詩篇31篇 広い所に立つ



  イギリスの牧師ウィルバート・オードリーは、3歳前後の息子クリストファーがはしかで苦しんでいる時、看病しながら機関車のお話を創作し、話してやりました。それが、機関車トーマスとして有名なった本のきっかけです。きっと坊やは、父親の愛の中にいることが、どんなものか十分に味わったことでしょう。

 ダビデの詩篇には、それぞれに特徴があり、一つ一つが違いますが、詩篇31篇には<主の御手の中にいる>、というフレーズが鍵になります。主の御手の中にいることは何を意味するのでしょう。


1、罠と病と裏切り

 ダビデは誰かに罠をしかけられていました。

私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。
あなたは私の力ですから。(4節)
 
 精神面だけでなく、体もダメージを受け、病に悩まされ、実際の苦痛を感じていました。

私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。
私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。
まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。
私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。(9~10節)

 一番身近な人々に裏切られ、陰口を言われるという、人間としての最悪の状況にいました。

私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。
私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。
彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。(11~13節)

 罠と病と裏切りを経験したなら、みな、打ちひしがれてしまいます。
 あなたが、今、3拍子そろった苦悩の中にいるなら、ダビデの例にならいましょう。

 「寒中の木の芽」と題した内村鑑三の詩は、そんなあなたにインスピレーションを与えてくれるかもしれません。

 春の枝に花あり/夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり/冬の枝に慰めあり

 花散りて後に/葉落ちて後に
 果失せて後に/芽は枝に顕はる      

 嗚呼 憂いに沈むものよ/嗚呼 不幸をかこつものよ
 嗚呼 希望の失せしものよ/春陽の期近し

 春の枝に花あり/夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり/冬の枝に慰めあり


2、「しかし」から始まる

ダビデは、不利な体制を逆転させる起点を知っていました。「しかし」と言う信仰です。「しかし」と言うことが、物事を逆転させる起点になります。

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(14節)

 どんな逆境も苦難も出口なしの状況でも、誰でもこの小さな言葉を言う権利を持っています。「しかし」には根拠があるのでしょうか。あります。主がまことの神だからです。「あなたこそ私の神です」「私は、あなたに信頼しています」と告白しましょう。
 主が共におられるのですから、どんな状況でも「しかし」と言えるのです。

 しかしを起点とする人は、「私の足を広い所に立たせて下さいました。」(8節) と言えるのです。

 渡辺和子シスターは30歳代で4年生大学の学長になり、ねたまれたり、無視されたりしたようです。そんな時、「ほほえみ」という詩を知り、大きな起点になったといいます。その詩は、以下のような内容です。
 ( 渡辺シスターの著書『置かれた場所で咲きなさいは、今までの集大成となる素晴らしい内容で、今回、その本から教えられたことを何か所かで使わせてもらいました。)

 もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、
 不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえんでごらん。
 微笑みを忘れた人こそが、微笑みを最も必要としているのだから。

 この詩に励まされ、とげとげした場所や人に会っても、渡辺シスターは笑顔であいさつできるようになりました。そんな時は、神さまのポケットに入れてもらった感じがしたといいます。
 詩篇31篇の言葉でいうなら、自分を神の御手にゆだねた状態といってもいいですね。


3、ゆだねる

 主の御手の中にいる。
 5節では、「私の霊を御手にゆだねます。」とダビデは言いました。
 14節では、「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。」と告白しました。
 15節では、「私の時は、御手の中にあります。」と穏やかに語りました。

 In His hands いい言葉ですね。「私の時」、という言葉は原文で複数形です。今の時だけでなく、私の人生を神の御手にゆだねるという意味にも取れますね。
 自分自身も、問題も、家族の事も、健康も、お金の心配も、将来も、すべて神にゆだねてしまうのです。神の手の上に乗せてしまうのです。そうすると、平安が来ます。究極の安心と言ってもいいですね。

 不機嫌は立派な環境汚染ですと渡辺シスターはユーモアを持って説明していますが、その通りです。マイナス要素で満ちた人物からは猛毒のダイオキシンが周囲の人に飛び散っていきます。その反対に、正義と愛を届けるなら、人々は幸せになっていきます。神の御手に自分をゆだねた人は、プラスイオンを配達する人になれるのです。

