詩篇42:1~11 待ち望め


 詩篇42篇は、絶望の詩篇なのでしょうか。

1、苦悩と神の沈黙
 42篇を書いた人物の背景を考えてみましょう。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。(1~3節)

 「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」(3節)とあるように、苦しさのため涙の乾くことのない日々でした。「おまえの神はどこにいるのか。」(3、10節)という、敵対者からのさげすみの言葉が心を刺し通しました。「生ける神を求めて渇いています」とあるように、神の不在感(1~2節、9節)を強く感じていました。そのために深い失望(5、11節)を味わっていました。

 終わることのない苦悩と、神が沈黙しているように思える事、その二重苦ほど辛いものはありません。あなたも今、これと似た状況にいますか。

 出口の見えない苦しみと神の沈黙は、神がいないという証拠ではないし、神に愛されていないという印でもありません。神を愛し、正しく歩んだヨブも、同じ苦悩を通りました。主イエスも同様の苦しみを十字架で経験され、「わが神、わが神、どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と言われました。

2007年に出版された『Mother Threasa  Come Be My Light』という本は、ノーベル平和賞を受けたマザー・テレサの内面の暗闇を明らかにし、世界に大きな驚きを与えました。以下のようなマザーテレサの手紙がその本で紹介されています。
「どこに私の信仰があるのでしょう。心の深い場所、そこには何もなく、空虚と闇のみです。父よ、この底知れない痛みに耐えることができません。」
「父よ、教えてください。なぜ私の魂はこれほどの痛みと暗闇の中にいるのでしょう。」
「見上げても見ることができません、耳を傾けても何も聞こえません。」
「誰にも愛されたことがないほどに主イエスよ、あなたを愛したいのです。」

 マザーテレサは38歳の時に主イエスからの招きの言葉を受け、貧しい人々の中に出て行きましたが、40歳代から70歳代まで彼女の魂の暗闇は続き、信頼できる少数の神父たちだけに心の苦悩を相談していました。
 この本のタイトルは、「私のところに来て、そして出ていって、私の光となりなさい」と主イエスに彼女が招かれた時の言葉でした。キリストの光を届けるために、マザー・テレサの心が闇に覆われている必要があったと彼女が理解していたようです。また、主イエスの十字架の苦悩を体験するという特別な賜物を受けていたのでしょう。



2、自分に語りかける自分



 改善されない苦悩、そして、呼んでも応答してくれない神を前にして、この詩篇の作者は絶望して信仰を捨てたのでしょうか。いいえ。

パレスチナの夏には一滴の雨も降らず、11月から3月には時折雨が降り、谷底に雨水が集まり一時的な川ができることもあります。干上がった川底に鼻を付けて水分を必死に探す鹿の姿こそが、神との関係修復をあきらめない人の姿を物語っています。

私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(4節)

 彼は、巡礼者の一員としてエルサレム神殿に旅したことを思い起こしました。あの時、神を身近に感じ、信仰的に大きな喜びがありました。(4節)それは蜃気楼ではなく事実でした。

 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。(6~7節)

 この印象的な自然描写は、作者の苦悩の二重写しです。パレスチナ北部のヘルモン山は、雪を頂く高山で、雨水や雪解け水などが斜面を下り、大きな滝となってヨルダン川源流に注ぎます。その時起きる大波に飲み込まれて翻弄される姿が出口のない悩みを表しています。そんな時、支えになるのは、神の恵みと神への祈りでした。

 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。(8節)

 42篇で二度繰り返される印象的なフレーズを読むと、絶望の中で一条の光が差し込んでいることが分かります。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)

 出口のない苦悩と神の不在のゆえに、彼は確かに落胆しています。弱り果てて思い乱れている自分を否定しません。もう一人の自分は、うなだれている自分に静かに語りかけます。こんな時だからこそ、神を待ち望むんだよ、と。
 事態が改善せず、敵の攻撃も止まず、神を求めても身近に感じられない中であっても、神が神であるという事実が神を賛美する根拠を与えてくれるのです。だから、「私はなおも神をほめたたえる」と言えるのです。
 神の顔を強く意識しているのは、こんな時でも神の顔は私たちに向いていて、神のまなざしが自分に注がれているという信仰であり、希望です。

 2001年9月11日、貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ後、ユナイテッド93便もハイジャックされ目標に向けて飛行していました。乗客のトッド・ビーマーは、電話交換手と連絡を取り機内の様子を伝えました。33歳のトッドは、乗客が生き残れる可能性が少ないことは認識していましたが、主を待ち望んでいました。いよいよ、テロリストと闘うという直前、主の祈りを一緒に祈ってほしいと伝え、その後、詩篇23篇を唱え、"Let's Roll"「さあ、いくぞ」という叫びを残して仲間と一緒に突進、最終的に飛行機は墜落しました。テロリストの目的を阻むことができたのです。

