「信頼はくもの糸」 ヨブ記8章

今日はヨブの三人の友人の二番目としてビルダデが登場します。ビルダデは、生徒を採点する教師のような人です。それも、思い込みが強く、先入観で生徒を判定する冷たい教師のような人物です。

 うちの息子が日本で小学校時代だったときのことです。担任の女教師が息子を水飲み場に連れて行き、説教しました。「あなたが、やったんでしょ」いたずらが発覚したのですが、先生は息子を犯人と決め付けました。息子は、怒って先生をにらんで、「やってません」と答えます。先生はあれこれと状況証拠を突きつけますが思い込みなので全部空回り。父親が牧師だと知っているので最後の手段に出ました。「神さまの前に、嘘はないのね。神さまに誓ってやってないと言えるの」さすがの息子もこの反則に強烈に反発をしました。「やっていません」
思い込みに基づく叱責は、実にまいります。やる気喪失です。僕らは、こうした言葉や態度にしばしば出会い、深く傷つきます。

 ビルダデは口をひらいてこう言いました。
「いつまであなたがたはこのようなことを語るのか。
あなたが口にすることばは激しい風のようだ。」(2節)
苦悩から搾り出したヨブのうめきを、まったく無意味な空言として切り捨てました。ゴーゴーと風はうるさく吹くが、何の実体もない。ヨブの言葉も空虚だと判定しました。冷たい男です。原則や一般論で押し通すタイプです。

8章全体でビルダデは、一から十までなってないとヨブを採点した。落第点ばかりだと評価した4つのポイントを見てみよう。
(1)育て方が悪いから子供達が罪を犯すのだ(4節)
(2)神に哀れみを求める点が不足(5~7節)
(3)ヨブの信仰自体が問題(13~14節)
(4)罪を犯しているので潔白からほど遠い(20~21節)

(1)死んだヨブの子供に罪があったと推測だけで言い切ったビルダデ。
「もし、あなたの子らが神に罪を犯し、
神が彼らを
そのそむきの罪の手中に送りこまれたのなら、」(4節)

(2)ヨブは命がけで神に哀れみを求めていたが、ビルダデから見ると祈りが不足となる。
「もし、あなたが、熱心に神に求め、
全能者にあわれみを請うなら、
もし、あなたが純粋で正しいなら、
まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、
あなたの義の住まいを回復される。
あなたの始めは小さくても、
その終わりは、はなはだ大きくなる。」(5~7節)

(3)ヨブの信仰が枯れた水草のようだと評したが、苦難の中で「主は与え、主は取られる」と主を礼拝したヨブの信仰をビルダデは知らない。
「すべて神を忘れる者の道はこのようだ。
神を敬わない者の望みは消えうせる。
その確信は、くもの糸。
その信頼は、くもの巣だ。」(13~14節)

(4)ビルダデは先入観だけで、ヨブには罪があると言い切った。
「見よ。神は潔白な人を退けない。
悪を行う者の手を取らない。
ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、
喜びの叫びをあなたの唇に満たす。」(20~21節)


 <聖書は「鏡」のようなもの>とよく言われます。聖書を読むと自分の姿が見えてくるものです。ビルダデをよく観察すると、そこに自分が映し出されていることが分かります。

人が弱っている時、人が苦しんでいるとき、あなたはその人の能力を採点して正論で人を鞭打つ人ですか。
<このテストは落第点じゃないか。予習・復習をすれば、良い点数が取れたのに。それをやらないからいけないんだ。今日からやりなさい。>
比較的能力のある人が陥りやすい弱さです。がんばれる人が、人を採点しがちです。冷静に状況を分析していると本人は思い込みますが、色眼鏡と先入観に引きずられ、自分中心に人を見ている場合が多い。採点する人自身の世間体や面子などが優先し判断を狂わせることが往々にしてあります。
 あなたは、一番身近な人とどう接していますか。子供に対して、夫や妻に対して、親戚や教会の仲間、職場の同僚などに、ビルダデのような心で接していませんか。

ビルダデの採点主義から離れる秘訣が、ピリピ2:3~4にあります。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者だと思いなさい。自分のことだけでなく、他人のことも顧みなさい。」

ある牧師先生と二番目の娘さんとのやり取りを先日文書で読みました。娘さんは当時中学生でした。派手な服装にお化粧、荒れに荒れている時期でした。夜遅く帰ってくるようになったある日。
「君は中学生でしょう。私の家は牧師の家だよ。教会にあかしにならないじゃないか。男の子と付き合っているようだが、夜遅くなるのは許さない」とお説教しました。娘さんは反感を募らせ、嫌な顔つきをしました。それで、つい、娘の頬をたたいてしまいました。バシッ!暴力は絶対に振るわないと心に誓っていたのに。牧師家庭としての世間体を第一にしてしまった。「I don’t like you, Daddy」と叫んだ娘さんは部屋に入り、鍵をしめて泣き出しました。牧師先生の手にはひらの痛みと後悔だけが残りました。
長い年数が過ぎ娘さんは立派な信仰を持つ主婦になっていました。ある日、離婚問題で苦しむ主婦のため電話で泣きながら話を聞いていたそうです。
牧師先生は、荒れていた中学生だった子が、今では人を励ますために泣いていると、神に感謝をささげました。この機会に、娘の頬をたたいた過去をわびようと思ったのです。「反抗していると思って叩いてしまった。ごめんね」。頭を下げてあやまりました。すると、娘さんは、過去を思い出そうと遠くを見る目をした後に言いました。「私、物心ついてから、お父さんに叩かれたことなんて一度もないわ」。
その場を離れて自分のドアを閉めたのは、牧師先生のほうでした。忘れたと言ってくれた娘さんの愛に泣けて、泣けてしょうがありませんでした。神さまに感謝しているうちに、神さまが牧師先生の心に語りかけてくださったといいます。「わたしも、お前の罪は忘れたよ」。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)という聖書の言葉が心に迫ってきました。

