ルカ1:26~38 おことばのとおりに


 マリヤがいなかったら、クリスマスはありません。
今日は、マリヤの信仰と勇気について考えましょう。

1、普通の若い女性、マリヤ

クリスマスは、パレスチナのナザレという町に住んでいた一人の女性から始まった。そう言っても過言ではありません。ナザレは、旧約聖書に一度も登場しない町で、商業、政治とは無縁の小さな田舎町です。聖地旅行で私もナザレを訪ねましたが、町の印象は丘陵地帯にある町という程度でした。

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。(ルカ1:26~27)

マリヤは、ヨセフと婚約中の普通の女性でした。二人は金持ちではなく、貧しい人々に属することはルカ2:24のいけにえの動物の種類から推測できます。
2000年前のパレスチナの女性は、今よりかなり若く結婚したので、マリヤが思慮深く落ち着いた女性と考える必要はないでしょう。むしろ、若く、心が柔軟で、新しい考えに順応性のある女性のように、私には思えます。

あなたは、マリヤに似ていますか。

2、おめでとう?

御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。(28~29)

 マリヤは、天使ガブリエルの言葉に戸惑いました。いきなりおめでとうと言われても心当たりはありません。ガブリエルは、約500年前に預言者ダニエルに表れた天使です。(ダニエル9:21)

すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(30~33節)

マリヤが子供を生むというのです。それも、男の子であると天使が言うのです。
 その赤ちゃんが大きく成長すると、「いと高き方の子」と呼ばれます。これは、神の子という意味です。また、ダビデ王の後継者となり、永遠に終わることのない国を治める王となるというのです。これは、旧約聖書が預言する<救い主>を意味しています。

そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(34節)

 マリヤの困惑の理由は、結婚してないのに、赤ちゃんが生まれるはずはないという点です。後に、神学者たちはこの出来事を「処女降誕」と呼びました。処女降誕を最も真剣に疑ったのはマリヤ本人です。あり得ないとマリヤは思いました。

それだけでなく、婚約中に妊娠したらとても困ります。婚約相手ヨセフに信じてもらえないでしょう。婚約解消だけでは済まず、場合によっては死刑さえあり得る時代でした。

 あなたがマリヤなら、どうしますか。


3、おことばとおりに

 天使ガブリエルは、どうして処女降誕が可能なのかを説明します。ポイントは二つ。第1は、神が全能の神だから可能。第2は、不可能が可能になった実例がある。

御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(35~37節)

 神が全能なら、すべては可能。これは、実に論理的です。
 宇宙を創造されたのが神。物質の構成を決め、分子も原子も素粒子も造られたのは神。遺伝子を作りその運用方法を決めたのも神。ならば、神がその法則を特別に変えることに何の問題もありません。

ユダヤの人々は何百年も動物のいけにえをささげ、傷のない動物だけをささげてきました。欠陥のある動物、汚れた動物は、人の罪の身代わりにはなれなかったのです。
主イエスは神の子羊です。人々の罪の身代わりになる神の子羊ならば、どうしても傷のない子羊、つまりまったく罪のない者、聖い者である必要がありました。ですから、救い主は聖霊によって生まれる必要性があったのです。
処女降誕は、偶然でも、思いつきでも、おとぎ話でもなく、神の必然だったのです。

 マリヤの親類のエリサベツは、だれもがびっくりするほどの高齢で出産を控えていました。それが神による特別の妊娠であることは、エリサベツの夫が天使に会って口がきけなる事件で周知の事実となっていました。(ルカ1:20)

マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(38節)

マリヤは普通の若い女性でしたが、普通ではない応答をしました。
 1)妊娠による将来の困難を受け入れました。
 2)神に不可能はないと信じました。
 3)謙虚に神からの使命を受け入れました。

 城ノブ(1872~1959)は若い頃から伝道者として各地で働いてきた女性でした。45歳の時、ノブは神戸の摩耶山の奥地に入り祈りました。哀れな身の上の女性たちを助ける仕事をすべきか、主のみこころを知ろうと3日間祈り、その結果、主からの使命と確信し、「神戸婦人同情会」というシェルターを開設しました。
 人身売買、家出、身を売る少女たちが悲惨な自殺をしていた時代でした。鉄道自殺の多い線路沿いに看板を立て、「一寸待て、神は愛なり。死なねばならぬ事情のある方は、すぐにいらして下さい」と書きました。その結果、40年間続けられた働きで、4000人の命が看板を見て救われ、他に、施設で助けた人数は6万人を超えたそうです。

 誰にも知られないような普通の女性マリヤは、勇気と信仰を持って神の言葉を受け入れました。それが、救い主イエスの誕生、クリスマスとなりました。
 あなたの小さな勇気と信仰も、必ず誰かを生かことになります。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

→あなたの番です
□神が全能の神であると信じる
□神から頂いた使命を受け入れる


詩篇33篇 目を注ぐ神


 神の口、神の目。ダビデは二つの事を心に留め、神を賛美しました。

1、神の言葉

 まず、ダビデは、神の口に注目しました。

主のことばによって、天は造られた。
 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。(6節)
まことに、主が仰せられると、そのようになり、
 主が命じられると、それは堅く立つ。(9節)

 言葉はコミュニケーションの道具として理解されます。ですから、神が語られたなら、私たちはそれを聞いて、祈りの言葉で応答するという図式になります。
 ですがダビデは、33篇において、コミュニケーションについてではなく、神の言葉がいかに力強いかについて言及しました。光あれ、と言うだけで光ができる。言葉で命じるだけで世界ができる。比類ない神の言葉の権威を歌います。世界、宇宙、すべての生物を造り、自然界の営みのルールを設定した神の言葉に思いをはせ、ダビデの心は賛美するのです。


2、神のまなざし

 次に、ダビデは、神の目に注目しました。

主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。(13~14節)

 神の眼差しはどこにありますか。神の作られた恒星、動物、法則などに目は向きません。神の目は、人間にだけ注がれています。神の関心は、私たち一人一人なのです。
 
 御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
 主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。(14~15節)

 目といえば、人間の目と動物の目はずいぶん異なります。星明りでも獲物を見つけるフクロウの目は闇に強い目です。1千メートル上空からでも獲物を見つけるワシの目は、人間の何倍も画像がくっきり鮮明です。ミツバチは、人間に見えない紫外線までも見分けるので花の蜜がどこにあるかが分かります。それぞれの生き物に必須な目が与えられている事に驚きます。

