ピレモンへの手紙8~19節 送り出す教会 ―派遣するー


 送り出す教会シリーズ(2015)、3回目は「派遣する」です。
 私もあなたも、神から遣わされた存在であり、また、誰かを送り出す者です。


1、「遣わす」という言葉

遣わす。これは、聖書が語る大切な概念の一つです。なぜなら、旧約聖書の初めから新約聖書まで多くの箇所で使われている言葉だからです。
 遣わすとは、何かの目的を成し遂げるために、それにふさわしい人物を選び、特定の場所に送り出すことです。

 旧約聖書に目を留めましょう。ヨセフは、親族を食料危機から救うため、あらかじめエジプトに遣わされました。「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)モーセは、イスラエル民族をエジプトから救い出すため遣わされました。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3:10)ダビデの罪を指摘するために預言者ナタンが呼び出されました。「主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。」(第2サムエル12:1)預言者を必要とした時に神は「誰を遣わそう」と語りかけ、イザヤが「ここに、わたしがおります。」と応答しました。(イザヤ6:8)

 新約聖書を見てみましょう。バプテスマのヨハネは神から遣わされた預言者でした。「神から遣わされたヨハネという人が現れた。」(ヨハネ1:6)主イエスは父から遣わされました。「父がわたしを遣わし」(ヨハネ6:57)主イエスは弟子を派遣されました。「わたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)パウロも主イエスに遣わされました。「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。」(使徒22:21)

 これらの聖書箇所ですべて、「遣わす」という言葉が使われていました。聖書の神は、遣わす神です。主イエスは、遣わされた方であり、遣わす方です。

 私たちのオレンジコースト教会はアメリカにある日本人教会として特別な使命を主からもらっています。アメリカに来た日本人に主イエスを紹介し、その信仰を育てて日本に送り返す使命です。
 
 それと同時に、私たち個人も、主からの使命をもらっています。神は、あなたを、何かの目的のために、ある場所に遣わします。その目的とは何ですか。遣わされた場所とはどこですか。

あなたは神の派遣員です。神はあなたに大切な使命を託しておられます。




2、オネシモを派遣したパウロ

 本日の聖書箇所を読んでみましょう。ピレモンへの手紙は、パウロがオネシモを以前の主人のもとに遣わした時の手紙でした。

獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。(ピレモンへの手紙10~12節)

 オネシモはピレモンの家の奴隷でしたが逃亡し、ローマの獄中にいたパウロのもとに流れ着きました。そこで、オネシモは主イエスへの信仰告白に導かれ、パウロから信仰を学び、訓練を受け、成長しました。
パウロは、オネシモの将来を考え、主人ピレモンの家に戻ることが最も正しい道だと判断し、送り返しました。パウロに依頼されたテキコは、コロサイにあったピレモンの家までオネシモを連れ(コロサイ4:7~9)、パウロの手紙(ピレモンへの手紙)を渡しました。

 オネシモという名前は「有益な」という意味ですが、逃亡奴隷になって無益な存在になりました。でも、今は「役に立つ者」(11節)、「私の心そのもの」(12節)になったとパウロは太鼓判を押しました。この手紙はいわばオネシモの推薦状なのです。

 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。(18~19節)

 オネシモが逃亡する際、主人から盗んだり金銭的被害を与えた可能性を考慮し、パウロ自身が損害賠償をすると手書きで署名までしています。パウロは、「さようなら」で終わりにせず、アフターケアにまで心を使っています。

 パウロのしたことは、送り出す教会のあるべき姿を体言しています。オネシモを救いに導き、信仰者として育て、最新の注意を払って本来いるべき場所に遣わしたからです。




3、実際に何をしたら良いのか

 何かの目的を成し遂げるために、それにふさわしい人物を、特定の場所に送り出すことが「遣わす」ことだと最初の述べました。

 アメリカで救われた人が日本で神の栄光を輝かせる人になってほしい。そう願って、育て、送り出します。新島襄、新渡戸稲造、内村鑑三、津田梅子のように、アメリカで信仰告白したり、信仰が強められた人々が日本に戻って大きな影響を残した歴史がありました。日本に遣わされたヘボンやクラーク博士なども日本人に深い印象を与えました。

