ヨシュア記24:1~33 ヨシュアの最期



 ヨシュア記の最終章を迎えました。

 ヨシュアは、民の指導者たちをシェケムに集めました。のろいを象徴する北のエバル山と祝福を象徴する南のゲリジム山の間に位置する町がシェケムで、あなたはどちらを選ぶかと迫っています。
ヨシュアは、指導者たちを神の前に立たせ、神の言葉を聞かせ(1~13節)、いつまでも主に仕える決意をさせ(14~24節)、それを石に記しました(25~27節)。その後、ヨシュアは110歳で死去します。(29節)これがヨシュア記最後の章、24章の内容です。


1、神が語られたこと

ヨシュアの遺言が23章なら、24章は神の言葉を取り次ぐ最後の言葉と言えます。2節から13節は、神が語られた言葉そのものです。
内容は、アブラハムの祖父テラが、他の神を拝み、ユーフラテス川の向こうに住んいた時から始まり、約束の地にイスラエルの人々が移住できたことまでに及んでいます。

わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。ついで、わたしは、イサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えて、それを所有させた。ヤコブと彼の子らはエジプトに下った。(3~4節)

3~4節から神がしてくださったことをピックアップしてみると、「(アブラハムを)連れて来る」「歩かせる」「子孫を増す」「(イサクに)ヤコブとエサウを与える」「セイルの山地を与える」「所有させる」となります。すべてが、「わたし」つまり、神がして下さったことなのです。

神が語られた言葉で、何度も繰り返されるのは「わたし」という言葉です。新改訳聖書では14回も繰り返しています。歴史とは、神を信じる人々のために神が為して下さった良き事の記録と理解することもできます。

私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。(17節)

イスラエルの指導者は、神の言葉を聴いた応答として17節を語り、第一に神の導き、第二に奇跡、第三に神の守りがあった事を認めました。
私たちも時間を取って、1年を振り返ってみましょう。神がどのようにあなたを導いて下さったか。神がして下さった奇跡は何か。神がどんなふうにあなたを守って下さったか。
私は、カレンダーを開けて、その月ごとに神がして下さったことをもう一度確認して、主に感謝しました。あなたにも、神の導き、奇跡、守りがあったはずです。
涙の多い一年でしたか、苦しみの多い一年でしたか、暗闇の一年でしたか。そんな年ほど、神の恵みは大きいのです。



2、主に仕える

14節から24節で繰り返される言葉は何でしょう。「主に仕える」(9回)です。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。(14節)

神のなさった事を振り返ると、神こそ誠実で真実な方だと分かります。それに対する私達の応答も、誠実で真実で神を恐れ敬い、主に仕えるというのは当然の応答だと思いませんか。

ヨシュアは、イスラエルの指導者たちの姿勢がいまひとつと認識したのでしょう。厳しい警告を加えながら、真剣に主に仕えるようにと押し問答を続けました。

すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」(19~20節)

イスラエルの民は、主に仕えると真心から告白し、契約の石にそれを書き記し(24~27節)、事実として、ヨシュアと共に歩んだ長老たちが生きているうちはイスラエルの民は神から離れることはありませんでした。(31節)

あなたは、神に仕えますか。  何をすることによって、神に仕えますか。

“Date your wife”という本は素晴らしい本です。著者のJustin Buzzardは、毎朝、結婚の誓いに目を通します。毎年一年間の妻との楽しいプランを立てます。子供が生まれるまでは、毎月2泊でどこかに二人で泊まりに行く計画を立てました。遠くに住んでる友達の家を取り替えっこするだけの旅行も、テントで泊まる計画もあるので、あまりお金もかかりません。3人の小さな男の子が生まれた後は、毎週金曜の夜に妻とデイトをして、子供たちは友人に預かってもらいました。妻との計画を最優先して、仕事でキャンセルにしません。妻を愛しているから、夫のジャスティンが率先して計画を立てるのです。

あなたは、神を愛していますか。
神のために、新しい年はどんな計画を立てますか。
何を最優先しますか。
伝道のために、あなたのスケジュールをどう変更しますか。
あなた自身の霊的成長のため、修養会やECに出るため日程を取り、貯金しますか?
人を育てるために、あなたの優先順位をどう変更しますか。
毎日聖書を読む計画を作りますか。

