ゆるす、つぐなう エペソ4:31~32

 私たち人間は、傷を負い、ある時は、他人に傷を与えます。過去の傷が今のストレスとなり、現在の悪習慣や依存的な行動に走ることがあります。その原因を絶ちましょう。
 今日は、人をゆるすこと、そして、人にあやまることについて考えます。
 
1、ゆるす

 信号待ちしていたら後ろから追突されたことが過去にありました。ブロンドの女子大生が車から降りてきて、「アイム、ソー、ソーリー」とアメリカ人としては珍しくごめんなさいを何度も言いました。ほとんどダメージもないので、「いいよ、きにしないでね」と言ってあげました。
 憎み続けるか、赦すか、道は2つにひとつしかありません。あなたはどちらを選んでいますか。
 多くの人は、まるで大きなつけもの石を首からぶらさげるように「憎しみ」を抱えている人が多いですね。相手が謝っても赦さない、死ぬまで赦さない、と言う人がいます。
 どうしたらゆるせるのでしょう。

1)主が赦してくださったように、ゆるす
  
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)

 あなたの罪は主イエスによって赦されました。その事を深く感謝できるなら、主がゆるして下さったように、他の人を赦せます。

 赦すということは、相手の悪い態度や行為を是認することではありません。また、他人を変えるための手段でもありません。今日を限りに、裁くことを止めることです。手放すことです。釈放することです。ある意味では、赦す行為は自分のためなのかもしれません。

2)憎んだままでいると、自分を苦しめること

「怒って自分自身を引き裂く者よ。」(ヨブ18:4)とあるように、憎しみの心は自分自身を苦しめます。最初の傷は他人が付けますが、傷を深くするのは自分自身です。だから、もう止めましょう。

3)自分も将来、誰かに赦される必要がある。
 私たちは地上では不完全です。将来、必ず、誰かを傷つけてしまいます。だから、赦してもらう必要があります。

 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:31~32)

 「無慈悲」という言葉は、<苦い>という意味から出た言葉です。人を憎んで、胸や腹が苦々しくなる時、他人に冷たくなるものです。そういう心をまとめて捨てましょう。そして、否定的な思いを投げ捨てましょう。

 静かな部屋で、椅子に座ります。もう一つ椅子を用意し、あなたが憎んでいる人がそこに座っているように意識して、あなたの心に詰まっているものを話しかけてみましょう。これは、実際に人を赦す練習になります。口で言葉を発すると、赦すことがどういうことなのか、体験的に分かります。
 まず思い切って赦しましょう。その後、完全に赦すまである程度時間がかかるかもしれません。でも、投げ捨て続けましょう。赦せますよ。


2、償う
 
 夫婦喧嘩で問題になるのは、謝り方です。なかなか謝らない場合は、相手を一層怒らせます。その反対に、何でもかんでも軽く謝る場合も怒りを引き起こします。あなたの家はどんなパターンですか。

1)「ごめんなさい」と心をこめて伝える。

 まず、心をこめてあやまりましょう。赦す行為が自分のためなら、謝るのは相手のためです。

2)個人的に、謙遜に、言い訳せず、相手に期待せず

 自己弁護をして謝るなら、謝罪になりません。謙虚にあやまりましょう。たとえ、相手が赦してくれなくても。

3)自分ならどうして欲しいかを考える。

 謝罪や賠償は、相手の立場に立って行動することが第一です。自分の車が誰かにぶつけられていて、良く見るとフロントグラスにメモがはさんであり、電話番号と名前が書かれてあったという人も案外多いものです。

 「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)
 
4)必要なら具体的に償う

 取税人ザアカイは、償う人々の模範といえます。彼は主イエスに出会って心がきよめられ、今までの悪事を悔い改め、謝罪と償いを自発的に申し出ました。

「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

→さあ、あなたの番です
①あなたが赦す人は誰ですか
②あなたがあやまるべき人は誰ですか

イエスさまが言われたように、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)です。

 今日の内容をまとめましょう。
自分のすべての人間関係を吟味し、自分を傷つけた人たちを赦し、また自分が傷つけてしまった人たちに償いをします。ただし、その人や他の人たちをさらに傷つけることのない場合に限ります。

