第1サムエル20:1~23 ヨナタンの友情


 今日のテーマは友情です。

1a friend in need  <友を必要とする時>

 ダビデは親友ヨナタンを頼りました。サウル王に命を狙われていて、他に行くところがなかったのです。まさに、a friend in need です。

 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」(第1サムエル20:1)

 1節のダビデの言葉は、ほとんど愚痴です。私は何も悪いことをしていないのに、ひどい仕打ちを受けた。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」(3節)と心境を語りました。あの勇者ダビデも弱り果てる時があるのです。ダビデが頼れたのは親友のヨナタンだけでした。

 するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」(4節)

 ヨナタンは、ダビデを拒絶したり怒ったりせず、「何でもあなたのためにしましょう。」と援助をおしみません。実に熱い友情の言葉です。

 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。(16~17節)

 自分を愛するほとに他者を愛すという記述は、第1サムエルに3ヶ所だけで、すべてがヨナタンがダビデを愛したという文脈です。

友情は、過去にはなく、現在と未来の中にあるものです。たとえ何歳になっても、友情は明日に向けて作り上げるものです。

大切な友人の所に行けたのが葬儀の場面だったというのでは寂しすぎます。葬式に行っても、何もなりません。生きているうちに、訪ねましょう。

 「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(箴言17:17)


2、友のために行動するヨナタン

 しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。「どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。」ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。(27~28節)

 ダビデは新月際の祝いの宴を欠席しました。2日目になるとサウル王は、欠席したダビデを責め、ヨナタンはダビデを必死にかばいました。そのため、ヨナタンは父親サウルと激しい口論になりました。

 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」(30~32節)

 烈火のごとくに怒ったサウルは、槍をヨナタンに投げつけました。サウル王の真意がダビデ殺害だと確信すると、ヨナタンは怒りに震えて食卓から立ち去りました。ダビデへの侮辱に心を痛めたからでした。(33~34節)

 ヨナタンは、父よりも、ダビデを取ったのです。

 私たちは、今日、友達のために何ができますか。
 食事を作って届けてあげる、引越しを手伝う、弱り果てた友の言葉に静かに耳を傾ける。あなたは、友のために何ができますか。


3、a friend indeed 本当の友

 ヨナタンは父サウル王の動向を調べてダビデに告げると約束し、それを実行しました。ヨナタンは野原に出て矢を放ち、矢は向こう側にあるぞと従者の子供に大声で教えました。これは、二人で取り交わした暗号で、命が危ない、逃げろという意味でした。

 子どもがヨナタンの放った矢の所まで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んで言った。「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。」ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味がわかっていた。(37~38節)

 「早く。急げ。止まってはいけない。」(41節)命があぶない、二度と会えないかもしれないというヨナタンの悲痛な言葉です。
 
 子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。(41~42節)

 ダビデは姿を表し、3度地にひれ伏しました。異例とも言える挨拶です。これは、ヨナタンへの感謝の表れです。二度と会えないことを覚悟した別れの挨拶です。その後、二人は抱き合い、激しく泣きました。友情が深ければ深いほど、別れはつらいのです。

 地上の友情には終わりが必ずあります。いずれかが死ぬ時です。でも、ヨナタンは、二人の友情は主の守りによって永遠になると考えました。どちらかが死んでも互いの子供を守ると約束しました。主が間に立って下されば、永遠の友情も成立すると考えたのです。

 『とんことり』(筒井頼子、林明子)という絵本を知っていますか。
 主人公のかなえちゃんが山の見える町に引っ越してきます。玄関ドアに郵便受けがあり、そこにすみれの花束やタンポポが届きます。やがて手紙が届き、「ともだちはいいです。とてもうれしいです。まっています」と書かれていました。物語は、かなえちゃんが手紙や花束をくれた子と友達になって終わります。すみれやタンポポ、手紙を贈った子は、自分から友情を始めた人なのです

 第1サムエル18:1によると、二人の友情はヨナタンから始まったことが分かります。ヨナタンはダビデを「自分と同じほどに愛した」のです。友情を始めた人がヨナタン。自分と同じほどにダビデを愛した人がヨナタン。ダビデのために犠牲を払ったのがヨナタンなのです。そして、第1サムエル31:2によると、二人のうち先に死んでいくのはヨナタンでした。