あなたは、具体的に何をして、主に仕えますか。


→あなたの番です
□今年1年の、神の導き、奇跡、守りは何でしたか
□新しい年に、主のためにしたいことは何ですか

 ヨシュアは力強く言いました。私たちもそういいましょう。
 「私と私の家とは、主に仕える。」(15節)


ピリピ2:6~11  仕えるためのクリスマス



クリスマスは、神が人となられた日です。


1、捨てる

ピリピ人への手紙を読むと、クリスマスにどんな意味があるのかが分かります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」(ピリピ2:6)

主イエスは、クリスマスに何かを捨てました。
何を捨てたのでしょう。神であることを捨てたのです。それがクリスマスです。

一人では生きていけない、一人では何もできない赤ちゃんの姿となって生まれて来たのです。

 私はあるお母さんを知っています。歯医者さんに行って、健康な歯を全部いっぺんに抜いて下さいとお願いしました。総入れ歯にするためです。詳しく説明する字数がありませんが、弱さを持って生まれた赤ちゃんを育てるためには、その道しかなかったのです。

あなたも、何かを捨てる必要に迫られるかもしれません。もしあなたが、自分の意思で何かを捨てるなら、それは、失うのだけではありません。見えない世界で何かを得ているのです。

 何かにしがみつくから失敗するのです。自分の意思で、捨てましょう。誰かを愛しているなら捨てられます。



2、下る
 
 主イエスは、下りました。上から下に降りました。

「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(7節)

主イエスは、人間になりました。私たちとまったく同じ人になられたのです。弱さも、孤独も、痛みも、誘惑も、私たちとまったく同じです。

若いお父さんは、子供の誕生に戸惑い、おしめを代えるという「試練」で打ちのめされます目。離乳食を食べるようになると、赤ちゃんのうんちが大人に近づき、「俺にはできない、助けてくれ、紙おむつの取替えは無理だ」と大抵のお父さんが音を上げます。
私も苦労しました。はっきり言いましょう。プライドがじゃまして、おしめを代えることができないのです。俺がやることじゃないと思うのです。そこから、降りてみましょう。プライドを捨てましょう。下ってみましょう。

捨てることは、通常は、私たちの一部を失うことです。下るということは、私たちのプライドを捨てるということです。プライドとは、自分自身です。
下ることによって、不自由になります。下ると、ばかにされます。下ることにより、自分が本来の自分でない気持ちがします。

自分から、降りてみましょう。下に行ってみましょう。誰かと同じところに立ってみましょう。今まで見てきた世界がどんなに傲慢だったか気がつきます。



3、死ぬ

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(8節)

捨てることは自分の一部を失うことで、下ることは自分のプライドを捨てることで、死ぬことは自分の最も大事なものを誰かのために使い尽くしてしまうことです。
主イエスは、私たちの罪を身代わりに背負い、私たちの受ける罰を受けてくれました。文字通り、私のために生まれ、私のために死んでくれた方なのです。

 十字架は屈辱と恥を伴う刑でしたので、当時の特権階級であるローマ市民はどんな悪人であっても十字架刑にはなりません。ユダヤ人の目から見るなら、十字架刑は神にのろわた者の印でした。(申命記21:23「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」、ガラテヤ3:13)

 主イエスが十字架についたという事実は、神の愛がどんなに広く深いかを表わしています。

リー・ストロベルは、シカゴトリュビューンの新聞記者で無心論者でした。ある年の11月、シカゴの西部に住む貧しい家族を訪ね、その様子を記事に書きました。60歳の祖母が11歳と13歳の孫と暮らしていました。部屋には食卓があるだけで、何もありません。シカゴの冬は寒いのです。でも孫娘たちは半そでの衣類しかなく、1枚あったグレーのセーターも薄手のものでした。祖母のデルガドスさんは主イエスを信じていて、イエスさまは私たちを見捨てる方ではないと語っていました。
ストロベル氏がクリスマスイブにその家を訪ねました。部屋は、新聞読者が送ってくれたプレゼントであふれ、電気製品、家具、暖かい衣類、食料、クリスマスツリー、そして現金が届いていました。デルガドスさんは言いました。感謝してるよ。でも、私らが働いて稼いだものじゃないんだ。プレゼントなんだ。近所には貧しい人がたくさんいる。だから、これから、届けようと思っている、と話しました。ストロベル氏は、その発言と行動に心を揺さぶられました。デルガドスさんは続けました。一番すばらしいプレゼントは、クリスマスに生まれてくださったお方、イエスさまだよ、と心から言うのでした。

