詩篇3篇 信頼して眠る

 元気ないですか。誰のサポートも得られないと感じますか。
それなら、詩篇3篇はあなたのものです。

1、根底に流れる落ち着き

 ダビデはすべてを失いました。
詩篇3篇の表題によれば、この詩篇がダビデの人生のどん底で作られたことが分かります。第2サムエル15章~17章を見ると、ダビデ王は息子アブシャロムのクーデターにより王宮を追われました。
 詩篇3篇の根底に流れる通奏低音は、落ち着きです。



2、今日の詩篇のキーワード

 第3篇のキーワードは、「盾」と「眠る」です。

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(5~6節)

 ダビデにとって、ホームレスに落ちぶれるほどの厳しい試練となりましたが、まるで他人事のように敵が増えてきたことに驚いています。(1~2篇)
 都を出るときにシムイに石を投げら悪口を浴びせかけられましたが、それはダビデの心に重くのしかかりました。それが2節に影響しているのでしょう。

 ダビデは最悪のコンディションの中で、神に目を上げます。神が盾であると告白しました。盾とは何でしょう。いうまでもなく、防御の武具です。鋭利な槍の先を受け止め、鋭い剣をとどめるのが盾の役割です。盾は傷だらけになりながら、主人を守るのです。
 誰かが窮地に陥ったとき、他の誰かが援助したり弁護するなら、その人も非難の矢面に立たされます。それは、盾になってくれたことになります。神は、私たちの盾です。体を張って、命をかけて、私たちを守ってくれます。

 ダビデは、敵に追われ野宿するような生活になりました。それでも、眠れたことを感動しています。感謝しています。苦難が激しい時に人が求めるのは「ごく普通の生活」なのです。神は、ダビデに普通の眠りを与えてくださる方です。

 7節以降では、ダビデは神に立ち上がってくださるように願いました。詩篇3篇全体には、神への非難や不平はありません。救いが神にあることをダビデははっきりと知っていました。


3、落ち着きを自分のものにする

 ダビデの信仰の秘訣とは何でしょう。どうしたら、私たちも同じ姿勢を持てるのでしょうか。それは、朝の聖書、祈り、思い巡らすこと、だと思います。

 →あなたの番です

1)あなたに与えられている「普通」を発見しよう
  目を開いて、あなたの普通が普通でないことに気づきましょう。
  
2)あなたの周囲の「盾」に気づく
  聖書を読み、目を閉じ、思い巡らし、祈りましょう。

3)神こそがあなたの究極の盾
  誰も頼りにならない最悪の時、神は盾としてあなたの周囲を覆ってくださいます。

 ペテロは死刑を前にして眠り込むことができました。(使徒12:6~7)あなも静かな心で眠れますよ。

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、
そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

詩篇2篇 国々は騒ぎ立つ

 詩篇2篇は、1篇に比べると難解だ。誰が、何のために、誰について語った詩篇なのか?その謎を解いていこう。

1、王の即位の詩

 謎解きの第一は、誰が書いたか。それは分からない。

 謎解きの第二は、書かれた目的が何かだ。王の即位式に用いられた詩篇だろうと言われている。内容を確認すれば、すぐに分かる。

 1~3節:近隣の王たちが、イスラエルの新王に対決姿勢を示す。
 4~6節:神は、王たちの態度を笑い、イスラエルに王を立てたと宣言する。
 7~9節:神から受けた信任を、王が表明する。
 10~12節:御子に忠誠を誓うようにとの呼びかけ。

 2篇の中心人物は、「油注がれた者」(2節)だが、6節で「王」と呼ばれ、7節では「わたしの子」、2節では「御子」と呼ばれている。

 第2サムエル5:17以下には、エルサレムで即位したダビデ王にペリシテ人が戦いを挑んだ史実が書かれている。詩篇2篇の内容によく似ているが、ダビデがその「油注がれた者」かというと違う。2篇が語る王は、神から完全な信任を受けた特別の存在で、ダビデと言い切ることは困難だ。

 神はダビデに以下のように約束された。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」(第2サムエル7:12~14)

 「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる」この約束は、詩篇2篇の内容とぴたりと適合する。

 「あなたはわたしの子、きょう、わたしはあなたを生んだ」(詩篇2篇7節)

