第2コリント9:1~15 豊かに刈り取る

 今日も前回に続き、献金について考えます。今回の箇所を思い巡らす中で、マルコ12章の主イエスの様子を思い出しました。

 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。」(マルコ12:41~42)

 主は、献金する人々を見ておられました。
 信仰は信仰、お金や商売は信仰とは別の問題と考えるべきではありませんね。主イエスは、献金がその人の信仰状態を表わすものだと気づいておられました。


1、生活習慣の改善

 1節から始まる献金の勧めは一見唐突に見えますが、パウロには考えがあったようです。罪のために元気を失い、ばらばらになっていたコリント教会は悔い改めにより新しいスタートを切りました。次にコリント教会に必要なのは、結束した行動であり、具体的なやり直しです。
 コリント教会は、エルサレムの貧しい人たちへの献金を開始しましたが、途中で中断していました。(第1コリント16:2~3)このプロジェクトを完成させれば、コリント教会の人々の喜びとなり、自信になります。
 
 クリスチャンになると、雰囲気や言葉使い、仕事の態度が変わります。次の段階としては、お金の使い方においても、神に喜ばれる道が何かを考えるようになります。
 家庭やビジネスでのお金の使い方について、神の光を当て、神に喜ばれるお金の使い方をしませんか。そのために、献金はとても意味ある行為です。



2、種まきの原則

 「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」(6節)

 献金は、失うことではありません。種まきです。少し蒔けば刈り取りは少ない。多く蒔けば豊かな収穫になります。献金とはそういうものです。

 献金をどれだけしたらいいか、と尋ねられることがあります。クリスチャンでない人には、自由です、強制されません、と私は説明します。神が分からなければ、献金の意味は理解できないからです。クリスチャンの人には、10分の1の原則を紹介しています。

 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10)

 「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」(レビ記27:30)

 大学4年の時、私はお菓子の詰め合わせ工場でフルタイムで週に3日ほど働きました。初めてもらう給料に喜びを覚えたのは、私としては高額の献金ができるからでした。礼拝では、格別の感激をもって献金したことを覚えています。それ以来、収入の10分の1をささげるという生活を30年以上続いています。主は約束通り、祝福を与えて下さいました。

 収入が少ない時から、主に献金する生活を始めましょう。そうすれば、収入額が大きくなったときにも同じようにできます。リック・ウォレン牧師が今では十分の九を献金としてささげているとメッセージで聞いた時、英語の聴き取りを間違えたのではないかと思ったほどでした。

 静かな心で考えてみると、私たちはすべてを神から頂いています。命も、空気も、平和も、家族も、仕事も、お金も、罪からの救いも。献金は、10分の10を神から頂いていることを絶えず思い起こし、10分の1を感謝と礼拝の印としてささげる行為なのです。
 神を第一とする人に、神は必ず応えて下さいます。


3、ささげるために、与えられる

 「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(8節)

 献金をささげたいという心を持つなら人なら、心配はいりません。神がまず必要なものをすべて与えて下さっているのですから。8節には、「常に」「すべて」「あふれる」「あらゆる」という言葉が繰り返し使われているのが印象的です。

 「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

 最終的には、こうした献金が神の栄光を表し、エルサレムの人々に喜びをもたらします。(11~15節)

 15節で、「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」とパウロは書いていますが、神からいただいた賜物とは主イエス・キリストを指しているように読めます。神のひとり子、真の救い主が私たちに与えられていることを思うと、自分自身を主にささげ、与えられているものを主と人々のためにささげていきたいと自然に願います。

 あなたの番です→
  □神が、10分の10をあふれるほどに与えて下さっている事を感謝しましょう
  □生活を点検し、献金の喜びを体験しましょう
  □身近な人に、分けること、与えることを実行しましょう

第2コリント8:1~15 献金の祝福

 7章で主からの慰めを語ったパウロは8章に入り、具体的な問題を取り上げました。

 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。(第2コリント8:1)

 マケドニヤとはコリントの北方の地域を意味し、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会を指します。これらの教会が、神の恵みを受けたことを伝えたかったのです。
 神から具体的に何か良いものをもらったから恵みなのでしょうか。いいえ。マケドニヤの教会が献金したことにより受けた神からの祝福を、恵みと呼んでいるのです。

 今日は、献金の祝福を3つの角度からお話します。献金は、1)喜びをもたらし、2)礼拝の真髄に導き、3)キリストの御姿に近づけてくれるものです。

1、与えることが喜びをもたらす

 私たちは物を集めることや金を貯めることに喜びを感じます。ですが、意味あることのために失うならば、喜ぶことができます。
 実家に帰ると、子供を手ぶらで返したくないので、親はがらくたのように見える物でも(失礼!)、「これ、持っていきなさい」と与えます。心臓病になった子供を助けるために、親は貯金を使い果たして借金しますが、そこに親の喜びがあるのです。

