詩篇63:1~11 仰ぎ見る

 詩篇の第二篇(詩篇42~72篇)の中心テーマは、神が選んだ王と神との絆です。神は、敵に追われたダビデを助けて下さる。ダビデ王は、苦難の中でも神を信頼する。
詩篇63篇には、ダビデから神に向う賛美であふれています。


1、砂漠で

神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。 
水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、 
あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。 
(詩篇63:1)

 詩篇63篇の表題から分かるように、ダビデは敵の攻撃から避けるためユダの荒野にいました。ダビデの最大の関心事は命ではありません。「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」とあるように、ダビデの最大の関心事は神でした。

 ダビデは荒野に逃げ込んだので水に困り、喉はカラカラでした。痛切に感じた喉の渇きと、神を求める心を重ね、神に対する魂の渇きを表現しました。「私はあなたを切に求めます」もっと神を知りたい、もっと神の近くにいたい、もっと神の言葉を聞きたい、という願いです。
 私たち礼拝者の心の根底に必要なものは、神への渇きです。


2、聖所で

私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、
あなたの御名により、両手を上げて祈ります。(2~4節)

 2~4節を読むと、ダビデは聖所で礼拝しているように見えますが、本当は荒野にいます。神殿が完成するのはダビデの息子ソロモン時代で、ダビデ時代のエルサレムにはテント式の粗末な礼拝施設しかなかったのです。

 何もない砂漠も、心一つで聖所にできるのがダビデです。ダビデは、神を仰ぎ見て、神を賛美し、両手を上げて祈りました。神の恵み(神の愛)が何よりも素晴らしいと本気で思っていたのです。


3、満ち足りて

私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私をささえてくださいます。(5~8節)

 「脂肪と髄」は、家畜の肉では当時最も高価な部分です。神へのいけにえの動物ならばすべて燃やしてささげる最良の部分とされていました。ダビデは、食物の乏しい逃亡生活で、「脂肪と髄」のご馳走のような満足があると告白しました。神が共におられるからです。
 
 夜更けに目覚めると、心細くなり、否定的な事を考えやすいものです。ダビデは、そんな夜も、神に焦点を合わせました。神の御翼に守られた日々を思い起こし、神の右の手による助けをかみしめたのです。
 たとえ今、乏しくても、神からの満足はそこにあります。


4、勝利の喜びの先取り

しかし、私のいのちを求める者らは滅んでしまい、地の深い所に行くでしょう。
彼らは、剣の力に渡され、きつねのえじきとなるのです。
しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。
偽りを言う者の口は封じられるからです。(9~11節)

 敵の大軍の足音が聞こえるような中でも、ダビデは勝利を信じていました。敵は必ず滅びる。その屍は野犬やジャッカルの餌になると信じました。「しかし王は、神にあって喜び」とあるように、ダビデは、神への信頼に基づいてまだ見ぬ勝利を先取りしました。


ダビデは、高性能一眼レフカメラのような信仰を持っていました。<問題>に焦点を合わせず、神にピントを合わせました。だから、問題はぼやけて単なる背景になり、焦点が当てられた神の姿が心に鮮やかに焼き付けられたのです。

ある女子大生が地下鉄のトイレに入りました。そこに初老の男が立っていて、中空を見上げていました。「ここは女子トイレよ。何であなたがここにいるの」と彼女は責めました。男が頭を下げると、トイレの個室から「お父さん、終わりましたよ」と声がしてドアが開きました。痩せこけた年配女性が立っていました。男性は彼女の手を取って洗面台に行き、水を流してあげると、女性は手を洗い、男性がタオルを出してあげました。それから、二人そろって深々と頭をさげて、ゆっくり、ゆっくりと出口を目指しました。
女子大生は自分の言葉を後悔し、同時に、夫婦の愛の姿に感動し、涙が止まりませんでした。彼女は、ある部分にしか目が行かず、全体が見えていませんでした。

 63篇をまとめます。
 ダビデは、渇きや飢え、否定的な考え、敵の力の強大さ、殺される危険性などに心の焦点を当てませんでした。むしろ、神にピントを合わせました。神を求め、礼拝し、神を賛美し、神の愛と助けに感謝することによって、喜びと平安を得たのです。

「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」(1節)

