詩篇56:1~13  恐れのある日に


 若いダビデがピンチに陥った時、何を考え、何をしたのでしょう。

1、事実と気づき

 詩篇56篇の背景には、二つの現実がありました。
 一つ。ダビデはサウル王に命を狙われて逃げていました。第二。たまたま逃げ込んだ場所がペリシテ人の国で、身分が発覚して殺されそうになりました。それが、詩篇56篇の表題、「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕えたときに」に書かれていることです。

 その時、ダビデの心に思い浮かんだことは何でしょう。
 一日中、敵に踏みつけられているという屈辱感。極度の恐れ。そして、涙でした。

神よ。私をあわれんでください。
人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。
私の敵は、一日中、私を踏みつけています。
誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。(1~2節)

 四六時中、敵の足に踏まれていると感じられるほど、みじめな体験が続きました。途切れないプレッシャーでつぶされていたのです。

 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。(3節)
 
 ダビデは極度の恐れに直面していました。サウルに命を狙われ、いつ殺されるかも分からない、という恐れです。その上、ペリシテ人の国で捕らわれたので、アキシュ王に殺されるという恐れが切迫していました。ダビデは、恐れのある日に生きていました。

あなたは、私のさすらいをしるしておられます。
どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。
それはあなたの書には、ないのでしょうか。(8節)

 ダビデに涙がありました。異国の地で無駄死にしそうなので、みじめさ、無念、孤独の涙となりました。涙の袋にダビデの涙を流し入れて、それを神に見てほしいという気持ちでした。


2、アクション

 ダビデは、サウルに命を狙われペリシテ人の地で殺されそうになり、屈辱と恐れと悲しみでつぶされそうでした。ですが、ダビデは3つのアクションをしました。

 第一は、祈りです。
 多くの人は、突然現れた事実に飲み込まれてしまい、平静に考えることができません。感情的な決断や、人目を気にした行動をしてしまい、後悔する場合が多いのです。だから、祈るのです。お金の事も、子供のことも、親のことも、仕事のことも、人間関係のことも、すべて、そのまま、神に祈るのです。このアクションが人生を切り開きます。ダビデは以下のように祈りました。

 神よ。わたしをあわれんでください。(1節)
 彼らを投げつけてください(7節)

 第二は、信頼です。

 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。
私は神に信頼し、何も恐れません。
肉なる者が、私に何をなしえましょう。(3~4節)

神にあって、私はみことばをほめたたえます。
主にあって、私はみことばをほめたたえます。
私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。
人が、私に何をなしえましょう。(10~11節)

多くの人は、こんなに大変だから神に信頼するのは不可能だと言います。それは、まったく逆です。大変だからこそ、神に信頼するのです。
ダビデは、助けてくださいと神に祈りました。そしてはっきりと意識して、神を信頼しました。神の言われたことは必ず実現するので、神のことばをほめたたえました。
主イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(マタイ10:28)と言われましたが、ダビデは神を信頼した結果、主イエスが言われたような心境になりました。人は恐れるに足らず。人間は、ダビデの外側しか滅ぼせない。これは信仰による開き直りです。

 3番目のアクションは、ダビデの一世一代の演技です。とっさにダビデは、気が狂った人の真似をしました。大勢の人とアキシュ王の前でです。

するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」(第1サムエル21:11~15)

これで助かったのです。解放されるまで、時間にして1時間以上は、狂った人のふりを必死にしたことでしょう。祈って、神を信頼すると、思いもかけないアイデアが降ってきます。そこに、神の直接の介入があり、ダビデは助けられました。

ポーランド出身で39歳の時に日本に来た修道士がいました。名前は、ゼノ・ゼブロフスキーといいます。ゼノ修道士は、戦後の東京の焼け野原で孤児たちを見つけました。その事実から、アクションが生まれました。ゼノ修道士は材木屋に行き、「これと、これと、これを下さい」と言って材木をトラックに乗せてもらいました。「お支払いは?」と聞かれると、私はくださいと言いましたと答えました。私はお金がありません。孤児たちは家がいります。私は神のために働いています。そう話すと協力してくれたそうです。