変えてください ローマ12:2

 「変身!」変わりたいのは仮面ライダー(古い)だけではありません。多くの人は変わりたいと願いますが、うまくいきません。

 星野富弘さんが治療を受けていた病院で、「ちきしょうと言わないで」と看護婦さんに言われました。そんなはずはないと思ったのですが、まくらことばのようにしょっちゅう使っていたことに気づきました。
 「あなた、大声だすのはやめてください」と奥さんに言われた男の人を私は知っています。「オレがいつ怒鳴った」と声を荒げたことも意識にないのです。
 身近な人が、「お願いです、変わってください」と切実に言うときは、かなりの重症なのです。

 ところで、あなたが一番変わりたいのはどんな事ですか。周囲の人を傷つけているあなたの言動は何ですか。あなた自身を惨めにさせる悪習慣は何ですか。


 
1、バルテマイの場合

 エリコにいたバルテマイは盲人で乞食でした。主イエスに出会った時、大声で主イエスに助けを求めました。
 
 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」(マルコ10:51)
 
 変えられるために必要な要素は、①変わりたいと願う事、そして、②主イエスの力です。私たちは、主イエスとの交わりの中で変えられるのです。
 バルテマイは、呼び水となった主イエスの言葉に率直に反応して、素晴らしい奇跡を経験し、目が見えるようになりました。
 
2、変わる決意
 
 バルテマイのきっぱりとした願い、これは私たちの模範になります。私たちも、主イエスにはっきりと願いを伝えましょう。ここが変わりたいのですと。

 ローマ12章1~2節は、ローマ書の折り返しとなる大事な言葉です。ローマ1~11章は私たちの罪がどのようにして赦されたかが書いてあります。汚れた罪が赦されたと知った人々は、12章からはじまる信仰者の歩みへと招かれます。そうです。主イエスの十字架を知ったものが、自分を主にささげ、主に喜ばれる道を目指して自分を変え始めるのです。

 神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

 人は、他人に責められても、涙を流して懇願されても、自分を変えようとは思いません。自分から変わりたいと願うときに変わり始めるのです。

 教会開拓を始めて2年たった牧師がうつ病の症状に陥りました。何の力も出てきません。その時、聖書の言葉を小さなカードに書いて、裏には教えられたポイントを書き出し、いつもポケットに入れて持ち歩き、一日に何度も読み返しました。それが、4~5週間続くうちに、うつから開放されたといいます。この牧師は、アメリカの大教会の牧師です。肯定的に生きる秘訣を聞かれたとき、この牧師は答えて、私は自分を訓練したのです、と言ったそうです。

 あなたも神の約束を人生の土台としよう。目に見える事実だけを土台として生きていきますか。それとも、人間の可能性や計算を超えた神の現実を土台としますか。これはあなたの決断です。そして、また、これはあなたの新しい習慣です。あなたを支える聖句暗記カードを作り、心にしっかりとみことばをたくわえましょう。
 
3、変えてくださる主

 自分で自分は変えられません。他人を変えることはさらに困難です。でも、神にはできます、私を変えることができるのです。
 神は、私たちの心に働き、変わりたいとの心を与え、また、それを実現させてくれます。

 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)

 中学時代からヤクザの組員になり、高校生になると新宿の町で喧嘩や恐喝などを行っていた男がいました。教会に誘われ、礼拝に行くようになり、高校生の伝道会でイエスさまを信じました。それを知らされた牧師ですら、信じられないと言ったほどの札付きのチンピラでしたが、人生が変わりました。今では、引きこもりになった人、精神的に病んだ人の友となり、それらの人々のいやしを謙虚に祈る人になりました。そして、その人々が元気になっています。
 人は変えられます。変えられた人は、人が変えられるお手伝いができるようになります。

 次の聖書の言葉は、日々に主によって変えられるという励ましを与えてくれます。

 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第2コリント4:16)


 今回の学びをワンフレーズでまとめましょう。

 自分の人生において、神が変えたいと願っておられるすべてのことに自発的に従い、自分の性格上の歪みを直してくださるように、へりくだって神に求めます。

→あなたの番です
①変わりたい事をはっきりと神に願う
②聖書の約束を人生の土台とし、聖句暗記カードを作る
③信頼できるクリスチャンの仲間に話し、祈ってもらう

旅立ち 創世記12:1~4

 私たちの毎日は繰り返しに見えますが、同じ日は一日としてありません。そういう意味から、人生は旅にたとえることができます。
 今日は、アブラハムの旅立ちから3つのことを学んでみましょう。

1、アブラハムの旅立ちは、離れること

 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、」
                     (創世記12:1)

