第1サムエル24:1~22  受け入れるか、動くか


 受け入れる事と変えるべき事。その識別力と勇気がほしい。

1、主から出たこと

彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。(第1サムエル24:3~4)

 ダビデたちはエン・ゲディにいた。エンは泉、ゲディは子ヤギという意味。死海の西側の荒涼とした岩山に、奇跡のような泉があった。付近には滝もあり、洞窟も多数あった。
その洞窟の一つに潜んでいたダビデに千載一遇の機会が訪れた。目の前にサウル王が一人で現れた。家来はいない。今なら、難なく殺害できる。そもそも、ダビデがその気になれば、クーデターを起こしてサウル王を殺すこともできたはずだ。

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(6~7節)

 サウル王は主に「油注がれた方」であり、「私の主君」だとダビデは認識していました。サウルの上着のすその一部を切り取ったことすら後悔しました。サウルが神に油注がれた王であるということは、ダビデにとって神から出たことで、変えることのできない事だったのです。

ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)The Serenity Prayerを知っている人が多いと思います。ダビデの心の中で、ちょうど同じようなプロセスがあったのでしょう。

The Serenity Prayer
God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.

Living one day at a time;
Enjoying one moment at a time;
Accepting hardships as the pathway to peace;
Taking, as He did, this sinful world
as it is, not as I would have it;
Trusting that He will make all things right
if I surrender to His Will;
That I may be reasonably happy in this life
and supremely happy with Him
Forever in the next.
Amen.

平静の祈り

神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

一日、一日を生き、
一瞬、一瞬を楽しみ、
苦しみも、平安へ続く道として受け入れ、
この罪深い世を、自分の願うようにではなく、そのままに受けとめる
あの方がそうなさったように

神の御心に自らを明け渡すのならば
神は全てを善いように変えてくださると信頼しつつ
それによって私がこの世での人生もそれなりに幸せに生き
来るべき次の世ではとこしえに
神と共に最上の幸せを得るように
(中村佐知訳)

 主から出た事とは、主から発送されて私たちのところに届いた小包のようなものです。受け入れにくい事、意に反する事、窮地に追い込まれる事、場合によってはこの世を去る事も、主から出た事です。主から出たことならば、静かな心で受け入れましょう。


2、直接対面

その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。(8~10節)

 ダビデはサウル王に最高度の尊敬を示し、地にひれ伏しました。さらに、サウルを殺害する意志がないことを上着のすそを切ったことで証明しました。ダビデは、サウルと3000人の兵に殺される危険も承知の上で、直接サウルに語ろうとしました。変えることのできるものは変える勇気を持って対処しようと思ったのです。

もう追うのを止めてほしいとダビデは率直に述べました。サウルがダビデを追うことは、まるで死んだ犬や一匹の蚤(14節)を追っているのと同じなのです。

 ダビデはサウル王に直接、自分の心を披瀝しました。ダビデは、純粋で、まっすぐな心を持った人物です。遠まわしに、誰かを介して連絡しませんでした。
 人間関係のもつれが起きた時、ダビデの方法は参考になります。一番勇気がいるけど、一番話が早いのは、こじれた相手の所に直接出向き心を開いて自分の思いをぶつけることです。

 今、誰と関係がこじれていますか。相手の顔を見て、心を率直に伝えましょう。



3、泣いたサウル王

ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。(16節)

ダビデは勇気を持ってサウルに語り、主は直接介入してサウルの心を変えてくれました。ねたみと怒りで半狂乱だったはずのサウル王はダビデの誠実な心に触れて涙を流しました。奇跡とも思える涙です。主に選ばれた頃の純真なサウルの真心が戻ったのです。

そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。(17~20節)

 サウルは自分の非を認め、主からの幸いがダビデにあるようにと願い、次に王になるのはダビデであると告げました。

 砕かれた魂ほど美しいものはありません。
 サウルは、うまれたばかりの赤ちゃんの皮膚のような柔らかな心を見せました。
 いくつになっても、どんな立場でも、みっともなくても、自分の非を認めましょう。私たちは不完全なので、誰かと共に生きなら必ず誰かに迷惑をかけるか、迷惑をこうむるかのどちらかです。「私はあなたに悪いしうちをした」(17節)と言える人になりたいです。
 