さあ、あなた自身を振り返って下さい。困っている事実とは何ですか。その事実から何が分かりますか。そして、あなたは、どんなアクションをしますか。

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。
 私は神に信頼し、何も恐れません。
 肉なる者が、私に何をなしえましょう。(3~4節)


 →あなたの番です
  □主を信頼すれば、恐れは飛び去る 
  □祈れば、体が動き出す


詩篇55:1~23 丸投げでいい


 あの勇士ダビデが、「翼があったらな」と現実逃避を夢見るほどの強いストレスと悩みにつぶされた時がありました。あなたは、今、心配やストレスで押しつぶされていますか。それなら、詩篇55篇を読んで下さい。

1、恐れ

神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さないでください。
私に御心を留め、私に答えてください。私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。
それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。
彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。
私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。
恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。(詩篇55:1~5)

 ダビデはひどく取り乱しています。「苦しんで」「心にうめき」「泣きわめいて」「もだえ」「恐れ」「おののき」「戦慄」と心境を述べています。ダビデの悩みは、まず、生きるか死ぬかの問題でした。殺されそうなので「死の恐怖」に震えていたのです。

 私たちにとっての「死の恐怖」とは何でしょう。病気やケガや老いです。人によっては、今まさに、死と隣り合わせの人もいるでしょう。

そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。
そうしたら、飛び去って、休むものを。
ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。(6~7節)

翼があれば遠くに逃げられるのに。英文法の仮定法の例文のような文章です。勇者ダビデにしては珍しい現実逃避です。よっぽど辛かったのでしょう。
ストレスが極端に強い時、私たちも現実逃避します。アマゾンでやたらにリサーチしたり、ゲームを長時間してみたり、無理に食べたり、深夜の公園でポケモンGOをやってみたり。アルコールや薬物に逃げたり、ギャンブルにはまる人もいます。

ダビデは、ストレスでつぶされそうになり、現実逃避の気分に傾きながらも、「私に御心を留め、私に答えてください。」(2節)と祈ったのです。そこがダビデの長所でした。


2、いらだち

主よ。どうか、彼らのことばを混乱させ、分裂させてください。
私はこの町の中に暴虐と争いを見ています。
彼らは昼も夜も、町の城壁の上を歩き回り、町の真中には、罪悪と害毒があります。
破滅は町の真中にあり、虐待と詐欺とは、その市場から離れません。(9~11節)

 この詩篇は、息子アブシャロムがクーデターを起こし、ダビデが都エルサレムから避難した時に作られたものだと思われます。(詳しくは第2サムエル15章を参照)ダビデがエルサレムから去った後、アブシャロムが都に入って好き勝手にふるまいました。その結果、エルサレムには不正と暴力がはびこり、ダビデは心を痛めました。

 ダビデにとっての「町」とは都エルサレムで、王としての仕事場です。職場が荒らされているのは、いたたまれません。これが、ダビデにとっての第二の悩みでした。あなたも、仕事の悩み、あなたの関わる責任分野の悩みがあるかもしれません。

そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。
私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。
死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい。
悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。(13~15節)

ダビデは、第三に、親友に裏切られたことがつらいと述べています。苦楽を共にした友で、純粋な心で主を礼拝した信仰の仲間が、アブシャロムの側に付きました。
特に、アブシャロムの補佐官になった知恵者アヒトフェルには失望したことでしょう。やり場のない怒りから、ダビデはきつい言葉を言い放っています。

エルサレムを占領した後、アヒトフェルは、「ダビデは疲れて気力を失っている」(第2サムエル17:2)ので、今、叩けばダビデに勝てるとアブシャロムに進言しました。これは、ダビデを知りぬいていた「親友」だったからこそ言えた言葉でしたが、アヒトフェルの助言は採択されませんでした。


