新しく生まれ、命にあふれる  ヨハネ3:1~36



   プロポーズ、あの日に帰って断りたい、なんていう人がいるかもしれません。
多くの人の願いは、新しく生まれることです。それは可能なのでしょうか。はい。主イエスによって可能です。そして、新しく生まれたなら、そこにいのちが生まれます。
今日のテーマは、新しく生まれることと、いのちについてです。

1、新しく生まれることは可能

東大教授で国会議員の初老の男性が、夜、教会を訪れ、救いの道を教えてほしいと言ったとします。それが、ニコデモです。
主イエスは、ニコデモの真実な求めを一目で理解され、あなたにとって最も必要なことは新しく生まれることだ、と言われました。

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

 私は、教会に行き始めてしばらくたった頃、洗礼を受けたいと思いましたが勇気がなく、風呂で自分を水面に静めて、自分で洗礼のつもりになり、今日から新しい人になるぞと誓ったこともありました。もちろん、何の変化もありません。
個人の努力、知識や悟り、修行や決意などによって新しく生まれることはできません。それは、私も、あなたも経験済みです。自分の外側からの力により、自分の外側の人格との関わりだけがあなたを新しくできるのです。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。(5節)

 新しく生まれることは、まるで風で木の葉が動くようなもので、人が新しくなった時に聖霊の存在が分かると主イエスは言われました。(8節)

主イエスを信じると告白してバプテスマ(水)を受け、神である聖霊の力と交わりを受けることにより、人は新しく生まれると、主イエスは説明されました。

 日本人は洗礼、バプテスマについてかなり誤解しています。洗礼とは、立派なクリスチャンになった人が受ける卒業式だと誤解しています。信じますと今言ったばかりの人が受ける入学式が洗礼式なのです。使徒2章には、はじめてその日に福音を聞き、信じる決心をした大勢の人がその場で洗礼を受けた記事があります。ですから、主イエスを信じますと今日決めた人は、3月に洗礼を受けましょう。「それでもクリスチャンなの?」と悪口を言われたら、入学したばかりだよと言ってください。または、PBPGINFWMYというバッジを付けておいてください。Please Be Patient, God Is Not Finished With Me Yet. 少し辛抱して下さい、神はまだ私を完成されたわけではありませんという意味です。

 神学者たちは、新しく生まれるということを次のように定義しました。

 J・I・パッカー:聖霊の主権的活動による、堕落した人間の内面的再創造
 ポール・リトル:人格の変化だけでなく全く新しい生き方をもたらすこと
 ジョン・マーレー:根源的にして、全存在に及ぶ変化
 ルイス・ベルコフ:新しい命の原理を植え付け、心の支配的な傾向をきよくする神の行為

昔、神に逆らったイスラエルの民が蛇の毒で多くの人が死んだ時、モーセが青銅で蛇を作りさおの先に取り付けました。その青銅の蛇を信仰を持って見上げる人は蛇にかまれても命が救われたという出来事が民数記21:9に書いてあります。それと同じように、十字架の上につけられた主イエスを救い主と信じる人は、救われ、新しい命が与えられるのです。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14~15)

 ヨハネの福音書で最も有名な聖句は3:16節。In-N-Out Burgerの紙コップの裏に印刷されているJhon3:16はこの聖句のことで、ルターはこの節を「小さな聖書」と呼びました。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)

 神は、あなたをこよなく愛しています。あなたに命を与えるために、ご自分の一人子イエスを地上に送られ、十字架の上であなたの罪の身代わりに死ぬという道を作られました。

 今日、神の御子イエス・キリストを、あなたの救い主と信じませんか。私は、心を込めて、あなたにお勧めします。人生で最も大切な決断にあなたを招きます。今、主イエスを信じる祈りをしましょう。あなたは、神によって新しく生まれることができます。

 ニコデモは、主イエスを救い主として受け入れたようです。なぜそう言えるのかというと、7章では議会で主イエスを弁護し、19章では主イエスの埋葬の助けをしているからです。

 あなたの外からの力、主イエスの力によって、あなたも新しくなります。


2、新しく生まれた後の、新しい命

バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で罪の悔い改めを意味するバプテスマをずっと授けていました。主イエスを信じる人が起きるようにと道備えをしていたのです。彼は本当に謙虚です。群集は主イエスのほうに殺到し、バプテスマの弟子たちは少し寂しそうでした。