 自分が悪いと認めた人は、「ごめんなさい美人」です。同じように、悪かったと言える男は、「ごめんなさいハンサム」です。多くの人に好かれる人は、失敗をしない人ではなく、素直に謝罪できる人です。


「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


バーニータという看護学生が勉強していました。クリスチャンの彼女は、主のために与えられた賜物を生かしてナースとして人々に仕えたいと願っていました。感謝祭前の火曜日、指導教官が急に言い捨てました。「あなたは良い看護師にはなれない。いつか患者を殺すだろう。来週、退学になるので覚悟するように」他の学生6人も退学処分になるとだと知りました。
感謝祭の休日、実家に戻り、双子の姉妹に事情を話しました。それを伝え聞いたバーニータのお父さんは学部長に抗議に出かけました。学部長は、そんなはずはない、詳しく調べるので休み明けに来るようにと返答しました。バーニータが翌週学校に行くと、学部長は指導教官には様々な問題があり学校を辞めていただいた、あなたは安心して学業を続けるようにと励まされました。卒業後、彼女は40年間レジスタード・ナースとして立派に働きを続けました。

受け入れる事、動いて事態を変える事、その二つを見極め、ダビデのように勇気を持って対処しましょう。その中で、主が驚く方法で介入して下さいます。

 →あなたの番です
  □主から出たことは、受け入れる
  □正面からぶつかって行きましょう
  □「ごめんなさい」と言える心が大切


第1サムエル23:1~29 仕切りの岩

 体は前向きに、心は上向きに造られている。私にはそう思えるのです。
 ダビデは、前向きで上向きな人です。


1、主に尋ねる

 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」
(第1サムエル23:1~2)

 収穫時を狙ってペリシテ人がユダのケイラを襲った。ダビデは、ケイラを助けに行くべきかを主に尋ねた。主の答えは、「行け」、だった。
 ダビデの部下は、ケイラを助けると居場所がサウルに分かり危険になるとの指摘した。もう一度主に尋ねると、やはり「行け」だった。それで、ダビデはケイラの人々を助け、奪われた穀物を荷馬車ごと取り返した。実に前向きな生き方です。

 その後、サウルがダビデの居場所を知り、ケイラに来る可能性が高くなった。それで、再び主に尋ねた。サウルは来るでしょうか。「彼は下ってくる」(11節)もう一つダビデは尋ねた。ケイラの人は私たちを守ってくれるか、それともサウル王に寝返るでしょうか。答えは、「彼らは引き渡す」(12節)でした。それで、ダビデたちは荒野に逃げたのです。主に道を聞く姿勢は、上向きです。

 その道に困難があるから、「行くべきでしょうか」と主に尋ねます。
 今の環境が快適なので、「離れるべきでしょうか」と尋ねます。

 アメリカに住む日本人は、日本に行くべきか、居心地の良いアメリカを離れるべきか、と何度か真剣に問うものです。
 主に道を尋ねることは、自分の心にある深い井戸に桶を下して、本当の願いを組み上げる作業です。主に静かに道を聞いて下さい。
 

2、神の御名で励ます友

ダビデは、ケイラの人々から平和に離れました。怒りもせず、報復もせず、静かに部下を撤退させました。サウルなら皆殺しの場面ですね。

 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。(16~18節)

そんな時です。ヨナタンが突然訪問してきたのは。ダビデが意気消沈した時に親友がやってきたのです。友、遠方より来る、楽しからずや、です。

落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。(ヨブ記6:14)

 良き友は、落胆した友のそばに出掛けていくものです。
 信仰の友は、神の御名によって励ます者です。神の視点に帰らせ、神の約束と守りを思い起こさせてくれる事が、神の御名によって励ますとことです。
 
 あなたも、良き友として、また、信仰の友として、友の傍らに行こう。


3、主の助けがある

 サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。(26~28節)

