詩篇15篇 正しく歩む人 

 人は皆、正しく生きたいと願っています。でも、それは非常に困難です。どうしたら、正しく生きられのでしょう。


1、正しく歩むことの勧め     

 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(1節)

 1節の問いに対する答えが2節です。

 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。(2節)

 「正しく」という言葉は原文ではターミーム。口語訳では「直く」、新共同訳では「完全な道」、NIVでは「非難されるところがない」と訳されています。

 「正しく歩み」とは生活姿勢の正しさを指す言葉で、実際の行動も正しく、口から出る言葉も正しい。分かりやすく言えば、トータルな意味で正しいということでしょう。

 先週金曜夜に、エンジェルズ対マリナーズの試合を見てきました。松井は不調でしたが、イチローは走・攻・守に大活躍、取ったボールを観客に投げてファンサービスにまで心が行き届いていました。トータルな意味で、レベルの抜きん出た選手であることが分かります。

 神は、正しく歩むことを求めています。それも、トータルな意味で、生活の全領域で正しく生きることを願っています。


2、正しく歩むこととは何か

 人間としての尊厳を引き下げたいなら次の3つを行ってみてください。(そんな願いを持つ人はいないでしょうが)第1に、嘘をつくことです。第2に、悪いうわさを流すことです。第3に、あやまらないことです。こうすれば、あなたの品格は急落、軽蔑されるに違いありません。

 正しさとは何でしょう。具体的に説明しているのが3節から5節です。

 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、
隣人への非難を口にしない。(3節)
神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。
損になっても、立てた誓いは変えない。(4節)
金を貸しても利息を取らず、
罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
このように行なう人は、決してゆるがされない。(5節)


 否定的に言うなら、悪口を言わない、悪を行わない。それが正しさです。積極的に言えば、神の視点で物を見て、実際のビジネスや仕事の場面で誠実に行動し、自分が約束したなら損を出しても必ず守る。出エジプト記22:25やレビ記25:36の教えを守って、特に、貧しい人に金を貸すときは利子は取らない。裁判で賄賂を使って有利な証言を引き出したりしない。

 ジョエル・オースティン牧師の子供時代の話をテレビで聞きました。牧師であるお父さんと野球の試合を見に行った時のことです。神さまの御名を使ってやじを飛ばすファンが近くに二人いました。「私は牧師だが、そういう言い方は良くない」とお父さんは諭したそうです。その後、選手がホームランを打ち、その二人は「ハレルヤ!」と叫んだそうです。

 聖書の教えはとても実際的な教えです。信仰と生活を分ける二元論は間違っています。正しく歩むとは、生活ににじみ出る正しさのことです。



3、どうしたら正しく歩めるのか


 子供が何か悪いことをすると、「いーけないんだ、いけないんだ、先生に言ってやろう」と周囲の子供がはやしたてます。何が正しいか、人間は分かっています。人は正しく造られているので、悪いことをしたら良心が痛むのです。問題は、どうしたら正しく生きられるかです。

 人間の正しさには限界があり、偏りがあります。人間の正しさは詰まるところ、<自分の正しさ>です。
自分の正しさと他人の正しさがぶつかるのが喧嘩です。夫婦喧嘩はみな、正義と正義の対立なのです。あなたの正義は、胸を張って誇れる正義ですか。それとも、自我と同義語ですか。
パリサイ人でさえ、自分の正義を主張して主イエスに立ち向かいました。安息日に病人を直すのは正しいでしょうか、と迫りました。自分は正しいと思い込んでいたのです。

 正しく歩む秘訣は、神と共にいるということです。

 「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)

 ノアは神と共にいたので、正しくいられたのです。一人なら周囲に同調しがちですが、神と共にいるなら正しく生きる勇気がもらえます。
 ビジネスでも、神と共にいるなら、誠実に仕事ができます。悪い噂を聞いたなら、悪口で追い討ちをかけずに、その人のために祈ることができます。
 聖霊なる神は、私たちの義が間違いであることを指摘してくれます。

