間の人がうさん臭い目であなたを見ても気にしない。神は語られたことを実現する方よ、うちの夫は、祭司のくせに、神の言葉を信じられなかったからずっと話ができないの。きっと良い薬になったと思うわ。あなたは、そのまま信じたから何の不自由もなくてよかったわね。あなたを尊敬するわ。そんな会話があったのかもしれません。

 マリヤは、後の時代の人が「マリヤの賛歌」と呼ぶ賛美の言葉をこの時に歌いました。取るに足りない自分に目を留めた神をたたえ、神のなさることの素晴らしさをたたえ、アブラハムへの約束であるとの理解を示しました。驚嘆すべき内容です。
 作曲家のバッハは、このマリヤの賛歌にメロディーを付け、「マニフィカト わが心 主を崇む」BWV 243として知られています。
 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。(46~50節)

 「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」(49節)マリヤは、自分の内に始まっている事実に驚嘆しているのです。神に用いられることの幸いを述べているのです。
 この言葉は、クリスマスを迎えるあなたにも語られています。力ある神が、今のあなたに、大きなことをして下さいます。

 マリヤはこの後、3ヶ月、エリサベツと共に過ごしました。(56節)エリサベツの出産も近づいたので、身の回りの世話をマリヤが助けたはずです。二人は、祈り合い、励まし合ったことでしょう。

 クリスマスは、主のことばは必ず実現すると信じたマリヤの勇気ある信仰によってもたらされました。また、エリサベツの大きな励ましがあって実現しました。

 ところで、Mary, did you know?というクリスマスの歌を知っていますか。比較的新しいクリスマスの歌で、1984年に作られ、今では人気歌手などもクリスマスアルバムに入れる曲です。教会で降誕劇をするので、それに合ったクリスマスの歌を作ってほしいと依頼された、マーク・ローリー(Mary Lowry)が作詞しました。
 マリヤ、知っていたの?というフレーズが繰り返されます。マリヤ、あなたは知っていたの?あなたの赤ちゃんがやがて水の上を歩くことを。嵐を静めることを。盲人の目を開けることを。あなたを新しく生まれさせてくれることを。マリヤ、あなたが赤ちゃんの頬にキスすることは、神の御子の頬にキスすることだよ。あなたが腕に抱いて眠らせている赤ちゃんは、全世界を造られた創造主で、やがて世界を治める王になる方で、「ありて、ある者」と宣言される神ご自身なのだよ。という内容の歌詞です。ローリーは歌手でもあるので、彼自身の歌をYoutubeでご覧になって下さい。
 マリヤは、本当には、どこまで分かっていたのでしょうか。分かっているのは、天使から知らされたわずかな事だけを信じ、まだ見ぬ将来に向かって大胆に進んだ勇気ある信仰者で、神に用いられた特別の器だったということだけです。

 あなたの番です。
 力ある神は、あなたの中にも大きなことをして下さいます。
 
 あなたの番です
  □主によって語られたことは必ず実現します
  □信仰の友の所に行って、励ましを受けよう   □私の中に神は大きなことをして下さる

 

創世記18:1~33 主の前に立つ


 今日は、次の二つの聖句に注目して下さい。
 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)
「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」(22節)

1、主に不可能なことがあろうか

主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。(創世記18:1~2)

 アブラハムは、その3人が普通の人ではない、聖なる方であると直感的に分かりました。走って迎え、ひれ伏して礼をして、食事を召し上がってほしいと3人を招き入れました。アブラハムは、パンを焼き、子牛を料理するように命じ、自分自身でヨーグルトと牛乳を運び、食事が準備できると、主人のアブラハムみずからが給仕をしました。(3~8節)

 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(10~12節)

 見知らぬ3人のうちの一人は、アブラハムの妻の名がサラだと知っていました。サラは赤ちゃんの誕生の話を聞いて笑いました。アブラハムの最初の反応と同じです。(17:17)

 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」(13~15節)

 サラは、ちょっと恐ろしくなって、笑ったことを否定しました。見知らぬ訪問者がいつのまにか、「主」という表現に代わっています。

 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)

17章の中心テーマは、神が全能の神であるということでした。18章も、同じテーマを取り上げています。繰り返されるのは、私たちが忘れやすいからです。また、どうしても理解すべき重要な真理なので繰り返し語られるのです。