 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(2節)
 
 マケドニヤの教会の人々は、苦しい試練の中にあり献金どころではなかったはずです。極度に貧しかったので、与えることは本来は不可能でした。けれども、持っているお金をささげたのです。その結果、あふれる喜びが生まれたのです。「満ちあふれる喜びは」「あふれ出て」とあるとおりです。

 失うことで得る。貧しくなることで、富む。
 これが、神が与えて下さる恵みです。
 私たちは本来、分け合って生きていくように神に造られたのです。


2、自分自身をささげる礼拝者

 私たちは、献金することによって、礼拝の真髄を学ぶことができます。

 礼拝の本質とは何でしょう。それは、神への賛美と感謝であり、神のみこころを知って自分自身を主にささげることです。
 ローマ12章1~2節に書かれている霊的な礼拝の原則も、神のみこころを悟り、自分をささげることだと言っています。主に自分をささげることの一部として、献金があるのです。

 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第2コリント8:3~5)

 マケドニヤのクリスチャンは、「神のみこころ」(5節)を求めました。これが神を第一とする姿勢です。神のみこころに応答して、「まず自分自身を主にささげ」ました。「自ら進んで」(3節)、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(4節)まだ見たこともないエルサレムの貧しい人々への資金援助を彼らは決断したのです。

 私たちも礼拝でこう祈りましょう。主よ、私に命を下さり感謝します。生かして下って感謝します。家族や仕事を感謝します。罪から救って下さり感謝します。あなたは素晴らしい神です。あなたをたたえます。私のもっているものはすべてあなたから出たものです。どうぞ私を用いて下さい。私自身をささげます。私の経験と賜物を用いて下さい。そして、私の財産を用いて下さい。これらすべてを通してあなたの栄光が表されますように。

 献金することで、まことの礼拝が何かを知ることができます。


3、キリストに似る

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(第2コリント8:9)

 富んでおられた主イエスが、貧しくなられました。キリストの貧しさが、私たちを豊かにして下さったのです。

 今夏、パサディナにあるノートン・サイモン美術館でヤコブ・ファン・ライスダール(1628-1682)の大きな風景画を見て、しばらく釘付けになりました。
 ライスダールはレンブラントと同じ時代にオランダで活躍し、風景画の巨匠ターナーやロマン派のドラクロワなどにも影響を与えた画家です。私が見たのは、川のある山の風景に立つ3本の偉大な木という作品でした。森の中にそびえる3本の木が中心に描かれています。ちょうど光が差し込んでいる一本の大木の幹が無残に折れています。私は、その木に吸い寄せられ、見つめ続けるうちに大きな感動を受けました。なぜだろう。折れた木が、付近の自然を力づけ、川となり地域を潤しているように見えました。
 そうか。この木は十字架だ、と自分なりに解釈しました。

 死んでくださったお方により、私たちは命をもらいました。無実の方が、罪深い私のために身代わりになってくださいました。富んでおられた方が貧しくなって下さった。主イエスの生涯とはそのようなものです。

 献金することは、このような主イエスをほんの少し真似ることになります。貧しくなることを学ぶときです。

 今日のまとめをしましょう。献金する中で私たちは神の恵みを確かに頂きます。その具体的な意味は、以下のようなものでした。
 1)与えることで大きな喜びを受ける
 2)自分自身をささげる礼拝者になれる
 3)キリストに似た者にされる

 あなたも、心から献金することにより、神の恵みを味わいませんか。

 あなたの番です→
  □献金できることを喜びましょう
  □神への礼拝として献金しましょう
  □今週、誰かに分けたり、与えたりしてみましょう

第2コリント7:1~16 悲しみと慰め

 悲しむ時、落胆した時、私たちが求めるものは何でしょう。それは、慰めです。今日は、慰めについて考えましょう。

1、安らぎを失い、気落ちした時

 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。(第2コリント7:5)

 パウロは、安らぎを失っていました。信仰の勇者パウロでも狼狽することがあるのです。厳しすぎたかとコリントに宛てた手紙の内容を一時は後悔しました。(8節)
 パウロは、コリント教会に書いた手紙の反応を心配し、トルコ半島の北西部の町トロアスでいてもたってもいられず、海を渡ってギリシアに渡りマケドニア地方に移動したほどでした。(第2コリント2:12~13)