一方的な思い込みを持つのはやめよう。冷たい正論だけを突きつけるのはやめよう。採点だけをする姿勢はやめよう。ああすれば良かったのにと、やり直せない過去について言ってみたって始まらない。今日からきちんとやれと言っても、もう必死にもがいている人の気力をそぐだけだ。

相手の話を、先入観なしにそのまま受け止めよう。血の通う、温かい言葉を伝えよう。そして祈ってあげよう。

「すばらしい喜び」  ルカ2:8~20

 アメリカのクリスマスで、嫌いな点が二つあります。一つは「ハッピー・ホリデイズ」という言い方。もうひとつは買い物の洪水です。アメリカの一流企業の広告から「メリー・クリスマス」のフレーズは一掃され、ほとんど全部が「ハッピー・ホリデイズ」に変わりました。いったいぜんたい、誰がこんなことを仕掛けたんだ。ホリデイじゃなくて、クリスマスだよ。
 世の中、買い物、買い物のアメリカですが、私はプレゼントが一つもなくても、クリスマスに喜べます。ごちそうがなくても、喜べます。家族が集まれなくても、嬉しいです。その理由を3つのポイントで話しましょう。

1、 クリスマスは、救い主の誕生を伝える日
2、 クリスマスは、行って、見て、確かめる日
3、 クリスマスは、神をたたえ、喜ぶ日

1、クリスマスは、救い主の誕生を伝える日

 11月4日、茨城県で当たった宝くじを宝くじ売り場に置き忘れた人がいて、ニュースになりました。店の担当者が男性が持ち込んだ残りくじを調べたら、1000万円(約10万ドル)が当たっていたのです。「お客さん、当たってますよ。当たってますよ」と言おうとしても、もういません。事件が警察に通報され、ニュースとなって報道されました。「良い知らせです。1000万円が当たりました。あなたのためのニュースです。心当たりの人は申し出てください」。

 クリスマスの出来事は、それ以上に素晴らしいニュースの日です。あなたの罪を完全に解決する救い主が生まれたのです。それも、あなたのために、救い主が生まれたのです。

 天使は野原の羊飼いにニュースを知らせました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10~11)

 クリスマスは本来、飲んだり食べたりした日ではなかったのです。プレゼントを仲間同士でやりとりする日でもなかったのです。子供のためでもなく、家族のための日でもなかったのです。素晴らしいニュースを伝えた日でした。
 もし宝くじ売り場のおばさんが、<しめしめ、この当たりくじを他の店で換金しよう>とネコババしたら非難されるでしょう。主イエスの誕生を伝えず、自分たちだけで食べたり飲んだりするだけでは、宝くじの独り占めに等しいのです。私たちのクリスマスを、救い主を伝える日にしましょう。
もっとクリスマスを伝道的にしましょう。天使たちのように、救い主の誕生を知らせましょう。


2、クリスマスは、行って、見て、確かめる日

 良い知らせを聞いて、何もアクションを起こさなければ、救いはあなたのものになりません。
さきほどの宝くじのニュースもテレビやラジオで報道されましたが、「それは私のものです」と申し出なければ自分のものになりません。あきれたことに18人が警察に届けたといいます。困りますね、この人たちは。詳しく話しを聞いて、210枚宝くじを買った30歳代の男性の話が、店で換金する際に65000円が当たっていて嬉しくなって帰ってしまったといいます。店員の証言と合致して、無事1000万円が手に入りました。
 羊飼いたちは、素晴らしいニュースを聞いて、それで終わりではなかったのです。行動に移しました。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」(15節)
 私はこのシーンを想像するのが好きです。「こんばんわ。今日お宅で赤ちゃんが生まれましたか」「こんな夜に失礼します。今日、赤ちゃんが生まれた家を知りませんか」羊飼いは手分けして捜したことだろう。ベツレヘムといえば、預言者ミカが救い主が生まれると預言した町だった。(ミカ5:2)
「えっ、赤ちゃんが生まれた。それで、その赤ちゃんはどこに寝てますか」「温かそうなベッドに寝てるけど」「ご迷惑をかけました、人違いでした」12節にあるように「飼い葉おけ」に寝ていることが救い主の印だった。そんな赤ちゃんどこにもいない。飼い葉おけは家畜のえさ箱だから、思いがけない出産でなければ寝かせない場所だ。「なに、飼い葉おけに寝ている。申し訳ありませんが、一目見せてもらえませんか。今さっき、天使の知らせを受けて来たのです。その赤ちゃんが私の救い主だというのです」。

 あなたが、まだイエスさまを信じていないなら、まだバプテスマを受けていないなら、この羊飼いに習って、行って見て確認してください。イエスさまが救い主であるかどうか、聖書をよく読んでください。礼拝に通ってください。スモールグループで聖書を学び、クリスチャンと交わる中で、イエスさまがどんな方かあなた自身で確かめてください。
クリスマスはあなたにアクションを促す日です。もう一歩進んで、イエスさまを見出してください。