バプテスマのヨハネは、自分は結婚式に列席した花婿の友人のように嬉しいと述べ(29節)、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(30節)と語りました。この言葉は、私たちの人生に適応できる味わい深い言葉です。

 さて、子供が誕生することが新生です。生まれた人だけが持つものが、命です。ヨハネ3章には、いのちに関する言及が複数あります。

 「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(15節)
「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためである。」(16節)
 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(36節)

主イエスを信じると、その人の中で新しい命が始まります。鉄やプラスチックに、命はありません。命とは、命のあるものからしか生まれません。「この方にいのちがあった」(1:4)とあるように、主イエスはまことの命を持った方、永遠の命を持った方なのです。
命あるものは皆、育ち、成長し、躍動し、生き生きし、生きる喜びをもたらします。命は、自分の中での循環、自分の外との交わり、という二重の交わりがつながることによる、継続し、豊かになっていきます。主イエスの命は、信じることにより私たちの中で始まり、主イエスと共に歩くことにより、いのりは維持され、豊かになります。

柳瀬洋さんは、クリスチャンのクラリネット奏者で、私はとても尊敬しています。彼は芸大を卒業後、ドイツに留学し、有名な先生に付いて学びましたが、日本に帰れと叱られました。技術もある、音もいい、教えればその通りにできる、でも、あなたの音楽はないのか。
傷心の中で、彼は主イエスを救い主を信じました。主イエスを信じた喜びが強かったので、北ドイツの寒い冬の夜、自宅まで暗い道を30分飛ぶように帰り、同居していた8世帯のドアを全部たたき、「今日、クリスチャンになりました」と挨拶して回りました。
その後、演奏が楽しくなったそうです。日本に帰れと叱った鬼のような教授が、「あなたは何かをつかんだようだね」と彼の演奏を評価し応援してくれて、国際ブラームスコンテストでは最高賞を受けました。いのちが始まった印です。

いのちは人生に輝きを与えます。キリストからもらった命、輝いていますか。あの方が盛んになるとき、いのちは輝き出ます。主イエスを信じている人は、バプテスマのヨハネの心をあなたの心にして下さい。あなたの人生で、あなたの仕事で、あなたの結婚関係で、主イエスが盛んになるとき、あなたは命に溢れているのです。

自分の外側の力によって新しく生まれ、自分の外側の方と交わりを続ける中で命を持つ。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(30節)

→あなたの番です
     主イエスをあなたの救い主として、今日信じましょう。
     主イエスが盛んになるように、自分をゆだねましょう。
     素晴らしい救い主、主イエスを伝えましょう。



ヨハネ2:1~25  水がぶどう酒に



  主イエスは、神の子、救い主です。なぜそう言えるのでしょう。主イエスの言葉と行動を注意深く観察すれば納得できるはずです。主イエスのように語った人はいません。主イエスと同じことができた人は歴史上誰もいません。
 今日は、ヨハネの福音書2章を通して、主イエスが水をぶどう酒に変えた出来事と、エルサレムの神殿を掃除された様子を見ながら、主イエスがどんな方かを発見しましょう。


1、水をぶどう酒に変える

 主イエスの母マリヤと関係が深い人の子供が結婚したのでしょう。それで、ガリラヤのカナで開かれた婚礼に、主イエスも弟子たちも招かれていました。宴もたけなわという時にぶどう酒が底をつきました。結婚式の主催者がマリヤに助けを求めたのでしょう。それで、マリヤはイエスのところに行きました。

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(3~5節)

「女の方」という言葉が冷たいと感じる人がいるでしょう。ヨハネ19:26では、十字架の上の主イエスが弟子のヨハネに母の世話を任せる箇所がありますが、同じく「女の方」と呼びかけています。皇帝アウグストがクレオパトラに出した手紙にも同じ用語が使われていたことから女性への敬称といっても良いでしょう。主イエスはご自分の時計で動いておられるのです。

「ぶどう酒がありません」これは、事実、困惑、助け、の3つが込められた言葉です。主イエスは、マリヤの要請を無視したように見えますが、マリヤが主イエスの指示を待機するようにと手伝いの人に言っているところから、あうんの呼吸で、主イエスが助けてくれる時が必ず来ると信頼したというべきです。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(7~10節)