 サウルの全軍は3000人程度、ダビデは600人。互いに同じ山の反対側を進んでいて、もう少し進めば両者は対面し、ダビデたちは全滅したことだろう。
 パレスチナ南部の荒野は、夏は雨が一滴も降らず、カラカラに乾く。雨は冬にだけ降るが、雨の流れが岩を削り、ワジという川を作り、深い谷を刻んでいた。だから、一つの山の向こうとこちらにいても敵の姿は見えないし、岩山は急斜面のため容易には上れなかった。
 サウルが、ほぼ全軍をダビデのもとに向かわせたことをペリシテ人は察知し、手薄な都市部を攻撃してきた。その知らせを受けると、サウル王はすぐに戻った。
 ヘリコプターから見下ろせば、ダビデとサウルがまもなく鉢合わせするのは分かったはずだ。主は、高いところからこの場面を見ておられて、ギリギリのタイミングでダビデを救われた。

 ラッキー!なのではない。主の守りがあったのだ。23章で鍵になる言葉は14節です。

 ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。(14節)

 「私の父サウルの手があなたに及ぶことはないからです。」(17節)とヨナタンが語った言葉は、14節の真実さを確認させてくれる言葉だ。

 自殺未遂をしたある女性は病院で目覚めてこう言ったそうです。「あれだけたくさん切ったのに死ねなかった」。
 考えてみてください。体は簡単には死なないように造られたのです。体はあきらめないのです。出血すると、脾臓が収縮、アドレナリンが出て、毛細血管も収縮します。空気に触れれば、血液内の物質が凝固して傷をふさごうとします。あなたが危険にさらされると、普段さらさら流れている血は、あなたを守るため自分を殺して固くなるようにして傷口をふさぐのです。
 神は、あなたが危機に陥ってもあきらめません。サウルのような存在があなたを襲っても、主た守って下さるのです。何度も危機がやって来ても、「神はダビデをサウルの手に渡さ」ないのです。

 ロナルド・ピンカートンさんは、クリスチャンです。彼がパラグライダーで上空1200mを飛んでいた時、突風が吹き、一気に100mの高さまで落ちました。今までで経験したことのない風で、コントロール不可能でした。ちょうど右下2mのところに小型の鷹が同じように強風に苦労して羽をバタつかせていました。風は収まることがなく、為すすべがありません。すると鷹は、地面に向けて真っ逆さまに進路を取り、急降下しました。自分の力も経験も知識も通用しないと悟ったロナルドさんは鷹の後をついて行くと心に決めました。地上30mほどになって、温かい上昇気流がどこからともなく吹きあげて、鷹もロナルドさんも助かりました。

 行き詰っても神に信頼しましょう。人間の絶望地点こそが、神の上昇気流の始まるポイントです。私たちの「仕切りの岩」はすぐそこにあるのです。神に栄光あれ。

 →あなたの番です
  □危険な時、困った時、神に道を尋ねよう
  □神の御名で励ます友になろう
  □プロテクトしてくれる神に信頼しよう


第1サムエル22:1~23 ドエグと虐殺


 人生は意外性の連続で、思った通りには進まない。
 ダビデも、きっとそう考えたはずだ。

1、大所帯

ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。(第1サムエル22:1~2)

サウル王がダビデ殺害を画策しているので、ダビデの親族にも危険が及ぶだろう。ダビデの兄たちや両親や実家の人々がダビデのもとに来て一緒に住むのは当然の成り行きだった。
 サウル王が嫌いだという不満分子や生活苦や借金のある者も多数ダビデの所にやって来て、エルサレムから南西20マイルのアドラムで合計400人の大所帯に膨れ上がった。

 この人数ではサウルの目をごまかせないし、両親や親族の安全が気になる、彼らを養わないといけない。そこで、死海の東側にある隣国モアブの王に援助を求めた。モアブは、ダビデの曾祖母ルツの出身地。一時的な保護を受けたが、預言者ガドの忠告に従い母国に戻った。(3~5節)

 人生は想定外の連続だ。孤独な逃亡者のはずが、400人の大所帯のリーダーとなった。この経験は、一国の王となるための準備とみなすこともできる。
 今日の想定外な出来事は、明日のあなたを必ず作る。理不尽と思える経験さえも、私たちの器を広げてくれる。


