第1コリント8:1~13 知識と愛



 「頭は良いけど、冷たいね」と言われたことがありますか。

1、知識は高ぶらせる

 <偶像にささげた肉を食べてもいいでしょ、偶像の神などいないのだから>という質問がコリント教会からあったようです。パウロの答えは、弱い兄弟を思いやって食べてはいけない、です。知識はあっても心の冷たいコリントのクリスチャンにパウロは伝えたい事があったので即答しません。

次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(1~3節)

 「知識は人を高ぶらせ」とあります。頭脳明晰な人や知識豊富な人の心は、趣味などのコレクター、収集家に似ています。集める、所有する、分類する、見せびらかす、見下すという特徴があります。ソクラテスが言うように、知っていると思う人は何も知らないのです。(2節)
 あなたが積み上げてきたものはすべて、あなたを傲慢にさせる可能性があります。勉強したこと、仕事のキャリア、人生の経験、あなたの興味あること、蓄えた聖書知識すら傲慢の原因になります。

 愛は知識と違います。愛は、集めることに関心がありません。与えたい、共に時間を過ごしたい、理解したい、相手の喜びを自分の喜びにしたいのです。誰かを愛そうと人は、自分の貧しさや弱さを実感しているので、身近な誰かを喜べるのです。「徳を建てる」は英語聖書でbild upです。愛は、誰かの人生建築に役立つのです。

 屋比久勲さんは中学・高校吹奏楽部の指導者です。全国大会出場30回、全国大会での最高賞が14回という驚異的な成績を残しました。その上、怒らない指導法で知られています。屋比久さんは音大出身者ではなく、学生時代に音楽を専門に学んだことはありません。学校の先生になった後、吹奏楽部を作るので指導してほしいと言われて必死で勉強しました。吹奏楽指導者対象の講習会に何回も出席して生徒を指導しました。
 もし音大卒で、演奏が上手だったら、なぜこんなこともできないのかと生徒を見下げたかもしれませんが、屋比久先生は子供たちの成長を純粋に喜ぶことができたのでしょう。

 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

 私は高ぶっているのでしょうか。誰かを見下げているのでしょうか。


2、神のために生きるとは

そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(4~6節)

 パウロは、まだ回答を語りません。
 「私たちは」と述べて、コリント教会の知識のある人とパウロとの共通認識を語ります。偶像と呼ばれる神々は実際には存在しない。ゆえに、神々に備えた肉には何の変化も起きない。だから、偶像に備えた肉を食べる事に何の問題もないとコリントの人々は考えるが、パウロは違いました。

 私は私の所有者でないとパウロは6章で語り、わたしは配偶者のものだと7章で語り、8章では、私たちは主にある兄弟のために生きるのだと言いたいのです。
 「私たちもこの神のために存在しているのです」(6節)。われらは神に造られた存在なので、神のために生きるのです。その姿勢は、弱い兄弟たちへの愛となって表れるのです。

 

3、弱い兄弟のため

しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。(7~9節)

 パウロはやっと回答を出しました。知識を持つ人が傲慢になり、権利を振りかざすのは止めなさい、弱い人をつまずかせず、愛で包みなさいと言いたいのです。

 知識を持っているクリスチャンは、偶像の祭司が祈祷し、偶像の神にささげた肉を、偶像レストランで平気な顔をして食べました。
ところが、かつて偶像を信じていたクリスチャン、偶像との関係を絶つのに苦労しているクリスチャンたちは、そんな様子を見て、信仰が揺さぶられ、自分も真似して、昔の状態に逆戻りしそうな人が出てきました。(10節)

その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。(11~12節)

知識があって冷たい人々は、主にある兄弟に罪を犯し、キリストに罪を犯しているとパウロは警告しました。パウロは、弱い兄弟への愛ゆえに、偶像にささげた肉は食ないと自分の胎度を明確にしました。(13節)