 私は、先週、大切な友人と久しぶりに会い色々なことを語り合いました。一緒に昔のアルバムを見ましたが、写真の中では二人とも高校生でした。友人がしてくれたことを、たくさん、たくさん思い出し、感謝の言葉を伝えました。

 聖書によると、主イエスは私たちの親友であることが分かります。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:12~13)

 ヨナタンの姿は、主イエスにどこか似ています。私たちは主イエスの友になろうと考えたこともありません、イエスさまのほうから友になってくれました。命を捨てて私たちを救ってくれました。
 あなたは、一人ではありません。主イエスは永遠の友です。私たちも、主イエスに対して友情を示しましょう。

 「友はどんなときにも愛するものだ。」(箴言17:17)



 →あなたの番です
  □友情を始めましょう
  □友のために、今、何ができますか
  □親友イエスのために、何をしますか

第1サムエル19:1~24 逃げるダビデ


 豪傑ゴリアテと戦った勇士ダビデが、今日の箇所で逃げ回っています。
 ダビデは4度も逃げ隠れしました。(2、10、12、18節)今日のテーマは、逃げる、です。

1、忠告を聞いて逃げる

サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。それでヨナタンはダビデに告げて言った。「私の父サウルは、あなたを殺そうとしています。それで、あしたの朝は、注意して、隠れ場にとどまり、身を隠していてください。」(第1サムエル19:1~2)

 親友ヨナタンが最新で正確な情報を伝えてくれました。サウル王はダビデを殺すと宣言した、命が危ない、逃げて隠れろ、と忠告したのです。
 ヨナタンは父であり王であるサウルを必死に説得、その結果ダビデはサウル王のもとに戻れました。

 ダビデは友の忠告に耳を傾け、逃げました。
 私たちも親友の忠告を良く聞いて、思い切って逃げましょう。


2、槍から逃げる

ときに主からの悪い霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。(9~10節)

琴を演奏して王の心を静めていたダビデは、サウルの手に槍が握られていた事に気づいていました。危険だ。ダビデはサウルの槍から身をかわし、戦わずに逃げました。

実に理不尽です。不条理です。命を狙われる合理的理由がありません。ダビデは何一つ悪いことはしていないし、サウル王のために命をかけて戦ってきたのです。
ダビデはサウルより強く、戦えばサウルを殺せます。でも、サウルは王であり自分は部下です、また、相手は妻の父です。義理の父を殺すわけにはいきません。

逃げるべき時は、いつも理不尽です。自分が正しくても、逃げなければならない時があります。人生には、戦うべき時もあれば、逃げるべき時もあります。どちらも、同じくらい勇気が必要ですが、撤退のタイミングを見極めるほうが難しいのです。

良く考え、良く祈り、逃げましょう。学校を変わりましょう。引越しましょう。会社を辞めましょう。日本に戻りましょう。あなたの命とあなたの家族を救うためなら、逃げることは勇気ある選択です。


3、窓から逃げる

サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。(11~12節)

 「今夜、あなたのいのちを救わなければ」 異常を察知した妻のミカルは、ダビデを窓から逃がし、ダビデが遠くまで逃げられるように等身大のテラフィムをベッドに入れて監視の目をくらまし時間かせぎをしました。
ミカルのように、危険を承知であなたが逃げるのを助ける人が現れます。また、あなたがミカルになって誰かを助けることもあります。勇気を出して助けましょう。

 自殺の危機から生還した15人の体験談が掲載された『命のメッセージ』という本があります。その中で、株でもうけ、株で失敗し、2500万円の借金を背負った人の話が出てきます。彼は、自殺直前に『たとえ破産しても人生はやり直せる』という本を読み、本の中に出ていた牧師を尋ね、自己破産の道を教えられ、主イエスを信じて人生を再構築しました。その牧師の助言が自殺から守ってくれたのです。

 お金の問題で悩む人がいますか。自己破産は、自殺せずに人生をやり直すための合法的な制度です。

窓から逃げるのはみっともない、などと言ってはいけません。逃げるのです。ミカルのような人が現れます。
また、あなたがミカルの立場になって、誰かを助けることもあります。あなたのそばにダビデがいますか。