ある青年男性がギターを弾き始めました。彼は牧師の息子でした。牧師の息子のベーシストと牧師の息子のドラマーに彼は声をかけ、バンドをやろうよと熱心に誘いました。ボーカルも見つかり、曲を作り、活動を始めました。彼らの作った曲がプロサッカーチームの応援歌に選ばれました。主は素晴らしいです!やがて地域で有名なバンドになり、CDも発売するようになりました。「ナイトdeライト」というバンドのことです。
彼らの歩みを見ていると、主には不可能なことはありません、という言葉がじわっと私の胸に響いてきます。

あなたの番です。神は全能の神です。主に不可能なことはありません。私たちの具体的な生活の中で、神が働いて下さることを信じてみませんか。



2、アブラハムはまだ、主の前に立っていた
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。(17~20節)

 アブラハムは、世界の人々に祝福を与える者になるのです。また、多くの国民の父になるのです。そのために、神はアブラハムのマインドを変えようとされました。

悪徳の町で有名なソドムを一望できる場所まで主はアブラハムを連れて行きました。神はソドムの町を滅ぼすと言われました。アブラハムは、願いました。ソドムの町に正しい人がいるかもしれないので、その正しい人に免じて、滅ぼすのをお止め下さいと。

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。(23~24節)

とりなしの祈りは、自分以外の誰かのことを心にかけて、何らかの改善や癒しと祝福を願う祈りです。アブラハムは、神の前に立ち、自然にとりなしの祈りをしていたのです。

とりなしの祈りを続けているうちに、祈りの内容が変化しました。正しい人の数を50人から10人にまで引き下げて神に懇願しました。(28~32節)
私たちのとりなしの祈りも、繰り返し祈っていると祈りの内容が変化します。そこに意味があります。
とりなしの祈りとは、主の前に立って、その人の祝福と助けと改善のために祈ることです。

アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

あなたの番です。祈りのノートを作り、祈りの課題を書き込み、定期的に誰かのために祈りましょう。私の祈りのノートには、たくさんの祈りの課題や、祈り続けている人の名前がいっぱい書いてあります。願った祈りがかなえられると、印を付けます。年末に祈りのノートを見直す時、あらためて主のすばらしさを賛美できます。

 まず、夫や妻のために心を込めて祈りましょう。身近過ぎて祈るのを忘れている場合がありますが、第一に祈るべき相手です。子供のためにも祈りましょう。あなたが祈らなければ、世界の誰があなたの子供のために祝福を祈れるでしょう。
 あなたの友達や教会の仲間のために祈りましょう。誰かの深い悩みをあなたが知らされたのなら、それは、とりなしの祈りをするためです。
 こうして、とりなしの祈りの輪を広げていくなら、日本のため、アメリカのため、世界のために祈れます。あなたも、世界の祝福を祈れるのです。

 右近勝吉さんは元祖便利屋として知られています。高校時代にイエスさまを信じてクリスチャンになりました。ある日、精神病院の院長から連絡が入り、右近さんに会いたい患者がいるとのことでした。15年間、毎日壁に向かって独り言を言い続ける人がテレビで右近さんを見て興味を持ったといいます。訪問して、病院の中庭で缶ジュースを飲みながらその男性と話しましたが、ほとんど会話になりませんでした。でも、右近さんは最後にその青年のために声を出して祈ってあげました。病がいやされますようにと心を込めて主にお願いしたのです。
 3か月後、その青年から右近さんの事務所に電話が入りました。病院を退院し、掃除会社で働いています。あの時は、本当にありがとうございました。嬉しい報告が来ました。

 主は、とりなしの祈りに答えて下さる方です。そして、私たちは皆、誰かのためにとりなしの祈りをするように造られたのです。
 祈りのノートを作り、とりなしの祈りをずっと続けましょう。

 アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

→あなたの番です
 □主に不可能はない □誰かのために主の前に立って祈る


創世記17:1~27 エル・シャダイ


1、全能の神

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。(1節)

今まで神は、「わたしの示す地へ行きなさい」(12:1)と語る<導きの神>であり、「わたしはあなたの盾」(15:1)と語りアブラムを<守る神>であり、アブラムの子孫が夜空の星のように増えると述べて<約束される神>(15:5)でした。今回、神は<全能の神>として新たにご自分をアブラムに示されました。