 神は、人間にふさわしい目を造られました。犬や猫など哺乳類のほとんどは赤と青の二色を認識する目ですが、人間が赤、青、黄色の3色を識別し大自然の美しさに感嘆できるように造られていることに私は驚きます。
 神は人間にフルカラーを認識する眼球だけでなく、自分を見つめる目、つまり「心」をも与えました。15節に、「主は、彼らの心をそれぞれみな造り」と書いてある通りです。心という目で、人間は自分の生き方を見直し、神の言葉に共振し、心という目で神を礼拝できるのです。

 神の眼差しに応答できるのは人間だけです。心の目を神に向け、神を賛美しましょう。


3、神に信頼し、神を賛美する

 人間は、神の偉大さを忘れ、神の眼差しを感じなくなると、頼れるのは自分だけだと錯覚します。それで、国家レベルでは武力を増強することに腐心します。一人の人間なら、学歴や財産や権力や見栄えで自分を武装します。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16~17節)

 ダビデは王の立場にいましたが、頼りになるのは武力ではないと言い切りました。神に頼り、神を待ち望むことが人間のなすべき事です。

 私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。
 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。(20~21節)

 さあ、あなたもダビデと同じ心で主を賛美しましょう。
 神の偉大さをたたえ、神の眼差しが私たちに注がれていることを感謝し、日ごとに新しい歌を生み出しながら主を賛美しましょう。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(1節)

→あなたの番です
 □神の言葉の力強さを覚え、主を賛美しましょう。  
 □神の眼差しが注がれていることに感謝しましょう。
 □自分の力を過信せず、神を待ち望みましょう。


詩篇32篇 罪の告白



 罪の悔い改めの詩篇として詩篇51篇と詩篇32篇が有名です。51篇では罪の苦悩が、32篇では罪赦された者の幸いが歌われています。

1、黙っている時のうめき

 罪の解決方法は二つしかありません。
 一つは、罪を自分でおおう。もう一つは、罪を神におおってもらう。

 罪を自分でおおう場合、罪を打ち消すための嘘をつきます。あるいは、罪を隠すために多大なエネルギーを使います。これは自分の良心を麻痺させる作業です。

 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
(詩篇32:3~4)

 ダビデはうめきました。疲れました。心が重く、骨が痛く、心が乾き切りました。罪を隠している時、私たちの健康は弱まるのです。

 ダビデとバテシェバとの姦淫の罪が、この詩篇の背後にあると学者たちは指摘します。罪を隠すため、ダビデは偽装工作をするも失敗、最終的にはバテシェバの夫殺害にまで手を染めました。詳しくは第二サムエル11章をご覧ください。預言者ナタンにより罪を指摘された時、ダビデ王は素直にその場で罪を告白しました。「私は主に対して罪を犯した」(第二サムエル12章13節)普通、言い訳は長く、真実の悔い改めは言葉が少ないものです。ダビデは、この時の経験を後で振り返り、罪赦されることがどんなに幸いかを歌っているのです。


2、赦される幸い

 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ(5~7節)

 罪をそのまま神に知らせること、自分の罪を隠さないこと、罪を申し上げ、告白すること、それが悔い改めです。
 罪を告白すると何が起きるでしょう。神が隠れ場になってくれる。助けられ、守られる。救いの歓声で私たちを取り囲んでくれるのです。つまり、神が私たちの罪をおおってくれるのです。

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(1~2節)

 東京に雪が降った翌日は、町中が雪と泥とごみが混じって薄汚れた景色になります。でも、北国の雪は違います。どんなに汚れた地面も、人の足跡も、夜中に降り続けた雪が一面の雪野原に変えてしまいます。神が罪を赦して下さることも同じで、完全のゆるしで私たちをおおってくれます。神による罪の赦しはびっくりするくらい完璧なのです。
 神が私たちの罪を赦すとは、完全に罪のない者として認めることです。神の記憶から、私たちの罪を消し去ることです。

 主は、どんな罪もゆるし、何度でもゆるす方です。神だから、それができるのです。


3、行くべき道が示される

 罪赦された人は、過去の問題が清算されるだけでなく、未来への扉が開かれます。

 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。(8~9節)

 罪を抱えている時は、神が見えず、神のビジョンが見えません。でも、罪が解決されると、神が新しい方向性を明らかにしてくれます。悟りが与えられ、行くべき道が見えてきます。
 過去と未来だけでなく、現在の自分にも祝福がやってきます。11節のような大きな喜びが今のあなたをおおうのです。

 一つも罪を犯さない人が幸いなのではありません。罪を犯さな人など地上に一人もいないからです。大事なことは、罪を犯した時に、罪を告白し、主に信頼することです。
 罪赦された人こそが、真に正しい人、心の直ぐな人なのです。罪赦され、謙虚になった人こそ、主のビジョンを行うにふさわしい人です。

 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(10~11節)

 パトリシア・セントジョンが書いた『雪の宝』という小学生高学年用の小説があります。罪の悔い改めをテーマに、主イエスを心に迎え入れるとは何かを教えてくれる極めて優れた本です。スイス山奥に住む小学生とその家族が登場人物で、美しい自然と素朴な人たちによる美しい物語です。
 物語では、アンネットの弟ダニーが足を怪我して歩けなくなるのですが、ルシエンという男の子によるいじめが発端でした。子供にも大人にも無視されるようになったルシエンが自分の罪を悔い、主イエスを信じ、人のために犠牲を惜しまない人に変えられていきます。
 ルシエンが罪を悔い、信仰を持つきっかけになるのが山小屋のおじいさんとの交流でした。ただ一人、ルシエンを受け入れてくれたおじいさん、そのおじいさんにルシエンは自分の過去を話す必要がありました。もし、過去の罪を語れば、おじいさんにもさげすまれ、嫌われる恐れがありましたが、ルシエンは自分の犯した罪を正直に話しました。清々しい罪の告白の場面に私は心洗われました。

 あなたも、勇気を出して、自分の罪を神に話しませんか。神は、その瞬間を待ちかねています。罪を告白し、裸になると、神はあなたを愛と赦しと救いの歓声の衣でおおってくれるのです。

 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(第二コリント5:14)

 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(1~2節)

→あなたの番です
 □主に罪を告白しよう。身近な人に、あやまろう。
 □謙虚な心で、主の示す道に進んで行こう。

詩篇31篇 広い所に立つ



  イギリスの牧師ウィルバート・オードリーは、3歳前後の息子クリストファーがはしかで苦しんでいる時、看病しながら機関車のお話を創作し、話してやりました。それが、機関車トーマスとして有名なった本のきっかけです。きっと坊やは、父親の愛の中にいることが、どんなものか十分に味わったことでしょう。

 ダビデの詩篇には、それぞれに特徴があり、一つ一つが違いますが、詩篇31篇には<主の御手の中にいる>、というフレーズが鍵になります。主の御手の中にいることは何を意味するのでしょう。


1、罠と病と裏切り

 ダビデは誰かに罠をしかけられていました。

私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください。
あなたは私の力ですから。(4節)
 