 あなたは今日、安らぎがないかもしれません。仕事や家庭の問題で、まさに「外には戦い」(5節)という状態ですか。あるいは、心の中の心配事が多すぎて「うちには恐れ」という状態かもしれません。このようにストレスの多い毎日の生活に、決定的と思えるような大きな問題が一つ加わると安らぎを失い、気落ちします。正面から問題に立ち向かう気力を失います。

 かなり昔のことです。サーカスのチケットを買うために夫婦とその子供8人が立っていました。良くしつけされた子供達は二列に並び、サーカスの楽しさを想像して期待に胸をふくらませて語り合っていました。
 父親が担当者からチケットの総額を聞いて「えっ、いくらですって」と困惑の表情を浮かべました。思った以上に高額だったのです。そのとき、誰かが肩をたたきました。見知らぬ男性が「失礼ですが、この紙幣があなたのポケットから落ちましたよ」と言うと、入場料に見合うお金を差し出しました。その父親は目に涙を浮かべ、感謝してそれを受け取りました。

 私たちの神は、「気落ちした者を慰めてくださる神」(6節)です。生きて働く神が、あなたを慰めてくださいます。あなたは、それを信じますか。

 「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。」(詩篇138:8)


2、悲しみの力

 コリント教会で何かトラブルが発生したようです。12節によれば、悪を行った加害者とそのために被害を受けた人がいるようです。教会の対応が適切でなかったため、問題解決ができず、悪い影響が残ったようです。
 パウロは、根本的な解決のために、問題の原因がどこにあるのかを厳しい言葉で指摘し、何をすべきかを指導したようです。テトスが戻って来て、良い知らせを伝えてくれました。

 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。(6~7節)

 コリント教会の人々は、パウロの手紙を読み、テトスの説明を聞き、二つの点で大きく変化しました。罪を悲しみ、態度を変えてパウロを心から慕うようになったのです。
 問題解決の鍵は何だったのでしょう。それは、神のみこころに添った悲しみです。

 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第2コリント7:9~10)

 悲しみには、力があります。

 神のみこころに添って悲しみ、悔い改めるなら、前に進む力が与えられます。

それは、憎しみを引きずった悲嘆のことではありません。悔し涙でもありません。神の前での自分の罪を嘆くことです。

 神のみこころに添った悲しみからは、赦しの喜びが生まれます。優しい気持ちになれます。自然な形で、周囲の人に「ごめんなさい」と言えます。自分らしくなれます。神に愛されていることを、しみじみと感じさせてくれます。現実的に問題解決をしようという勇気が与えられます。

 悲しみは、慰めの注ぎ口になるのです。

 主イエスの言葉を思い出します。「悲しむ人者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)

 若い女性が、買ったばかりの新車を運転中、停止していた車に追突しました。夫に買ってもらった車なので、ショックが大きく、思わず泣いてしまいました。
 事故処理のため車の登録証を出そうとダッシュボードから封筒を出すと、中に紙が入っていていました。夫の字で事故を起こした時の対処法が書いてありました。その中に、「僕が愛しているのは車じゃなくて君だということを忘れないでほしい」と書かれてありました。

 父親の皆さん。妻と子供たちに、「すまなかった」と心から言いましょう。あなたの悲しみが、誰かを慰めることになります。奥さんたち、夫と子供達に言いましょう。「悪かったわね」と。子供達、兄弟や父母に言いましょう。「ごめんなさい」と。

 あなたの神の前での悲しみは、周囲の人をいやします。

 あなたの番です→
 □「気落ちした者を慰めてくださる神」は、あなたの肩に手を置いて下さいます。
 □神のみこころに添った悲しみをあなたのものにしましょう。

第2コリント6:1~18 今は恵みの時

 神の恵み。
 それは、神から人に注がれた愛の別名です。
 今日は、神の恵みを無駄にしない生き方を考えてみましょう。

1、釣り合わないくびき
 
 最初に、6章の最後のパラグラフである14節から7章1節の部分を取り上げることにします。ここでパウロは、率直に、大胆に、これから結婚しようとする人に対して忠告しました。

 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(14節)

 くびきとは、二頭の牛の首に木材を乗せて首をつなぎとめる農耕器具です。信仰を持っていない人がすでに頭を入れているくびきに、クリスチャンが頭を入れないように、とパウロは警告しています。この場合のくびきは、不自由さ、重労働、不平等さ、などがイメージされています。

 パウロは、正義と不法、光と闇、神とベリアル(サタン)などの接点のないペアを列挙し、釣り合わない結婚もそれと同じだと指摘しました。15~7章1節において、パウロは旧約聖書を複数箇所引用し、<分離すること>の大切さを語りました。