 家族のぬくもり、安心できる場所を離れることは辛いことです。子供たちが遠くの大学で生活を始めた時など、理由がなくても実家に電話することがあります。ところが数ヶ月すると、親が電話しても、今は忙しいからあとでとそっけない返事になり。4年たつと、立派に成長したことが分かります。

 同じように、私たちも、家族から離れ、友人から離れ、住み慣れたコミュニティーから離れると、神に信頼するようになります。今までになく、祈るようになります。そうです、「離れる」ことは、神に近づくことになるのです。


2、アブラハムの旅立ちは、一歩踏み出すこと

 アブラハムは、ウルという町から最初旅立ちました。ユーフラテス川の下流にあった当時の世界で最大の人口を誇った町だと歴史家はいいます。
 アブラハムはカナンを目指して進みましたが、途中の町カランで住み着いてしまいます。そこで父テラが亡くなりました。その後、神が12:1からの言葉をアブラハム語られました。

 「わたしが示す地へ行きなさい。」
        (創世記12:1)

 神は、道を示してくださる方です。大切なことは、道を聞いて、それに従うことです。
 信仰者には二つのタイプがあります。動かないタイプと動くタイプです。動かないタイプとは、ソファーに座ってテレビのリモコンだけを操作する人のようです。祈るけれども、答えだけを待っている。自分は、動かないのです。
 神が望んでいるのは、神のみこころを知って動く人です。動きだすときは勇気がいります。神を信頼しないと動けません。けれども、一旦動きだすと、神が生きておられる方だとダイナミックに理解できるようになります。

 私も大学3年のとき、今日の箇所の言葉を読んで、真剣に卒業後の進路を祈るようになりました。毎朝、また、夜寝る前に読んでいた聖書通読箇所で、使徒7:2~3とヘブル11:8を1ヶ月のうちに読みました。全部がアブラハムの旅立ちの箇所でした。それで、私は真剣に「あなたの示す道を教えてください」と祈りました。2ヶ月後、マルコ11章から、「主がお入用なのです」とのお言葉がとどめの言葉となり、自分を生涯主にささげ牧師になる道に踏み出しました。私も、アブラハムとまではいきませんが、将来を知らないまま主に従いました。 それで、本当に素晴らしい人生になりました。

 「どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」
               (ヘブル11:8)

 神は、あなたを新しい旅に招いています。それは、若い人だけの話でしょう、と言われそうですが、アブラハムが歩みだしたのは75歳の時でした。あなたも、新しい旅が始ままります。


3、アブラハムの旅立ちは、周囲の人々を祝福する

 「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
           (創世記12:3)

 神は大いなる祝福を約束されました。神の約束は、アブラハム個人の祝福、その子孫の祝福、アブラハムを通して祝福が世界に溢れるという約束でした。
 アブラハムが歩み出すなら、この祝福がいただけるのです。

 この約束はアブラハムだけのものでしょうか。私はそうは思いません。神に従うあなたの小さな一歩が、世界を変えるという約束です。これをあなたは信じますか。

 あなたは自分が弱いので、あるいは、自分に能力がない、人間的には何の可能性もない、と考えていますか。 当時のアブラハムは、それ以上に、人間的可能性はありませんでした。75歳でも子供がいなかったのです。子孫など皆無でした。
 あなたの可能性が限りなく小さいとしても、神はそれを何とも思われません。用いられやすい人を神は求めているのです。可能性は、神にあるのです。

 升崎外彦(1892~1975)の人生は、まさに一人の人物が主に従うことによって、周囲の人が祝福されるという実例の生涯です。詳しくは、『荒野に水は湧く』(田中芳三著)という本をお読みください。

 →さあ、あなたの番です

 ①信仰と勇気を持って、あなたの旅を始めよう。
 ②神についていくと、もう一度心に決めよう。
 ③あなたの示す地はどこですか、と祈ろう。
 ④幸せを求める人から、幸せを分ける人になろう。

告白ときよめ 第1ヨハネ1:9

 メッセージシリーズ「やり直せる」は、今回で4回目になります。やめようと思っても繰り返してしまう問題行動が誰にでもあります。人によっては中毒症状になっている場合もあります。その根を絶ち切り、新しい自分を取り戻せるようにと願って私はシリーズを始めました。

 今日のポイントは、自分の過去を徹底的に見直すということです。英語で表現するならmoral inventory of ourselvesです。リック・ウォレン牧師は今回の学びの内容を以下のようにまとめました。