4、サムエルの所に逃げる

ダビデは逃げ、のがれて、ラマのサムエルのところに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そしてサムエルと、ナヨテに行って住んだ。(18節)

 ダビデは逃げ込む場所を探しました。預言者サムエルが頭に浮かびました。ラマという町にいたサムエルを訪ねました。
 大きな問題を抱えた人は、信頼できる人のところに逃げ込みましょう。そして、「いっさい」を話しましょう。そうすると平安がやってきます。この時、自分の失敗のすべてを明らかにしないと適切な助けは受けられません。

 アメリカには、シェルターという制度があり、たとえば家庭内暴力を受けた女性が逃げ込むシェルターがあり、外部の者はその施設がどこにあるのか知ることができません。そうした制度を利用して、安全な日常生活に戻った人を私は知っています。

 その後、誰かがダビデの居場所をサウルに密告。(19節)サウルの部下が派遣され、ダビデは逮捕の危機に陥りました。

そこでサウルはダビデを捕えようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。サウルにこのことが知らされたとき、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを送ったが、彼らもまた、預言した。(20~21節)

最後にサウル自身がやって来ても同じ状態になり(22~24節)、ダビデは難を逃れました。万事休すと思える時には、主ご自身が助けて下さいます。


 今日の箇所は、何年にも及ぶダビデの逃亡生活の入り口に過ぎません。この逃亡生活がダビデを真の信仰者にしました。彼の苦しみの経験が祈りとなり詩篇として書き残され、後に、多くの人を慰めることになります。苦しみの経験は無駄にはなりません。
この時の心境をダビデが歌にしたのが詩篇59篇です。

「しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。」(詩篇59:16)

「こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き難をのがれた。」(12節)

→あなたの番です
 □今は、逃げる時ですか。希望を持って逃げましょう。
 □あなたにとって、助けを求めているダビデとは誰ですか。
 □主ご自身が助けてくれると信じますか。

第1サムエル18:1~30 王の嫉妬


 サウルは嫉妬した。
 一国の王が若者のダビデに嫉妬した。
 今日は、嫉妬について考えます。

1、ヨナタンの友情

 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。(第1サムエル18:1)

ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。(4節)

 ここは聖書の中で最も美しい友情の場面だと私は思います。勇敢な兵士として知られたサウルの息子ヨナタン(英語ではJonathan=ジョナサン)は、ダビデを嫉妬しません。「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」とあります。ゴリアテを倒したダビデの鮮烈なデビューは、王子としてのヨナタンの立場を危うくしますが、ヨナタンはダビデをねたみません。純真な心でダビデを尊敬し、友情の印として上着や剣を与えました。
尊敬心と友情。それが嫉妬から私たちを守るキーワードです。

 錦織選手がテニス全米オープンの決勝に出場。99.9%の日本人はその活躍を喜んだはずです。でも0.1%の人は嫉妬したかもしれません。それは誰でしょう。同年輩や少し年上の男子プロテニスプレーヤーの心中は複雑だったと推測できます。

 私も嫉妬したことがあります。自分より若い人、有能な人がいるだけでジェラシーが生まれます。息子と結婚した若い嫁。職場に入って来た有能な新入社員。教会に加わった熱心で前向きな後輩クリスチャン。
 そういう人の良さを率直に評価しましょう。尊敬しましょう。自分から友達になりましょう。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)


2、嫉妬の恐ろしさ

 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」(6~8節)

 ダビデは、若く、ハンサムで、ゴリアテを倒すほどの武勇に優れ、音楽も上手、国民から絶大な人気をほこり、女たちの流行歌にまでなりました。サウル王は嫉妬で燃え上がりました。

 1921年テニスのデビスカップで、日本の清水善造選手はアメリカのW・T・ティンデルと決勝戦で戦い、7-5、6-4、5-4となりマッチポイントでラインぎりぎりのサーブを決め、ティンデルは敗北を認め握手を求めてきました。ところが、審判は無効を宣言。清水選手はこの判定で緊張感が切れ、結果的には負けてしまいました。
 この時の審判、C・N・フォーテスク氏は、「あのサーブは入っていた」と死の間際に告白しました。アメリカ選手がアジア選手に負けるのを見るのは忍びなかったというのです。嫉妬が人の人生を狂わせました。