→あなたの番です
□捨てる、下る、死ぬ。主イエスがして下さったことに感謝しましょう。
□今週、誰かに仕える人にさせてもらいましょう


ヨシュア記23:1~16  右にも左にも



「歳を重ねて、老人になった」(2節)「見よ。きょう、私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。」(14節)ヨシュアは、いわば、遺言として23章と24章を全イスラエルの前で語りました。

よく出来た息子と問題の多い息子の二人を残し、世を去ろうとする実業家が遺言するとしたら、どんな言葉を残すでしょう。
優秀で信頼できる息子には、「後は頼んだぞ、お前に何も言うことはない、謙虚な心を忘れるな」と言うでしょう。その反対のタイプの息子には、注意と警告の言葉を残すでしょう。

ヨシュアはどちらのタイプの遺言を23章で残したのでしょう。厳しい警告からみて、後者です。イスラエルの民が堕落して神に背く可能性があるとヨシュアは見抜いていたのです。


1、戦われたのは主

あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。(3節)

戦いの主役は自分達ではなく神だったのです。このことを、イスラエルの民はしっかりと心に刻む必要がありました。

今年一年、あなたの戦いはどんな戦いでしたか。勝利できたなら、それは主のみわざです。主にあって、あなたは一騎当千の武将とされました。これからも、主に戦っていただきましょう。

 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。(10節)



2、右にも左にもそれず

 水泳で難儀するのは背泳です。私が背泳ぎすると、プールの壁が近寄ってきます。私たちの信仰も曲がりやすいのです。

あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。(6節)

クロールで泳ぐなら私は曲がることはありません。理由は簡単です。底に見える線に沿って泳いでいるからです。信仰も同じです。右にも左にも逸れない秘訣があります。主イエスを見て、主イエスについていけばいいのです。主イエスも「ついて来なさい」と言っておられます。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)

戦いが起こり、試練がやって来た時、私たちは主イエスから目を離して自分流の方法でその場を無理やり乗り越えようとします。場合によっては罪を犯したり、嘘をついたり、神を裏切ったりしてでも、自分を楽にしようとします。つまり、右や左にそれるのです。そういう時こそ、主にすがり、主を愛しましょう。

ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。(8節)

 あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(11節)




3、堕落の危険性

 ヨシュアが特に声を大にして語ったのは、堕落の危険とその結末です。

しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中にはいって行き、彼らもあなたがたの中にはいって来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。(12~13節)

もし、偶像の神に心を寄せ、この世の流れにどっぷりと浸ってしまうなら、最後に待っているのは滅びだとヨシュアは警告しました。「滅びうせる」(13、16節)、「根絶やしにする」(15節)と繰り返し言いました。
主は約束された良いことを一つ残らず実現された方なので、約束された滅びも確実に来るとヨシュアは念を押します。

 あなたがたの神、主があなたがたについて約束したすべての良いことが、あなたがたに実現したように、主はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、主が、あなたがたに与えたこの良い地から、あなたがたを根絶やしにする。(15節)

 ヨシュアはこの章で、「私の神」と一度も言いません。「あなたがたの神、主」という言葉を11回も繰り返しました。(3、5、5、8、10、13、13、14、15、15、16節)イスラエルの民に、信仰を自覚してほしいのです。私の神は生きておられるとはっきり分かってほしいという願いで、執拗に「あなたがたの神、主」という言葉を使ったのでしょう。

牧師の息子で大学を中退し俳優になったアメリカ人がいました。成功と不安を行き来し、やがては酒におぼれ、薬物に手を出し、大きな邸宅も人手に渡しました。クリスマスを前にして、妨害が入らないように家のドアを釘で打ちつけ、致死量の薬物を摂取しようとした矢先、電話がかかってきました。兄からでした。実家に集まりみんなでクリスマスをお祝いするところだ。母が夢を見て、お前が死のうとしていると言うんだ。こっちに来ないか。今、祈ろう。電話口で、彼は「罪人の私をあわれんでください」とだけ祈ったのですが、神に包まれるような温かさを感じ、人生の新しい一歩を踏み始めました。やがて実家に戻り、家族に支えらリハビリし、やがては牧師になりました。

ヨシュアは、外敵に勝利し、内部分裂の危機を乗り越えました。次の敵とは、自分自身の弱さなのです。私も、あなたも、神から離れ、軌道を離れやすい弱さを持っています。だから常に主イエスに目を向けていましょう。それたら、悔い改めて戻ればいいのです。