 1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリー。仕事を終えた42歳の黒人女性がバスに乗っていました。エンパイア・シアターのバス亭で乗り込んで来た白人が、席を譲るように言いましたが、その黒人女性、ローザ・パークスは立ち上がりませんでした。それが理由で彼女は逮捕、拘留されました。黒人社会は、この事件をきっかけにバス乗車ボイコット運動を12月5日から開始しました。その運動の責任者として選ばれたのは、26歳という若さの牧師でした。マーティン・ルーサー・キング牧師です。困難を極めたプロテスト運動は11か月後に報われ、バスの座席分離自体が違法と認定され、勝利を得たのです。
 26歳の青年を指導者として選んだことには理由があったのでしょう。キング牧師は、その運動に「遣わされた」という感覚があったのだと思います。この後、キング牧師は命を削って運動の先頭に立ち、13年後に暗殺されました。キング牧師にしかできない使命を立派に果たしました。

 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。(エレミヤ1:6~7)

 預言者エレミヤは、神から使命を頂いても、自分は若くて未熟だという理由で拒絶しました。でも主は、若くても行って語れと命じました。主の目から見るなら、若いから選ばれたのですし、若さが必要だったのです。若いからこそ、長く主に仕えることができるのです。

 さあ、私たちも、自分自身が遣わされた場所で使命を果たしつつ、誰かを育てて遣わす者となりましょう。具体的には帰国する人がいたら以下のようなことをしてサポートしましょう。

 ・帰国前に、帰国準備の学びを共にして、帰国者を励ます。
 ・帰国後の出席予定教会を探し、現地でサポートしてくれる人とコンタクトを取る。
 ・帰国後も、連絡を取る。

 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)


 →あなたの番です
 □あなたは、何の目的で、どこに、遣わされていますか。
 □あなたは、誰を、どこに、送り出しますか。
 □送り出す人となるために、何をしたら良いですか。



使徒16:1~3 送り出す教会 ―育てるー



  送り出す教会シリーズ2015、2回目は「育てる」です。

 クリスチャンは何のために存在していますか。
 それは、誰かを育てるためです。

 もちろん、クリスチャンがこの世に存在する目的は他にもありますが、今日は上記のテーマに沿って考えましょう。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と主イエスは命じました。あらゆる国に伝えなさいで終わっていません。弟子を作りなさい、つまり、誰かを育てなさいと命じているのです。主イエスが十二弟子にフォーカスしたことを考えるならば、弟子を育てることがどんなに大事か分かります。



1、テモテを育てたパウロ

それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。(使徒16:1~3)

紀元50年前後のことです。パウロは第2回伝道旅行に出かけ、現在のトルコ南部に位置する、ルステラという町に滞在しました。この町は、ローマ帝国による殖民都市のひとつと言われているので、少数のローマ市民(おそらく退役軍人)と教養のあるギリシア人が指導的立場を取り、ルカオニヤ語しか話せない一般庶民が多数を占めていたと思われます。

テモテは、父親からギリシア語と一般教養を学んでいたことでしょう。また、ユダヤ人の母ユニケから旧約聖書を学び、信じる心を教えられていました。(第2テモテ1:5、3:15)
パウロが第1回伝道旅行でユダヤ人に殺されかけたルステラに住んでいたテモテは、「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人」(使徒16:2)となっていました。テモテの熱心な信仰姿勢が、こうした背景からも想像できます。

実は、第2回伝道旅行に出発する前、パウロは苦い経験をしています。(使徒15:36~41)第1回伝道旅行の途中で逃げ帰ったマルコを連れて行くことをパウロは反対し、恩人・メンター・盟友であるバルナバと喧嘩別れをしてしまったのです。この時のパウロは、マルコを育てる発想を持ち合わせていませんでした。

バルナバという偉大なメンターを失って、パウロは大きな喪失感を覚えたことでしょう。アンテオケ教会で1年間、伝道旅行で1年間、パウロはバルナバから多くを学びました。そんな頃なのです。パウロがテモテの存在に気づいたのは。
余談となりまずが、この後、彼らはピリピに立ち寄りますが、そこでパウロとシラスは投獄されますが、テモテは除外されました。客観的に見ても、テモテはまだ若造だったのです。