全能の神。ヘブル語ではエル・シャダイ。神に不可能はない。アブラムは、全能の神を目の前に置いて歩み、全き者として歩むことが求められました。
アブラムの人生という文脈で1節を注意深く読んでみましょう。そうすると、「全き者であれ」という意味が道徳的に完全にきよくなれという意味ではなく、神を全能者として全幅の信頼を寄せることだと分かります。
アブラムにとって全き者であるというのは、99歳の自分と90歳の奥さんから子供が生まれると神が言われたなら、その通りに信じるという生き方です。

あなたの番です。お金、人間関係、仕事、健康など、とても現実的な問題の中で、神が全能の神であることを信頼しましょう。全能の神は、驚くようなことをして下さいます。

今まの人生で一度だけ、くじに当たって一等賞をもらったことがあります。ハワイ旅行お二人さま無料招待が当たったのです。日本がバブルで浮かれた時期のことでした。妻と娘がハワイを堪能して帰って来てしばらくして、ハワイの教会に赴任するという話が舞い込んできました。神は、妻と娘が不安にならないように、あらかじめハワイの下見をさせて下さったと今では考えています。全能の神が、微笑んでハワイ旅行を下さいました。


2、名前の変更

神は、次に、アブラムの名前を変えました。名前の変更は内面を変えます。

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。(4~6節)

「多くの国民の父」、それがアブラハムという新しい名前の意味です。妻が夫を呼ぶ時は、「多くの国民の父」、ごはんができましたよ、と呼ぶわけです。アブラハムはそう呼ばれることによって、父としての自覚が生まれてきます。まだ、子供もいない時に、それも高齢で。
 
 神は、私たちに新しい名を下さる方です。あなたは、どんな名を神からもらいましたか。今の年齢が何歳でも、今どんな立場にいても、神はあなたの人生をリスタートできる方です。


3、割礼

次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」(10~12節)

割礼は、生後8日の赤ちゃんの男性性器を包む皮の先端を切り取るという儀式です。現代アメリカでは、男子の赤ちゃんが生まれると医療処置として行われることが多いです。

 割礼の第一の意味は、神の約束を体に刻み付けて、子々孫々と忘れないためです。
また、性器に印を残すのは、子供が生まれることや家族の繁栄は人間の欲望の結果ではなく神の守りと約束のうちにあることを忘れないためです。
アブラハムとイシュマエル、家族内のすべての男性が割礼を受けました。(23~27節)

現代のクリスチャンにとっては、バプテスマが割礼の意味に近いように思います。神の民として歩みます。神と神の約束を信じます。神の愛と恵みによって、新しく生まれ変わりました。バプテスマはそうした意味を体全体で感じられる儀式です。



4、信じきれない夫婦

また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」(15~18節)

サライも新しい名を神からもらいました。「サラ」、王女という意味の名前です。サラは国々の母になるのです。
それを聞いて、アブラハムは思わず笑ってしまいました。99歳の私と90歳の妻から子供が生まれるはずはない。悪い冗談だと思ったのです。奴隷女ハガルから生まれた息子イシュマエルは13歳になっており、背丈も母より高くなっていたかもしれません。アブラハムはかなり真面目になって、このイシュマエルを正式な息子と認めて下さいと願いました。全能の神を信頼できなかったのです。

すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」(19節)

神は、男の子が確かにサラから生まれるので、イサクと命名するようにと言われました。実に意味深な名前です。イサクとは、ヘブル語で笑いを意味します。あり得ない、生まれるはずがない、親ですら笑ってしまったという笑いです。全能の神によってサラから赤ちゃんが生まれる日には、今度は両親が笑顔になるのです。神も微笑んで下さいます。
全能の神は、冷笑を歓喜に変えることのできる方です。私たちの人生にも同じことが起きます。ありえない。不可能だ。希望はない。そう断じていたあなたの人生に、神は予想を超えた輝かしい未来を用意して下さいます。あなたは、信じますか。全能の神を。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(1節)全能の神を信じて歩み出し、大きな笑顔で満たされる日を信じましょう。

→あなたの番です
 □神は全能の神
 □神の下さった新しい名前で生きる □笑顔になる日が来ると信じる