嫉妬の恐ろしさとは何だろう。それは、自分が嫉妬していることに気づかないことです。嫉妬していることを認めたくないのです。誰かを正当に評価しているつもりでも、客観的に見るなら、人の小さな欠点を責め、優れた点を否定し、いじめているだけです。
嫉妬は、恐れと猜疑心を引き起こし、やがては、殺意に至ります。

 その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。(10~11節)

槍による殺害に失敗したサウルは、ペリシテ人の手によってダビデを殺そうと画策し、危険な戦場にダビデを送り込みました。(17、21、25節)間接殺人です。
「サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。」(17節)

 サウル王は、次に、娘のミカルを嫁にやるというニンジン作戦でダビデ殺害を狙いました。100人のペリシテ人を殺してその印を持ってくれば花嫁料とみなそう(25節)と伝えました。ダビデは、その2倍の200人を倒し、みごとに王の娘ミカルと結婚しました。(26~27節)サウル王は、またも失敗しました。

 人と比較するから不幸になるのです。比較を止めると心穏やかに過ごせます。

身近な若い人に異常に腹が立っていませんか。それは、嫉妬です。嫉妬はあなた自身を苦しめます。


3、愛されたダビデ

サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。(12~16節)

ダビデの特徴は、愛される人です。この18章には6回「愛された」という言葉が使われていますが(1、3、16、20、22、28節)、愛されたのはすべてダビデです。「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。」(16節)ダビデはヨナタンに愛されました。ミカルに愛され、イスラエルの人々に愛され、サウルの家来にも愛されたのです。
                                     
それだけでなく、主が共にいてくださることが分かります。ダビデが主と共にいたとは書いてありません。主のほうが、ダビデと共にいることを喜ばれたのです。「主はダビデとともにおられ」(12節)「主が彼とともにおられた。」(14節)「主がダビデとともにおられ」(28節)これは、主がダビデを愛しておられたと理解してよいでしょう。

選ばれた人、有能な人、愛された人、昇進した人は必ず嫉妬されます。必ず通る試練です。ダビデは、サウルの嫉妬を真正面から取り合わず、与えられた使命を誠実に謙虚に淡々とこなしました。嫉妬された時に足を取られない生き方は誠実さと謙遜です。

それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」(23節)

 ダビデは「私は何者なのでしょう」(18節)と語り、傲慢さのかけらも示しません。

 かずとし君は幼い時に小児麻痺になり、足は動かず立てません。右手は全く動かず、左手が少し動く程度でした。3歳の時に母に死に別れ、青年期には二番目の母と父親が死んでしまいました。物心ついた時から畳をいざることしかできず、1930年代という時代背景もあり、小学校は彼を受け入れてくれませんでした。外で遊ぶ子供をねたんだことでしょう。
 青年時代に初めて聖書を読み、神が私を造られたのだと気づき、生まれついての盲人について主イエスが「神のわざがこの人にあらわれるためです」(ヨハネ9:3)と言われる場面を知り、人生が大きく変わり、主イエスを信じました。それ以来、リヤカーに乗せてもらって往来で主イエスの福音を力強く語る人、多くの人を励ます人に変わりました。
 もう人との比較はしません。嫉妬の人生に決別しました。主から与えられたものを感謝し、主と人のために生きることが生きがいとなりました。この人が、札幌で活躍された三橋萬利牧師です。

 嫉妬しない道は、1)人と比べない、2)与えられているものを感謝する、3)主への恩返しを具体的に行うことです。ダビデは、まさに、そういう人でした。

 今日の登場人物を整理しましょう。あなたは誰に似ていますか。
  尊敬と友情のヨナタン。
  嫉妬と殺意のサウル王。
  謙虚で人に愛されるダビデ。

「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。」(14節)
「イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。」(16節)

 →あなたの番です
  □誰に、どのように、尊敬と友情を表しますか。
  □醜い嫉妬心を捨て去ろう。
  □主に愛される謙虚な人になろう。



第1サムエル17:34~54 ダビデとゴリアテ


 人生には戦うべき時があります。ダビデから勝利の秘訣を学びましょう。

1、戦うと決意する

ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。(第1サムエル17:4~5)