 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)

 正しさは、神を知っている人の心のゆとりなのかもしれません。

 あなたの番です。
  □今週、約束を守ろう
  □誠実な仕事をしよう
  □悪口でなく、とりなしの祈りをしよう

詩篇14篇  愚か者の心

 「愚か者」と呼ばれて、怒るか、納得するか。それは、あなた次第。そこで、あなたに尋ねる。あなたは、「神はいない」と考えるか、神は自分にとっての避け所なのか。


1、「神はいない」という価値観        

 1節から3節は、神なしの人生を痛烈に批判している。

「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、
悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(1~3節)

 この詩篇によると、「神はいない」と言うのなら、その人の本質は腐っており、その人の行動は忌まわしく、神はいないとの認識は愚かだという。

 フランス人、ルネ・デカルト(1591~1650)は近代哲学の祖と呼ばれた。すべてを疑い、悩んでいる自分の存在は疑えず、「我思う、ゆえに我あり」との結論に至った。次に哲学者デカルトが提示したポイントは、驚くなかれ、神の存在の確かさだった。

 日本という国は、アメリカから見ると特殊な国に見える。マスコミがこぞって、神を信じる人間はインテリジェンスに欠けるという宣伝をしている。

 人間にとって、「神はいない」ほうが好都合だ。いまさら、神がいると言われても、軌道修正は無理なので、神の存在は真剣に取り上げたくない。その気持ちは理解できる。

 日本人が苦しいときに、「天照大神」にすがったり、「仏さま」と呼ばず、「神さま」と呼びかける。なぜだろう。それは、人間の作った神ではなく、本物の神を求めているからだ。

 詩篇14篇は、詩篇53篇と瓜二つだ。詩篇が150篇ある中で同じ詩篇を取り上げる理由は、交響曲の旋律が繰りかえされるように、人が心すべき内容だから、と私は勝ってに推理した。パウロは、ローマ3章で14篇を引用し、人間の罪の姿を率直に描いている。



2、神は避け所という信念

「見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が、とりこになった御民を返されるとき、
ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」
(5~7節)

 詩篇14篇後半の主張は以下の通り。正しい者、悩む者、貧しい者と共に神はおられる。神を認める人は、神を避け所としている。そういう人は、真の喜びを見い出す。
 神を避け所とするとはどんな意味か。イザヤ25:4ではこう言っている。「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。」
 さらに思い巡らすなら、「避け所」という言葉には以下の意味が含まれるかもしれない。

 ①善悪の基準としての神
 神がいないなら人生の座標軸の原点はない。自分の都合で正義はいくらでも捻じ曲がる。神を認める心があるなら、自分の罪が分かり、何をすべきか分かる。罪を犯したときに神の前で悔い改めることもできる。神は、私たちにとって正義と聖さを教える避け所となる。

 ②帰る場所としての神
 人には帰る場所が必要だ。神は私たちを愛してやまない我らの父だ。神は心の実家だ。時として父との口論もあるかもしれないが、神に見守られている喜びに変わりはない。

 『ベートーヴェンの生涯』(ロマン・ロラン著)を読むと、偉大な作曲家の苦悩に出会う。耳が聞こえなくなり「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、一時は死をも覚悟するベートーヴェンだが、その遺書に「神よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる」との言葉がある。創造主を何度ものろったと書いた手紙もある。それでも後年の手記には、神が永遠、全能、全知であると記し、「おんみに一切の讃美と恭敬とが捧げられよ」とたたえている。

 ③守ってくださる神
 人は弱い。私もあなたも弱い。だから、人生では、緊急避難所が何度か必要になる。神に逃げ込もう。神は受け止めてくださる。守ってくださる。休ませてくださる。
 詩篇ではじめて「避け所」という言葉が登場するのが14篇だ。詩篇62篇7~8節には2回「避け所」が使われている。もうだめだ、という時は、神に飛び込もう。躊躇はいらない。神は両手を広げてあなたを受け止めてくれる。

 あなたの番です。
 □神を本気で求めよう
 □神を避け所としよう

詩篇13篇 いつまでですか 

 私たちの悩みはエンドレスなのか。

1、いつまで?        