3、クリスマスは神をたたえ、喜ぶ日

 「羊飼いは、見聞きしたことが、全部御使いの話しのとおりだったので、神をあがめ、神を賛美しながら帰って行った。」(20節)

 良いニュースを聞いて、行って見て確かめた羊飼いは、神をたたえ喜びで満たされました。暗い夜道を厳しい仕事に帰る中でも神を賛美し、神をたたえて帰りました。クリスマスは救い主を送ってくださった神をたたえ喜ぶ日です。神を礼拝するのにふさわしい日です。

 次のような出来事を本で読みました。アメリカに住むひとりの年配のご婦人ソーンホープさんはクリスマスが近づいても元気がありませんでした。その年、大切なご主人に先立たれ、落ち込むことが多かったのです。ある夜、外は吹雪で寒い天気でした。婦人は、台所の冷蔵庫の取ってにしがみつき、冷蔵庫に額を押し付け、「あなたがいなくなって、つらくて、悲しいの。あなたがいたときは、吹雪が怖いなんて思ったことがない。これからどうやって生きていけばいいの」。
 そのとき、誰かが尋ねてきました。「こんばんわ。お届けものです」大きなダンボール箱が届きました。「あら、なにも注文してないわ」「いいえ、ほらちゃんと、半年前に注文を頂いてます。あけてみてください」なにか中で動いています。開けてみると、ラプラドル・レトリバーの金色の子犬が入っていました。手紙と本、ドッグフードと首輪も一緒に届きました」。
 カードには懐かしい夫の字でこう書いてありました。もう私はだめだ、この手紙が届くころには、もう私はいないだろう。今までありがとう。こいつを良い相棒にしてくれ。かわいがってくれ」。子犬を抱きしめながら、婦人はありがとう、あなたと心で感謝しました。

 僕らの苦しみや痛みを予想して、あらかじめ救い主をプレゼントしてくださった神に感謝しよう。私のような罪人を忘れないで、救おうとしてくださった神を賛美しよう。クリスマスには素晴らしい喜びがあるのです。

「落胆している者」 ヨブ記6:1~7:21

信仰は、神と私の<縦の関係>です。その間には誰も入れません。信仰が弱ったときは、私たちは神から顔をそむけたり、下を向いたりします。そんなとき、<横の関係>が僕らを支えてくれます。<横の関係>とは、何でしょう。それは、信仰の仲間のことです。縦の関係には割り込めませんが、信仰の友は横から僕らを支えることができます。そのおかげで、再び上を向くことができるようになります。

ヨブの場合は悲劇でした。度重なる試練で打ちのめされヨブには、横からの支援が必要でした。ところが、ヨブの友達はかえってヨブを落ち込ませたのです。6章と7章には、縦と横、つまり両方の関係が破綻したヨブの姿が表れています。

ヨブは友人に慰められたのでなく、かえって誤解されました。罪があるから災いに遭ったのだ、悔い改めよと強く責められました。そのためヨブは自分を見失い、逆にヨブが神を誤解するようになったのです。神は1~2章でヨブを最大限に信頼し、サタンの手からヨブの命を守ったことを知りません。神の悪意ある攻撃を受けたと思い違いをしています。

「全能者の矢が私に刺さり、
私のたましいがその毒を飲み、
神の脅かしが私に備えられている」(ヨブ記6:4)

8節から13節は信仰の動揺が激しく、気持ちが不安定になっています。神に殺されるなら本望、その苦痛の中で喜びを感じるだろうと言ったかと思うと、自分は鉄人ではない、弱くもろいと嘆きます。

14節から23節では、友人を責めます。
「落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。」(6:14)

ヨブは、ユダヤ地方独特の川にたとえて友人を批判しました。ヘブル語でナハル、アラビア語でワディと呼ばれる川は、冬は氷つき雪に覆われ、夏は干上がって水が飲めない。何の役にもたたず、裏切るだけだと言い切ります。

24節からは、自分の正しさを主張し、無実だと叫びます。
「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。
私がどんなあやまちを犯したのか、
私に悟らせよ。
まっすぐなことばはなんといたいことか。
あなたは何を責めたてているのか。
あなたががたはことばで私を責めるつもりか。
絶望した者のことばは風のようだ。
あなたがたはみなしごをくじ引きにし、
自分の友さえ売りに出す」(6:24~27)

7章1~6節では自分の皮膚病の辛さを語ります。

7章7~10節では、自分が取るに足らないものであると告白します。

7章11~14節では、夢にうなされると苦しさを述べます。

7章15~21節では、神に責められていると感じて、もう相手にしないでほうしい、私はあってもないような小さな存在だ、目を離してほしいと懇願します。
「私にかまわないでください」(16)
「いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか」(19)
「なぜ、私をあなたの的とされるのですか」(20)
「あなたが私を捜されても、私はもうおりません」(21)

このように、縦の関係が厳しい試練のゆえに壊れ、横の関係が誤解や無理解により支援力を失うと、人はヨブのようになる。
私はハワイにいたとき、住んでいた借家のオーナーから突然出て行くように連絡を受けました。不動産ブームで家を売ることになったのです。途方に暮れ、やっと捜した家がありましたが、引越しの人手がなくて頭を痛めました。でも二組のクリスチャン夫婦が僕ら家族を横から支えてくれました。一人は消防士、一人は軍関係のお医者さんでした。温かい愛、具体的援助、笑顔、ジョーク、すべてに励まされました。