この後、パウロは自分が死ぬまでの約14年間、テモテを育て続けました。マルコを許せなかったパウロでしたが、第2テモテの手紙では、弱さや臆病心に負けたテモテ(第2テモテ1:6~8)を切り捨てずに励ましています。テモテは、OJTオン・ザ・ジョブトレーニング)の形でパウロから多くを習得していきました。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)



2、私が誰かを育てる

P&Gは、世界的に有名な企業で、フォーチュン誌の調査によると社員の能力が世界1位と認められたことがあります。マネージャークラスの評価は、仕事や利益面で50%、部下を育てた功績が50%の査定を受けるといいます。本気で人材教育に力を入れているのですね。

あなたは、今、誰を育てていますか。誰を育てようと思いますか。
何を教えますか。どのように育てますか。

信仰告白したクリスチャンを育てる時の大事なポイントが二つあります。
①信仰の確信を持つこと(救いを頭と心できちんと理解する)
  ②信仰生活の基本を身に着ける(新しい行動スタイルを体得する)

 どのように育てるのでしょう。育てるために必須条件は次の3つです。
  ①顔を合わせて定期的に会う
  ②聖書を共に学ぶ
  ③何かを共に行う

 その人と会い、聖書を学び、語り合い、祈り合い、何かを共にします。それを定期的に続けると、人は育ちます。あなたが先輩のクリスチャンなら、あなたが育てる人に何が足りないのかが分かります。ディボーションを毎日できる人に育てましょう。優先順位を判断できるように励ましてあげましょう。
 あなたが体得したすべてを伝えれば良いのです。あなたが育てた人が、次の人を育てることができるように育てるのです。

 私は高校3年の7月に信仰告白し、翌年の4月、大学生になるとすぐ、教会の高校生クラスのスタッフになり、教える立場になりました。それが私にとって、本当に良かったのです。教えることにより、自分が最も学びました。ディボーションや生活態度や普段の意識もおのずと変化しました。

 教育学の世界で、Three Person Teachingという考え方があります。何かを聞いて、ふーんと終わるならすぐに忘れます。教える人、聞いた人、聞いた人から教わった人という3 Personが成立する流れを作ることが、最も効果的な学習方法になります。自分をその流れの真ん中の位置に置き、聞いた事を次に伝える姿勢を持つと吸収力がぜんぜん違います。教える人が一番学ぶのです。育てる人は苦労と涙と葛藤を経験しますが、育てた人だけにしか見えない景色を見ることになります。

 「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(第2テモテ2:2)

 この聖句ではなんと4 Personが意識されています。パウロ→テモテ→教える力のある忠実な人→その人から学ぶ人。

 さあ、あなたが育てる人になりましょう。
・親なら子供に教えましょう。
・あなたがメンターになって人を育てましょう。
・日曜学校の先生になりましょう。
・中学生や高校生を教えましょう。
・同じ年齢の主婦を集めてスモールグループを作りましょう。
・教会のミニストリーを立ち上げ、仲間を集めましょう。
・家庭集会を始めましょう。
・学生伝道のために家庭を開放しましょう。
・帰国する人のために学習会をしましょう。
・自分自身が教会のバイブルスタディーや祈祷会や男性集会に参加しましょう。
・自分自身がメンターから学びましょう。

 学生時代、教室で学んだことは、ほとんど忘れています。でも、あなたの身近にいた先輩から学んだことは忘れないものです。親身になって先輩が教えてくれたこと、見せてくれた後姿、あなたのために飛んで来てくれたこと、涙を流して一緒に祈ってくれたこと、主に対する熱い思い、これらの事があなたを育ててくれたはずです。信仰の先輩たちは、彼らの時間や思いや命さえ削ってあなたを育ててくれたはずです。今度は、私たちの番です。育てる人になりましょう。

「パウロは、このテモテを連れて行きたかった」(使徒16:3)