 「主よ。いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(1節)

 ダビデは「いつまで」という言葉を4回も使っている。詩篇13篇のトーンはこの言葉が決めた。
「いつまでですか」と問うのは、どんな時だろう。それは、苦しみに耐えてきた時だ。これ以上は体力も気力は維持できないという限界状態で発する言葉がこれだ。

 1節から2節を見ると、孤独、思い悩み、悲哀、恥、不当な取り扱いに苦悩するダビデの姿が浮かび上がる。
 あなたも「いつまでですか」と神に訴えているところだろうか。

 神は人間が作った時計の奴隷ではない。これは、著名な説教者チャールズ・スウィンドルの言葉だ。私たちの時計と神の時計は進み方が異なる。



2、立ち向かう祈りへ       

 神への訴えはいつしか祈りに変わっていた。それが3節。これは光を求める祈りだ。目の輝きとは活力と理解することも可能だ。

 「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。
私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」(3節)

 あなたはいつも、やらされていると思っていないか。野球やフットボールでいえば、守備やディフェンスの姿勢だ。追われる、急がされる、せかされる。守りの姿勢では、「いつまでですか」と言うしか道はない。神がくださった人生だ。神が与えてくださる光によって、前向きに立ち向かおう。

 中国のジョージ・チェンは、福音を伝えただけで収容所に入れられた。人の排泄物に膝まで浸かって肥料を作る作業を言い渡された。彼は、18年間、それに耐えた。「悪臭で看守も近づかないので、一日中、祈ったり賛美できた。みじめに見えたが、実は幸せだった。」と語っている。

 人生の難題に真正面から取り組む勇気を与えるもの、それが信仰だ。




3、恵み(חֶסֶדヘセド)に拠り頼む 

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(5~6節)

 祈り始めることにより、ダビデの姿勢が劇的に変わった。ヘセドに信頼する人になった。
ヘセドとは、旧約聖書における中心概念の一つ。契約に基づく愛のこと。恵み、いつくしみなどと訳される。ヘセドは、裏切ることのない神の愛であり、恵みだ。神の恵みに賞味期限切れなど一切ない。

 突き詰めて言うと、私たちの悩みには終わりが来る。

 神の恵みには終わりはない。

 「いつまででですか」という訴えに対する神の回答はこの詩篇にない。その代わり、祈りによって、難問に立ち向かう姿勢が与えられたダビデが描かれ、また、自信を持って神の恵みに立っているダビデがいる。ダビデには今、歌がある。喜びがある。

 神の恵みという言葉を、「イエス・キリスト」と置き換えて読んでみよう。そのままピッタリと当てはまる。

さあ、あなたの番です。

 □ どんな時でも、神のタイムテーブルに信頼しよう。
 □ 「いつまでですか」と訴える姿勢から、
   立ち向かう力を求める祈りを身に着けよう。
 □ 神の恵みは決して変わることがない。

  →神は脱出の道を備えて下さる。第1コリント10:13

詩篇12篇 混じりけのない言葉

 私たちは、人間の言葉という海で漂流している。

 現代社会で生きることは、人間の言葉というオイルやヘドロに汚染された海で泳ぐようなもの。ダビデはその苦しさの中で神を呼び求めた。それが詩篇12篇。あなたも、人間の言葉で窒息しそうですか。


1、不純物だらけの人間の言葉

「主よ。お救いください。
聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。」
(1~2節)