 私達にとって、偶像の肉とは何でしょう。

私たちがヘルプすべき、弱さをもった仲間とは誰でしょう。

敬愛する杉村牧師から以下の事実を教えて頂きました。
今から20年ほど前、キャビン・アテンダントのグレイスがアルコール依存で苦しんでいました。集中治療を経て普通の生活に戻れたのもつかの間、勤務後にロサンゼルス空港の通路を歩いていた時、無性にアルコールが飲みたくなりました。生活すべて犠牲にしてでも口に入れたと思うほど強い衝動でした。それで彼女は、「ビルWの友達の方は12番ゲートまでお越しください」という管内アナウンスをしました。ビルWとは、アルコール依存者のサポートグループAAの創始者ビル・ウイルソンのことで、これは緊急援助を求める暗号でした。
 するとどうでしょう。15人が彼女のもとに集まりました。見ず知らずの人たちですが、同じ苦しみを体験している仲間でした。その内の2人は自分の飛行機までキャンセルして来ました。どんなにグレイスが励まされたか想像できでしょう。

 さあ、私たちの番です。偶像の肉で心が動揺しているクリチャンがいたら、目の前で肉を食べるような冷たい事はしてはいけません。自分の権利を捨てて、助けに出かけ、手を握り、共に祈り、具体的な援助を差し出しましょう。私たちは、弱い兄弟のために生きるのです。

 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1節)

 →あなたの番です
 □知識で高ぶるのはやめましょう
 □周囲の人の徳を高め、具体的にサポートしましょう



第1コリント7:1~40 ああ、結婚


 コリント教会の人々は手紙で結婚について質問してきました。
 パウロがその質問に答えたのが7章です。全体の要約とパウロの回答パターンを確認してから、鍵になる2つテーマを取り上げます。

1、アウトライン

 1)夫婦間のセックスレスは妥当か。回答:NO(1~6節)
 2)独身者としての賜物(7~9節)
 3)離婚しても良いか。回答:NO(10~11節)
 4)結婚相手が未信者なので離婚しても良いか。回答:NO(12~16節)
 5)召された姿で生きる(17~24節)
 6)危急の時の例外として、結婚しない道がある(25~38節)
 7)死別の場合、再婚の道がある(39~40節)


2、パウロの回答パターン

 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。――また夫は妻を離別してはいけません。(10~11節)

 パウロの回答パターンを確認しておきましょう。
 <何かの質問を受ける→イエスかノーを言う→その理由を述べる>
 主イエスや聖書が明確に語る事柄については、10節のように「命じるのは、私ではなく主です」とパウロは根拠を明らかに示しています。聖書の言及がない事項は聖書の原則に照らし合わせたパウロの判断となっています。

 夫だけとか、妻だけとか限定せず、夫にも妻にも同じ権利があることを注意深くパウロは述べています。弱い立場の女性の権利を、男性同様に認めたことは特筆すべきことです。

 なお、25~38節に結婚しないようにと勧めていますが、これは、「危急のとき」(26節)とあるように、コリント教会の特殊状況を考慮した限定的措置です。夫婦の信者が迫害を受けると、妻が拷問にかけられ、夫の信仰を捨てさせるという「その身に苦難を招く」(28節)場合が起きるからです。


3、聖書が教える結婚の大原則

 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マタイ19:5~6)

 主イエスが言われた言葉と聖書全体から、神が意図した結婚の大原則を確認します。
1)神が結婚制度を作られた
2)セックスは夫婦にだけ与えられた愛情表現であり、尊く、良いもの
3)結婚すると一つになる
4)離婚してはいけない

 それで、離婚はいけない(第1コリント7章10~11節)、死別の場合には再婚の道がある(39~40節)という結論が導き出されます。

 ここに超強力な接着剤があるとします。私の手と妻の手にその接着剤を塗って、手のひらを合わせると考えて下さい。もう離れません。離せません。結婚とは、そういうものなのです。