最後に3つのアクションをあなたに勧めします。

1、 あなたが信仰的に弱っているなら、横の関係に助けを求めましょう。仲間に間に声をかけましょう。

2、 あなたの周囲に落胆している人がいませんか。その人を励ましましょう。言葉で、耳を傾けることで、一緒にいることで、行動で、まなざしで、祈りで応援しましょう。

3、 ただ一人、絶対にあなたを誤解しない方がいることを心に留めましょう。「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(ヘブル13:5)

「君らしくない」 ヨブ記4:1~5:27

 今日はエリファズの言葉に注目しよう。エリファズはヨブの3人の親友の中で長老格で、他の2人の意見を方向付けた。

エリファズの発言は4つのポイントにまとめられる。

1) 君らしくないぞ。しっかりしろ。<激励>
「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。
だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。
これが、あなたを打つと、あなたはおびえている。」(4:3~5)
 エリファズは、ヨブを弱気から立ち上がらせようと叱咤激励した。ヨブの否定的な言葉に耐えられず、エリファズが自分の心のバランスを取り戻すために怒りにまかせて語った言葉だ。これはヨブに対する言葉ではなく、自分のために語った言葉。

2) 罪があるから、災いに遭うのだ。<分析>
「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びうせた者があるか。
どこに正しい人で絶たれた者があるか」(4:7)
 これは、男性がよくやる方法で、苦しみを分析した言葉。結果には必ず原因がある。胸に手を当ててみろ、気づくだろ。それを悔い改めればよいのだ。相手も悪いが、お前にも問題がある、という趣旨。
 まったくの的外れだが、ヨブが否定すればするほど、3人の友人はこの意見にとらわれてしまう。

3) どんな人間も神の前にきよくない。<一般化>
「人は神の前に正しくありえようか。
人はその造り主の前にきよくありえようか。」(4:17)
 これは、問題を一般化している。人の問題は、100人いれば100人違う。それを単純化しても何に役にも立たない。どんな立派な人間でも神の前では汚れている。そんなこと、ヨブは百も承知してる。だから、自分の息子たちが知らないうちに犯したかもしれない罪のため、全焼のいけにえまでささげて来た。(1:5)

4) 全能者に責められることは幸いだ。<教訓>
「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。
だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。
神は傷つけるが、それを包み、
打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。」(5:17~18)
 これは大筋で正しい。信仰における真理の教訓だ。ただ、それが今のヨブにどんな励ましになるだろう。

エリファズは、悪人ではない。真面目で、信仰的で、ヨブを何とか立ち直らせたいと思っている。
エリファズの何が問題なのか。ヨブの言葉を最後まで聴けない点が問題なのだ。激烈で、否定的なヨブの言葉を、ありのまま聞けない。聞くに絶えられない。問題の迷路に入り込みたくない。だから、話の途中で反論を考えていた。何とか自分の心のバランスを確保したかった。

それでは、どうしたら良かったのか。ヨブの言葉を、注意深く、最後まで聴き取ればよかったのだ。「聴く」という漢字は、よく見るとおもしろい構成になっている。耳の右に、十四の心が付いている。漢字そのものの語源は別にあるが、字が面白い。自分の意見や先入観を入れずに、相手の言葉と心を聴く努力をしよう。

私は日本でスキーをして顔からころんだことがある。そのため、顔がはれて痛くてたまらなかった。たまたま出席した牧師会で、田辺先生が、「顔ですが、顔は痛いんですよね」と真剣な顔で言ってくれました。その一言で私は一瞬痛みを忘れました。

ヨブの3章の言葉を聴いて、エリファズはこう繰り返せばよかった。ヨブ、本当に辛かったな。生まれた日をのろうほど、苦しいんだな。「死の国」に行ってしまいたいほど絶望しているんだな。太陽が憎いくらいの暗闇にいるんだな。安らぎと休みが欲しいんだな。俺はいつまでもお前の横にいるよ。

4章、5章を読んで、あなたへのメッセージを送りたい。あなたの周囲にヨブがいる。現代のヨブは、あなたの子供かもしれない。あなたの夫や妻かもしれない。会社の同僚や友人かもしれない。その言葉を100%、そのまま聴き取ろう。激励も、分析も、一般化も、教訓も、最初は必要ない。
私はちゃんとあなたの言葉を受け止めたよ、とあなたの言葉で繰り返してあげよう。きちんと気持ちが伝わったので安心する。自由になれる。初めて人の話が聴けるようになる。その時に、激励も分析も一般化も教訓も生きてくる。あなたも、まず14の心で人の話を聴こう。

 主イエスは、黙示録2章2、9、19節で同じ言葉を繰り返している。「わたしは知っている」。そうです。主イエスはあなたの労苦や忍耐、ののしられている事実を知っているのです。つらいだろ。分かるよ、と言ってくださるかたです。
その主イエスがいるから僕らは生きていけます。その主イエスに信頼して生きていきましょう。そして、あなた自身が良い聞き手になりましょう。

「生まれた日は滅びうせよ」 ヨブ記3:1~26

ついにヨブは、胸の内を語った。これは3人の親友のおかげだ。7日間もヨブの横にいて、黙ってヨブの苦しみ背負ってくれた。だから、ヨブは本音を話す気になれた。

「私の生まれた日は滅びうせよ」(3節)

ヨブが心臓を絞るようにして発した言葉は、生まれなければよかった。生まれなければ、こんなに苦しむことはない。

「なぜ、私は、胎から出たとき、
死ななかったのか。」(11節)