 人間の言葉はつまるところ嘘とへつらいであり、その内面は二心で満ちている。不純物でいっぱいだ。周囲を見回すと信頼できる人がいない。アメリカ社会といっても表と裏が違う人はざらにいる。裏切る人はどこにでもいる。人間の言葉は信頼できない。ダビデも不純物だらけの人間の言葉に傷つけられた。
 
 嘘というのは、ヘブル語で空っぽという意味。「へつらいを」新共同訳は「なめらか」と訳している。二心は、原文では、心と心。

 嘘をつくときは目が泳いだり、口の周辺に手が行く。自分の姿を思い出してみよう。

 あなたも、ビジネスで誰かに裏切られたり、心変わりされたことがありますか。親戚、家族、知り合いに裏切られたことがありますか。ダビデは、誠実でない人々を処罰してくださいと訴えた。
 
 「主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
ことごとく断ち切ってくださいますように。」(3節)

 言葉で不誠実な人は、態度も傲慢だ。

 「彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」(4節)

 私たちの社会には、神とは別の価値観があって幅を利かせています。それで、嘘つき達が大手を振って歩いていられるのです。(8節)

 人間の言葉の中で漂流している我々は、二種類の言葉を本能的に求めている。
 一つは、ほっとできる言葉。もう一つは、正直な言葉。東京農工大の生協の名物店員白石さんの言葉は秀逸。味わい深い言葉で学生の質問に答えている。後者の代表例は、相田みつをの言葉だ。人間の弱さを正直に見つめて多くの共感を得ている。星野富弘さんの詩画も正直で、聖書的な希望が隠し味で入っている。
 ほっとできる言葉は、前向きな言葉と言い換えることもできる。正直な言葉は、キリスト教的に言えば、罪の悔い改めということも可能だ。人は、こういう言葉を求めて生きている。



2、混じりけのない神の言葉

 神の言葉は、三つの要素を持っている。

1)救う言葉(5節)

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」(5節)

 神の言葉は、ほっとできるし、正直で、感動を覚えるが、それだけではない。神の言葉は、私たちを実際に救うことができる。

2)真実の言葉(6節)

 ハワイみやげの定番といえばコナコーヒー。でもコナ原産のコーヒーが10%や20%程度でもコナコーヒーと呼ぶ。高いけど、買うなら100%のコナコーヒーがいい。

 「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)

 当時、銀は炉で溶かされ不純物を取り除いて処理された。7回という数字は完全数なので、100%純粋な銀という意味。神のことばは、純度100%。決して裏切らない。信頼に足る言葉だ。変わることがなく、変える必要がないほど完全。

3)支える言葉(7節)

 私たちが、ほっとする言葉や優しい言葉を求めるのは、前向きの言葉を求めている印といえる。神のことばは、私たちを励まし、支え、守る。

 「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」(7節)

 デンマークの哲学者キルケゴールは今から200年前に生まれた人だが、キリスト教的背景を持って人生を見つめた。彼によると、人間には3つの段階があるという。
   1)美的段階
   2)倫理的段階
   3)宗教的段階

 最初の段階で、人は欲望を追求するが、やがて行き詰まりを経験する。第二の段階では、道徳的な生活を志すが、やはり失望を見い出す。第三の段階は、死すべき自分の罪に気づき、自分自身を神にゆだねる。いわば信仰の飛躍が必要だという。

 私たちもダビデのように率直に祈ろう。「主よ。お救いください。」(1節)

 日曜の朝、行きつけのカフェでコーヒーを注文した人がいた。コーヒー代金は既に支払われていますと店員が告げた。店内を見てもそれらしい人物はいない。「さきほど、あるお客様が20人分のコーヒー代を払って行かれ、お客様は8人目に当たります。」と説明した。テーブルに着いた後、店内の見知らぬ人と目を会わせ、お互いに笑い合った。
 この話を知って、教会の姿に似ていると思った。命という代価を主イエスが先に払ってくださった。主イエスによる罪の救いを無代価で頂いた我々が今、教会で出会っている。目を合わせ、お互いに、感謝ですね、主イエスは素晴らしいですね、ともっと言い合ったらいい。