 そうすると、ダビデの子孫から生まれた王が、詩篇2篇の想定する王だということができる。多くの聖書学者たちは、主イエス・キリストを指し示す詩篇だという。


2、新約聖書に引用される詩篇

 新約聖書に直接引用された詩篇は104箇所、間接引用も含めると400箇所にのぼると言われている。その多くが、主イエスの受難、死、復活、栄光を預言している。

 復活後の主イエスは弟子たちに現れて、詩篇が主イエスについて証言しているとご自身の口で言われた。
 「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44)

 詩篇2篇を直接、間接に引用している新約聖書の主な箇所をあげると、以下のようになる。マルコ1:11、使徒13:33、ローマ1:4、ピリピ2:10~11、ヘブル1:5、ヨハネ黙示録2:27

 詩篇2篇は、やがて来られる救い主であり、王である、主イエスを、あらかじめ指し示した詩篇であると理解できる。


3、王なる御子に栄光をささげよう

 詩篇2篇10~12節で勧められているのは、悟れ、慎め、主に仕え喜び、御子に口づけせよ、という内容になっている。

 神と御子が文章の流れではほぼ同格に扱われており、旧約聖書における三位一体に関する言及の一つとなっている。

 詩篇1篇は、詩篇150篇全体の序論であり結論だと前回言及したが、2篇は<序論その2>という位置づけになる。それは、2篇の最後「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」(7節)が、詩篇1篇冒頭の「幸いなことよ」と呼応することが根拠になる。

 詩篇2篇を大胆に要約すればこうなる。神の御子、イエス・キリストを王として栄光をささげよ。

 一人の男性がいた。56歳。生涯で最も暗い日々を送っていた。脳卒中で半身が不自由になり、リュウマチの苦痛とも戦っていた。そんな彼が作曲の依頼を受けた。歌詞は聖書、それもイエス・キリストこそまことの救い主、王の王という内容だった。24日間かかって一気に書き上げた作品は「メサイヤ」として広く知られるようになった。この男性が作曲家のヘンデルだった。
 私はこう想像している。ヘンデルは、自分の部屋で一人きりのとき、主イエスを王としてたたえていたのだと。

 礼拝とは、神が良きものを下さったがゆえにささげるものではないと私は思う。もちろん主への感謝は礼拝の大切な一部だ。けれども、主イエスが王の王である、ただそのことにゆえ礼拝に値すると私は信じている。

 本当の幸せは、御子イエスを信じて、共に歩くことである。あなたも、主イエスをあなたの王として心の中心にお迎えしよう。

→あなたの番です 
□神の御子イエスを礼拝において心からたたえよう
□あなた一人の場所で、主イエスを王としてあがめよう
□王に仕える者として、誇りを持って今週も生きよう

詩篇1篇 主の教えを喜びとし

 今日から詩篇を順番に見ていきましょう。

1、詩篇とは何か

 詩篇とは何でしょう。ひとことで言えば、人間の魂の叫びです。それは、人の本音であり、神への祈りです。

 聖書全体は神から人に下された啓示であり、いわば下に向けられたメッセージです。詩篇はその逆に、人から神への上向きの方向性を持っています。それで詩篇には、賛美、祈り、涙、ため息、疑い、のろい、訴えさえも含まれているのです。

 詩篇1篇は、詩篇全体の序論であり、同時に結論です。


2、悪者とは何か

 詩篇1篇は、人の生き方を白と黒とにあえて簡略化しています。あなたは、正しい人として生きるか、悪者として人生を終えるか、詩篇の読者に二者択一を迫る目的です。

 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(1節)

 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。(4節)

 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(6節)

 神との関係を絶ち、自分中心に生きる人を、詩篇1篇では「悪者」と呼んでいるようです。正しい者とは、神と共に歩く人を指すのでしょう。

 神からの愛、神からの励ましを受けることなく、神と共に歩くことがない人は、悪者のはかりごとに近寄ってしまいます。やがて、罪人の道に入ることが習慣になり、あざける者の座に落ち着いて動きがとれなくなることは理解できます。
 悪者の本質は、むなしく、籾殻のように空っぽで、最後には滅びが待っていると聖書は語ります。