2、祭司アヒメレク一族の悲劇

 ドエグはエドム人。エドムは南の国で、ドエグは恐らく戦争でイスラエルの捕虜となったが、腕力の強さを認められサウルの兵士になったと思われる。ドエグは、ダビデが祭司アヒメレクの所に逃げた場面を目撃したので(21:7)サウル王に知らせ、祭司アヒメレクと親族の祭司たち全員がサウル王の前に呼び出された。(22:11~16)

アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」(14~16節)

 ダビデに食物と武器を与え逃亡を助けた、とサウル王は祭司アヒメレクを厳しく非難した。祭司アヒメレクは潔白を主張した。ダビデは王に忠誠を誓った兵士長であり、王の婿であり、支援するのは当然だと述べた。

 サウル王は、祭司アヒメレクの言葉に耳を貸さず、死刑を宣告するも、側近の近衛兵ですら、誰も命令に従わなかった。(16~17節)そこでドエグが、祭司ら85人を虐殺。祭司たちの町ノブにいた男も女も子供も家畜も皆殺しになった。(18~19節)

 サウル王は、愚かな独裁者がたどる轍を進み始めた。私たちがサウルを非難するのは簡単だが、歳をとり、経験を重ねると、サウル化する危険は誰にもある。自分に傲慢さやワンマンさがないか謙虚に振り返ってみよう。誰の意見も聞かない人なり、身近な人々を心で虐殺することだってあるからだ。


3、ダビデの態度

ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」(20~23節)

 祭司アヒメレクの息子の一人エブヤタルだけは辛くも生き延び、ダビデのもとに逃げて来て詳細を伝えた。
するとダビデは、虐殺の原因は自分自身にあると祭司エブヤタルに述べた。「私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。」(22節)
ダビデは責任の大きさを内心で痛感しただけでなく、きちんと言葉に表した。サウルの部下ドエグが密告する事が予想されたので、ドエグを殺害しておけば祭司ら一族は殺されなかったのだ。

 ダビデは、さらに言った。「私といっしょにいれば、あなたは安全だ。」(23節)エブヤタルを見るたびに自分の良心が痛んでも、あるいは責められても、私がエブヤタルを守ると決意した。

 自分の失敗や責任を正直に認める人に、私はなりたい。大切な人を守る人になりたい。



 ダビデは洞窟を住みかとしている時に詩篇57篇を作りました。

 指揮者のために。「滅ぼすな。」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。(詩篇57:1~2)

 <すべてを成し遂げてくださる神>を、God who fulfills His purpose for meと訳している英語聖書もある。

 ダビデは22章で、想定外の状況に立たされた。400人のリーダーとして人々に食べ物と安全を提供する必要に迫られた。サウル王の狂気とドエグによる虐殺も避けて通れなかった。祭司アヒメレクを守ると覚悟を決めた。もう、神の御翼の陰に身を避けるしか方法がなかった。そして、すべてを成し遂げて下さる神を信頼するしかなかった。
 人の想定外は神の想定内。ダビデは、大波に翻弄されながら、やがて波を捉え、波を乗り越え、波を味方にする人になっていく。


 →あなたの番です 
      □私は正直だろうか、それとも、独裁者だろうか?
  □私は、誰を守ろうとしているのか
  □すべてを成し遂げて下さる神を信頼しよう



第1サムエル21:1~15 逃亡者ダビデ


 人は、自分が助かるためなら、嘘もつくし、恥ずかしい行為もする。
21章で、ダビデは嘘をつき失態をさらした。
問題は、そこからどう立ち上がるかだ。

1、空腹

 ダビデはサウルの目を避けて、どんな日々を送ったのか。夜は野宿だろう。睡眠不足は否めない。腹がへっていただろう。疲労も極限だろう。ヨナタンと別れて孤独だったろう。

ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」(第1サムエル21:1~3)