「主にすがらなければならない」(8節)
「主を愛しなさい」(11節)

 私のメッセージでの口癖は、「主は生きておられます」です。これは、いわば私の遺言のようなものです。私が死んだら、この言葉を思い出してください。(まだ死にませんよ)
「あなたの番です」という言葉もよく言います。神はあなたの神ですから、あなたなりのレスポンスをして下さいという意味です。
そして、私が、体全体、私の生涯すべてで語り続けたいことは、「あなたはやり直せる」です。どんな問題に出会っても、必ず立ち直れます。私は過去につぶれたことがあります。倒れたことも、死にたいと思ったことも、貧しくなったことも、明日の希望が見えなかった数年間も経験しました。でも、いける神が共にいて下さいました。神が私を励まし支えてくださいました。それで、立ち直れたのです。

さあ、あなたの番です。
□神が勝利して下さったことを振り返りましょう
□あなたは一騎当千の器にされました、神と共に戦いましょう
□道をそれたら、悔い改め、戻りましょう

「そこから右にも左にもそれてはならない。」(6節)

 

ヨシュア記22章  誤解


 外敵との戦いをひとまず終えたイスラエルは22章に入って、あわや内戦、見方同士の殺し合いという瀬戸際に立たされます。
 これは、私たちの日常生活でよく起きることで、意気消沈する結果を招きます。夫婦のいがみ合い、親子の断絶、友人同士の仲たがい、教会の分裂など私たちも経験する出来事です。
 今日は誤解について考えましょう。誤解の発生要因を検証し、解決方法を探りましょう。

1、2部族半の気持ち

ルベン、ガド、マナセの半部族はすでに相続地をヨルダン東側に得ていましたが、他のイスラエル人と共に今まで戦ってきました。ヨシュア記1:12~18で約束したように、どこへでも行き、何でもするという献身姿勢を最後まで崩しませんでした。
それでヨシュは2部族半の人々の姿勢を高く評価し、祝福して彼らを居住地に帰しました。(ヨシュア記22:1~5)その興奮さめやらぬ中で2部族半の人々は祭壇を築きました。

申命記12章は、いけにえをささげる祭壇は1箇所と明記しています。「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。」(申命記12:13)
別な場所に祭壇を作ったので、誤解の種になりました。

祭壇を作った理由は、自分たちもイスラエルの一部だと証拠を残すためでした。

しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。『あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。(ヨシュア記22:24)

「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」(28節)
 
 ヨルダン川西側の人々は、二部族半の人々の気持ちは理解できず、神への反逆、イスラエルからの離反と判断、早急に滅ぼすべきだとの強硬論が支配的となりました。

2、誤解が生まれる背景

 一般的に言って、誤解は次の要素で起きます。
1)外観とうわさと先入観(主観的な判断、好き嫌い)
2)感情的な行動(思慮の欠けた対処、話し合うことを避ける態度)

 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。(10節)

 ヨルダン西部の人々は、見える部分、外観だけで判断しました。

イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」(11節)

2部族半が神に逆らい、不信の罪を犯し、独立分派行動を起こしたとのうわさに惑わされたのです。先に領地を得たしたたかな連中という先入観もあったかもしれない。

 今すぐ、ヨルダン東側の2部族半を攻撃し、滅ぼすべきだと頭に血が上ってしまった。

イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。(12節)

早急な態度を取ったイスラエル人とあなたは似ていませんか。
 
 自分を点検しましょう。
□外見と噂と先入観で人を判断していませんか
□感情に流された早急な行動をしていませんか

 夜中に見たEmailで感情を害し、かっとなって書いたメールがあるなら、送信ボタンを押すのは明日にしましょう。押さなくて良かったときっと思うはずです。

3、解決方法

 イスラエルの民は、どのように解決しましたか。
1)攻撃を中止する
2)早期に面会し、真意を確認する

それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。(13~14節)

 中立的な立場の祭司ピネハスを中心とした調査団が派遣されました。すばやい行動、直接会う。この二点は人間関係トラブルを解消するために、極めて有効な方法です。

ピネハスたちは怒っており一方的に決め付けていた(16~20節)ので模範的な調査団とは言えませんが、率直に疑念を述べ、2部族半の真意を確認できたのは主のあわれみといえるでしょう。「きょう、私たちは主が私たちの中におられることを知った」(31節)という記述は、主の介入、主の臨在を感謝した言葉だといえます。