 精神面だけでなく、体もダメージを受け、病に悩まされ、実際の苦痛を感じていました。

私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。
私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも。
まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました。私の年もまた、嘆きで。
私の力は私の咎によって弱まり、私の骨々も衰えてしまいました。(9~10節)

 一番身近な人々に裏切られ、陰口を言われるという、人間としての最悪の状況にいました。

私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。
私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。
私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。
彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。(11~13節)

 罠と病と裏切りを経験したなら、みな、打ちひしがれてしまいます。
 あなたが、今、3拍子そろった苦悩の中にいるなら、ダビデの例にならいましょう。

 「寒中の木の芽」と題した内村鑑三の詩は、そんなあなたにインスピレーションを与えてくれるかもしれません。

 春の枝に花あり/夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり/冬の枝に慰めあり

 花散りて後に/葉落ちて後に
 果失せて後に/芽は枝に顕はる      

 嗚呼 憂いに沈むものよ/嗚呼 不幸をかこつものよ
 嗚呼 希望の失せしものよ/春陽の期近し

 春の枝に花あり/夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり/冬の枝に慰めあり


2、「しかし」から始まる

ダビデは、不利な体制を逆転させる起点を知っていました。「しかし」と言う信仰です。「しかし」と言うことが、物事を逆転させる起点になります。

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(14節)

 どんな逆境も苦難も出口なしの状況でも、誰でもこの小さな言葉を言う権利を持っています。「しかし」には根拠があるのでしょうか。あります。主がまことの神だからです。「あなたこそ私の神です」「私は、あなたに信頼しています」と告白しましょう。
 主が共におられるのですから、どんな状況でも「しかし」と言えるのです。

 しかしを起点とする人は、「私の足を広い所に立たせて下さいました。」(8節) と言えるのです。

 渡辺和子シスターは30歳代で4年生大学の学長になり、ねたまれたり、無視されたりしたようです。そんな時、「ほほえみ」という詩を知り、大きな起点になったといいます。その詩は、以下のような内容です。
 ( 渡辺シスターの著書『置かれた場所で咲きなさいは、今までの集大成となる素晴らしい内容で、今回、その本から教えられたことを何か所かで使わせてもらいました。)

 もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られないなら、
 不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえんでごらん。
 微笑みを忘れた人こそが、微笑みを最も必要としているのだから。

 この詩に励まされ、とげとげした場所や人に会っても、渡辺シスターは笑顔であいさつできるようになりました。そんな時は、神さまのポケットに入れてもらった感じがしたといいます。
 詩篇31篇の言葉でいうなら、自分を神の御手にゆだねた状態といってもいいですね。


3、ゆだねる

 主の御手の中にいる。
 5節では、「私の霊を御手にゆだねます。」とダビデは言いました。
 14節では、「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。」と告白しました。
 15節では、「私の時は、御手の中にあります。」と穏やかに語りました。

 In His hands いい言葉ですね。「私の時」、という言葉は原文で複数形です。今の時だけでなく、私の人生を神の御手にゆだねるという意味にも取れますね。
 自分自身も、問題も、家族の事も、健康も、お金の心配も、将来も、すべて神にゆだねてしまうのです。神の手の上に乗せてしまうのです。そうすると、平安が来ます。究極の安心と言ってもいいですね。

 不機嫌は立派な環境汚染ですと渡辺シスターはユーモアを持って説明していますが、その通りです。マイナス要素で満ちた人物からは猛毒のダイオキシンが周囲の人に飛び散っていきます。その反対に、正義と愛を届けるなら、人々は幸せになっていきます。神の御手に自分をゆだねた人は、プラスイオンを配達する人になれるのです。

 いよいよという時、自分の命も人生も、勇気をもって神にゆだねましょう。そうすると、死に向かう準備が整います。

 ステパノは、石打ちの刑を受け、死をまぎわに感じたとき、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」(使徒7:59)と述べました。
 主イエスは、十字架の上で、ご自分の最期を悟られ、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と語りました。

 自分を、自分の問題を、自分の人生を、主の御手にゆだねましょう。
 あなたのすべてを、万全の体制で受け止めてくれる神がいます。すべてを背負ってくれる主イエスがいます。それで、十分ではありませんか。

 ロシアの兵士が戦場に赴く夜、満点の星を見て神を信じたという詩があるそうです。渡辺シスターが<戦士したロシア兵の祈り>として紹介しています。
 今まであなたの存在を知らなかった、神はいないと教えられてきたけど、今、あなたを信じます。僕があなたのもとに行ったら、あなたは戸を開けてくれますか。
 もう行かなくてはなりません。たぶん生きて帰れないでしょう。不思議なことに、僕は、もう、死を恐れていないのです。

 正確な引用ではありませんが、このような内容になります。ダビデの詩篇31篇の最後の言葉がとても似た内容になっています。神を信じ、神に任せた人に、神は勇気を与えてくれるのです。

雄々しくあれ。心を強くせよ。
すべて主を待ち望む者よ。


 →あなたの番です
 □主にあって、耐えられない試練はない
 □「しかし」と言えば、形勢逆転できる
 □最後は、主におゆだねする


詩篇30篇 嘆きを踊りに



 カフェの店主がコラムを書いていて、おいしいコーヒーをいれるコツがあるというのです。第一に、コーヒーメーカーをよく掃除すること。やってみるとおいしさが劇的に変わるといいます。第二に、良い水を入れること。コーヒーの98%は水なので、おいしい水がかなりの比重を占めま
信仰の世界も類似点があります。罪を悔い改め、心を主にきれいにしてもらいましょう。その上で、恵みをたっぷりと注いでもらいましょう。

1、賛美で始める

最初の1~3節に注目して下さい。私たちの祈りと似ていますか、どこが違いますか。

主よ。私はあなたをあがめます。
あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、
私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1~3)

 詩篇は150篇もありますが、「主よ。あなたをあがめます」というストレートな賛美で始まる詩篇は今日の詩篇、30篇だけなのです。

ダビデは賛美しています。あがめるという言葉は、高くするという意味です。神に引き上げられ、敵から助けられ、いやされ、生かされたことを思い起こして賛美しています。

詩篇30篇は、苦しみの中で神に助けを求める祈りなのに、賛美でスタートしています。賛美で始めると、祈り方、祈りの内容、祈りの姿勢が変化します。ここにダビデの信仰の秘訣が見られます。

あなたの祈りを、心を込めた賛美で始めてみませんか。


2、神がしてくださった過去の恵みを振り返る

聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」
主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。
あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(4~7節)