 フラー神学校の心理学者で結婚カウンセラーのニール・カレン・ウォレン博士は30年以上の臨床経験から、精神世界を重要視する人とそうでない人の結婚は必ず問題にぶつかる、とその危険性を警告していますが、パウロが2000年前に述べたことを現代的視点で検証していると言えるでしょう。

 結婚に限らず、クリスチャンがこの世の中の罪の伝統、社会や会社の悪いしきたりに染まるということも、同じ問題をはらんでいます。「彼らと分離せよ」(17節)とパウロは言います。こうした生き方は、神の恵みを無駄にしない生き方の一つです。

2、今は恵みの時

 パウロは5章で神の救いの素晴らしさを語り、パウロ本人も私たちも福音を伝える使節として任命されていると語りました。6章の冒頭1~2節では、その余韻が残る中で、今こそ、神の救いを受けよと熱く呼びかけます。罪を知らない方を十字架にかけてまで(5:21)、あなたを救おうとした神の恵みをむだにしてはいけない、今日は救いの日だと述べます。

 「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」(1節)
 「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2節)

 神の恵みは、感謝して受け止める人がいないなら、無駄になります。まるで、受け取り手のいない流しそうめんのようです。
主イエスを救い主と信じる。これが、神の恵みを無駄にしない、最も大事なことです。今、救いに招かれていたら、今、主イエスを信じましょう。

 あなたがすでに、主イエスを信じているクリスチャンなら、愛において成長し、キリストの姿へ変えていただきましょう。
 友達が「パンクして困っている」と電話してきたとします。あなたならどうします。それも、相手がアリゾナにいたとしたら。

 成長のポイントは、決断をして愛の行動をすることです。大切な人のため、まるで車をユーターンさせるように、親切さと思いやりのある行動を選ぶことです。

 恵を無駄にしない生き方とは、神の愛に応答して、実際のアクションに落とし込むことです。



2、福音にふさわしく

 パウロは、自分が語る内容と、自分の生活態度が矛盾しないように生きていると3節から10節まで語ります。これも、恵を無駄にしない姿勢です。

 「あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と」(4~6節)

 福音にふさわしく歩もうとするなら、困難は避けられません。それは、パウロの人生を見れば一目瞭然です。パウロはその苦しみの中でも、寛大な心や思いやりを忘れませんでした。原文のギリシャ語を読むと、苦しみも親切も同じ文章形態で書かれてあり、パウロにとっては、苦しさに耐えることと、人を思いやることに、何の区別もないことに驚きます。

 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(6~10節)

 私たちは、人から評価されたり非難されたりして一喜一憂しますが、人生とはそういうものだとパウロは達観しています。
外見は、否定的で、弱くて、貧しく、魅力のないものに見えるのがクリスチャン生活の一面です。ところがどっこい、実態は正反対だとパウロは体験的に言います。
 貧しくても人を富ます生き方ができると言います。無一物無尽蔵。それは、主がおられるので可能となるのです。主の恵みゆえに実現する信仰生活の真髄なのです。
「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」

 トム・ハーケンは1992年、レストラン事業で大成功した創業社長としてアメリカで栄誉ある賞を受けました。彼は、長い間字が読めず、書けなかったことをその時のスピーチで自分の子供たちと出席者の前で明かしました。妻の助けで、やっと克服したといいます。
 小児麻痺と結核のため教育を受ける機会を失ったトムは、字が読めないままで掃除機の訪問販売を行い、名前、住所、電話番号、購入機種などを暗記、書類書き込みを夜になって妻に頼みました。そうした熱意が全国一のセールスマンにしました。
 トムがアメリカの有名大学で、名誉博士号を授与され、卒業式の記念スピーチをしたことがありました。その前夜、大学当局者から、我が大学は中立をモットーとする格式のある大学なので神についての話をしないでほしいとやんわりと忠告されていましたが、「大学に必要なのは神です。神を知らない人生は問題にぶつかる。神を求めましょう」と大胆に語り、聴衆のスタンディングオベーションを受けました。トムはどんな場所に行っても、神に助けられ、妻に支えられ、今の自分がある、とあかし続けています。

 神の恵みを無駄にしないため、あなたはどんな選択をしますか。

 神を第一に、福音のためにすべてのことをする決断を絶えずしていくなら、主はあなたの人生を豊かに祝福してくださいます。
 たとえ、苦難があっても、別れがあっても、貧しくても、弱くても、主と福音のために生きる人には神の助けが豊かにあります。


 →あなたの番です
 □あなたのプライオリティーを明確にしよう
 □主の恵みを無駄にせず、今、大事なものを選び取ろう
 □主よ、貧しくても、弱くても、多くの人を富ます人生にしてください

 「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(第1コリント9:23)