→あなたの番です。
□あなたが育てるテモテは誰ですか。
□教える人が最も多く学びます。
□そのために、祈って第一歩を踏み出しましょう。
 

ルカ5:27~32 送り出す教会 -迎えるー

 これから「送り出す教会」というテーマで3回のメッセージをお届けします。今日は、その第1回で、迎えるということを考えましょう。

1、主イエスは目を留めた

 小学校の4年生ごろだったと記憶していますが、私は同じクラスのますみちゃんに「教会学校に行かない」と誘われました。髪が長くて、頭が良くて、明るい性格で、ピアノが弾けて、きれいな彼女に誘われてノーと言うはずがありません。喜んで教会に行きました。
 当時の私は、ハンサムで、成績優秀、優しい男性生徒だったので(笑)、私を選んでくれたのだと思います。(思い込みが強いです)

 主イエスが取税人のレビに声をかけて誘った事は驚くべきことでした。

この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。(ルカ5:27~28)

ローマ帝国では、国が税金を集めずに、徴税請負人(プブリカニ)に委託するシステムが全土で行われていました。ユダヤでもそうです。徴税請負人は、いわば民間企業ですから、十分の一税や様々な税金に自分たちの儲けを上乗せして集めました。税金が支払えない場合は徴税請負人が肩代わりし、後に利息を乗せて請求し、払えない一般人は奴隷として売られました。主イエスは、こんな「取税人」を十二弟子の一員にしたのです。

 徴税請負人は、冷酷で情け知らず、卑劣な人間のくず、自分の繁栄しか考えない金の亡者と思われていたことでしょう。ところが、主イエスは、そんな取税人のレビに声をかけました。

主イエスの3つのアクションに注意して下さい。出て行く、目を留める、話しかける。それが主イエスのされたことです。レビが主イエスに興味を持ったのではありません。主イエスがレビに目を留めました。自分の安全地帯から離れて、出ていくことが愛です。自分から目を留めることが愛です。自分から声をかける事が愛です。

神について何も分からず、思い込みが強く、迷信や流行や思想の影響下にあり、罪意識のひとかけらもない取税人のレビでした。でも、そのレビに、主イエスが声をかけたのです。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主イエスが選ばれたのです。主イエスが、取税人の私に目を留めて下さったのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)


2、レビがパーティーを開いた

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:29~32)

 主イエスが罪人を招く目的は、「罪人を招いて、悔い改めさせるため」(32節)でした。レビも、罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じたので弟子となりました。

 29節の「レビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをした」という記述をに注目して下さい。
 主イエスさまに声をかけてもらって、目が開いて、イエスさまについていくことになり。それがあまりに嬉しくて、感謝があふれて、イエスさまにごちそうしたくなったのです。レビの開催した豪華な自宅パーティーの目的は、主イエスのためだったのです。

伝道とか、あかしとか、誰かを迎える事は、主イエスへの感謝が原動力になってはじめてできることなのです。

 このレビとは、十二弟子のマタイと同一人物です。興味深いことなのですが、十二弟子の名前のリストが福音書に3ヶ所がありますが、マタイの福音書だけが「取税人マタイ」(マタイ10:3)となっています。マルコもルカも遠慮してマタイの過去に沈黙していますが、マタイは自分が主イエスから受けた特別の哀れみを忘れないため取税人としての過去をあえて書き記したのでしょう。
 あなたが自分の名前をノートに書くなら、何と書きますか。「取税人マタイ」の取税人の箇所にどんな言葉が入りますか。私なら、「ろくでなしの平湯晴彦」「最低の男、平湯晴彦」と書くことができます。でも、そんな私を愛し、救い、新しい命を与え、生きる希望を下さった主イエスにお礼がしたいです。主イエスにお礼のご馳走をしたいです。



3、私たちのパーティー

 私たちも主イエスと同じようにしてみましょう。身近な誰かのところに出て行きましょう。目を留めましょう。言葉をかけましょう。
 レビと同じようにすることもできます。誰かを招いて、一緒に食事をしましょう。相手の悩みを親身に聞き、心を通わせ、自分を救ってくれた主イエスを紹介しましょう。

 誰に目を留めたら良いのでしょう。2つのタイプの人とは自然に語り合えます。
 ①あなたに似ている人。②あなたが具体的に助けて応援できる後輩。

あなたに似た人とは、年齢が近い、境遇が同じ人です。男性なら男性に、女性なら女性を招きましょう。異性への伝道は止めましょう。混乱と誘惑を作るだけですから。レビは、自分に似ている人、つまり、同業者の取税人や世間から後ろ指を指される罪人を招きました。