 エルサレムから南西27キロの地点でペリシテ人とイスラエル人がにらみ合っていました。
 ゴリアテはペリシテ人の代表戦士で身長2メートル60センチ以上の大男、イスラエル兵は彼を見て戦意喪失し(11節)ていました。ペリシテ人は心理戦に持ち込み、戦わずに完全降伏を引き出す作戦に見えます。

 サウル王は、40日間(16節)手も足も出ません。サウルもイスラエル兵も自分以外の誰かが戦うことを願い、まるで他人ごとです。

ダビデは、兄たちに食料を届けに戦場に来た時(17~23節)にゴリアテを見て、私が戦うと心に決めました。

この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。(26節)
ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(32節)

 人生には戦うべき場面がやってきます。我慢しても悪化する、逃げていては解決がない、大切な人が苦しむのは見ていられない。そんな時は、前に出て戦いましょう。

 子供に何か問題が起きた時、たいていの父親は「お前のせいだ。家庭のことはお前に頼んでおいたのに」と妻のせいにします。子供や妻の問題でなく、自分の問題なのだと、自分の戦いなのだと自覚すると道は開けます。

 日本の環境省の文書によると、森で熊に会ったら走って逃げるなと警告しています。熊は時速40キロで走れるし、逃げるものを追う習性があるからです。人生でも逃げると負けます。戦いを自分で引き受けたなら、勝ったも同然です。

 あなたにとって、ゴリアテとは何ですか。もしかしたら、今、戦う時かもしれません。



2、自分らしく戦う

 戦うと決めたなら、次は戦い方が問題になります。
 ダビデは自分らしく戦いました。人まねをせず、自分の強みを出すことが、自分らしさです。

ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」(37節)

 ダビデは羊飼いをしている時、ライオンや熊と戦い勝利しました。今まで、救って下さった主は、今度も救って下さる。過去の主の助けを基盤に、この戦いも勝利できると考えることが、ダビデの強みでした。それが彼の信仰でした。

サウルに鎧を貸してもらいましたが重すぎて脱ぎました。その代わり、羊飼いの杖と石投げを手に持ちました。それは、使い慣れた道具です。なめらかな石を皮に包み込み、ぐるぐると振り回し遠心力をつけ投げます。
 
自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。(40節)

 ゴリアテの兜や鎧に隙はありません。ですが顔だけは無防備でした。
 格闘技でも球技でも、敵のペースに支配され、自分らしさを封じられると何もできずに敗北します。だから、自分らしさを出せるなら勝利できるのです。

 あなたらしく戦いましょう。あなたらしさとは何ですか。
あなたの石投げとは何でしょう。



3、主の戦い

ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(45~47節)

この戦いが「主の戦い」であるとダビデは自覚しました。これが、サウル王になく、ダビデにある信仰姿勢の違いです。「この戦いは主の戦いだ」というダビデの言葉は、聖書で初めて人の口から出た表現です。「主の戦いとは何ですか。主が戦ってくださる戦いです。主の栄光が表れる戦いです。

ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。(49~50節)

私たちにとって、主によって戦うとは何を意味しますか。祈ること。誰かに祈ってもらって戦いに臨むこと。聖書の言葉を励ましとすること。主から勇気をもらって、実際に行動すること、です。

 ヘミングウェイの小説「老人と海」は、年寄の漁師サンチャゴが小舟で海に出て3日3晩かけて大きなカジキを釣るという物語です。命がけで捕えたその獲物に襲い掛かかるサメを撃退した後に漁師は独り言をいいます。Man is not made for defeat.(人間は負けるようには造られていないんだ。)

 私たちも同じです。負けるために生まれたのではありません。自分の戦いなのだと自覚し、自分らしく戦い、主の力を頂いて勝利する人生としましょう。


 「万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」(45節)
 「主はおまえを私の手に渡される。」(46節)
 「この戦いは主の戦いだ。」(47節)

 あなたが戦う時です。自分らしく、主のために、主の助けによって戦いましょう。主はあなたに必ず勝利を与えて下さいます。

 
 →あなたの番です
  □私が戦うと心に決める
  □自分らしく戦う
  □主によって戦う