 42篇は絶望の詩篇ではなく、絶望してもおかしくない状況で、神を待ち続けた人の信仰告白なのです。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(5節)

 →あなたの番です
  □状況に改善がなく、神の不在を感じますか
  □神を待ち望みましょう 
     □なおも神をほめたたえましょう

コロサイ4:7~9 目立たない賜物


 「奉仕」の賜物、「分け与える」賜物、「慈善」の賜物(ローマ12:7~8)、「助ける者」(第1コリント12:28)に、<目立たない賜物>という呼び名を付けてみます。

こうした賜物を与えられた人は、どちらかというと静かで目立たない人が多いですね。新しいことを企画したり、リーダーシップを発揮するタイプではありませんが、与えられた役割をきちんと果たし、裏方の仕事に喜びを感じます。


1、テキコ

私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。(コロサイ4:7~8)

テキコはパウロの弟子の一人でした。テキコの特徴は忠実な奉仕です。コロサイの手紙だけでなく、エペソ人への手紙においても、パウロはテキコを「忠実な奉仕者」と紹介しています。忠実とはいったい何でしょう。人が見ていても見ていなくても、与えられた役割を果たす責任感と実行力です。

あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。(エペソ人への手紙6:21)

パウロはローマの牢獄でエペソとコロサイの人々に手紙を書き、その手紙の配達をテキコに託しました。パウロは、もう一つ難しい仕事をテキコに依頼しました。コロサイのピレモン宅から逃げ出した逃亡奴隷のオネシモを主人に送り届ける役です。

また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。(9節)

 パウロのもとでイエスを信じ別人に生まれ変わったオネシモを、主人のもとに届け、パウロからの信書を手渡して、元の主人と元の奴隷の間を穏やかに取り持つ役割でした。忠実で、穏やかで、平和的で、与えることを喜びとするテキコだから、この難しい任務を果たすことができました。
 テキコの目立たない賜物は、2000年間多くの人々の目に留まることになりました。


2、私たちの奉仕

あなたの番です。御霊は次のような賜物をあなたに与えているかもしれません。

「奉仕」の賜物
「助ける」賜物
「分け与える」賜物
「慈善」の賜物

 奉仕や助ける賜物を与えられている人は、机を並べる、会計係りをする、お茶をサーブする、掃除するなど、主役ではなくて脇役として力強く貢献します。通訳の奉仕も名脇役の一人です。

まとまったお金をそっと献金する人がいますが、まさに分け与える賜物を主からもらっている人です。人をもてなしたり、宿泊を提供するということも、分け与える賜物に関連しています。お料理が好きな人や誰かを泊められるスペースのある人もそうです。
 慈善の賜物は、ホームレスの人への食事提供をしたり、経済的に恵まれない子供の学費・生活費を助ける活動などができます。マザーテレサは、慈善の賜物を特別いっぱい与えられた人でした。

あなたに、このような賜物が与えられているなら、それを主と人々のために惜しむことなく用いて下さい。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:8~10)

カナの婚礼に出席された主イエスは、水がめに満たした水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。宴会の終わり近くなのに良いぶどう酒が振舞われたので人々は驚嘆しました。水を何度もくみ上げて運び、水がめに注いだ下働きの人だけが主イエスの奇跡を目の当たりにしました。「水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」(ヨハネ2:9)と書かれてある通りです。
<水をくんだ手伝いの者>だけが主のみわざを体感できるのです。これこそが、水を汲む者の美学です。

田中いさおさん・きよさん夫婦は、映画『喜びも悲しみも幾歳月』のモデルになった方々で、太平洋に突き出た高さ40mの岩山の上にある塩屋崎灯台が仕事場兼住居でした。陸の孤島と呼ばれる場所での勤務ですから、飲料水にも事欠き、米のとぎ汁で顔を洗い、おしめを洗ったといいます。二人目の出産時は、夫が新生児を受け止め、へその緒を切りました。毎晩、毎晩、舟の航行の安全のために灯台に灯をともす仕事と生活は、目立たない歩みですが、忠実さ、継続力が問われる大切な役割でした。

主はあなたに、奉仕、分け与える、慈善、助ける賜物を与えて下さったかもしれません。それならば、忠実さと継続力に磨きをかけて、信仰の明かりをともし、世の光という灯台になって福音の光と神の愛の光を届けて下さい。あなたの財産、時間、労力、経験を分け与える事こそがあなたの生きがいになり、あなたの輝きになります。

 
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)