3、幸せとは何か

 本当の幸せとは何でしょう。それは、神と共に生きることです。これが、詩篇1篇の言いたいことであり、詩篇全体の中心主題です。

 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3節)

 神と共に生きる人は、水路のそばに植えられた木のようだと描写されています。イメージが残るほど鮮やかな描写です。

 嬉しいときは、歌いだします。
 悲しいときは、泣きます。
 切ないときは、うめき、助けを求めます。
 混乱したときは、抗議します。

 どんなに苦しくつらくても、神と共にあるなら、乗り越えられます。

 神と共にいる秘訣は、神の言葉を愛し、神の言葉を思い巡らし、神の言葉を口ずさむことです。

 朝に読んだ聖書の言葉を、まるで弁当を持って出かけるようにして心に蓄えて持っていきましょう。日曜の礼拝で読まれた聖句は、レストランでもらうボックスに入れるようにして、持ち帰りましょう。

→あなたの番です
 □礼拝の聖句を持ち帰ろう
 □朝読んだ聖書を「お弁当」にして持って出よう
 □神の言葉を思い巡らそう
 □いつでも、どこでも神に語りかけよう

 あなたも、しあわせをつかんでください。

ギデオンの剣 士師記7:9~25

 ギデオンのシリーズ最終回となります。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし

 ご存知のように、平家物語の冒頭部分です。源義経が「一の谷の合戦」でひよどり越えをする場面は、ギデオンの戦いを彷彿させます。どちらも奇襲作戦で大軍勢を打ち破りました。

1、さあ、攻め下れ

 その夜、主はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。(9節)
 
 主は、優しさと配慮のある方です。心配なら偵察してきなさいとギデオンに言われました。彼は密かにミデヤン兵の世間話に聞き耳を立てました。大麦のパンが下ってきて、陣営が破壊される夢を見たと一人の敵兵が語り、聞き手は、それはギデオンに違いないと話していました。
 ギデオンはその場で礼拝しました。勝利の確証を得て、また、敵陣の偵察も同時に終えて自陣に帰還、兵士らに作戦をさずけました。

 神は、あなたに、今だ、と語られるときがあります。はっきりとそれが分かったのなら、躊躇せずに攻めくだるべきです。あなたの手に渡したと主は言われるのです。


2、私を見よ

 大麦のパンは小麦のパンに劣り、いわば貧乏人の食べ物として知られていました。ギデオンはミデヤン兵の夢を聞いて痛快な気持ちになったでしょう。くらえ!貧乏人の食物を、弱虫の勇気を、といったところです。

 それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。(17節)

 あの臆病なギデオンが、私を見なさい、私のやるとおりにせよ、と命令をしています。神は、弱い者を選び、育て、用いてくださる方です。

 あなたが現代のギデオンです。


3、主の剣だ

 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
(20~21節)

 ギデオンの古戦場を実際に訪ねた人に聞くと、丘のような山に囲まれた場所だということでした。
 ギデオンは、秘策を授けました。たいまつを壷で隠し、敵陣の上方に待機させました。ギデオンの合図で、300人が壷を割ります。すると周辺一帯が大音響に包まれます。寝入っていた敵軍は大慌てで起き上がり、たいまつの明かりが周囲の山を取り囲んでいることに気づきます。「主の剣、ギデオンの剣」とイスラエル兵が大声で叫び、左手にたいまつを掲げながら、右手の角笛を高らかに吹き鳴らします。
 集結したはずのイスラエル軍が突然消息を絶ったので、ミデヤン軍は疑心暗鬼になっていたので、奇襲攻撃を受けると同士討ちを始めるほどの混乱をきたしました。ミデヤン軍は一枚岩ではなく、寄り合い所帯の同盟軍であったので、見方がイスラエルに寝返ったと思い込んだのかもしれません。
 22節によれば、ギデオンの兵士は角笛を吹き続けました。本来は通信係である角笛担当者の背後に何千、何万というイスラエル兵がいると考えたのは無理もないことです。同士討ちによりかなりの数の兵士が戦死したと思われます。
 ギデオンは、一旦返した兵士らを呼び寄せ、ミデヤン人討伐を慣行しました。勝利です。主の勝利です。人間の力によらない主の栄光です。