4、私はあなたのもの

 コリント教会では極端な禁欲主義が流行していました。それが原因で出てきた質問は、夫婦間でセックスレスを続けて良いか、また、配偶者が信者でないから離婚しても良いかという質問です。パウロの回答は、どちらも、ノーでした。聖書が教える夫婦の教えに反するからです。

 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(3~4節)

 「夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」これはとても強い言葉ですが、結婚の本質を突いています。

 旧約聖書の雅歌を読むと分かるように、夫婦を結びつける特殊接着剤の一つがセックスなのです。結婚外の性関係は偽りの密着感を作ってしまうので、聖書は厳しく禁じます。
 夫婦間でのセックスレスは間違っています。体は自分のものでなく結婚相手のものだからです。その拒絶状態が続くと「サタンの誘惑」(5節)が強くなると警告しています。
 パウロは5節で、①合意があり、②しばらくの期間だけ、③再び元に戻る、という3つの条件が満たされ、祈りに専念する時にだけに例外的に容認しています。

 「人間は自分自身の所有者ではありえない」これは哲学者イマヌエル・カントの言葉です。6章で、私たちの体は私のものではないと学びました。7章では、私たちの体は配偶者のものだと教えられます。


5、召された姿で生きる

独身、結婚、離婚、死別、再婚、一人一人みな生き方が違います。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。(17節)

「召された」という言葉が、17節、18節、18節、20節、21節、22節、24節で繰り返されました。召された。ということは、神が目的を持って配置されたという意味です。だったら、置かれた所で私らしく咲きましょう。
 割礼の有無、奴隷と自由人。この二つの事例(18~22節)を用いて、パウロは他人の真似をするな、うらやむなと教えています。「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。」(21節)

私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。(7節)

独身者として生きる、夫婦で生きる、死別の悲しみを通る、一つ一つは神が下さった賜物ととらえましょう。高慢になる理由もないし、自己卑下する根拠もありません。人と比較せず、召された事実を感謝して、「ひたすら主に奉仕」(35節)しましょう。

「実写版のシンデレラの映画を見に行きたいけど、一緒に行く?」と先週、妻は尋ねてきました。「お姫様映画に興味はないよ」と昔なら言うところ、なぜか行きたくなりました。<私はあなたのために生きている>というフレーズが心にあったからです。
誰もが知っている物語を飽きさせず見せてくれました。魔法が解けて、薄汚れた下女に戻ったシンデレラは、王子さまと再会してこう言いました。このままの私を受け入れてくれますか。このシーンに私は感動しました。

私たちは、そのままの姿で主イエスに受け入れられています。今の立場は神によって召されたものです。私だけの舞台で、私らしく、「ひたすらに主に奉仕」(35節)したいですね。

兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24節)

 →あなたの番です
  □私は妻のもの。私は夫のもの。
  □召された場所で私らしく咲く。


第1コリント6:1~20 混乱


 「それでもクリスチャンか」と疑いたくなる人がいます。仲間をだまして金を取る、それを逆切れして復讐の鬼になる、遊女のところに頻繁に通う。そんな人々が実際にいたのでコリント教会は混乱していました。パウロは、どんなふうに対処するのか6章を見てみましょう。

1、きよめられた者として

ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。(8節)

 クリスチャンがクリスチャンの仲間に不正を働き、金銭をだまし取りました。このトラブルが裁判に持ち込まれたため一般人の陪審が教会内の人間関係まで知ることになりました。これが6章前半で取り扱われる問題です。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。(1節)

 「ごく小さな事件」(2節)なので、知恵と愛を持って両者の間に入れば、また被害者が寛容な心を持てば解決できました。「不正をも甘んじて」受けること、あるいは、「だまされて」(7節)いることを勧めるのは寛容や赦しを教えたかったのです。

 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(9~10節)