 →あなたの番です
□奉仕、分け与える、慈善、助ける賜物を与えられていますか
□忠実さに磨きをかけましょう
□分け与えることを喜びましょう


使徒9:36~43 いやす賜物


 医療技術が進んだ今、いやしが必要な人が逆に増えています。現代こそ、いやす人が求められています。

1、広い意味での<いやしの賜物>

 第1コリント12:9~10に、「ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇跡を行う力」が与えられていると書いてあります。いやしの賜物を与えられた人は、神のいやしの力を届ける管のように用いられます。

 奇跡的ないやしの力がなくても、広い意味でのいやしの賜物を与えられているかもしれません。以下の項目に該当するかを確認して下さい。

・主の力によって病気を治す力が与えられている
・病人のためにとりなしの祈りをする
・自分自身が体や心の病気を経験者した
・仕事やプライベートで、実際に誰かを看病したりケアしている
・人の話をゆっくりと聞くことができる
・「あなたは、いやし系だね」と言われたことがある

広い意味でいやしの賜物をもらっている人は、自然に以下のように行動します。
弱った人のそばにいてあげる。手を置く。抱きしめる。話を聞く。食べ物を出す。リラックスした雰囲気にしてあげる。信頼する。代わりに仕事をしたり、車を運転したりする。見捨てない。慰め、励ます。愚痴を聞いてあげる。あきらめない。共に喜ぶ。

広い意味でのいやしの賜物は、目立たない人に与えられている場合が多いです。パウロは、目立つ賜物と目立たない賜物に触れ、キリストの体の中では目立たない器官、弱いと見られる器官がとても重要だと言ったのは、こうした<広い意味でのいやしの賜物>の必要性を述べたのかもしれません。

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(第1コリント12:22)


2、タビタ

 今日の聖書箇所では、いやしの賜物を与えられたペテロと、広い意味で<いやしの賜物>を与えられたタビタの姿を見ることができます。

ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。(使徒9:36~38)

 海沿いの町ヨッパにタビタという女性のクリスチャンがいましたが、病気で亡くなりました。主イエスが復活され昇天された後なので、人々はペテロを呼びに行きました。葬式をしてほしかったのでしょうか。

そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

 すぐに来て欲しかったのは、葬式のためではなかったようです。すでに遺体は洗いきよられて安置していましたが、葬式が始まる雰囲気がありません。やもめたちは、言葉では言いませんが、タビタを生き返らせて欲しいと全身でペテロに語っていました。

 あなたが死んだとします。家族や親戚以外で、誰が飛んで来てくれますか。大粒の涙をはらはら流して、生き返らせてほしいと懇願する人がいるでしょうか。
 「やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39節)とあります。あなたが死んだら、あなたが誰かに与えたものを取り出して来て、これはあの人からもらったものだ、あの人は私にこんなに良くしてくれたと言ってくれるでしょうか。

 「この女は、多くの良いわざと施しをしていた」(36節)とあります。タビタは、与える人でした。広い意味でのいやしの賜物は、与える賜物と言い換えても良いでしょう。タビタはやもめたちのために、時間を与え、お金を与え、物を与え、心を与えたと言ってもよいでしょう。

ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。(40~42節)

 まったくの異例な事ですが、ペテロは皆をその場から出して一人になってひざまずき、タビタを生き返らせてほしいと主に祈りました。主イエスが会堂管理者の娘を生き返らせた場面とそっくりの言い回しで(マルコ5:41)、タビタ、起きなさいと呼びかけました。
タビタは目を開けました。なぜペテロがいるのか驚いたでしょう。タビタと再開したやもめたちは大歓声をあげ、主を礼拝し、お祝いの食事の席になったことでしょう。

やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。(39節)

つい最近、ハワイから電話がありました。最初、私は知らない人だと思いました。話を聞いていくと、彼女の母親がつい最近亡くなったこと、そのお母さんが私が牧師をしていた教会の教会員だったこと、彼女が死んだ時には平湯牧師に連絡してほしいと頼んだことが分かりました。その年配の女性は、私が苦しい時に、山を越えて運転して来て、私を励ますために、おいしいパンを買って届けてくれた人でした。それも一度ではなく、三度も四度も届けてくれたのです。私は、彼女の行動によって、いやされました。慰めを受けました。その方が、私のことをずっと何年も忘れず、祈ってくれたのだと改めて知り、深い感動と悲しみを覚えました。ヨッパのやもめたちのように、私も、彼女にもらったパンを見せながら、彼女の思いやりを知ってほしいと思いました。

あなたは普段目立たない人かもしれませんが、現代のタビタです。神はあなたを<いやす人>として造られたのかもしれません。あなたの時間を、物を、聞く耳を、愛を、サポートを、あなた自身を、誰かのために与え、その人のいやしを願いましょう。

→あなたの番です
 □広い意味で、いやしの賜物をもらっていませんか
□病気の人、弱っている人のそばに行きましょう
□良いわざ、施しを、あなたらしく実行しましょう