 正直に自分の心を点検し、自分の犯したあやまちを
自分と神と信頼できる人に告白します。



1、心の棚卸しをする 

 一人静かな場所で自分の人生を振り返りましょう。心に浮かんだ過去の罪を具体的に紙に書き出しましょう。以下のように聖書の言葉は、自分の歩んで来た道を振り返ることを勧め励ましています。

 詩篇139:23~24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
 
 哀歌3:40「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」

 詩篇32:5「 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」

 静かな場所と時間で以下のような質問をしてみましょう。この場合、あきれるほど正直でいることがどうしても必要です。

 □私の良くないところはどこだろう

 □罪悪感を感じることは何だろう

 □私は誰を傷つけただろう

 □今も強いストレスとなって私に襲い掛かる過去の罪は何だろう

 今、心の棚卸しを始めましょう。最低でも1時間くらいは必要です。静かな場所で一人になって自分を正直に見つめましょう。私は先週、公園の人通りの少ないパーキングに車を止め、シートを後ろに下げて、紙に書き出しました。

 私も、こうして自分を見つめることを定期的にしてきました。最初の一行がつらいところです。文字にするのはかなりの抵抗があります。それでも、勇気をもって書きましょう。漠然と書いてはいけません。具体的に書くのです。

 主イエスはルカ18章でパリサイ人と取税人の祈りを比較されました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人の心を評価されました。


  
2、注意:人のせいにしない

 私たちは、自分の過ちを人のせいにする傾向が強いですね。自分が万引きしたのは、取り易い場所に商品を置いた店員のせいだ、という理屈を言う人もいます。それは関心しません。正当化をやめましょう。自分の責任をきちんと認めましょう。



3、棚卸しが終わったら:神にゆるしを求めて個人的に祈る

 書き終えたら、自分の口で神に罪の告白をしましょう。この段階も勇気がいります。具体的に人の名前を出したり、行為を口にするというのは、神の前で一人で祈っても辛いことです。でも、逃げてはいけません。神にきちんと悔い改めましょう。

 第1ヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 罪を言い表すという言葉は原文で、ホモロゲオーという言葉が使われています。ホモは同じという意味、ロゲオーは言うという言葉です。つまり、神が示してくださった事を、その通りですと認めることが告白なのです。神に罪を隠すことは不可能です。正直に認めましょう。

 神と取引するのではありません。盗んだ二倍のお金を慈善団体に寄付しますからおゆるしくださいというのは取引です。何度も気合を入れてあやまることでもありません。小学生の反省作文ではないので、ごめんなさいを何十回言っても意味はありません。神が示されたことを、そのまま認めることが告白の本当の意味です。


4、その次は:信頼できるクリスチャンに聞いてもらう

 このプロセスを終えると、心に大きな喜びと落ち着きがやってきます。良い意味で、開き直れます。人の言葉は気にならなくなります。だって、人の批判よりも数倍も厳しく自分を吟味したのですから、人の言葉などまったく気にならなくなるのです。本当の自分は、もっと、もっと悪いということが分かっているのですから。

 そうしたら、信頼できるクリスチャンに自分の罪の告白を聞いてもらいましょう。これは、リック・ウォレン牧師が定期的に実行していることだといいます。そういう姿勢を私は心から尊敬します。
 実は、クリスチャンの真実な交わりでは告白や罪のあかしが自然に行われています。あなたも、そんな場面に居合わせた経験があるかもしれません。聞いている私たちのほうが恥ずかしくなるくらい正直に罪の告白が行われるとき、私たちは皆自分の心の日記帳を知らず知らずにめくっているのです。人の罪の告白を聞きながら、自分の罪を思い浮かべて同じ痛みと解放を味わっているのです。

 ヤコブ5:16「あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」

 1997年10月4日ワシントンDCに50万人のアメリカ人男性が集まり、聖書のメッセージに耳を傾けました。プロミスキーパーズの歴史的な集会のことです。男たちは、地面にひれ伏して自分罪を告白し、聖書の原則に立ち返って生きると決心しました。家に帰った男たちは、妻や子供に、「俺が悪かった」と正直に語ったのです。
 自発的に、自分の心の棚卸しをしましょう。今週、時間をとって、自分を見つめてください。何かが始まります。

 さあ、あなたの番です。
 やってみましょう。