あなたが参加者の一人だったら、こう感じたでしょ。なんだい。もうぶどう酒のおかわりがないのかい。お祝いの席なのにしょぼくれてるね。俺たちに来て欲しくなかったのかい。なに、おかわりあったの。早く言ってよ。すごい、最高級品のぶどう酒だ。えっ、何だって、水がめから汲んだものだって。主イエスが水をぶどう酒にしたというのかい。いっぺんに酔いがさめたよ。すごいね。結婚式の最高のお祝いだね。
これが、7つのしるしのうちで最初のものです。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(11節)神の栄光がこうしてあらわされました。

あなたの人生で、困ったことが起きていますか。それがあなたのぶどう酒です。助けを主イエスに求めましょう。解決できそうにないと思っていますか。主イエスは、神です、まことの救い主です。ですから、水の成分すらぶどう酒に変える力を持っています。ヨハネ1章で語られたように、主イエスは神です。ですから、水を最高級のぶどう酒に変えることができるのです。
主イエスを信じて、まず、水がめに水を満たすアクションを起こし、主のみわざを待ちましょう。主イエスは、最高のタイミングであなたを助けを与えてくださいます。
主イエスは、問題を解決して下さいます。あなたという普通の水を、ふくよかな香りのぶどう酒に作りかえることができるのです。



2、神殿から商売人を追い出す

 主イエスは過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに上り、神殿の様子をご覧になりました。

そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(14~16節)

 主イエスは、柔和で、愛にあふれた方というイメージがあります。でもそれは、誰かが作ったイメージに過ぎません。主イエスは、間違ったことには毅然と対処される方です。
この時どんな音がしていますか。想像力をたくましくして下さい。ビシッ、メー、モー、ジャラジャラ、バタン。「何をするんだ」「やめろ」という叫び声。
注意深く見ると、主イエスは、ハトを逃がすことはしていません。つまり、損害は与えずに、しかも、商売人をそこから出すことに成功しているのです。大胆かつ、繊細です。
 神殿の一角を占拠していた商売人たちは、主イエスに反論できませんでした。また、当時の警察権力も主イエスを逮捕しませんでした。なぜですか。主の言われたことが正しいからです。

 主イエスは神殿を「わたしの父の家」と言っています。主イエスが神の子なので、父の家を掃除するのは当然なことです。

 お前はいったい誰だ、証拠を示せと迫る人々に、主イエスはこう言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(19節)
 弟子たちは、この言葉の意味はすぐに悟れませんでした。主イエスの復活後、なるほど、この言葉はご自分の体を神殿にたとえて復活の予告をされたのだと理解したのです。

 人は二種類の人しかいません。勇気を持って行動する人と、勇気を隠している人です。誰もが正義感があり、誰でも何が正しいかが分かっています。でも、怖いのです。
主イエスは、陰で批判する人ではありません。また、心で願うだけで黙っている人ではありません。

あなたも、勇気を出す時です。主イエスは、あなたを励まし、勇気を出せとおっしゃっています。

 さて、神は、どの分野で正義を表わしたいと願っているのでしょうか。政治、経済、文化、地域社会、ビジネス、家庭、自分自身。



 今日、心に残したい言葉。
「水がめに水を満たしなさい。」(7節)
「さあ、今くみなさい。」(8節)
「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16節)

主イエスの言葉と行動を見て、主イエスがどんな方か分かりましたか。その分かったことを土台にして、主イエスを信じましょう。そして、主イエスについて行きましょう。

→あなたの番です
   □あなたの「ぶどう酒」とは何ですか。
   □神は、どこを掃除したいと思っておられますか。
   □神の助けを信じ、勇気を出して、一歩を踏み出しましょう。



ヨハネ1:1~51 神の子羊



ヨハネの福音書はユニークです。

マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、基本的には同じ構造と同じ出来事を土台にしていますが、ヨハネはまったく異なる視点で主イエスの生涯を描きました。クリスマスの物語りを語らず、山上の説教にも言及せず、たとえ話もありません。 このユニークさは、ヨハネの目的に由来しています。次のみことばに本書の執筆理由が書かれています。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

主イエスを信じてほしい。主イエスを信じて、本当の命を得てほしい。主イエスが信じるに値する救い主であることを、7つの奇跡に焦点を絞ってヨハネは福音書を書きました。
全体の序章となるヨハネの福音書1章を見ていきましょう。