3、ゆだねる

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。
夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。
すると、主は私の声を聞いてくださる。(16~17節)

 うめきとは、言葉にならない祈りです。いらだちや不平や感情の高ぶりが音になっただけです。ダビデはそのままの気持ちを神にぶつけました。神はそのうめきを受け止めて下さいました。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(22節)

 命の危険、仕事上の心配、親友に裏切られたショックをダビデは抱えていましたが、22節の言葉が唐突表れました。第三者に呼びかけるような口調をとって、「あなたの重荷を主にゆだねよ」と述べていますが、これは、第一に、自分自身に語り掛け、自分を励ましているのです。

ダビデは悩みのすべてを、主にゆだねました。英語の聖書では、Cast your cares on the Lord and he will sustain you(NIV)となっています。重荷を神に投げて渡せばよいのです。信仰の世界は、丸投げで良いのです。

 22節の動詞כּוּל(クール)は、支える、養う、扶養する、心配する、という意味を持っています。神の側が全面的に面倒を見てくれるという意味になります。

 先週IKEAでL字型のソファーを買いました。ソファーが配達される朝、「買ったソファの形態では我が家のリビングを二つに分断してしまう。逆方向のタイプが良かったんだ」と妻に告げました。「買う時になぜ言わなかったの」と責められましたが、もう遅いのです。後はよろしくと私が教会に出かけた後、配達担当者が二人来て、ソファーの組み立てを始め、しばらくすると、その二人が低い声で相談して、顔を青くして妻に言いました。「実は、お客様の願うような形には組み立てられません。違うタイプのソファーを持ってきてしまいました。」つまり、逆L字タイプのものでした。ハレルヤ!
 妻は朝、「主よ、業者が間違えてソファーを持って来て下さい」と祈ったのだそうです。私は考えるだけの人でした。妻は、主に祈り、ゆだねることができた人でした。


 ダビデは、主の助けによって絶体絶命のピンチから救われ、エルサレムに戻ることができました。
 あなたの番です。悩みに押し潰されて現実逃避しても道は開けません。命、仕事、人間関係の悩みがある時には、まず、主に重荷のすべてをゆだねましょう。キャストして、自分の手から一度離してみましょう。主は、あなたを助け、あなたを守り、あなたのことを誰よりも心配して下さいます。
 
あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(22節)

 →あなたの番です
  □私の重荷を主にゆだねます
  □主は私を心配し、守ってくださる

詩篇54:1~7  私を助ける方


 アメリカの学校では、日本では起きない不思議な事に遭遇します。 
 オーケストラのクラス参加希望者を、くじ引きで決めると発表があり、私たちの子供が応募しました。なんと、締切日が来る前に当選者が発表され、うちの子供は落選しました。締切日前の発表は不適切と、私たち夫婦が校長に抗議すると、締切日後にくじ引き抽選をやり直してくれました。
 主に祈って行動したら、危機的場面から助け出され、嬉しい結果をもらえました。
 

1、「神よ」

 表題から分かるように、ジフ人に隠れ家を密告され、ダビデが危機に陥った時の歌が詩篇54篇です。

若い日のダビデは、サウルに命を狙われて荒野を転々としていました。パレスチナ南部の荒野は、西部劇に出てくるような広大な平地ではなく、岩山が連続して見晴らしがききません。それでダビデの居場所を見つけることは困難でした。逆に、サウルの軍隊がどこまで追い迫ったのかもダビデには分からないのです。

第1サムエル23:19によると、ジフ人たちがダビデの居場所をサウルに伝えたことが分かります。密告の事実がダビデに伝わっても、時すでに遅しという状況でした。ダビデにもダビデの仲間にも、サウル軍がまっしぐらに進んで来る姿が目に浮かんだことでしょう。多勢に無勢で、形勢不利です。ダビデの心は、落胆、不平、怒りに傾きかけました。そんな時に、ダビデは祈りました。助けてと祈りました。

