詩篇23篇 主は私の羊飼い

 多くの人に愛唱される23篇。何が、その魅力なのでしょうか。
(今日は年に一度の公園での礼拝です。緑の芝生が目にまぶしいですね。)

1、安らぎと信頼の詩篇

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。(1節)

 出だしの一節が詩篇23篇の明度と彩度を決めました。
神は私の羊飼い、私は弱さを持つ羊。素晴らしい羊飼いについて行く人生に乏しさはない、と告白しています。安らぎと信頼が、この一節にあふれています。

 神を羊飼いと呼んだのは、ダビデが最初ではない。ヤコブが人生を振り返った時に「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」(創世記48:15)と述懐しています。ヤコブは羊飼いとして20年間働き、昼は暑さ夜は寒さに悩まされる過酷な仕事であると述べたほどです。(創世記31:38~40)ダビデも若いころ羊飼いの経験がありました。神というお方を一言で表現するなら、素晴らしい羊飼い、私の羊飼い、それ以外に適切な言葉がなかったのです。

  主は私を緑の牧場に伏させ、
  いこいの水のほとりに伴われます。(2節)

 パレスチナの気候と地理は、南カリフォルニアとそっくり同じです。緑の牧草地がどこまでも広がる場所など存在しないし、夏には雨が一度も降りません。過酷な環境でも、羊飼いが牧草地と水のある場所に導いてくれるので、羊は食べて飲んで安らぐことができるのです。

  主は私のたましいを生き返らせ、
  御名のために、私を義の道に導かれます。(3節)

 疲れ切った人、取り返しのつかない失敗をした人が多くいます。神は、そういう人の魂を生き返らせ、心をリフレッシュさせ、やり直しを促してくれる方です。

 人間は自分の欲望のために、悪の道を選ぶ弱さを持っています。それで、神は「義の道」を示し、導いてくれます。「羊」にとってベストの道が「義の道」なのです。正しい道は、困難で、遠回りで、恥ずかしい道である場合が多い。それでも、正義を選ぶのは、その道を進むことによって神の栄光が表れるからです。それが、「御名のため」です。

  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
  私はわざわいを恐れません。
  あなたが私とともにおられますから。
  あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(4節)

 緑の牧場に行くには、いくつもの谷を通る必要があります。猛獣が茂みや洞穴に隠れている危険な場所です。人生も同じです。試練や苦難のない人生などありません。神は、苦しみの中に共にいてくださる方です。それで、勇気が生まれます。

 余命わずかと悟った人にとり、23篇は大きな慰めになってきました。死ぬ瞬間も、神は共にいてくださるのです。ハレルヤ!

  私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
  私の頭に油をそそいでくださいます。
  私の杯は、あふれています。(5節)

 長い人生には、敵と戦わねばなら時があります。虚偽の証言で犯人にされたなら、あなたは戦うはずです。子供が学校でいじめられたなら、あなたは戦うはずです。神は、その戦いの前にあなたを支援すると表明し、実際にサポートしてくださる方です。
5節は、そういう神の支援姿勢を、賓客を向かえた祝宴として描いています。

  まことに、私のいのちの日の限り、
  いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
  私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(6節)

 神が羊飼いとして導いてくださるので、この世にいる間、神の愛と恵みは尽きません。あなたがどんな失敗をしても、人に嫌われる罪を犯したとしても、神はあなたを愛す、ゆるす、と誓ってくださいました。いつくしみと恵みがあなたを追いかけてくるというのは、そういう意味です。
こんなに素晴らしい祝福を受けた者は、いつもでも主と共にいたいと願うのは当然です。

 ここまで読んできて、なぜ23篇が多くの人に愛されるのか、あなたにも理解できたはずです。詩篇23篇には、安らぎ、信頼、満足、刷新、英断、勇気、希望、忍耐、成長、友情、励まし、愛、赦し、そして、死を乗り越える力と永遠に残る喜び、これらがすべて含まれています。だから、23篇が好きなのです。