 いよいよという時、自分の命も人生も、勇気をもって神にゆだねましょう。そうすると、死に向かう準備が整います。

 ステパノは、石打ちの刑を受け、死をまぎわに感じたとき、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」(使徒7:59)と述べました。
 主イエスは、十字架の上で、ご自分の最期を悟られ、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と語りました。

 自分を、自分の問題を、自分の人生を、主の御手にゆだねましょう。
 あなたのすべてを、万全の体制で受け止めてくれる神がいます。すべてを背負ってくれる主イエスがいます。それで、十分ではありませんか。

 ロシアの兵士が戦場に赴く夜、満点の星を見て神を信じたという詩があるそうです。渡辺シスターが<戦士したロシア兵の祈り>として紹介しています。
 今まであなたの存在を知らなかった、神はいないと教えられてきたけど、今、あなたを信じます。僕があなたのもとに行ったら、あなたは戸を開けてくれますか。
 もう行かなくてはなりません。たぶん生きて帰れないでしょう。不思議なことに、僕は、もう、死を恐れていないのです。

 正確な引用ではありませんが、このような内容になります。ダビデの詩篇31篇の最後の言葉がとても似た内容になっています。神を信じ、神に任せた人に、神は勇気を与えてくれるのです。

雄々しくあれ。心を強くせよ。
すべて主を待ち望む者よ。


 →あなたの番です
 □主にあって、耐えられない試練はない
 □「しかし」と言えば、形勢逆転できる
 □最後は、主におゆだねする


詩篇30篇 嘆きを踊りに



 カフェの店主がコラムを書いていて、おいしいコーヒーをいれるコツがあるというのです。第一に、コーヒーメーカーをよく掃除すること。やってみるとおいしさが劇的に変わるといいます。第二に、良い水を入れること。コーヒーの98%は水なので、おいしい水がかなりの比重を占めま
信仰の世界も類似点があります。罪を悔い改め、心を主にきれいにしてもらいましょう。その上で、恵みをたっぷりと注いでもらいましょう。

1、賛美で始める

最初の1~3節に注目して下さい。私たちの祈りと似ていますか、どこが違いますか。

主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1~3)

 詩篇は150篇もありますが、「主よ。あなたをあがめます」というストレートな賛美で始まる詩篇は今日の詩篇、30篇だけなのです。

ダビデは賛美しています。あがめるという言葉は、高くするという意味です。神に引き上げられ、敵から助けられ、いやされ、生かされたことを思い起こして賛美しています。

詩篇30篇は、苦しみの中で神に助けを求める祈りなのに、賛美でスタートしています。賛美で始めると、祈り方、祈りの内容、祈りの姿勢が変化します。ここにダビデの信仰の秘訣が見られます。

あなたの祈りを、心を込めた賛美で始めてみませんか。


2、神がしてくださった過去の恵みを振り返る

聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」
主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(4~7節)

 ダビデは、主を賛美した後に、神がしてくださった恵みを振り返っています。神から受けた過去の恵み、恩寵を、ダビデは何度も味わい、感謝しました。

 ダビデが過去の体験を静かに振り返ると、御怒りの期間はつかの間だったという事に気がついたのです。自分の罪ゆえの神から罰を受けたとしても、それが永遠に続かなかったとダビデは知っていました。むしろ、神から受けた恵みの深さは、信じがたいものだったのです。

 第二サムエル24章によると、ダビデは神の祝福を自分の能力と取り違え、傲慢になって人口調査をした経緯が書いてあります。その結果、神からさばきを受け、多くの人が犠牲になりました。この辛い経験が、「御怒り」を指すのかもしれません。

 ダビデは繁栄を経験をした時、「私は決してゆるがされない。」と傲慢になりました。ダビデはその時の失敗を強く悔いています。砕かれた人は美しいのです。砕かれた人は謙虚なのです。