神よ。御名によって、私をお救いください。
あなたの権威によって、私を弁護してください。
神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。
見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。
彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ(詩篇54:1~3)

ダビデは、「神よ」(1節)と呼びかけました。2節でも「神よ」と語りかけています。ダビデは弱虫ではなく、歴戦の勇士です。彼に並ぶ勇者は当時誰もいませんでした。そのダビデが祈ったのです。自分の無力を認め、神の助けにすがりました。「神よ」と助けを求めることが、困難から脱出するための第一段階です。

今、あなたは形勢不利ですか。神よ、と呼びかけ、神の助けを求めてください。


2、「神は」

まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。
神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。
あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。(4~5節)

「神よ」という呼びかけは、詩篇の後半で「神は」に変化します。「神は」で始まる文章は、信仰告白文です。体験に基づいたダビデ固有の信仰の確信です。ダビデは、神が今まで助けてくれたことを思い起こし、この困難な時に、神はきっと助けて下さるという信仰が与えられたのです。これが、困難から脱出するための第二段階です。


3、「私は」

神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。(4節)
神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。(5節)
神は、すべての苦難から私を救い出し(7節)

戦略上もっとも難しいのは退却です。ダビデと連れの者たちは気力と集中力と団結力を失わずにサウルの追手から逃れようとしました。
ダビデたちは、サウル軍の動きに耳をそば立てつつ、気配を消してその地域から逃れようとしたはずです。その時、ダビデは、神にささげものをささげると述べ、将来の自分の姿を思い浮かべています。

 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。
主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
神は、すべての苦難から私を救い出し、
私の目が私の敵をながめるようになったからです。(6~7節)

困難から脱出する第三段階は、「私は」と神に語り始めることです。ダビデは、今後の自分の行動予定を神に伝えました。
目に見えない信仰は、行動によって初めて明らかになります。ダビデは、神に救出された後に、いけにえを捧げると態度を表明しました。

第1サムエル23:26~29を読むと、この危機の結末が分かります。サウルは、岩山ひとつ手前の所まで迫っていましたが、外敵ペリシテ人による攻撃が伝えられ、全員がその場を後にしたのです。ダビデは、その場所を「仕切りの岩」と名づけ、神が隔ての壁となってギリギリの所で助けて下さった事を記念しました。


 1996年、ジョイ・モーラ(Joey Mora)は、中近東の海域で、米国空母から落ちて海を漂いました。転落場面を目撃した者がなかったので捜索が遅くなりました。ジョイは絶望と戦いながら、助けを待ちました。神が彼の心を励ましてくれました。海軍でならったサバイバル術を思い出し、ズボンを脱ぎ、裾を堅く結び、浮輪のように首にかけ、バシャバシャと海面をたたくと空気が送り込まれて体は浮きました。そうして、3日たって漁船に救助されました。



 あなたは形勢不利ですか。立ち止まって「神よ」と助けを求めましょう。神に祈りつつ、「神は」で始まる信仰告白文を作って神に信頼しましょう。その上で、「私は」と心に決めて、何らかの行動を起こしましょう。
 

 →あなたの番です
  □形勢不利な時、「神よ」と助けを求める
  □「神は」で始まる文章を作り、信仰告白とする
  □「私は」と、これからの行動を決めて実行する

詩篇53篇   腐るな


 詩篇53篇を読むと、よく似ている詩篇があったなと気づくでしょう。そうです。詩篇14篇とそっくりです。異なる点は、「主」が「神」となっている事と、後半が少し違う程度です。重要なテーマなので、繰り返し取り上げて強調しようという意図かもしれません。


1、神を認めないと、何が起きるのか

 1)神はいない

 愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。(1節)