日本では1年間に毎年3万人以上が自殺している。死ねば、辛い現世を離れて「無」になれると日本人は考える。ヨブの考える<死者の国>も、それとよく似ている。13~19節には、<死者の国>へのあこがれが書かれてある。そこには、苦しみがなく、誰に追われることもなく、エジプト王も乞食も平等の立場を得、安らぎ、休み、いこい、解放がある、とヨブは期待した。
実際には、ヨブのあこがれる<死者の国>などない。現実から逃げたいだけだ。ヨブは安らぎがほしい、休みがほしかった。

「死にたい」と叫ぶ人は、人一倍「生きたい」と考えている。

和歌山県の白浜は、太平洋に突き出た風光明媚な温泉地。なかでも高さ50メートルの絶壁をほこる三段壁は格好の観光地であり、同時に自殺の名所として知られる。町の牧師、江見太郎牧師は1979年4月15日、三段壁に「いのちの電話」看板を設置、山本有三の『路傍の石』から取った言葉を書いた。

たったひとりしかいない自分を、
たった一度しかない人生を、
ほんとうに生きなかったら、
人間、生まれてきたかいが、
ないではないか。

最後に、「重大な決断をする前に、一度お電話ください。あなたの力になります。」と書き、電話番号を記した。
以来20年、ぎりぎりの状況での自殺電話相談は2万3千116件を数え、絶壁の上で実際に保護した人は672人となった。(1999年からは藤藪庸一先生が働きを引き継ぎ、毎年20人程度を保護している)
「たった一人でも、心の中を本当に打ち明けられる人がいると自殺しない」という言葉は本当だと江見先生は言う。江見先生は、深夜でも嵐の日でもその一人となるため三段壁に車を走らせ、自殺志願者を受け止めたきた。

ヨブは本当の心を仲間に打ち明け、神にも聞いてもらった。生まれなければよかった、死にたいのに死ねないと悲痛な気持ちを語り始めた。安らぎがない、休みがないと叫んだ。まさに、ヨブは三段壁の絶壁に足をかけているのも同じだった。

後半部分の20節から26節を見てみよう。苦悩を抱えて生きていくのが辛すぎる、太陽が疎ましいというヨブの気持ちがにじみ出ている。

「なぜ、苦しむものに光が与えられ、
心の苦しんだ者にいのちが与えられるのだろう。」(20節)

身近な人を失った朝、太陽がいつもと同じように昇るの。それが恨めしく感じる人が多い。こんなに大きな苦しみに出会ったのに、世界は何も変わらない。それがゆるせない。

「私には安らぎもなく、休みもなく、
いこいもなく、心はかき乱されている。」(ヨブ3:26)

同じ26節を口語訳は以下のように訳している。
「わたしは安らかでなく、またおだやかでない。
わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」

あなたは、こういう言葉を聞いた時にどんな反応をしてきただろう。多くの人は、絶望した人の強い言葉に耐えられない。語気を強めて叱咤激励したり、お説教をする。それは、聴いてる人自身が、否定的な言葉をきちんとそのまま聴けなくなる。音は聞いていても、言葉も心も聞けなくなる。目をそむけ、心の安全弁を掛け、否定的な感情が伝染しないように逃げ出してしまう。

ヨブは6章14節でこう言っている。
「落胆している者には、その友から友情を。
さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう」

どういう感情であれ、その言葉を、心を、そのまま、おうむ返しのように、言い直してあげよう。あなたの言葉を聞いているよ。あなたの心を受け止めているよ。あなたのそのままを、抱きしめているよ、と言葉と態度で伝えよう。

1888年賀川豊彦は神戸に生まれた。5歳になるまでに実父と産みの母が死亡した。そのため父の家があった徳島に引き取られたが、父の正妻は豊彦を苛め抜き、社会からも差別の目を向けられた。
<僕は生まれては生けない人間だと思う。めかけの子、芸者の子だ。>悩みを告白する賀川を受け入れ、励ましたのが宣教師たちやクリスチャン達だった。16歳で洗礼を受け、その後、極貧の人々を助け、労働運動、生活共同組合の組織、農民運動、政治運動、伝道活動、平和運動を展開、ノーベル平和賞候補にあげられた。否定的な自己認識を持った賀川に希望を与えたのは聖書の言葉だった。

あなたの絶望の言葉を、そのまま聴ける方がいる。イエス・キリストだ。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11:28)

ヨブ記3章には、積極的な励ましや慰めは一切ない。この章が聖書の文章として残された意味を最後に考えよう。
人の悲痛な言葉や、傷あとは、同じ痛みを持つ人を慰める。ヨブの叫び、そのものが、私たちの苦しみに共鳴し、不思議な安らぎを与えてくれる。傷ついた者には、闇が味方になるときがある。
出口のない部屋で、絶望している僕らに、「天井は空いている」、「神は全部を静かに聴いている」と語っているように、私には感じられる。

「それでもなお」 ヨブ記2:1~13

 独身の男には、彼女のお父さんに結婚前に挨拶するという大きな試練が待っている。(笑い)私の知り合いの男性は、遠隔地にあった彼女の実家に泊めてもらいながら、最後まで切り出せず、見送りに来てもらった飛行場でやっと「お嫁にください」と言った。彼にとっては、毎瞬間が試練の連続だった。