 だました張本人は、「盗む者、貪欲な者」(10節)というクリスチャンになる前の生き方に逆戻りしていました。だまされた人も「そしる者」(10節)、あるいは、復讐の鬼という醜い自我に戻ってしまい、赦しや寛容さを忘れています。

 不正をするな、また、だまされたら赦しなさいと教えるには根拠があるのです。

 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11節)
 
私たちクリスチャンは、かつての悪い習慣から洗いきよめられた者なのです。主イエスの十字架により、聖霊の助けにより、義とされ、きよい心をもらっている者なのです。だから、不正をしないし人を赦す者になれるのです。


2、体は神の栄光をあらわすためにある

 「知らないのですか。」という言葉が6章で5回使われています。(2、9、15、16、19節)知恵を誇るコリントのクリスチャンが、どれほど無知で愚かであるかをパウロが指摘しているのです。後半、12~20節のテーマは、クリスチャンが遊女と関係を持つ事です。

<すべてのことが私には許されたことです。>しかし、すべてが益になるわけではありません。<私にはすべてのことが許されています。>しかし、私はどんなことにも支配されはしません。<食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。>ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。(12~13節)

<  >でくくった部分は、コリント教会の人々の主張です。コリント教会の一部の人は、おかしな知識や哲学の影響を受けて、要約すれば以下のように述べていたのです。

クリスチャンは解放されたので、タブーは存在しない。何をしても良い。食欲を満たすために食べ物があるように、性欲を満たすために遊女がいる。遊女とセックスしても汚れるのは体だけで魂には関係がない。

こうした考え方は間違いです。

神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(14~18節)

肉体と魂を分離する考え方は、罪を肯定するための詭弁です。体の結び付きを含む結婚関係は最も深い絆を与えます。主イエスを信じて主イエスとつながることは、それより深い一体感を与えます。ですから、私たちの体がキリストの体の一部とされているので、遊女と一体になるなどもっての他なのです。

「自分の人生だから何をしても勝手だろう」と嘘ぶいて性道徳を逸脱する若者がいます。実は、その母親は強力に反論できるのです。「何を言っているんだい。だれがあなたのおむつを代えて、食べさせ、守り、寝かせてやったんだい。おまえ一人では生きてきたんじゃない。あんたの人生も命も、自分のものだと言う権利はないんだ」と言えるのです。パウロも言います。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(19~20節)

銀行からお金を借りて家を買ったなら、我が家と呼んでも銀行のものです。私たちも、「自分自身のものではない」(19節)のです。神に買い取られた者で、神に育てられ、守られてきた者なのです。だから、神の栄光をあらわすために生きるのです。

若い男性社員が営業成績が良かったので社長がごほうびだといって、怪しげなところに連れて行ったそうです。社長は酒が入って良い気分になり、今日の箇所のように遊女と関係を持つように勧めたそうです。クリスチャンの彼は、酔った社長をバイクの後部席に乗せ、自分の体に紐でしばり付けて、その場を去りました。彼は、彼の方法で神の栄光をあらわしました。

誰が見ていなくても、きよく生きましょう。正直者は馬鹿をみるではなくて、正直者を見て世間が神の栄光を見るのです。人に愛を示しましょう。人を赦しましょう。ダメージを受けた人だけが赦す権利があるのです。そのようにして、キリストが愛だと世界に示しているのです。人の評価などどうでもよいのです。

「神の栄光をあらす」という抽象的な表現だけで足踏みしている人が多いです。神の栄光をあらわす。それは、あなたにとってどんな事ですか。行動しましょう。

→あなたの番です
□かつての罪の生き方に逆戻りしてませんか
□私たちは、洗いきよめられた者であり、自分のものではない
□何をしたら神の栄光をあらわせますか

第1コリント5:1~13 トゲは取り除く


 トゲが刺さった時どうしますか。針で出したり、カッターナイフで切開して取り除きますね。
第1コリント5章で、パウロが言いたいことは、そういうことです。たとえ痛くても、取り除かなくてはいけない事があるのです。