 知識人は色々と調べた上で「神はいない」と結論づけるだろうと日本人は考えます。でも、聖書はその逆だといいます。神がおられるのに、神を認めないとしたら、それは最も愚かなことです。神はいないという前提で始めるなら、ボタンを最初にかけ違えたまま生きることになります。

 2)腐る

 彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。(1節)
 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。(3節)

 神がいないとするなら、その人は腐ってしまうと聖書は警告します。

 3)善きことができない

 善を行なう者はいない。(1節)
 善を行う者はいない。ひとりもいない。(3節)

 パウロは、ローマ3章10節で、善を行う者はいないと断じて上記の聖句を引用し、人間の本性のもろさを鋭く指摘しました。

 風が吹けば桶屋が儲かると言われますが、神を認めないなら、その人は腐り、周囲に腐りが伝染し、善き事が失われていくのです。


 たとえば、アルコール依存の父親がいて、毎晩のように息子を殴ったり蹴ったりするなら、その子は父親を認めず、父親を憎むでしょう。その子は学校で粗暴に振舞い、その子に巻き込まれてクラスの子供たちも荒れてくるでしょう。
 会社や組織、そして国家も同じことが起こります。箱に入ったミカンの一つが腐れば、周囲のミカンも腐るのです。

 学校や会社には、いい加減な人がいます。自分の利益だけを考える人がいます。平気で嘘をついて、その場を取り繕う人がいます。人に見つからないなら、盗みや不正を行ったり、みだらな欲求を追及する人がいます。不正カードを使用してATMで70万円を引き出す仕事でも、お年寄りをだますことも、5万円の報酬でアルバイトする人がいます。

あなたは誠実で真面目な人かもしれません。でも、上司から数字を書き換えるように命令されたらどうしますか。製薬会社に勤務しているなら、副作用を隠すために数字を書き換える人がいます。自動車会社なら、排気ガスの数値を書き換えを命じられます。そうすれば、あなたは立派な社員として評価されますが、薬を使った人が一生涯苦しんだり、環境が汚染されてしまいます。

神を認めず神を敬わないなら、これは実に自然な流れなのです。


 詩篇53篇では、まことの神を認めない外敵が、エルサレムに攻め込み、残虐非道なことを行った上で、ユダヤ人を捕囚として遠くバビロンに連れ去った事が暗に述べています。まるで、パンをむさぼり食べるように、ユダヤ人を食らったと書かれています。(4~5節)時がくれば、神の裁きが下り、敵は恥を見ると信じています。そして、シオンから、神の救いの手が延べられ、かつてのユダヤの繁栄が戻る日を期待しました。(6節)



2、神を認めるなら

 世界の悲惨さの原因は、もとをたどれば、神を無視し、神を認めない態度から生まれます。
 ですから、その逆をしましょう。まず、神を認めます。主イエスを救い主と信じ受け入れます。すると、心の中に命が与えられ、いのちの泉が湧き出るようになります。その人は、暗闇に灯った光のような存在になります。人を愛すようになり、正義を行う人になり、時には犠牲を払って誰かを助け、神の栄光をあらわす人になっていきます。

 →あなたの番です
  □腐った人生に終止符を打つ
  □神と共に歩む人生に入ろう

詩篇52:1~9  神の恵みは、いつも、あるのだ


 詩篇51篇は罪を悔い改めた詩篇でしたが、詩篇52篇はその逆です。冷酷で、罪を認めないドエグという人物へのさばきの歌が詩篇52篇です。表題に「ダビデのマスキール」とありますが、マスキールは教訓的内容を持つ詩篇と理解されています。

1、悪を誇るドエグ

なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。
欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ。
おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ
欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。(詩篇52:1~4)

 ダビデは、ドエグという男を念頭に置いて、この詩篇を書いています。
 「サウルの牧者たちの中のつわもの」(第1サムエル21:7)と言われたドエグは、普通のユダヤ人以上に管理能力に優れた外国人で、サウルの家畜管理を任されました。「勇士よ」と呼ばれるほど武勇にも優れたものがあったのでしょう。