 勇士ダビデの目に涙がありました。夕暮れの涙は、一日の生活で経験した悲しさ、失敗、無念さ、空しさ、はがゆさなどを原因としています。自分の失敗もあれば、他人から受けたひどい仕打ちもあるかもしれません。暗闇は、疲れや孤独感をいっそう際立たせます。「宿る」という表現に目をとめるなら、涙で夜を明かしたと訳すことも可能でしょう。泣きながら寝てしまうことだってありますね。未解決で寝て、起きると解決していることだってあるのです。

 夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びになったことをダビデは体験で知っています。涙が喜びなるのは、状況が変化したか、自分が変化したかの二つに一つしかありません。
眠ることなく、まどろむことのない神が、何かをして下さるのです。主の力によって困難な状況が好転することがあるのです。あるいは、自分の考え方、こだわり、感じ方が、主の助けにより劇的に変わる場合があるのです。

 あなたの夕暮れは、今、涙ですか。
 主は、あなたの涙を知っておられます。
 主に状況を変えていただきましょう。あるいは、あなたを変えて頂きましょう。
 主は、あなたの涙を喜びに変えることのできるお方です。


3、恩寵を何度も振り返りながら、感謝で終わる

 ダビデは、詩篇30篇の最後をどのようにして、締めくくっていますか。私たちの祈りの終わり方と似ていますか。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。
私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。
ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。
聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(8~12節)

 ダビデは、神の助けを求めて祈っています。殺される危険と隣り合わせで、緊急の祈りをしているのです。「あわれんでください」「助けとなってください」と祈りました。

 そんなに差し迫った時にも、11節にあるように、過去の恵みをもう一度振り返っています。ダビデは神の恵みを思い起こし、短い言葉でそれを表現できました。
 試練の波が来る。過去の恵みを振り返る。さらに強い試練が来る、再び過去の恵みを思い起こす。何度でも主の恵みを思い返して下さい。私の妻は30年以上ディボーションノートを付けて、主の恵みを記録していますが、試練の時にそのノートを取りだして読むのだそうです。すると、力が湧いてきて、きっと主が良くして下さると信じることができるのです。

私たちは、人がした酷い仕打ちばかりを思いだして憎しみやうらみを増幅しますが、ダビデは主の恵みを振り返る能力が人並み外れているのです。神がして下さった事をもっともっと思い出しましょう。
神が嘆きを踊りに変えてくださった事、神が荒布を脱がせて喜びを着せて下さったことに注目しましょう。

「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(11節)

2013年10月7日イギリス北部での出来事。ジョンさんは友人のパイロットが運転するセスナに乗りますが、午後6時半ごろ運転手が心臓の発作か何かで運転不能になり無線で必死に助けを呼びました。管制官は、セスナのインストラクターを呼んで援助を求めました。ロイさんという運転指導者は、ジョンさんに曲がり方、降り方などを教えました。言われた通りに飛行場まで誘導され、1度目失敗、二度目もやり直し、3度目もダメで、午後7時半頃に4度目でハンバーサイド空港に無事着陸。すばらしい着陸だとロイさんは述べましたが、目撃者によると何度もジャンプを繰り返しプロペラを地面にぶつけて止まったそうです。
 私たちが助けを求めると、セスナの運転指導員以上に適格な言葉で主は私たちを助けてくれます。私たちは、過去に何度も主に助けらてきたのです。だから、今回の苦しみも主のアドバイスで乗り切ることができます。必ず、着地できるのです。

「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」

 →あなたの番です
 □辛い時にこそ、祈りを賛美で始めよう
 □神が助けられた過去の恵みを思い起こそう
 □夕暮れの涙が、朝明けの喜びになることを信じましょう

詩篇29篇 栄光を主に


 主にお返しすべきものがあります。
でも私たちは、いつもそれを忘れています。
それは、主に栄光を帰す事です。
  詩篇29篇をとおして神に栄光を帰すことを考えてみましょう。

1、主に栄光を帰すことを忘れるな(1~2節)

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。 御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。 (詩篇29:1~2節)

1節と2節で3回繰り返される言葉は何でしょう。「主に帰せよ」です。私たちは、自分ひとりで生きていると錯覚します。自分の能力や頑張りで今の地位や名誉やお金を得たという思い違いをしています。本来神が持つべき栄光を、人間が独り占めしてはいけません。お返しましょう。主に栄光を帰しましょう。