 ヨブには試練が続いた。10人の子供と全財産を一日にして失ったが、一息入れる暇もなく、今度は全身に及ぶ悪性の皮膚病に襲われた。

2年前の感謝祭のちょっと前、息子から夜に電話があった、「父さん、シビックが盗まれた」。急いで車を飛ばして現場に着くとポリスと息子が路上で話していた。自分でローンを組んで大切に使っていた車がやられた。車の保険がカバーするので、息子はレンタカーを借りて使ったが、感謝祭の前日、「父さん、また盗まれた」。レンタカーまで盗られた。
泣きっ面に蜂、二度あることは三度ある。きっとあなたも度重なる試練を、経験しているはずだ。

 詳しく聖書を見よう。神はヨブの信仰を試練前と同様に3節で高く評価された。神はヨブを信頼しておられた。サタンは、「あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」(5節)と執拗に提案してきた。持ち物や家族は、失ってもなんとか代用品を探すものだが、自分の体に試練が来れば、さすがのヨブでも神をのろうだろう、とサタンはたたみかけた。

神を捨てた人や苦しみに倒された人に試練は無用、とサタンは考える。だから人が倒れるまで、二倍、三倍の力で激しく戦いを挑んでくるのがサタンだ。「彼のいのちには触れるな」(6節)との制限を神から受けたサタンは、ヨブの足の裏から頭の頂まで悪性の腫物で打った。
膿や腫れや変形が起きて、二目と見られないひどい体になった。友人らが来ても顔が見分けられないほどだった。不快、嫌悪、絶望がヨブを襲った。
「横たわるとき、私は言う、『私はいつ起きられるだろうか』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。私の日々は機の杼よりも速く、望みもなく過ぎ去る」。(ヨブ7:4~6)

妻は、叫んだ。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい」(9節)。妻は、ヨブが本気で神に信頼している事を知っていた。だから、いたたまれない。度重なる試練の出所が神にあると妻は感じていた。
 試練に遭うと人は、<なぜ、私だけが苦しみに遭うのか>とまず自分に焦点を当てる。次の段階は、<なぜ神は、この苦しみをお許しになったのか>と神に批判と疑問をぶつける。
私はヨブの妻が愚かだとは思えない。夫に対する切ない思いやりの言葉かもしれない。

ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(10節)と真顔で返事をした。
「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった」(10節)「口にしない」という表現は、心の中での葛藤を暗示している。喉から下は、濁流のような疑問と溶岩のような怒りが煮えたぎっていたのだろう。ヨブは親友の訪問を受けても、7日間何も言わなかった。つまり、これは、言いたいことが山ほどあったという事の裏返しなのだ。

 ヨブには、エリファズ、ビルダデ、ツォファルという3人の親友がいた。声を掛け合って、ヨブを励まそうとやって来たが、あまりの悲惨さに、自分たちの着物を引き裂き、チリを頭の上に撒き散らし、7日間、ヨブのそばにいて「だれも一言も話しかけなかった」。(13節)

息子の2度にわたる車盗難で私たち夫婦はひどく落胆した。お金のない時だったので、痛烈にこたえた。すぐ翌日の感謝祭礼拝で聖歌隊の一員として賛美した。友人のクリスチャン夫婦に誘われ、ターキーとご馳走を頂いた。彼らは、僕らをそのまま受け入れ、温かい心で支えてくれた。
後日談を加えよう。その年のクリスマス。今度は、バイト先で息子は事故にあい、足指に酸素ボンベを落として手術を受け、年があけると、買いなおした3台目の車まで盗まれた。

 度重なる試練のとき、何が一番の励ましになるのか。それは、一緒に苦しんでくれる人の存在だ。痛みを分かち合ってくれる誰かがいることだ。泣いてくれる人。手を握ってくれる人。夜遅くまで話を聞いてくれる人。そういう人がいればいい。一人でもいればいい。そういう人に感謝しよう。
そういう人にあなたもなろう。

ヨブ記は、試練の時にこうすれば良いという模範解答を教える書物ではない。自分と同じ苦しみをたどった人がいる。自分と同じく、悩み、うめき、叫び、疑った人がいる。その事自体が慰めの源泉なのだ。
あなたの苦しみ自体が、そのまま、誰かへの慰めになることを、忘れないようにしよう。あなたを見つめている人が、慰められているのだ。

「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみにあうなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。」(第2コリント1:5~6)

「なぜ私が」 ヨブ記1:1〜22

<正しい人がなぜ苦しみに会うのか>、これがヨブ記の基本テーマです。
 
「なぜ私だけが苦しむのか」。人は人生で何度もこの言葉を口に出す。なぜこんなに苦しむのか。何も悪いことはしてないのに。なぜ災いに巻き込まれるのか。
ある種の宗教は、あなたが先祖を大事にしなかったから災難に遭ったと説明します。ある人は、あなたの心がけが悪いからだと言いますます。はたして、そうでしょうか。
 
これから、ヨブ記を何度かに分けて学んでいきます。<なぜ私が?>の質問に主がどのように応えてくださるかを見ていきましょう。
 
ヨブは、どうやらユダヤ人ではなく、エドムの人のようです。1節にあるウツという場所は死海の北東部、アラビヤ砂漠との境界線付近だったと学者は考えます。ヨブ記では、出エジプトの出来事、律法、預言者、ユダヤの王などについて言及しなことから、ヨブの生きていた時代はアブラハムと同じ頃、あるいはその 少し後と考えられます。
 
ヨブの人柄は、1節、5節、8節に顕著です。
「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)
 
ヨブを紹介するとき、聖書はその財産の豊かさに最初は触れず、ヨブの4つの内面性を説明します。潔白、正しさ、神を恐れる心、悪から遠ざかる姿勢。神から見ても非の打ち所のない人物であると8節で明記されています。
 