 当時ダビデはまだ若く、サウル王に嫉妬され、命を狙われていました。ダビデは、ノブという町の祭司アヒメレクを訪ね、パンと武器をもらい受けて荒野に逃げました。そこに居合わせたドエグは、サウロにその一部始終を密告したのです。その動機は、おそらく、昇進や昇給だったのでしょう。「彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」(7節)とあることから、ドエグは富に執着していたようです。

 第1サムエル22章を読むと全体像が分かりますが、密告後、祭司アヒメレクと仲間の祭司たちがサウル王のもとに呼び出され王に厳しく追及されました。祭司アヒメレクは、王の婿、ダビデを助けるのは当然だと無実を主張しました。怒ったサウル王は祭司アヒメレクと祭司たち全員を殺せと命じましたが、近衛兵らは躊躇しました。サウル王はドエグに殺害を命じると、ドエグは平然と祭司ら85人を殺し、祭司の町ノブの女、子供、乳飲み子まですべてを虐殺しました。(第1サムエル22:20~23)

サウル王の怒りから想像すると、祭司アヒメレクがダビデに積極的に加担したことを印象づける虚偽の情報をドエグが伝えたと思われます。「欺く者よ」、「おまえの舌は破滅を図っている」、「欺きの舌よ」、「ごまかしのことばを愛している」とダビデがドエグの舌を責めている理由が分かります。
悔い改めを知らないドエグは、地面から根こそぎ引き抜かれる木のように神によって永遠にさばかれるとダビデは予告しました。

それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。
こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。セラ
正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。(5~6節)

 あなたの周囲に、ドエグのような人がいますか。今までの人生で、ドエグのような人物に出会いましたか。もし本物のテロリストがあなたの教会に来て、主イエスの夢を見たので回心したいと言って来たらどうしますか。その話は信用してもよいのでしょうか。
 回心したパウロがペテロたち十二弟子に会いに来た時は、まさにパウロは危険人物でした。(使徒9:26~30)神の愛、神の恵みは、テロリストのようなパウロにも注がれていました。

 ダビデはドエグの行動を嘆きつつも、神の愛と神の恵みはドエグにさえも注がれていると述べています。「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」
1節)



2、悪者にも注がれる神の愛

しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。
私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。(8~9節)

 「この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ」と、ダビデは自分をオリーブの木にたとえました。オリーブは高木にはなりませんが、年輪が増すと幹が太くなり、ごつごつして味わいのある木になります。神の愛が太陽のように、神の恵みが雨のように降り注ぐので、自分は生かされている、自分は守られている、自分は実を結ぶようになったと、謙虚になって神をたたえているのです。自分の能力にではなく、金の力にではなく、ここに神に頼る人の姿がみられます。

 おろらくこの詩篇は、サウルに命を狙われ荒野を放浪している最中に作られたのでしょう。ひもじくて、明日の保障もなく、安心できる家もない時に、ダビデは自分が神の家に育つオリーブの木にされていると感じていたとは驚きです。残虐非道なドエグにさえも、「神の恵みは、いつも、あるのだ」(1節)と語るほど、ダビデは神の慈しみと恵みのリアリティーに圧倒されていたのです。

 主イエスも「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)と語っておられます。

 あるキリスト教のキャンプで、猫が非水洗トイレに落ちました。(ぼっとんトイレ)参加していた学生たちが猫を助けてほしいと、Y牧師に頼みました。Y牧師は覚悟を決めて汚物の中に降りて、猫に近づき、助け出しました。猫はお礼も言わず、むしろY牧師をひっかいて逃げて去りました。猫はY牧師の愛に気づきません。この猫、誰かに似ていませんか。

 今週は、私の上に注がれる神の恵みを意識し、ドエグのように人にも神の愛が注がれていることを意識して過ごしましょう。

 →あなたの番です
  □神の恵みは、いつも、あるのだ