 ダビデは、主を賛美した後に、神がしてくださった恵みを振り返っています。神から受けた過去の恵み、恩寵を、ダビデは何度も味わい、感謝しました。

 ダビデが過去の体験を静かに振り返ると、御怒りの期間はつかの間だったという事に気がついたのです。自分の罪ゆえの神から罰を受けたとしても、それが永遠に続かなかったとダビデは知っていました。むしろ、神から受けた恵みの深さは、信じがたいものだったのです。

 第二サムエル24章によると、ダビデは神の祝福を自分の能力と取り違え、傲慢になって人口調査をした経緯が書いてあります。その結果、神からさばきを受け、多くの人が犠牲になりました。この辛い経験が、「御怒り」を指すのかもしれません。

 ダビデは繁栄を経験をした時、「私は決してゆるがされない。」と傲慢になりました。ダビデはその時の失敗を強く悔いています。砕かれた人は美しいのです。砕かれた人は謙虚なのです。

 勇士ダビデの目に涙がありました。夕暮れの涙は、一日の生活で経験した悲しさ、失敗、無念さ、空しさ、はがゆさなどを原因としています。自分の失敗もあれば、他人から受けたひどい仕打ちもあるかもしれません。暗闇は、疲れや孤独感をいっそう際立たせます。「宿る」という表現に目をとめるなら、涙で夜を明かしたと訳すことも可能でしょう。泣きながら寝てしまうことだってありますね。未解決で寝て、起きると解決していることだってあるのです。

 夕暮れに涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びになったことをダビデは体験で知っています。涙が喜びなるのは、状況が変化したか、自分が変化したかの二つに一つしかありません。
眠ることなく、まどろむことのない神が、何かをして下さるのです。主の力によって困難な状況が好転することがあるのです。あるいは、自分の考え方、こだわり、感じ方が、主の助けにより劇的に変わる場合があるのです。

 あなたの夕暮れは、今、涙ですか。
 主は、あなたの涙を知っておられます。
 主に状況を変えていただきましょう。あるいは、あなたを変えて頂きましょう。
 主は、あなたの涙を喜びに変えることのできるお方です。


3、恩寵を何度も振り返りながら、感謝で終わる

 ダビデは、詩篇30篇の最後をどのようにして、締めくくっていますか。私たちの祈りの終わり方と似ていますか。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。
私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。
ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。
聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(8~12節)

 ダビデは、神の助けを求めて祈っています。殺される危険と隣り合わせで、緊急の祈りをしているのです。「あわれんでください」「助けとなってください」と祈りました。

 そんなに差し迫った時にも、11節にあるように、過去の恵みをもう一度振り返っています。ダビデは神の恵みを思い起こし、短い言葉でそれを表現できました。
 試練の波が来る。過去の恵みを振り返る。さらに強い試練が来る、再び過去の恵みを思い起こす。何度でも主の恵みを思い返して下さい。私の妻は30年以上ディボーションノートを付けて、主の恵みを記録していますが、試練の時にそのノートを取りだして読むのだそうです。すると、力が湧いてきて、きっと主が良くして下さると信じることができるのです。

私たちは、人がした酷い仕打ちばかりを思いだして憎しみやうらみを増幅しますが、ダビデは主の恵みを振り返る能力が人並み外れているのです。神がして下さった事をもっともっと思い出しましょう。
神が嘆きを踊りに変えてくださった事、神が荒布を脱がせて喜びを着せて下さったことに注目しましょう。

「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。」(11節)

2013年10月7日イギリス北部での出来事。ジョンさんは友人のパイロットが運転するセスナに乗りますが、午後6時半ごろ運転手が心臓の発作か何かで運転不能になり無線で必死に助けを呼びました。管制官は、セスナのインストラクターを呼んで援助を求めました。ロイさんという運転指導者は、ジョンさんに曲がり方、降り方などを教えました。言われた通りに飛行場まで誘導され、1度目失敗、二度目もやり直し、3度目もダメで、午後7時半頃に4度目でハンバーサイド空港に無事着陸。すばらしい着陸だとロイさんは述べましたが、目撃者によると何度もジャンプを繰り返しプロペラを地面にぶつけて止まったそうです。
 私たちが助けを求めると、セスナの運転指導員以上に適格な言葉で主は私たちを助けてくれます。私たちは、過去に何度も主に助けらてきたのです。だから、今回の苦しみも主のアドバイスで乗り切ることができます。必ず、着地できるのです。

「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」

 →あなたの番です
 □辛い時にこそ、祈りを賛美で始めよう
 □神が助けられた過去の恵みを思い起こそう
 □夕暮れの涙が、朝明けの喜びになることを信じましょう

詩篇29篇 栄光を主に


 主にお返しすべきものがあります。
でも私たちは、いつもそれを忘れています。
それは、主に栄光を帰す事です。
  詩篇29篇をとおして神に栄光を帰すことを考えてみましょう。

1、主に栄光を帰すことを忘れるな(1~2節)

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。 御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。 (詩篇29:1~2節)

1節と2節で3回繰り返される言葉は何でしょう。「主に帰せよ」です。私たちは、自分ひとりで生きていると錯覚します。自分の能力や頑張りで今の地位や名誉やお金を得たという思い違いをしています。本来神が持つべき栄光を、人間が独り占めしてはいけません。お返しましょう。主に栄光を帰しましょう。

音楽家のバッハは、自分が書いた教会音楽の楽譜の最初にJJ、と書き、最後にSDGと書き入れました。JJは、Jesu juva!、主よ助けて下さいという意味のラテン語。SDGは、Soli Deo Gloria!、ただ神にのみ栄光あれという意味です。「バッハさん、素晴らしい曲ですね」と誰かに言われたら、「ありがとう。でも、これはすべて主の助けで作曲できたものです。」と説明して、神に栄光を取っていただこうという意図でしょう。

 主に栄光を帰すという言葉を、別の言葉で言い換えるとどうなるでしょう。神を賛美する。神をたたえる。神のみ旨を行う。神から頂いた賜物を用いる。神をひれ伏して礼拝する。自分がほめられた時に、神に感謝する。このように言い換えることも可能でしょう。

 今、神に栄光をお返ししましょう。


2、大自然が語る神の栄光(3~9節)

 3節から9節は、大自然にあらわされた神の偉大さが語られています。

主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。
主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。
主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。
主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。
主の声は、火の炎を、ひらめかせる。
主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。
主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。
その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。
(3~9節)

 パレスチナ北部には二つの高い山があります。レバノンとヘルモンです。中央部北部に位置するのがレバノン。ヨルダン川東部山脈の北部にあるヘルモン(シルヨン)です。
 その付近で起きた、雷鳴、落雷を神のみわざととらえて、3節から9節で主の偉大さをほめたたえています。
雷が森林地帯に落ち、大木を切り裂き、大雨や大風や雷が森を跳ねさせ、山火事が起き地面が明らかにされ、乾燥した荒地には地震が起き、森の小さな動物たちの営みに至るまで神が司っておられるのです。
「主の声」が7回繰り返されています。主の意思、主の言葉が、世界を形作っていることが分かります。