誤解すること、誤解されること。これは、生きてる限り避けられません。私たちの中におられる主イエスの助けがあれば、誤解問題に勇気と愛で対応できます。
最後に試されるのは、あなたの勇気です。ある神学者は、勇気とは神への祈りの中で告げられる恐れだと表現しました。目を閉じてあなたの正直な恐れと願いを神に告げ、目を開けたときには勇気を持って誤解問題に立ち向かいましょう。

→あなたの番です。
□直接会う
□事実を確認する
□謝罪する
□和解する
□主をたたえる

そこで、イスラエル品は、これに満足した。それでイスラエル人は神をほめたたえ(33節)

ヨシュア記20:1~9  のがれの町



 約束の地が12部族に分割された後、のがれの町が設置された。
ヨルダン川の西側に3つの町、南から、死海西側のヘブロン、エフライムの山地のシェケム、ガリラヤ地方のケデシュ。ヨルダン川東側にも3つ、南から、ベツェル、ラモテ、ゴラン。(ヨシュア20:7~8)
今日は、のがれの町の意味について考えよう。

1、人は失敗することがある

あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。(ヨシュア20:3)

 どんなに真面目な人でも、失敗を避けることはできない。「あやまって」とか、「知らずに」ミスを犯す。場合によっては殺人者になる可能性もある。
 大切な人を殺されたなら、身内の人は感情を抑え切れずに復讐するだろう。その危険から守るために、のがれの町が作られた。
これは、神が定められた制度だ。(出エジプト21:13、民数記35:9~15)のがれの町というシステムの中に、神のあわれみ、神の愛を見ることができる。

 神は、私たちの弱さを知っていてくださるのだ。
私たちが失敗した時でも、神は私たちを守ってくださる。

 誰かが失敗をした時、あなたはどうしてきましたか。きちんとやらないからだとお説教しますか。失敗をくどくどと責めますか。それとも、割れた皿をいっしょに集めてあげますか。
真面目な人ほど、人の失敗を厳しく責める傾向がある。気をつけよう。今週は、誰かの失敗に寛容になって、励まし、応援する人になろう。神は、のがれの町を作ってくださる方だ。

 東京で電車に乗っていたとき、持っていた二つのスーツケースに気を取られ、大事な物の入った鞄を棚に置き忘れたことがありました。身軽だなとホームで気づいた時には電車は行ってしまった後でした。この失敗を身近な人に話すと同情してくれて、祈ってくれました。それにどれだけ助けられたかしれません。
 失敗した人は、一番後悔し、自分を責めているものです。必要なのは、励ましです。


2、告白

人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)

 過失で誰かを殺してしまった人は、のがれの町に逃げ込み、復讐する者から守ってもらえる。けれども、門の入り口で必ずしなければならないことがある。自分のしたことを、はっきりと、正直に、洗いざらい話す必要がある。これは、のがれの町に逃げ込むためにはどうしても必要なこと。

 たとえば、木を切ろうと斧を振り上げたとき、誤って柄から斧の頭が抜け、それが友人に当たり死んでしまいました(申命記19:5)と門で言うのだ。

 私たちは、自分のした失敗を正直に、洗いざらい話す必要があります。あなたは、誰にそれを話しますか。何を話しますか。つらくても、包み隠さず話すことが次への道になる。


3、大祭司が死ぬ時まで

 過失致死となる事故を犯して逃げて来た人は、のがれの町から出てはいけません。もし、町から出て、復讐する者に見つかったなら、命の保障はありません。けれども、例外がありました。大祭司が死んだときは自分の町に帰ることができました。

その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節)

 なぜ、逃げ込んだ人が自分の町に帰れるのでしょう。
 大祭司の死が、犯した罪のあがないとなるからです。みがわりの死です。

 これは、イエス・キリストの十字架を予告する制度です。
 私たちにとって、主イエスがのがれの町なのです。

  「自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節) この言葉に大きな慰めと励ましが込められています。逃げ出して来た町に、再び戻れる日が来るのです。人生をやり直すことができるのです。大祭司の死によって、誰かが生き返るのです。

→あなたの番です。
 □誰かが失敗したとき、責めずに慰めてあげよう
 □自分が失敗したとき、神に告白しよう
 □イエス・キリストのみがわりの死に感謝しよう 

彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)