1、主イエスは誰か(1~18節)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14節)

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(18節)

 主イエスは100パーセント神です。そして、主イエスは完全な人になられました。主イエスの語られたこと、主イエスのなさったこと、主イエスの存在そのものが、神から人への「ことば」となり、神を解き明かすのです。

2、バプテスマのヨハネの証言(19~28節)

 バプテスマのヨハネは、主イエスが、「世の罪を取り除く神の子羊」(29節)であり、「この方が神の子であると証言」(34節)しました。

バプテスマのヨハネは、悔い改めを述べ伝えて人々にバプテスマを授け、王の罪を厳しく糾弾して死刑になった勇気ある預言者です。
主イエスの昇天後、ある地域ではバプテスマのヨハネの人気が高まりました。その行き過ぎを懸念したヨハネは、主イエスだけが救い主であり、バプテスマのヨハネは救い主ではなく、主イエスの道を整える「荒野で叫んでいる者の声」(23節)であることを強調しました。


3、主イエスと出会う時(35~50節)

 後に主イエスの12弟子となる3人が登場します。アンデレ(35~40節)、アンデレの兄弟シモン(41~42節)、ナタナエル(43~51節)。

イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。(38~39節)

アンデレは、心ひそかに強く求めていることがありました。道を知りたい。真理をつかみたい。本物が欲しい。主イエスと出会うことにより、アンデレの求めは満たされました。それは、興奮気味にアンデレがシモンに主イエスを紹介していることから分かります。

 あなたは、何を求めていますか。主イエスは、あなたの求めに応えて下さる方です。

 次に、シモンが主イエスに出会った場面も、印象的です。

彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(42節)

 主イエスは、漁師としての外見ではなく、シモンの未来の姿に注目していました。今は不安定で弱い人間だが、将来かならず揺り動かない「岩」(ペテロ)になると言われたのです。
 多くの人は、自分の姿にがっかりしていて、自分が変化するとは考えにくいのです。主はあなたの未来を肯定的に見る方です。あなたが変貌することを信じて、励ましてくれる方です。

 3人目はナタナエルです。彼は聖書に精通した真面目な人で、ある種、悲観的な雰囲気を持つ人でした。主イエスは、彼の本質を初対面で見抜きました。

イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(47~48節)

どうして私をご存じなのですか、とナタナエルは驚きました。ナタナエルは、自分を真に理解してくれる人い出会って、感嘆の声を上げました。
主イエスは、本当のあなたを理解し、分かって下さる方なのです。あなたの誇りも、あなたのこだわりも、あなたの努力も、熱意も、情熱も、ご存じです。
 
 さあ、ヨハネの福音書を通して、主イエスをもっと知っていきましょう。どうしたら主イエスをもっと深く理解できるでしょうか。それは、主イエスのところに、私たちが行くことです。行けば、分かるのです。主は、そう招かれました。

 「来なさい。そうすればわかります。」(39節)
 「わたしに従って来なさい。」(43節)
 「来て、そして、見なさい。」(46節)

 主イエスは、あなたの本質を理解し、あなたの求めを満たし、あなたの可能性を応援して下さる方なのです。主イエスのもとに行きましょう。

→あなたの番です
 □主イエスに会いに行きましょう。
 □主イエスの声に耳を澄ませませよう。
 □主イエスについて行きましょう。

第2列王記7:2~15 良い知らせの日


 北王国イスラエルの首都サマリヤは、アラムの軍隊により包囲されて食料は底をつき、鳩のふんまでも売られる有様でした。年代で言えば、紀元前840年ごろの事でしょう。
 悪い知らせばかりで気がふさぐ時、実は、良い知らせがあったのです。


1、どうせ死ぬんだ

 ツァラアトに冒された人たち4人が主人公です。重い皮膚病のため隔離生活をしていた彼らは、往来の多い町の門で物乞いをしていましたが、何の成果もありませんでした。

たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。(第2列王記7:4)

 どうせ死ぬのだ。居直りは強いものです。サマリヤの町の門で死ぬ事も、敵軍のアラムの陣地で死ぬのも同じだ。一か八か、アラムの陣営で食料を恵んでもらおう。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」(マタイ10:28)と主イエスは言われましたが、居直りの上を行く究極の確信です。

こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。(5節)

 天幕に入ると豪華な食事が残されていたので、彼らは腹いっぱい食べて飲みました。あたりを見渡すと宝物の山でした。それで宝を抱えて自宅に隠し、それを何度か繰り返しました。

 笑いがこみ上げてしょうがなかったでしょう。


2、これでいいのか

漫画の天才バカボンでは、「これでいいのだ」という決めぜりふがありました。でも、重い皮膚病の4人は、これではいけないと思ったのです。
笑いが込み上げた後、後ろめたさが襲ってきました。これでいいんだろうか。俺たちだけ、こんなに幸せでいいんだろうか。サマリヤの町には飢えて死にそうな人がたくさんいる。

彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(9節)

 自分だけの幸せ。自分だけの安心。自分だけの宝。それでは、いかん、と気づくことが大事です。良い知らせは、自分だけで隠し持つべきものではないのです。


3、門衛に呼びかける

彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて言った。「私たちがアラムの陣営にはいってみると、もう、そこにはだれもおらず、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」(10節)

彼らの報告を聞き、王はアラム軍のしかけた罠だとにらんで偵察隊を送りましたが、確かにヨルダン川を越えて自国に逃げたことを確認しました。アラム軍は、エジプトの軍隊が大挙してイスラエル王国を救助に来たと勘違いしたのです。(6節)

今日、まるで敵軍に包囲されて出口がないような人がいるかもしれません。神は、一瞬で包囲を解かれる方です。主を信頼して、神のときを待ちましょう。

 ところで、ツァラアトの人たちが門番に伝えたのは、真夜中でした。朝まで、待ってもよい時間帯です。なぜ、深夜に伝えに行ったのでしょう。
今、まさに、飢え死にする人がいる。そう気づいたのかもしれません。一刻も早く、良い知らせを伝えるべきだと思ったのでしょう。ツァラアトの人達は、行動を起こしました。アクションしました。サマリヤの町の門に戻り、門衛に叫び、状況を伝えました。

もうアラムの大軍はいない。みんな逃げ帰った。食べ物が大量に残っている。誰も飢え死にする必要はない。みんな、助かるんだ。救われるんだ。


9節の言葉を、今年、心に留めたいと思います。

私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。(9節)
「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って、朝日が昇るまで待っているなら罰を受けるだろう」(新共同訳)This is a day of good news and we are keeping it to ourselves.(NIV)

あなたは、どんな方法で福音を伝えられますか。

良い知らせを伝えるためのアイデア
     福音を伝えたい人のリストを作り、祈る
     福音を伝えるための名詞を作る
     礼拝に誘い、車で迎えに行く
     知らない日本人に声をかけて友達になる
     一緒に食事をする
     家に呼ぶ
     あなたの作った音楽、絵、文章でみことばを伝える
     人の話をとことん聞く
     苦しみの中にいる人を具体的に支える
     英語で困っている人を助ける
     良い本、ビデオ、CD、サイトをメールで教える

 私は高校3年の時に友達の関根君に誘われて教会に行き、クリスチャンになりました。彼なくして、今の自分はありません。私は何度も彼の誘いを断りましたが、何度も私に声をかけてくれた愛と祈りを心から感謝しています。
 クリスチャンになった後、彼は私にクリスチャンの生き方を見せてくれました。行動で手本を示してくれました。だから、高校に聖書を小脇に抱えて通うようになり、学校で伝道するようになりました。

 イエスさまを伝えるのが苦手な人への助言があります。一人でやらないことです。誰か、信仰の先輩に当たる人と行動を共にして、真似をしてみることです。二人ならできるものです。私も小心者でしたが、関根君の励ましと模範でどれだけ助けられたか分かりません。

 パウロはコリントで伝道していた時、主イエスの励ましを受けました。黙るなと。

 「黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない、この町にはわたしの民がたくさんいる。」(使徒18:9~10)

 私たちの生きている目的の一つは、福音を伝えることです。今年、福音を伝える年にしませんか。あなたの賜物を生かす、伝え方がありませんか。あなたらしい伝え方がありませんか。あるはずです。アクションしましょう。

→あなたの番です。
□今日は、良い知らせの日です
□ためらわず、福音を伝えましょう
□誰かと一緒に伝道しよう