その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。(9節)

神につくられたすべてのものはすべて、神をたたえています。人里離れた山奥で咲く花、歌う鳥たちも、神をたたえています。神をたたえていない被造物は、人間だけです。

私やあなたの、能力も性格も経験も外観もすべて神からいただいたものです。お金も家族も地位も仕事も、神の助けによって与えられているものです。だから、神にありがとうを言い、神に栄光を帰すのです。


3、栄光の神による祝福(10~11節)

 礼拝に参加する人は、自分が良い気分になりたい、癒されたい、感動したい、などと自分の願いをかなり強くもって来る人がいます。言い方は悪いですが、かなり自己中心な目的だと思います。でも、帰るときには、心が整えられて帰っていくことになります。
 それは、賛美し、祈り、聖書を読み、神のみこころを聞くうちに、自分の心の軌道修正が行われるからです。礼拝で、自然な形で神に栄光を帰していくので、神から力と平安と祝福をもらえるのです。
 
主は、大洪水のときに御座に着かれた。
まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
主は、ご自身の民に力をお与えになる。
主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
(10~11節)

神に栄光を帰す人に、神は力と平安と祝福を与えて下さるのです。

ハーバード大学の白熱教室で知られるサンデル教授が授業でおもしろい事をして見せました。大きな壷に、大きめの石を入れていっぱいにしました。「もう何も入らないと思うかい」と学生たちに聞くと、「ノー、まだ入る」と答えました。そこで、小さめの砂利を入れて、壷をゆすりました。「これではどうだい」「まだ、はいる」 今度は砂を入れました。「まだ、入るね」最後に水を入れました。「これで一杯になった」
一番大きな石を最初に入れない限り、後からでは入らないという事を学べる。人生という壷に、どうでもいいことを先に入れてしまうと、最も大事なものは入らなくなる。だから、大事なものから先にいれるんだと彼は教えたそうです。

さて、私たちの人生で、最も大事なものは何でしょう。
最も大事なもの、最も大きな石を私たちの心の真ん中に入れましょう。
それが、神を信じることであり、神に栄光を帰すということです。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。  御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。(1~2節)

→あなたの番です
□神に栄光を帰すことを忘れていませんか □礼拝は、私の満足ではなく、神に栄光を帰すもの
□神の力と平安と祝福を、今、求めましょう


創世記24:10~27  人生は旅


 サバティカル休暇を2か月間ほど頂きました。
 教会を留守にして、ロンドンとイスラエルに行ってきました。
 出かける前に、やはり不安はありました。飛行機代や滞在費などの実際的な心配もありました。でも最終的には、旅は素晴らしく祝福されて、主をあがめて帰ってきました。

 旅行をしながら、「ああ、人生は旅に似ている」と痛感しました。スーツケースに必要最小限の荷物だけを詰め込み、飛行機に乗る。それで45日間を外地で過ごす。われわれの日常生活は、スーツケースが家に代わっただけのこと。
 ロンドンに1ヶ月滞在し、JCFの人々を心通う交わりが築かれ、最後に別れが来ました。飛行機でロンドンを飛び立った時、思いがけなく悲しみが心をおおいました。「別離の悲しみは何度も経験したけれど、やはり辛い。人生の最後も同じかな」と感傷的になりました。

 人生は旅。あなたはどんな旅をしていますか。アブラハムのしもべの旅がどのように成功に導かれたかを創世記24章から学んでみましょう。



1、旅のために祈る    

 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」(12節)

 アブラハムは一人息子イサクの嫁を、アブラハムの生まれ故郷から探すことを心に決め、最も信頼できるしもべに嫁探しを依頼しました。
 全権を任せられたしもべは、祈りました。旅の成功は、祈りにかかっています。祈りは洞察力を与えてくれます。イサクにふさわしい女性の資質が3つ心に浮かびました。第一に、気配りができる人、第二に、思いやりがある人、第三に、生活力がある人。それが、12節から14節のしもべの祈りの中に見て取れます。

 「私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」(14節)
 見ず知らずの男性が水をくださいと求めた時に、嫌がらず、親切に水をくれて、言わないのにラクダ10頭分の水を汲んでくれる人が、イサクの嫁にふさわしい、としもべは確信を持ちました。

 人生の旅の成功のため、なによりも、祈りましょう。祈らなければ何も生まれません。スーツケースに入れるリストを作る前に、祈りましょう。日常生活の一つ一つについても、主に祈りましょう。
私は、「ロンドンで私を用いて下さい」と出発前から祈り、滞在中も祈りました。主は期待以上に、すばらしいことをして下さいました。



2、旅の成功のために行動する      

しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」(17節)

 しもべは、リベカを見つけると走り出しました。
 祈っている人は、動くべき時がいつか分かるのです。
 祈りのない人は、空回りの動きしかできません。
 「最年長のしもべ」(2節)とあるので、かなりのお年寄りだった思われます。その人が17節にあるように全速力で走ったのです。ユーモラスであると同時に、しもべの必死さが伝わってきます。

 あなたも、人生の旅で、動く時が来ます。今が勝負の時、と思える時が来るのです。その時は、勇気を出しましょう。走りましょう。飛びましょう。滑り込むのです。
 今、あなたは、動くときかもしれません。転職、結婚、転居。主が導かれるなら、動きましょう。



3、旅の最終目的は、主を礼拝すること             

 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。(21節)

 祈って、行動したら、結果は主にゆだねるのです。

 しもべは、らくだ10頭に一生懸命に水をやるリベカの姿を見て、主がなさる結末を見ようとしていました。その後、リベカに高価な金の腕輪などをプレゼントし、名前を聞き、素性を聞き、アブラハムの遠縁と分かると、その場でひざまずき、主を礼拝しました。

 そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(26~27節)

旅の最終目的は、主を礼拝することです。

 私たち夫婦は、旅の間に何度か、ひやりとする場面を経験し、事なきを得て主をたたえた場面がありました。
 ロンドンからイスラエルに出発するため、ルートン空港に向かいましたが、バス停を間違えてしまいました。見知らぬ男性に教えてもらって、重たいスーツケースを引きずって駆け出しましたが、非情にもバスは目の前を通り過ぎてしまいました。しまった。
 交差点の先まで歩くと、確かにルートン行きのサインのあるバス停にたどり着きました。30分すると次のバスが来ると分かったので、主に信頼し、夫婦で賛美しました。感謝します、感謝しますと声を出して二人で歌いました。結局、当初の予定より遅れましたが、飛行機の時間には間に合いました。主をたたえました。