音楽家のバッハは、自分が書いた教会音楽の楽譜の最初にJJ、と書き、最後にSDGと書き入れました。JJは、Jesu juva!、主よ助けて下さいという意味のラテン語。SDGは、Soli Deo Gloria!、ただ神にのみ栄光あれという意味です。「バッハさん、素晴らしい曲ですね」と誰かに言われたら、「ありがとう。でも、これはすべて主の助けで作曲できたものです。」と説明して、神に栄光を取っていただこうという意図でしょう。

 主に栄光を帰すという言葉を、別の言葉で言い換えるとどうなるでしょう。神を賛美する。神をたたえる。神のみ旨を行う。神から頂いた賜物を用いる。神をひれ伏して礼拝する。自分がほめられた時に、神に感謝する。このように言い換えることも可能でしょう。

 今、神に栄光をお返ししましょう。


2、大自然が語る神の栄光(3~9節)

 3節から9節は、大自然にあらわされた神の偉大さが語られています。

主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。
主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。
その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。
(3~9節)

 パレスチナ北部には二つの高い山があります。レバノンとヘルモンです。中央部北部に位置するのがレバノン。ヨルダン川東部山脈の北部にあるヘルモン(シルヨン)です。
 その付近で起きた、雷鳴、落雷を神のみわざととらえて、3節から9節で主の偉大さをほめたたえています。
雷が森林地帯に落ち、大木を切り裂き、大雨や大風や雷が森を跳ねさせ、山火事が起き地面が明らかにされ、乾燥した荒地には地震が起き、森の小さな動物たちの営みに至るまで神が司っておられるのです。
「主の声」が7回繰り返されています。主の意思、主の言葉が、世界を形作っていることが分かります。

その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。(9節)

神につくられたすべてのものはすべて、神をたたえています。人里離れた山奥で咲く花、歌う鳥たちも、神をたたえています。神をたたえていない被造物は、人間だけです。

私やあなたの、能力も性格も経験も外観もすべて神からいただいたものです。お金も家族も地位も仕事も、神の助けによって与えられているものです。だから、神にありがとうを言い、神に栄光を帰すのです。


3、栄光の神による祝福(10~11節)

 礼拝に参加する人は、自分が良い気分になりたい、癒されたい、感動したい、などと自分の願いをかなり強くもって来る人がいます。言い方は悪いですが、かなり自己中心な目的だと思います。でも、帰るときには、心が整えられて帰っていくことになります。
 それは、賛美し、祈り、聖書を読み、神のみこころを聞くうちに、自分の心の軌道修正が行われるからです。礼拝で、自然な形で神に栄光を帰していくので、神から力と平安と祝福をもらえるのです。
 
主は、大洪水のときに御座に着かれた。
まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
主は、ご自身の民に力をお与えになる。
主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
(10~11節)

神に栄光を帰す人に、神は力と平安と祝福を与えて下さるのです。

ハーバード大学の白熱教室で知られるサンデル教授が授業でおもしろい事をして見せました。大きな壷に、大きめの石を入れていっぱいにしました。「もう何も入らないと思うかい」と学生たちに聞くと、「ノー、まだ入る」と答えました。そこで、小さめの砂利を入れて、壷をゆすりました。「これではどうだい」「まだ、はいる」 今度は砂を入れました。「まだ、入るね」最後に水を入れました。「これで一杯になった」
一番大きな石を最初に入れない限り、後からでは入らないという事を学べる。人生という壷に、どうでもいいことを先に入れてしまうと、最も大事なものは入らなくなる。だから、大事なものから先にいれるんだと彼は教えたそうです。

さて、私たちの人生で、最も大事なものは何でしょう。
最も大事なもの、最も大きな石を私たちの心の真ん中に入れましょう。
それが、神を信じることであり、神に栄光を帰すということです。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。  御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(1~2節)

→あなたの番です
□神に栄光を帰すことを忘れていませんか □礼拝は、私の満足ではなく、神に栄光を帰すもの
□神の力と平安と祝福を、今、求めましょう