 ダビデは、少し前、サムエルのもとに逃げ、サウルの兵士が何組も送られた事があったが、祭司仲間でその事件は話題になっていただろう。祭司アヒメレクをダビデは訪れたダビデは、食べ物をもらえないかと話そうとすると、逆にアヒメレクから質問され、しどろもどろになって嘘をついてしまった。とにかく食べ物が欲しかった。祭司しか食べられないパンを特別許可を得て、もらい受けた。

 嘘をついて得たパンなので、食べても味がしなかったかもしれない。


2、武器

ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」(8~9節)

 ダビデはサウルの兵隊を恐れたので、祭司アヒメレクに武器がないかと尋ねた。ゴリアテの剣をもらったが、ゴリアテの巨大な剣は、ダビデの役に立つのだろうか。逃げる時に、邪魔にならないだろうか。本当に必要なのは、万軍の主への信頼ではなかったか。


3、敵陣に逃げ込む

 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」(10~11節)

サウルの手が届かない場所はどこかとダビデは考えた。それが敵陣ペリシテ人の町ガテだった。深い考えもなく、ダビデは南西に60マイル進んで、海岸近くの町ガテに逃げ込んだ。だが、ガテの王アキシュの家来たちに身元がばれてしまい、絶体絶命となった。

ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。(12~13節)

 ダビデは、助かるためなら何でもした。狂人を演じて、ぎりぎりの状況から脱出した。
 私たちも、人生でこんな経験をする。思い出したくない経験や恥ずかしい行動をとるものだ。


4、詩篇34篇

心理学者のビクトル・フランクルは、以下の3つの価値が、人に生きがいを与えると『意味への意志』の中で語っている。
1)創造価値  何かをクリエイティブに造り上げる喜び
2)体験価値     何かを行ったり、誰かを愛す経験
3)態度価値  絶望の中で、苦しみを価値あるものに転換する態度

 ナチスの強制収容所に入れられ、死と隣り合わせの日々を過ごしたフランクルの言葉なので、特に態度価値という概念に、説得力がある。
 態度価値は、ダビデの中にもみられる。不条理な苦悩に襲われ、自暴自棄になりそうな失態と惨めさを体験したダビデだが、つぶれずに上を見上げた。

 ダビデの深い思索と祈りが詩篇34篇となって表れた。この詩篇を読むと、ダビデがみじめな状態からどのように立ち直ったか、その道筋がたどれる。

ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去ったとき
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。
私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。
私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」
(詩篇34:1~5)

 ダビデは、ガテの町から離れ、髭のよだれをぬぐった時、自己嫌悪に陥ったはずだ。しばらくは、自分の愚かさにつぶされただろう。その後、冷静になるにつれ、主の助けがあったことに気づく。あんな状態の私だったのに、主は助けて下さった。

 それで、詩篇34篇は、「私はあらゆる時に主をほめたたえる」という主への賛美で始まる。これが、熟慮の末にたどりついたダビデの信仰だ。これこそが、ダビデの本当の強さだ。ダビデの回復力は驚嘆に値する。

 「くちびるに欺きを語らせるな」(詩篇34:13)という表現は、嘘をついた自分への反省の言葉だ。主が、「心の打ち砕かれた者」(詩篇34:18)、ダビデの近くに主がおられたことを体験したので、こう書ける。
 
心が打ち砕かれるような経験をした人を、主はお見捨てにはなりません。必ず、苦しみの中から、救いだし、輝かせくれるのです。

彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」(詩篇34:5)

登校拒否を続け、長く苦しんでいた青年男性がいました。彼は家から出て、焼身自殺を計画します。不審に思って後をつけていた父親は、ガソリンをかぶった息子に抱きつき、「火をつけろ」と言ったそうです。父親の命がけの姿を見て、息子は生きている実感を取り戻し、父と息子は泣きながら心をつなぎ合わせました。

主イエスは、あなたの代わりに死んでくれた方です。あなたがどんな惨めな失敗をしても、見捨てません。必ず、そこから救い出して下さる方です。だから、「私はあらゆる時に主をほめたたえる」と言えるのです。


→あなたの番です
 □ダビデのような恥ずかしい失敗をしましたか
 □ギリギリのところで主に助けられたことがありますか
 □主をあおぐ時、あなたが輝くことを信じますか