 あなたの日常生活という旅でも、バスに乗り遅れるのと同じような経験をします。試験に落ちること、親しい人を喪失すること、様々なアクシデントが起きます。でも、最後には、主をたたえる日が来ます。必ずきます。主と共に歩む旅とは、そういうものなのです。


あなたの番です
 □人生の旅のために祈りましょう
 □いざという時は、勇気を出して行動しましょう
 □人生の目的は、主があがめられること


「そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して」(26節)

詩篇28篇 私の岩



 『結果を出す人はノートに何を書いているのか』(美崎栄一郎著)という本はとても興味深い本で、社会人になってノートを取ることの利点を述べています。自分にとって最も大切な情報はGoogle で検索することはできない。自分の経験の記録を残し、ノートを見直し、自分の将来に役立てるようにと語っています。

 ダビデは、自分の経験をノートに残した人でした。詩篇がダビデのノートです。その時々の苦悩を記録し、祈りをそのまま書きしるし、主から受けた助けを忘れないように記憶にとどめユニークな詩の形にして大切にしました。
 ですから、ダビデはその詩篇を口ずさむ時、主の助けを思い返し主をたたたはずです。
 

 
1、ダビデのノート

 詩篇28篇は3つに分けられます。
  1)苦悩の祈り(1~5節)
  2)主への賛美(6~7節)
  3)とりなし(8~9節)

 ダビデは苦しいので、祈りました。祈りがかなえられたなら、大喜びで主をたたえました。苦悩の祈りも、助けられた時の賛美も、共に現在形です。それは、ダビデがその時の気持ちをそのままメモしたからでした。

 あなたにも、勧めます。
 ノートを1冊作って下さい。苦しみをそのまま書きましょう。励まされた聖句を書き残しましょう。教えられた事を書きましょう。祈りがかなえられた事を記録しましょう。
 ダビデは以下のように祈りました。

 主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(1~2節)

 
 ダビデの祈りは自己中心に見えるほど率直な祈りです。神よ。あなたは聞いていないのですか。耳を開けて聞いて下さいと切に祈っています。
 
 次の祈りは、敵を懲らしめて下さいという祈りです。そこまで言うのかというほど強い願いです。

 どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。(3~5節)

 敵への報復を願う祈りです。
 こういう祈りがあってもいいのです。復讐は私たちのすることではなく、神にしてもらうべき事だから、これで良いのです。

 今、あなたは苦しんでいますか。誰かに苦しめられていますか。ダビデと同じように祈りましょう。



2、神は私の岩

 もう一つ、ダビデの優れた点を指摘しておきます。
 神はどんな方か、それが強く心に深く残るように、神は「私の岩」と言い切っています。その一言が、苦しい時のダビデを支えました。神はゆるがない。神は私を守る。神は力強い。それを、「私の岩」という言葉に凝縮し、自分に言い聞かせています。

 あなたが苦しい時、神はどんな方かを一言で言ってみましょう。その神に信頼し続けるのです。

 「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」(7節)

 ダビデは、神を岩、力、盾、として心にイメージして、そこから離れませんでした。その主により頼みました。それがダビデの優れた点です。
 私たちも、同じようにしましょう。



3、賛美ととりなし

 ダビデの祈りは、かなえられました。それが嬉しくて、飛び跳ねんばかりに主をたたえています。

 ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。(6~7節)

 祈りがかなえられた時、喜ぶばかりでなく、それを記録に残しましょう。後にノートを読み返す時、必ずやあなたに勇気を与えてくれます。
 多くの人は、信仰のノートを読み直さない。祈りの言葉も、かなえられた事も、喜びの賛美も、読み返さないので、主の恵みを忘れてしまうのです。ダビデはそれを忘れないようにと詩を作ったのです。

 祈りがかなえられた後、ダビデは他の人のためとりなしの祈りをしました。

 主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(8~9節)

 祝福を独り占めしない。周囲の人のため祈ることを忘れないように。


 →あなたの番です
  □苦しい時、苦しみと祈りをノートに記録しましょう。
  □辛い時、神はどんな方かを一言で表現しましょう。
  □主の助けを受けたら、とりなしの祈りをしよう。


詩篇27篇 一つを願う



 恐れない、こわがらない、動じない、と苦難の中でダビデは言いました。
 詩篇27篇から、苦しみの乗り越える3つの秘訣を学んでみましょう。

1、神の助けを振り返る

 「♪古いアルバムめくり、ありがとうってつぶやいた♪」
 この歌のように過去を思い返して感謝できるとするなら、あなたの人生は素晴らしい人生です。神の助けが、あそこにも、ここにもあったと振り返れるなら、今日の苦しみに耐えることができます。

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。(1~3節)

ダビデは、苦しみの真っ最中に自分の過去に目をやりました。
まるで猛獣が獲物に襲い掛かり牙を剥いたような瞬間があったのですが、気がつくと、敵は自分でつまずき、自分で倒れ、自滅したのです。主の助けを受けた過去を振り返ることが、現在の苦しみに立ち向かう力になります。

あなたも、今ここで、自分の人生を振り返ってください。
私が思い出すのは、牧師になって結婚し二人の子供が与えられた後のことです。家内は慢性腎炎になりドクターから「もう子供は生めない、海外での働きは諦めなさい」と言われたことがありました。主のあわれみで数年後にいやされ、末娘が生まれ、今アメリカに住んでいます。すべてが主の助けです。主のみわざです。

あなたの周囲に敵がいますか。それなら、ダビデと同じく神の助けを振り返りましょう。主は、私の光、私の助け、いのちのとりでです。だれをおそれよう、だれをこわがろう、と言いましょう。



2、最も大事なことに目をとめる

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(4節)

 苦しい時は、最も大事なことに目を留めるのです。主の前に出ること。主を礼拝すること。それが、苦しい時に私たちがすべき最も大事な事です。「一つのこと」です。
私たちを造り、愛し支えておられる神に感謝し、神の栄光を表す。つまり、神を礼拝することが私達の生きる目的の中心です。

 日本山岳救助機構によると、霧や雨で道を失った時は、谷や沢に下るなとアドバイスしています。迷った時は上へ。すると道に出たり、尾根に出る。安易に沢に降りると斜面がきつくなり、川が滝になり、足を踏み外して怪我して事態が一層悪化します。上を見上げることです。
 試練の時、苦難の時、礼拝を後回しにする人がいます。それは、安易に沢に下るのと同じです。苦しいから礼拝を第一にするのです。神の前に出ることを最優先するのです。