→あなたの番です
 
□ミデヤン人とは、今のあなたにとって何ですか
□あなたにとっての角笛とたいまつとは何ですか

 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
(出エジプト記14:13)

精鋭300人 士師記7:1~8

 ギデオンの声に応答して、3万2千人が集まった。ところが、イスラエルの兵が多すぎると主は言われた。

 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。(士師記7:2)

 敵のミデヤン人らは、8章10節によると13万5千人。普通に考えるなら、イスラエルの兵が多すぎることはない。主が望んでおられるのは、人間の力と勇気の総和による勝利ではなく、人知を超えた神の栄光だった。

 そこで、ギデオンは主の指示に従い、二段階に分けて兵隊を厳選した。

1、勇気ある者

 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。(3節)

 敵が圧倒的に多数であると知るなら、悲観的な者は弱音をはき、志気をくじくだろう。否定的な態度は一気に伝染する。主が取られた方法は、勇気ある者のみを残す方法だった。

 ところで、あなたは勇気があるだろうか。

 勇気は、ある種の訓練によって鍛えることは可能だ。本番前に入念にリハーサルを繰り返せば、舞台では冷静になれるように。
 ただし、人間の深い恐れに対しては訓練はあまり意味をなさない。恐れの原因は以下の3つが考えられ、それのいずれもが、底なしの恐れに人間を引きずりこむ力を持っている。

1)将来が見えない
2)自分の名誉が失われる
3)自分の命を失う

 神の約束、神が共にいてくださることが、恐れを乗り越える本質的な力となる。

 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。(イザヤ41:13)

 明日が見えなくても、確かな方が手を握って誘導してくださる。

 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)

 人間の名誉がなんぼのもんじゃ。すべての人間は100%死ぬ。イエスさまは、器の大きな方だ。このお方に励まされて、恐れに立ち向かおう。



2、備えのある者

 残った兵士は最初の3分の1、1万人になったところで、主から指示があった。ハロデの泉の水を兵士に飲ませ、その態度で判定を下すようにという指示だ(4~7節)

 犬のように両手をついて水を飲んだ者は失格となった。敵が近くにいるにも関わらず、あまりにも無防備だ。片手で水を飲み、周囲に目を光らせていた兵士を残した。その数、わずか300人となった。勇気と判断力のある兵士だけが残った。

 備えある兵士。我々もその一人になれる。聖書と祈りの中で、状況判断ができる。また、自分が何のためにここにいるのか分かっているなら、自分の普段の態度に緊張感が生まれる。「こんなことは、していられない」という使命感が育つ。パウロが言うように、キリストの兵士としての自覚が大切だ。

 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。(第2テモテ2:3~4)


 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。(8節)

 残った兵士は最初の1%にすぎなかった。300人。この人数で大軍に当たることになる。

 あなたの前に立ちはだかる大軍とは何だろう。経済的な問題。子供の問題。親の介護。仕事での悩み。人間関係のもつれ。自分の病気や死の迫り。心の健康状態の悪化。逃げていれば、ふたをしておけば、と目をそむけて来た問題。

 クリスチャンにとっては、多くの人が神を知らないという現状も立ちはだかる大軍のように見える。

 主が共におられるなら、立ち向かえる。去るのではなく、共に戦おう。

 ジョージア州のシャーウッド・バプテスト教会の牧師の一人が、統計結果を見て唖然とした。今日のアメリカ人に最も大きな影響を与えるのは聖書でも教会でもなく、映画という統計結果だった。
 祈りの中で、ビジョンが与えられた。まるで、ギデオンが300人の兵士で大軍に当たるように、<それなら、映画で福音を伝えよう>と立ち上がり、教会もそれに賛同、教会員が俳優となり、教会員が撮影ボランティアとなり映画作りを支え、一般劇場で上映するまでとなった。それが、Facing the Giantsというスポーツ映画で、低予算ながら大きな反響を呼び成功した。2008年にはFireproofという消防士の物語を映画を世に送り、興行成績上位の大ヒットになった。内容は、壊れた夫婦の再構築で、主イエスの十字架の福音が鮮やかに語られている。

 さあ、あなたの番です。
□あなたの恐れは何ですか。
□主によって、恐れを乗り越えよう
□あなたの弱さや小ささの中に、神の栄光が表れることを信じ祈ろう


 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)