→あなたの番です
 □問題にでなく、神に心の焦点を合わせる
 □神を仰ぎ見て、感謝し賛美する

詩篇62:1~12  黙って待つ


 哲学者オイゲン・ヘリゲルは1924年に来日し東北帝大で哲学を講じましたが、日本の心を知るために弓道を学びました。免許皆伝の師、阿波研造は、的を狙うな、自分の力で弓をひくな、などと教えたのでドイツ人の彼は理解不能に陥りました。
 ある夜、師は的の前に香取線香だけをともした暗闇の弓道場にヘリゲルを招きました。阿波研造はその条件下で、28m先の的の真ん中に矢をあてました。次の矢は、刺さった矢筈(やはず)を切り裂いたのでヘリゲルは驚嘆したといいます。

 的に当てようとするなら、的を狙うな。これは理解を超えたアドバイスです。ダビデも詩篇62篇で驚くようなことを言いました。激しい攻撃を受けたなら、ただ神を待てと。


1、敵の攻撃

おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。
おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。
あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。
まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。
彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。(詩篇62:3~4)

 ダビデの敵の様子は、3~4節と9~12節に描かれています。
「傾いたやぐら」「ぐらつく石垣」という表現は、敵の攻撃を受けて崩れ始めた最も弱い部分を意味し、ダビデがどれほど追い込まれていたかを示しています。敵の攻撃を受けて、ダビデは精神的にもダメージを受けていました。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。
はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。
圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。
富がふえても、それに心を留めるな。(9~10節)

敵はダビデを倒すためなら手段を選ばず、偽り、圧制、強奪、など悪辣な方法を用いてダビデを叩き潰そうとしました。敵は富に目がくらんでいました。

けれども富も権力も空しいものです。富や権力だけを求める敵は、実に薄っぺらな存在で、空気より軽いのです。神は必ず彼らの行ないに報いることでしょう。(11~12節)ダビデは、その敵を俯瞰し、敵の招待を見抜いていました。

神の前で静まり、神を信頼していると、このように敵の正体を見抜けるのです。


2、黙って待つ

 敵からの集中攻撃を受け、劣勢に立ったダビデは、平静な心でいました。1~2節は5~6節で繰り返されているので、最も大切な事だと分かります。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(1~2節)

 1節の原文は動詞のない文章です。順序通り直訳的に言葉を並べるなら、<ただ神に向って私の魂は沈黙、私の救いは神から>となります。新共同訳が「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」と訳している意味が分かります。
 ここでの沈黙は、心を閉ざしたり、自分の心の中に降下していくものではなく、神に開いた沈黙です。神の語り掛けに耳を傾けるための沈黙です。
 「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」沈黙して初めて聞こえる音があります。神に向って沈黙すると、神の語りかけが聞こえてきます。神がどんな方か気づいてきます。

 あなたは、混乱したり、迷ったり、苛立ったりしていますか。それなら、問題に焦点を合わせず、まず最初に神に心を向けて沈黙しましょう。神だけを信頼しましょう。
すると澄んだ心になり、本当の助けが神から来るのだと安心できます。姑息な画策の無意味さを悟れます。神に信頼してまっすぐな道を歩めます。


3、民よ、神を信頼せよ

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
神は、われらの避け所である。(7~8節)

 ダビデは、どんな時にも主に信頼せよと人々に呼びかけました。病気の時も、落胆した時も、寂しい時も、お金が必要な時も、主に信頼しましょう。

 34歳で弁護士になり、社会の不平等を是正するために運動し、そのために46歳で逮捕された男性がいました。劣悪な環境で重労働をさせられ健康は悪化し、抑圧した人々への憎悪を燃やしました。やがて、憎しみは何も生まないことに気づき、誰もが安心して住める平等な国を作る希望を持ち続けて、1年、5年、10年とその日を待ち続けました。
 オランダ語に似た言葉を話す支配層の白人と心を通わたいと願い、刑務所でその言語を学び白人看守と話せるようになりました。白人層は国民の20%以下なので、普通選挙を行えば国会の多数派が黒人になることは明白でした。だから、政治形態が逆転した日に、白人が虐殺されたり、復讐されることが目に見えていました。27年の獄中生活を終えて釈放されたネルソン・マンデラは笑顔で登場し、和解を第一に掲げ、1994年に大統領に選ばれました。白人の残虐行為をゆるす「真実和解委員会」を実行し、和解を実現させ、ノーベル平和賞を受けました。1黒人と白人が対等に生きる国家の実現という夢、2友人の支え、3キリスト教信仰があったことの3つが彼を支えたのです。彼こそ最も待ち続けた人でした。

 あなたが、傾いた城壁やぐらつく石垣のようになって敵に取り囲まれていても、神に心を開いて、神の前で沈黙し、神を信頼しましょう。神は、あなたの助けあなたの力です。


 →あなたの番です
  □黙って神を待ち望もう
  □私の救いは神から来る


詩篇61:1~8節  心が衰える時


 「♪しあわせの扉は狭い、だからしゃがんで通るのね」水前寺清子のヒット曲365歩のマーチの二番の歌詞は、なんだか聖書的です。謙虚で誠実で、追い詰められても使命を全うしようと努力したダビデの歩みに通じます。