 プロゴルファーのハンター・メーハン(31歳)は、13アンダーで単独首位を走り、賞金1億を目の前にしていましたが、試合を棄権しました。理由は、妻の出産に立ち会いたいという願いでした。日本男子には真似できません。メーハンにとっての「一つのこと」は妻を愛すこと、妻のそばにいることだったのです。一つを大切にすると、何かを捨てることになりますが、それでいいのです。

 ダビデは、神を見上げ、その麗しさに圧倒されていたかったのです。ヤコブとヨハネとペテロは、栄光に輝く本来の主イエスに山の上でお会いして、腰を抜かし、何も言えませんでした。パウロは「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実は、そのほうがはるかにまさっています。」(ピリピ1:23)と言い切っています。

 ダビデは23篇でも、「いつまでも、主の家に住まいましょう。」と言っていました。ダビデは、主を愛す人、主を礼拝する大切さを誰よりも知っていた人でした。

 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。(8節)

 あなたは、今苦しいですか。上に目を向けましょう。主を礼拝しましょう。



3、神を待ち望む

 最後にダビデがしたことは、神を待ち望むことでした。

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(14節)

 どうでもいいことに、一生懸命になるのが男です。
 私が小学生の頃、友達の自転車の後ろに乗って道路を走っていたことを思い出します。運転していた友人が「目をつぶるぞ」と言ったので、俺も男だったので「俺も目をつぶるぞ」と返事しました。数秒後、二人は自転車もろとも、どぶ川に落ちました。
 
 多くの人は、同じようなような過ちを実際生活でしています。過去だけ見て、未来に目を閉じ、行方も定まらない運転をしています。
 主の前の悔い改めもなく、誠実な反省もなく、何度も何度もあの人が悪いと一方的に責めたり、自分の失敗をくよくよ考え、あげくの果てに、自暴自棄になり、混乱し、制御不能になり、結局は、現在の自分なおざりにして、未来を築く努力が後回しになり、時間を無駄にしています。

過去と現在と未来。あなたは、この3つのうち、どこに住んでいますか。

もし、あなたが主を待ち望むなら、次のようなことが起きます。
 1)祈る人、謙虚な人、悔い改める人になれる。
 2)自己本位の欲求や、感情の嵐や、不安定さから解放される。
 3)遅れず、先走らず、神のタイミングを見極められる。
 4)否定的過去から目を転じ、未来志向になれる。
 5)自分の能力の限界から解き放たれ、神の可能性を信じられる。
 6)勇気と積極性が生まれる。
 7)主によって満ち足りることを学べる。
 8)苦しみ・試練を乗り越えられる
9)新しい自分になれる。
 10)世界を変えられる。

 ターニャとジョンの夫婦は2011年、4歳の娘を交通事故で失いました。父親のジョンは、事故現場近くにいて、娘と共に救急治療室まで行きましたが、娘の死に直面しました。
 自動車を運転していたのはティーンエージャーの少年で、薬物に関わっていました。犯人の裁判に出席し、少年を知っていくにつれ、被害者夫婦は憎しみから解き放たれました。娘は取り戻せない。少年は助けられる。彼が刑務所に行けば、一生涯、暗い人生だろう。社会奉仕と薬物回復クラスを受けて、刑務所に行かないで済むようにと夫婦は嘆願し始めました。「悲しみは消えないが、彼を完全に赦した」と夫婦は明言しました。

誰もあなたの未来は邪魔しません。未来を選びましょう。明日を信じましょう。
 主を信頼し、主を待とうではありませんか。


→あなたの番です
□神の助けを振り返りましょう
□今、神を慕い、神を礼拝しましょう
□主を待ち望み、あなたの未来に希望を抱きましょう
 

 

詩篇26篇 誠実に生きる


 
 誠実に生きる。
 それは現代社会で、最も忘れ去られた生き方。
 詩篇26篇は、誠実に生きた人の告白です。
 
1、誠実に生きた人の告白

 私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。(詩編26:1 新改訳)

 弁護するという言葉は、どんな時に使うでしょう。不利な立場に陥った人が第三者の援助を要請し自分の正当性を立証してもらう時の言葉です。ですが、26篇には誹謗する人や、しつこく訴える人の姿は見当たりません。むしろ、自分の正当性を神に確認してもらいたいとして、弁護するという用語を使っているように見えます。

 弁護してくださいという言葉は、ヘブル語では本来<さばく>という意味です。そのため、他の日本語訳では以下のように訳しています。
 「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」(詩篇26:1新共同訳)
 「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。」(口語訳)

 それにしても、大胆です。私は誠実に歩いてきたと言い切れるのです。神のへの信頼は揺らいだことがないと言うのです。
 私は、こんなふうに大胆に主に言うことはできません。あなたは、どうですか。

 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。(2~3節)

 調べる、試みる、ためす。あらゆる角度から、罪があるか、不正があるかを調べてほしいとたたみかけて述べています。

 よく注目すると、「あなたの恵みが私の目の前にあり」というフレーズが織り込まれています。神の愛と神の恵みがあったので、誠実に生きてこられたと読むことができます。
 生まれてから一度も罪を犯さなかったというのではなく、大きな罪を犯し、何度も失敗し、自己嫌悪でつぶれてしまっても、神の恵みで罪赦され、罪から離れることができたと言いたいのでしょう。


2、悪者の仲間にならない

 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。(4~5節)

 嘘つき。人の陰口を言う人。だます人。徒党を組んで悪さをする人々。そういう人とは、一切関わりを持たないと言っています。詩篇1篇、冒頭部を彷彿させます。

 主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。(6~8節)

 いけにえをささげる祭壇の回りを感謝しならが歩く姿が目に浮かびます。神の栄光の住まう礼拝場所を愛し、神と共にいることを喜んでいます。

 どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。(9~12節)

 4~5節で、悪者たちに触れましたが、9~10節でも再度触れ、凶悪な人々とは無縁であることを強く主張しています。
 今までも誠実に歩んできましたが、これからもずっと誠実に歩むと心に刻んでいる様子が分かります。一言でいえば、平らな場所に立っている心境です。平安があり、安定しています。


3、誠実に生きる秘訣

 「あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」(ホセア6:4)とあるように、私たちの誠実とは、実にいい加減なものです。
 けれども、主の恵みを知り、主の贖いとあわれみ(11節)を体験した者は、謙虚さときよさを兼ね備えた生き方ができるのです。

 私の車は65マイル以上スピードを出すと、後ろのタイヤがガタガタ言ってとても乗り心地が悪くなっていました。右後ろのタイヤのホイールが一部へこんでいるとメカニックの方が指摘してくれて、新しいものに交換したら見事に安定した走りになりました。
 私たちもそれなりに正しく生きているのですが、肝心な部分にへこみや片寄りがあります。どんなに自分なりに正しいと思っても、結局、自己中心だったり、自分の罪を大目に見る生き方をしがちです。
 神に点検してもらい、きちんと心の掃除をして、悔い改め、謝るべきことは虚心坦懐に謝罪しましょう。主の恵みで贖われたのです。主の豊かなあわれみを受けたのです。ですから、主に信頼し、主の助けをもらって誠実に生きていきましょう。