1、放置された不道徳

 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。(1節)

 源氏物語の基本テーマは、絶世の美男子の光源氏が父の後妻「藤壺」と道ならぬ関係になるという物語で、禁断のストーリーであるがゆえに文学的な価値が上がるわけですが、コリント教会ではそれが小説ではなく現実になりました。父の再婚相手の若い妻、あるいは父の不倫相手と関係を持ち、夫婦同然のような姿で教会の礼拝に出入りしていたクリスチャンがいたようです。

 旧約聖書はこれを罪と断じています。「あなたの父の妻を犯してはならない。」(レビ記18:8)、「自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」(申命記22:30)

 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。(2節)

 コリント教会は、ある種、異常でした。破廉恥な罪を重ねたクリスチャンに対して、忠告したり処罰することなく黙認し、いやむしろ、信仰がもたらした自由の姿だと賞賛する雰囲気があったのです。

 パウロはその場にはいないけれど、「主イエスの権能を持って」(4節)除名処罰を決めたと述べているのです。これは、パウロの判断というより主イエスのお考えに基づいています。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18:15~17)

 主イエスは段階的なアプローチを教えています。個人で罪を指摘、2~3人で説得、最後は教会レベルで悔い改めを勧めます。それで、だめなら、除名処分とします。これは、礼拝に出られず、聖餐にあずかれない苦痛の中で、我に帰ることを期待する最終処置です。肉が滅ぼされても霊が救われることを望む(5節)というのは、こうした意味を持っています。

 「取り除こうとして悲しむ」(2節)。それが必要な時があります。


2、わずかなパン種が

あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(6~8節)

 パン種とは今で言えばイーストとか酵母菌のことで、パン種を入れてパンを焼くと膨らみますが、パンは日持ちしません。ユダヤ人の「過ぎ越しの祭り」においては、パン種が腐敗の原因、悪や罪を象徴するものと理解されていました。

ユダヤ人の祭りでもっとも大切なのが春の「過ぎ越しの祭り」ですが、祭りの前日に<パン種>を家中から除去します。パン種を入れないおせんべいのような固いパンを焼いて、急いでパンを焼いてエジプトを脱出した時の主の恵みを思い起こします。

 「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」(6節)

 コリント教会においては、不品行の罪を犯していた人物の罪を指摘し、場合によっては処罰することが、古いパン種、悪い影響を与えるパン種を取り除くことになるのです。

 過ぎ越しの子羊であるイエスさまが十字架でほふられたのですから、私たちの実質は、「パン種のないもの」(7節)とされています。もし、古いパン種があるなら、主にきよめていただきましょう。
 私たちにとって、パン種とは何でしょう。


3、厳しさの中の愛

 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(11節)

この手紙の前にパウロはもう一つの手紙を書いていましたが、現存しません。罪を重ねる人と交際するなと書いたのですが、その内容が誤解・曲解されました。パウロの主旨は、クリスチャンと自称していても、罪を繰り返し、良心が麻痺し、善良なクリスチャンに悪影響を与えるような人々、つまり除名された人とは付き合うなという事でした。それは、主イエスがマタイ18:15~17で言われた事に通じます。

冒頭で、5章の内容は、刺さったトゲを抜くことだと書きました。トゲを放置すれば化膿します。同じように、不品行を犯した人を放置すると、本人もダメになり、周囲の人にも悪影響が及びます。厳しい処置になっても、きちんと対処が必要なのです。

主イエスが言われたように、「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタイ18:15)という未来を信じて、動きましょう。本当の愛は、厳しさを伴うほど本気の愛です。

→あなたの番です
 □罪や悪を取り除く悲しみを大切に
 □わずかなパン種が全体をふくらます
 □「兄弟を得る」日を信じる


第1コリント4:1~21 オヤジの鉄拳


 この4章は、いわば、オヤジが息子を一発ぶんなぐったようなものです。パウロは、頭に来ていたのです。オヤジとしての熱い説教を心して聞いて下さい。

1、オヤジの鉄拳

たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。(15~16節)