 あなたが何かを先に経験しているなら、これからそれを経験する人を具体的に助けたり支援したりできますね。あなたが、アメリカで結婚した人、アメリカで出産した人、アメリカで子供を学校に入れた人なら、最近カリフォルニアに来た親子を助けられます。アルツハイマーの家族をケアしている人、問題のある子を抱えている人、夫婦問題で苦労した人、そういう人は先輩として後輩を励ますことができます。

 さあ、あなたの番です。聖書の言葉を聞いたら、行動してみましょう。祈りのノートに、イエスさまを信じてほしい人の名前を書き入れ、祈り、思い切って食事に誘いましょう。
 あなたがレビになる時です。

 →あなたの番です
 □私も「取税人マタイ」です
 □私を救ってくれてありがとう、と主イエスに心から感謝する
 □似ている人や後輩を食事に招いてみましょう


イザヤ43:18~21 新しい事


 新車。新婚。新大陸。新学期。新人。新生児。新年。
 不思議ですね、新しいという言葉が付くだけで新鮮になります。
 どうしたら新しくなれるのかを、考えてみましょう。

1、新しい事をする神

 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。」(イザヤ43:16~17)

 かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷生活を余儀なくされました。逃げようとしても、紅海が道をはばみました。ところが、神は今まで考えつかないような新しい方法でイスラエルの民を助け出して下さいました。海に道を作られたのです。海の中の道です。

 今日の箇所で、神は再び新しい事をすると語られました。「海の中の道」ではなく、「荒野に道」いう方法によってです。

 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 イザヤが活躍した時代はユダ王国の末期でした。つまり、イスラエルの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれる前のことです。やがてユダ王国は滅亡し、奴隷としてバビロンに連れて行かれます。神がイザヤを通じて預言されたのは、イスラエル人をバビロンから連れ戻すということでした。今度は、海の道ではなく荒野に道を作ると言われたのです。

 新しくなるにはどうしたらいいか。それは、新しいことを行う神を信頼することから始まります。神は、私たちが見たことのない新しいことを企画し実行される方です。
年のはじめに、新しいことをする神をたたえ、信頼し、導きを求めましょう。



2、私たちも新しい事を始めよう

 神が新しい事をされる方なら、神のかたちに造られた私たちも同じDNAがきっとあるはずです。新しい年、新しい事にチャレンジしませんか。

 私はこんな事を考えました。神は私たちに二つのスーツケースを与えて下さったのではないかと思うのです。

 一つのスーツケースにはたくさん物が入っています。そこには、決まったスケジュールがびっしり組み込まれていて隙間がありません。毎日の決まりきった仕事に疲れ果て、家族との関係も自分自身も見直すこともできません。このスーツケースは、何かを変えたいのに何もできないという日常を象徴したものです。

 もう一つのスーツケースには何も入っていません。多くの人は、このスーツケースの存在を知りません。でも、必ず空のスーツケースを持っています。
そのスーツケースに名前を付けるなら、夢のスーツケース、ミニストリーのスーツケース、愛情のスーツケース、生きがいのスーツケース、と呼んでも良いでしょう。
 今までのスケジュールや毎日の繰り返しを見直して、本当にやりたい事に取り組んでみませんか。一番大事なことに時間を使いませんか。大切な人と心通わす時間を作りませんか。あなたの夢を実現しませんか。

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(19節)

 神は新しい事をされる神です。私たちを新しくするプロフェッショナルです。
新しい事に挑戦しませんか。主のためにあなたの人生を燃やし尽くすような生き方をしてみませんか。主にあって、あなたの夢を実現しませんか。

 雪が降り積もった早朝の景色が新年です。
積雪が多い朝は道の場所さえ分かりません。
道はあなたが作るのです。
神は、あなたに新しい道を進んでほしいのです。

 今年、誰かに福音を伝えましょう。
新しいミニストリーを始めましょう。
身近な人に、きちんと愛を伝える時間を作りましょう。

 祈って、勇気を出して、スケジュールを組んでみませんか。


「見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。」