神に敵対するサタンは、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」(1:9)と疑問を呈します。ヨブが正しく潔白に生きているのは、神が物質的な繁栄をヨブに与えたからだと指摘した。信仰の支えとなっている繁栄を奪えば、ヨブは神をのろうとサタンは断言、神はサタンに許可を与えます。
 
この結果起きたことは悲惨の一言でした。一日のうちに、7人の息子と3人の娘が死亡しました。その上、すべての財産が奪われたり焼かれたりしたのです。一文無しで、子供なしです。積み上げてきたものは、すべてなくなりました。
ヨブは、この事実を知らされ、悲しみの表現として上着を裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、以下のように語りました。
 
「私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
 
ケアホーム職員が受けた講習についての文章を『羅府新報』に書きました。人生は大切なものを失うプロセスです。配偶者を失い、子供を家庭の中から失い、名誉や地位を失い、健康を失い、味覚も聴力も視力も無くし、記憶も失っていくのです。獲得することだけが幸せという偏った価値観では、不幸になるだけです 。
 
現代のアメリカや日本では偏った価値観した教えません。それは<坂を登る>価値観です。勉強して、良い学校に入り、有名企業に就職し、立派な家に住み、早めにリタイアし、高級ケアホームに入り、(最後は超豪華墓地に入る)。
集めること、所有すること、多くなること、強くなること、高くなることばかりを強調する価値観には歪みがあります。
人生には<坂を下りる>経験が必ずあります。分けること、少なくなること、さびしくなること、弱くなること、忘れられること、そうした中にも人の幸せが隠れているのです。
 
捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。(伝道者の書3:6)
 
ヨブは生まれた時の自分の姿に思いを馳せました。あのとき、裸だった。何も持っていなかった。分娩室で取り上げられたとき、マスターカードとチェックブックを持っていた赤ちゃんなんて聞いたことがありますか。ヨブは自分が死ぬときにも目をやりました。そうさ、何も持っていけないんだ。地上で人間が所有で きるものは、すべて神の許しと守りの中で享受できるもの。裸、つまり、命と体。それは神から頂いた最高に価値あるもの。ヨブはその裸を感謝しました。
 
ヨブの信仰は、神から物質的な繁栄をもらったから成り立つ<ご利益信仰>ではなかった。神が富や財産や子宝を与えてくださる時は、与え主である神に感謝する。神が、繁栄や子宝を取られるときは、神の深いお考えがあることに信頼を置き、神に愚痴をこぼさない。神は自分の創造者、神がおられる事自体が喜びの 源、神と共に歩めること自体が真の幸いと認識していました。物質や金を手に入れる生き方ではなく、命の源である神とつながって歩めることが最大の幸せなのです。そういう人は、神に与えられた財産を上手に使い、神のため人のために生かせる生涯になる。そして、坂を下りる経験の中でも主をたたえることができるのです。
 苦難を通ったヨブだから語れた21節の言葉です。この言葉で多くの人が慰められてきました。
 
 横田早紀江さんの長女めぐみさんは、昭和52年(1977年)11月15日に行方が分からなくなりました。悲嘆にくれる中、めぐみさんと同学年の娘を持つお母さんから、「聖書を学ぶ会」に誘われ、聖書をもらいました。悲しみの中でこんなに分厚い本をどう読んだらいいのかと最初悲嘆にくれましたが、ヨブ記を勧められていたので開いてみました。そこで目にとまったのが21節でした。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
 「はじめて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。私は、むさぼるように聖書を読み始めました。今まで聴いたことのない、魂に深く、それも痛みをもって心地よく染みていくこの本は、なんという本でありましょうか」と早紀江さんは述べています。
 
 あなたの人生で、必ず何かを失う経験に出会います。そのとき、主を見上げよう。坂を上りながらも坂を下りながらも主を見上げましょう。そして、残された自分の命をどう生かすか。よく考え、よく祈り、静かに行動に移しましょう。
 
「主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。」

「神の栄光のために」 第1コリント10:31

 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第1コリント10:31)

 人は二つの種類に分けられる。自分の欲望を追求する人と、もう一つは、欲望を追求する人に振り回される人。あなたは、どちらですか。

 おとなしそうな真面目サラリーマンも、自分の欲のためなら暴力でも詐欺でも厭わないやくざ者も、内面はそんなに変わりません。
 アメリカは、いわゆる「世間さま」が存在しないので、日本でできない事もここではできます。一山当てて金持ちになれる場所です。

 さて、欲望追求の人生で何が残りましたか。そこに深い満足がありますか。あなたの人間性は深まりましたか。身近な家族はどうなりましたか。
 人の欲望に振り回された人はどうですか。心に憎しみが渦巻いていませんか。結局あなたも、欲望追及を邪魔されて怒っているだけではありませんか。


 聖書は第三の生き方があると教えます。それは、神の栄光を現す人生です。

 今まで、4回ほどに分けて、信仰の礎シリーズを話してきました。人格を持ち、無限で雄大な神は、私たちをお造りになり、私たちの欠点や罪を知った上で決して見捨てない方だと話してきました。

 1563年に出版された『ハイデルベルク信仰問答』の最初の質問は次のようなものです。「生きている時も、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。」
 答え:「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。<中略>わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることができるように、して下さるのであります。」