 どのようにしたら、その祝福を受けられるのですか。
自分を羊として認識し、羊飼いである神に信頼してついて行くことです。


 最後に一つ、注目してください。詩篇23篇には過去形がありません。すべてが現在形と未来形です。あの時は良かったという回顧主義に陥らず、過去の大きな祝福のレフトーバーで食いつなぐのでもなく、すべてが現在形に収束する信仰、それが23篇を貫く姿勢です。

 今日、羊飼いである神と共に生きているので乏しくない。明日も、神と共に生きるので心配ない。恵みを過去形にせず、いつも現在形にしたい。あなたも、そう願いますか。ならば、今日も、良き羊飼いの声を聞き分けて、ついていきましょう。

  主は私の羊飼い。
  私は、乏しいことがありません。

詩篇22篇 わが神、わが神

 22篇は、苦悩の深い詩篇です。

1、 十字架上の言葉

 主イエスの祈りは通常、「父よ」で始まるが、「わが神」と呼びかけた場面が例外的にある。十字架の場面だ。マタイ27:46節を見てみよう。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 聖書学者は、詩篇22篇をメシア預言の詩篇と呼ぶ。人々があざける姿勢(22篇7節)神に救い出させよとの罵声(8節)、渇いた喉(15節)、着物をくじ引きにする様子(18節)、これらは、主イエスの十字架刑の場面で成就している。

 人間が経験する極限の苦悩を、主イエスが体験してくださった。わが神、わが神、と叫ぶ人よ。主イエスも、あなたと同じところを通られた。


2、捨てられた思い(1~21節)
    
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。
私のうめきのことばにも。(1節)

 22篇前半の苦悩は極めては深い。「わが神」との親しい呼びかけを見ると、どれほど神を愛し、神に信頼していたかが分かる。実際に経験している苦しみも耐え難いが、神がお答えにならない現実が辛さを二倍にしている。
 昼、夜、呼んでも答えはない。先祖イスラエルが救いを求めた時に応答して下さったが、私には答えがない。(4~5節)人々に中傷され、まるで自分が虫けらに見える。(6節)11~21節では、どれほどひどい扱いを受けているかを比喩的に描写している。

 神に捨てられた経験。神が遠くに去ってしまった経験。それは筆舌に尽くしがたい。しかし、あえて言いたい。神が遠くに行ってしまったと思える時こそ、神は近くにおられ。そんな時だからこそ、神から離れてはいけない。

しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。
母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(9~10節)

 自分が神を意識する遥か以前、あなたが母の胎にいたときから、神はあなたの神であった。神が見えないほどの試練の中でも、神はあなたの神であり続ける。


3、突然の讃美(22~31節)

 22節から後半部分は、唐突に、賛美の詩篇になる。圧倒的な、洪水のような、周囲の人々を引き込むような神への賛美が始まる。すべての人々が神のもとに来る希望にも言及している。(27節)

主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。
ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。(23節)

 苦難の中で、「わが神、わが神」と叫び続ける人は、魂の中で霊的な核分裂を経験することがある。周囲の誰も止めることができない、賛美が沸き起こることがある。
 賛美は、突然に起きる。問題に変化がなくても。暗闇がいっそう深まるときにも。

けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの賛美を住まいとしておられます。(3節)

 神は賛美を住まいとしておられる。3節がそれを示している。だから、神への賛美が始まると、私たちは神の一番そばにいることになる。

大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。(25節)

 否定的で、近視眼的で、信仰のうすい私たちから賛美は本来は出てこない。信仰年数が長い者でも乗り越えられない試練がある。本物の賛美は神を源泉としている。「私の賛美はあなたから出たものです。」苦難の中でも賛美そするなら、神を身近に覚えることができる。

 私は先週素晴らしいクリスチャン夫婦と語り合った。息子さんを突然失った後、奥さんは癌の手術を受け抗癌治療の最中でしたが、喜びにあふれていました。夜、ご主人がギターを弾いて賛美を始めると、皿を洗う手を休めて、奥さんも賛美に加わるといいます。苦難の中で神を賛美している人を目の当たりにして、深い感動を覚え、主をたたえました。二人の顔は輝いていました。まさに、賛美は力です。

→あなたの番です
□あなたが母の胎にいたときから、神はあなたの神でした
□苦難の中でも、主が共におられることに気づいてください
□苦しみの中でも、主を賛美しましょう