 あなたの番です→
  □否定的な言葉のプレイバックは止める
  □毎日、聖書を読む
  □示された聖書の言葉を握って、解決を信じる

 純粋な神の言葉に信頼して、困難な人生の荒海を乗り越えよう。

詩篇11篇 主に身を避ける 

 行き詰ったらどうするか。11篇はその答えです。

「主に私は身を避ける。」(1節)

 冒頭の一節がその詩篇の結論ということがしばしばありますが、11篇もそうです。主に身を避けるという言葉は、詩篇7、16、31、57、71篇にも使われています。これはきっぱりとした信仰告白です。この言葉が出てきた背景を考えてみましょう。


1、まずは逃げる

 ダビデは友人たちから1~3節のような忠告を受けました。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、
暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(1~3節)

 いつ殺されてもおかしくない状況だから、逃げたほうがいい。社会の道徳基盤が崩壊しているので、正しく生きようとしても何の役にも立たない。

 逃げる。切羽詰ったときに最も有効な手段は、逃げることです。自殺するより、自己破産したほうがいい。殺されるより、学校を辞めるほうがいい。あなたが行き詰ってしまったなら、逃げましょう。

 ダビデも実際のところ、サウル王に命を狙われた時や、息子アブシャロムのクーデターの時には、逃げました。
 多くの人は、問題から逃げるだけで終わっています。ダビデは逃げただけでなく、神に逃げ込みました。これが神に身を避けるということです。




2、みそなわす主 

 「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。
その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」(4節)

 口語訳聖書の4節には「みそなわす」という言葉が使われています。私が高校時代に通った教会に年配の男性がおられ、祈るとき必ずこの言葉が使ったことを懐かしく思い出します。みそなわすとは、<見る>の尊敬語です。神は見ておられます。
 
 ダビデの視点は、神に向けられていました。見ている方がおられる。たとえ、敵がいようとも、社会が堕落しようとも、神は見ていてくださる。逃げるとき、敵だけに注目してはいけません。復讐だけを考えてはいけません。逃げながら、神の視線を感じましょう。そこに、安らぎを見出しましょう。これも、神に身を避けることです。

 5~6節には、神が必ず正しい裁きを下してくださる事への信頼が語られています。これもまた、神に身を避けることです。

 ドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーはヒットラーの政策を批判したことで知られています。1939年、亡命のため渡米しましたが1ヶ月で帰国、6年後に銃殺されました。勇気ある人です。39歳で昇天。短い生涯でしたが、その生き方と文章が今も多くの人に感銘と勇気を与えています。彼も、主の視線を知っていた人に違いありません。



3、御顔を仰ぎ見る 

 私たち人間は、誰一人例外なく正義を求めていますが、自分の物差しに応じた正義に偏りやすいのです。ですから、混じりけの無い正義を持たれるただ一人の神を礼拝することが必須となります。祈りが、どうしても必要になります。

 「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイド(1865-1912)は27歳の時インドに向けて出発しました。現地での宣教に困難を覚え、病気に倒れ、やがて祈りの中に大きな慰めと力を感じるようになりました。長時間の祈り、徹夜の祈りで知られ、祈りの実として多くの人が救いに導かれました。
 ウィルバー・チャップマン博士は、この祈りの人ハイドと共に祈った経験がありました。扉を閉めた部屋でハイド師と彼は跪きました。5分間、ハイド師は何も言葉を発しませんでしたが、チャップマン師の目から涙があふれ出ました。今、神とともにいる、と気づいたと彼は述べています。

 主イエスは言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

 主に身を避けるとき、私たちは神の御顔を見るのです。その時、大きな慰めと力、安らぎがやってきます。

→あなたの番です
 □ 信頼できるクリスチャンに悩みを聞いてもらう
 □ 場合によっては、思い切って緊急避難をする
 □ 心を込めて主を礼拝する