 コリントで福音を語り1年半かけて教会を組織したパウロはコリント教会の父親です。パウロが下町のオヤジなら、こう言うだろうと想像して、以下のように4章を言い換えてみました。

神さまの評価だけが俺の関心事だから、お前らの評価なんてどうでもいい。神の奥義の管理を任されて、ガレー船のこぎ手のような心でイエスさまにお仕えしているんだ。いいか、傲慢にだけはなるな。1000年早い。俺たちの知識は全部もらい物だから、人を見下すなんて、ちゃんちゃらおかしい。(1~7節)
皮肉を言わせてくれ。お前らはまるで王様気分で良いご身分だ。おいらは、時代劇でいえば市中引き回しの上、獄門、打ち首ってとこだ。馬鹿にされてきたよ、殴られたよ、ホント惨めなもんさ。でもな、そいつら相手に復讐したことはない、祝福してきたんだ。耐えてきたんだよ。分かるか。俺はお前らのオヤジだ。だから、俺の後を付いて来い。(8~16節)
舎弟のテモテにこの手紙を持たせ。ヤツの言葉を俺の言葉だと思って聞け。俺が行かないと踏んでなめてるヤツがいるなら、すぐにも行くぜ。そん時は、口先だけのごたくを並べる奴らに、「神の国」の力をしかと見せてもらうか。俺がどんな態度で行くかは、お前らしだいだ。(17~21節)

パウロの気持ちは、これぐらい激高していたはずです。この箇所のパウロの言葉は論理というより、勢いに意味があります。皮肉が出たり、自分の弱さを披瀝したり、父親風を吹かせり、強い態度に出てみたり、みんな、みんな、パウロの熱い心なのです。言い換えれば、パウロは、コリントの教会の人々を誰よりも愛していたのです。
時には、あなたの本心を、体ごとぶつけて誰かに伝えても良いと思います。いかがですか。



2、心に染みる言葉

 4章の中から、心に残したい言葉をピックアップしました。

1)高慢にならない

さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。(6節)

 高慢にならない。それが大事です。特権階級意識を持って、一つの勢力を作って、別なグループを批判するなら、それこそが高慢の印です。むしろ、自分が持っているモノは全部借り物だという謙虚な認識があるなら、高慢を避けられます。
 
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(7節)
 

2)耐えて祝福する

今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。(11~13節)

 パウロは自分の過去をふり返り、何をしてきたかを披露しました。福音を語ったため迫害を受け、ひどい生活苦を経験しました。この世の人からは、ゴミのように映ったでしょう。
でも、パウロは胸を張っています。主イエスが山上の垂訓で教えてくれた事を、ほんとうに実践しているからです。


3)私にならう者

ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。(16節)

「私のようにはなるな」と後悔を込めて子供に言う父親がいます。「そうだ、そのとおり」と横で力説する母親がいます。パウロはその逆です。コリント教会の父親として、私の真似をしなさいと言いました。私と同じにすればいい。そう言えるキリスト者になりたい。私は、そう思います。


4)神の国は力

神の国はことばにはなく、力にあるのです。(20節)

 傲慢で人を見下し分裂させる人は、単なる破壊者であり、何も生み出しません。知識を知っている、というだけでは何の力もありません。
神の言葉を受け入れ、聖霊に身をゆだねた人が、世界を変えていきます。そこには、赦しがあり、平和が生まれ、福音が語られ、励ましと助け合いがあり、正義が育ちます。神が生きて働いていることが、家庭でも職場でも可視化されます。神を愛す人々によって神の国は目に見えるようになるのです。まさに、神の国はことばにではなく、力にあるのです。


 →あなたの番です
 □全部もらいものなので、謙虚に生きる
 □他者を祝福する人になり、神の国の力を体現する人になる
 □私のようになればいい、と言える人になる