1、追い詰められたダビデ

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。
どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。
私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。
(詩篇61:1~4)

 「心が衰え果てるとき」、「地の果てから」という言葉を見ると、ダビデが窮地に追い詰められ、かなり困っている様子が分かります。
 この時ダビデは神に不平を言っていません。神の助けを求めて祈りました。敵の攻撃にさらされて行き場を失っていたので、私を高い岩の上へと導いて下さい、私のやぐらになって下さい、御翼の陰に入れて下さいと祈りました。

 1992年、スコットランドの病院で腰や膝の手術を受けた人60人を対象にある研究が行われました。その中高年の人達は、痛みを伴うリハビリをしないと歩行が難しくなります。研究者は、ノートを手渡して、毎週目標を書いてリハビリを行うように指示しました。痛みを我慢して、道の角まで歩いて、と具体的に目標を書いた人は、書かなかった人の2倍早く歩けるようになりました。ノートに書くことが回復を早めるきっかけになりました。
 ダビデは、苦難の中で祈り、詩篇を作り、心のノートに書き記していました。その行為自体がダビデに力を与えていました。
 あなたも、詩篇を作りませんか。あなたのノートに、あなたの希望を書きませんか。


2、王としての使命

まことに、神よ。あなたは私の誓いを聞き入れ、
御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。
どうか王のいのちを延ばし、その齢を代々に至らせてください。
彼が、神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。
恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。
こうして、私は、あなたの御名を、とこしえまでもほめ歌い、
私の誓いを日ごとに果たしましょう。(5~8節)

 子供の遊びを見ていると面白いことに気づきます。「It’s not fare」と誰かが叫びます。不思議なことに、この言葉を一番頻繁に使う子供が一番自己中心です。周囲の子供や遊びのルールそのものが気に入らなくなるのです。わがままな子は、「ずるいよ!」と叫んで遊びそのものを放棄し、結局みんなも遊びを継続できなくなります。大人も同じことをします。悪いのは自分以外で、あいつらのせいで不幸になったと周囲を憎みます。
ダビデは、不平を一つも言っていません。61篇は、ダビデの王位が脅かされた時の詩篇です。ひどい目に遭って、地の果てにまで追い詰められたと感じる時でも、ダビデは敵の横暴、敵の邪悪さに意識を向けるという水平視点ではなく、ダビデの眼は神との垂直関係に向けられています。ここにダビデの強さがあります。

イスラエルの国土は神が与えて下さった「受け継ぐ地」であり、ダビデはその国土を守る王として任命された。こういう垂直方向でダビデは物事を考えていました。

 「わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場から取り、わたしの民イスラエルの君主とした。」(第2サムエル7:8)
 「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(第2サムエル7:13)

 ダビデは、羊飼いであった自分が神に選ばれことを忘れません。神に選ばれ、神から使命を頂いて国王となった。今は劣勢かもしれないが、神の国土を守りたい、この身をもって神の栄光を表したいという思いのゆえに、詩篇61篇後半の祈りをしたのです。

 2005年、UCバークレー、ブラウン大学、国立衛生研究所が共同でアルコール依存者についての研究をしました。比較的長く断酒ができたのに、死別や離婚や大きなストレスを感じると酒に戻ってしまうアルコール依存者が多いのです。厳しいストレスを受けても断酒を続けられる人がいることに気づき、彼らに共通する特徴は何かと調べました。結局、ストレスでも酒に戻らない人達は、神を信じている人だと分かりました。研究者の正式な報告では、信じる力が彼らを支えたという文言になっています。神が彼らの祈りを聞き、アルコール依存者を守り励まし支えてくれたのだと私は思います。


 あなた自身を振り返って下さい。
今日、心が衰えていますか。神を遠く感じますか。そんな時こそ、神に祈りましょう。神はあなたの祈りを聞き取ってくれます。敵の手が届かないほど高い岩の上に主は引き上げてくださいます。
 あなたも羊飼いから国王に抜擢された者です。選ばれて、あなただけの使命を与えられた者です。そのあなたが危機に瀕したならば、主はあなたを助け出して、その使命が全うできるように助けて下さいます。

「神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。
どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」


 →あなたの番です
  □心が衰えた時こそ、神に叫ぼう
  □窮地に陥ったとき、神の助けを信じよう