 エベレストの頂上のように高くてきよらかで神に近い心を持ちながら、マリアナ海溝の最深部のような低く謙虚な心を持ち、誠実に歩むことが可能なのです。詩編26篇はその実例です。
 
 ある50歳代のご婦人が、余命半年の末期ガンとの宣告を受け、それでも動揺せずに、牧師を訪れ報告した方がいるそうです。残された時を生かし、主を喜んで礼拝し、日曜学校の奉仕をされ、主のあわれみと多くの人の祈りに支えられ2年半、主の前に誠実に生きて、本当に幸せだったと言って天に召されたそうです。
 その方は、自分が普通のクリスチャンであると述べたといいます。普通な人が、普通でない見事な生き方をされ、主から頂いた人生を見事に全うしました。主の前に誠実に生きるとはどんな人生なのかを示してくれました。

  「私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。」

 →あなたの番です
 □あらゆる角度から、主に調べていただき、悔い改めましょう
 □主の恵み、贖いに感謝しましょう
 □誠実に歩み、平らな場所に住み、主をたたえましょう




詩篇25篇 小道を行く


  私たちの人生では、道を見失うことがあります。
先に行きたいのに、障害物があって進めない。道に迷い、同じ所をぐるぐる回る。疲れ切って、先に行く気力を失う。
そんな時、詩篇25篇は大きな励ましになります。詩篇25篇は、道の詩篇です。

ところで、私は先週、聖書を読んでいた時、左目にフラッシュライトのような光が見えました。何だろうと考えて、また目を聖書に向けていると続けて光が見えます。おかしい。数分後、また閃光が見えました。以前読んだ本に、同じような症状で網膜剥離になり失明したクリスチャンの話を読んだことがあったので、愕然とし、その日は、自分の心の中だけで祈り、妻にも、教会の人にも言えないで過ごしました。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 私はただ一人で、悩んでいます。」(詩篇25篇16節)
まさに、16節の心境でした。悪いことに、翌日は独立記念日で病院は休みです。妻に話し、近所の教会員で眼科の医師に電話し、対策を教えてもらい、翌日はファミリードクターで診察、翌々日に眼科医に見てもらい、網膜剥離ではないと診断を受けました。ほっとしました。加齢のせいで、多くの人に同じ症状が出ると言われ、肩の力が抜けました。知識の足らない自分の空回りに過ぎませんでした。
妻や子供に祈ってもらい、心配してもらい、寄り添ってもらい、家族の愛、主の守りを感じました。謙虚になること、良く知っている人に道を尋ねることの重大性を身にしみて感じました。


1、全体の流れ

1)1~3節

 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。(1節)
 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2節)

詩篇の作者は今、辛い状況にある。困っている。馬鹿にされたり、笑われたりしている。でも、今の自分にできることをしようと心を決め、主を待ち望みました。


2)4~5節

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。(4節)

辛く、困っている時に、何をしたらよいのだろうか。主の道を教えてもらうことが最善の方法だ。出口なしと思える時でも、必ず神の道はある。解決の道は、人間の頭でこねくり出すものではなく、主に教えてもらうものです。


3)6~7節

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(7節)

自分を振り返ると、きれいな心でなかったし、若い時に大きな失敗もしてきた。だから、神のあわれみを求める。恵みによって、私を取り扱って下さるように願う。
罪の自覚は、導きを求める姿勢として、とても大切なもの。


4)8~11節

 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。(8節)
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。(9節)

 罪人にさえ、主は道を教えてくれる。それが、私たちの神。心の貧しさを痛切に感じる中で、咎の赦しを心から求める。


5)12~15節

主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。(12節)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(14節)

主に道を教えられる者は幸せだ。主をもっと深く知り、親しく感じるようになる。苦しむ時、共にいてくださる方が私たちの神。辛い時に、神との友情が深まる。


6)16~22節

私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。(16節)
 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。(20節)

今、確かに、苦しい。悩みは強い。だから、ひたすら、神のあわれみを求めます。助けてください。恥を見ることがないようにしてくださいと願うのです。
最初に、「あなたを仰いでいます」(1節)と告白しましたが、最後も「あなたを待ち望んでいます」(21節)と祈っています。


2、25篇のキーワード

 詩篇25篇のキーワードの第一は「道」です。4節にも、8節、9節、10節にも、「道」という言葉が繰り返されます。それで私は、道の詩篇、と呼ぶことにしました。

 「道」は、道路を表す旧約聖書で最も一般的な用語で、ヘブル語でデレクといいます。「小道」(オルハ)は、デレクの同義語で、繰り返しの際の言い換え語です。道は、人が歩く道路の他には、人生を意味します。また、方向性の意味もあります。

道は自分で作るもの、そういう考えが一般にありますし、誇り高い人間の特権のようにも思えます。ただし、詩篇25篇を読むと、道は作るものではなくて、道は教えてもらうものだと分かります。自分は道を知らないという現実、神は道を知っておられる。だから、謙虚さがどうしても必要です。

 「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)

道を教えてもらうためいは、謙虚になる必要があります。第2のキーワードは「罪」です。道が閉ざされたとき、自分のした罪が原因でこんな事になってしまった、と気づくことがあります。詩篇の作者は、道を失って苦しい時に、「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。」(7節)と述べています。主は、「罪人に道を教えられる」(8節)方なのです。

9節に「貧しい者」(アナウィーム)とありますが、この言葉の第一の意味は、謙遜な者、へりくだる者です。道を求める者は、自分の罪に気づき、自分の心の貧しさに気づいて謙虚になる必要があるのです。

第3のキーワードは、「仰ぐ」です。
道を教えてもらう心を持ち、自分の罪深さに気づいてへりくだった心を持ったなら、最後にすることは、主を礼拝することです。
あわただしく対策を練ったり、走り回って道を作ろうとする人には、心の静けさがありません。神を仰ぎ見るとか、信頼(2節)するとか、待ち望む(3節)ということは不可能です。
道を教えてもらうためには、ぴたっと立ち止まることが不可欠です。静まらないと、神のみこえは聞こえません。

「私の目はいつも主に向かう。」(15節)
「私はあなたを待ち望んでいます。」(21節)

 道を失った時、主に道を尋ねましょう。謙虚な心で、静かで礼拝する心で。


→あなたの番です
□道が見えないなら、神に道を聞く
□罪を告白し、謙虚になり、神を待ち望む