 神に作られ、神に愛され、神によって救われ、神のものとされた者は、神のために生きると、教えています。実に美しい言葉ですね。

 神のために生きるというのは、どういうことでしょう。私は次のように考えています。神に使ってもらいやすいように、自分を差し出す生き方です。

 完全に自分を明け渡したかどうかで自分を吟味し続けるのではなく、不完全でもいい、罪深くてもいい、今のあなたを差し出す生き方が肝心だと思います。使ってください、という姿勢でいることです。「今がそのときだ」、「今、神が求めておられる」というチャンスが分かってきます。そのとき、実際に自分を使ってもらいましょう。それが、神のために生きることです。

 クリスチャンは、エビに似てるなって、思うんです。だって、「いえいえ、私には何もできません」と謙遜しすぎて、後ろに下がってばかりいるのです。だからエビみたいです。むしろ、カタツムリでいいんじゃないか、と思います。後ろに下がるカタツムリって、見たことないでしょ。歩みは遅くても、与えられた賜物を主にささげて、前にでましょうよ。使ってくださいとささげましょうよ。

 今日配布したプリントを見てください。以下のように、神のために生きることが人間にとって合理的で、最善の生き方だと書いてあります。

神の栄光のために造られた
わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ43:7)

神は人を探している
「主は御目をもって、あまねく全治を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16:9)

主イエスも父なる神の栄光を求めた
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰すなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えられる方は、わたしの父です。」(ヨハネ8:54) 

自分を神に使っていただこう
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

私たちの体は神のもの
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(第1コリント6:19)

 さあ、あなたの体を神に使ってもらいましょう。そこに、本当の喜びと満足がきますよ。

「私たちに似ている神」 創世記1:1~5

 日本人が考える神とは以下の3つに分類できます。
1)白い髭のおじいさん → 役に立たないおひとよし。
2)エネルギー → 宇宙の源。パワー。非人格的な神。 
新興宗教に多い考え。この絶大なパワーを自分のものにするのがその信仰形態になる。この種の神とは、人間が利用したり、操作できるもので、自己実現の道具に等しい。エネルギーに対する祈りは、精神統一、自己暗示、恍惚状態によるやる気の高揚につながる呪文に近くなる。
3)運命 → 冷たい運命。人間は荒ぶる神に逆らえない。だから、怒りを静める儀式が信仰形態となる。人間に残された道は、運命をあきらめるだけ。

 以上のように神しか、日本人は想定できない。だから、神は取るに足らない存在となり、信じるに足る相手ではなく、結局は神はいないと結論するしかない。
 
 聖書に示されている真の神は、そいうお方ではない。創世記を見よう。創世記を単なる神話や昔話として考えては、大切な宝を失うことになる。

 1~5節を読もう。神が何をなさったか良く見よう。神がなさったことから、神がどんなお方か推測することができる。

初めに、神が天と地を創造した。
地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

 神は宇宙を創造する方だ。つまり、デザインする力がある。無から有を造り出す独創力を持っておられる。はかりしれない知恵を持っておられる。

 宇宙に目を向けよう。1光年は9兆4600億キロメートル。太陽系は銀河の中心から3万光年離れている。太陽系が銀河系を1周するに2億年かかる。そして銀河系自体がうみへび座方向に1日に5000万キロ移動している。銀河系の直径は10万光年。現在観測できる宇宙の果ては150億光年先まで。その先は 光と同じ速度で遠ざかっているため 測定できないという。なんと遠大な宇宙だろう。神は、このすべてを造られた。

 今度は目を小さなものに向けてみよう。人間の体内にある血管は伸ばすとどのくらいになるか。答えは10万キロ。つまり地球を2回転半の長さ。これも気が遠くなる世界だ。酸素を運ぶ動脈は皮膚から深いところにある。赤血球の形は穴のないドーナツ形。表面積が球体などより30%も多い。赤血球の大きさは1ミリの1000分の7。骨髄で作られ寿命は120日。血管の95%は、目に見えない太さの毛細血管。血の中には13種の血液凝固因子あり。出血すると、血小板がこわれ、13種の因子が混ざるきっかけを与え、血が止まるようにできている。

 神は、宇宙のような大きなものから、血管や血液など小さなものまでお考えになり造られた。人間は偶然に存在するのではない。だから人生に意味がある。神は私たちを造られた。そして、ご自身に似せて造られた。

 マルチン・ブーバー(1978~1065)というオーストリア生まれのユダヤ人哲学者が『我と汝』という本を書いた。ブーバーによれば人間をめぐる関係は二つしかない。
<我と汝>
<我とそれ>

 人間が自分を人間と意識できるのは、相手があって初めてできること。自然やモノとの接触は人間の自覚をうながさない。あなたと呼べる相手との出会いが人間には不可欠だという。

 エネルギーとしての神、非人格的存在の神では、人間が利用するだけで、欲望肥大だけをまねくだけ。 けれども、あなたと呼んでくれる存在に出会うとき。人間は、はじめて人間になる。

 私は妻と出会って様々なことに気づいた。それまでは、男が優位で女は劣ると思っていた。それは男の傲慢に過ぎなかった。妻は家庭の中で、「ありがとう」を自然に言う人だった。私が育った家族の中で、私はそんなことは言わなかった。「ありがとう」との出会いは大きく言えば人生を変えた。

 神はあなたを呼んでいる。あなたも、人格的で無限の神から語りかけを受けている。「神よ」とあなたが応答するとき、あなたは本当の自分に気づく。そして、神との祈りが自然に生まれる。

 神が人間に似ているのではない。僕らが神に似ているのだ。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
 あなたも、「神よ」と心を込めて語りかけよう。