マタイ7:7~12 求めなさい

 「大多数の人は、静かに絶望の生活を送っている。」(ヘンリー・ソロー、『森の生活』)

 あきらめる人が多いのです。だから主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)と言って私たちを励ましてくれました。


1、求める

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7~8)

 必要なものが手元になくて困ったときは、求めます。持っていたのに無くしてしまったら、探します。願っていた道が閉ざされたら、開けて下さいと叫びます。この3つは、同じことを言っています。

3度、似た言葉を繰り返すことによって、あきらめずに求め続けよと主イエスは言いたいのです。少年の日のように、求める心を取り戻そう。あきらめるのはまだ早い。一度はノーと言われても、もう一度やり直してみよう。

 
 多くの人は絶望の人生を送っています。また、辛い毎日はぬけがらのように過ごし、息抜きだけが喜びになっています。ストレス解消のゲームや飲酒のためにあなたは生きているのでしょうか。違います。
 どんなに立派な成果があったとしても、今が問題です。あなたは、今、何をしたいのですか。自分らしさを全うできる事は何ですか。時間を忘れて没頭したい事は何ですか。改革したいこと、救出したい人、達成したい事は何ですか。

 ウイリアム・ウイルバーフォース(1759-1833)はイギリス人でメソジストのクリスチャンでした。26歳の時、ジョン・ニュートン牧師と出会いました。将来の人生を神にささげて牧師になる道にあこがれ、政治家としての資質も持っていました。60歳のニュートン牧師は、若いウイルバーフォースを励まし、政治家としてのタラントを用いて、神の正義を実現しなさいと励ましました。ウイルバーフォースは、政治活動を選び、黒人奴隷の売買禁止の法律を12年後に成立させ、地上生涯を終える少し前に奴隷制度の完全撤廃をイギリスで実現させました。求めた人は、得たのです。

 あなたにとって切実な願いとは何ですか。大きな願いでも、小さな願いでもOKです。
あなたは、何を、あきらめてしまいましたか。
 道が閉ざされても、もう一度取り組んでみたい事は何ですか。 

 朝早く起き、心を沈め、あなたの心の一番奥底にある真実な願いを神に伝えましょう。朝、聖書の言葉から確信をもらい、祈りの中で聖霊に導かれながら、行動してみましょう。

 神は、人間の心に、希望という文字を刻んで下さっています。
 求めなさい。探しなさい。たたきなさい。

神の国は、希望を失わない人によってだけ作られます。



2、必ず与えられる

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:9~11)

子供が高級寿司や分厚いステーキが食べたいと言うなら、親は拒絶するでしょう。でも、子供が空腹になり、パンや魚などの庶民の食べ物を求めてきたら、当然、食べさせます。普通の親は、子供のために良いものを与えます。
まして、神が、私たちに良いものを下さらないわけがないのです。求めれば与えられるという根拠は、私たちの神が私たちの父だからです。

 神の国は、神を父親として信頼する人によって作られる。



3、他の人にも

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)

 12節は独立した内容ではありません。「それで」という接続詞に注目して下さい。今までの主イエスの言葉とつながりがあるのです。

天の父である私たちの神は、人の切実な必要に気づき、願いをかなえてくださいます。私たちは神の子であり、子供は親に似ていくものです。今度は、私たちが身近な人の願いに気づき、それをかなえる番です。

してほしくない事をするなというのは日本の道徳です。主イエスの教えは、その逆で、積極的に、自発的に、相手の喜ぶことを想像して、こちらからアクションを起こしなさいという教えです。

 「律法であり預言者」とは、聖書そのものを指す言葉です。(マタイ22:40)自分にしてもらいたいことを、他の人にするという行為は、聖書が望んでいることの中心だと主イエスはおっしゃりたいのです。

 心理学者のアドラーは、幸せになりたいなら、人の喜ぶことを考えよと言いました。
 あなたの家族の一人一人は、何を切実に願っているのでしょう。祈りながら考えましょう。家族だけでなく、教会の仲間、職場の人たち、クラスメイトなどが幸せになるために、あなたは何ができますか。

 ある女性は、転勤した彼とデートするために、数週間に一度、彼のいる九州まで飛行機で飛びその日の最終便で帰る生活をしていました。その日も、最終便に乗る直前、「帰らなくてもいい日が来るといいね」と真顔で彼が言いました。どきまぎして飛行機に飛び乗りましたが、さっきの言葉がプロポーズなのか、自分の一人合点なのか分からなくなって機内でキョロキョロしているとCAさんと目が合い「なにかお探しものですか」と声をかけられました。それで、その日の出来事を説明しました。「きっとプロポーズですよ。羽田で電話して確かめるといいですよ」とCAさんは励ましてくれました。
 羽田で電話すると、プロポーズだよ、返事がもらえなくて落ち込んでいたところだよ、と彼が言うのです。もちろん、私もOKに決まっているわ。はっきり言わないから分からないじゃない。
 求めてよかった。背中を押してもらって良かったと思いました。


神の国は、自分にしてほしいことを他人にすることによって、作られていくのです。


まとめましょう。神の国は、希望を捨てない人、神を父と信頼する人、そして、与える愛を実践する人によって作られるのです。

 →あなたの番です
  □求めましょう、さがしまよう、たたきましょう
□自分にしてほしい事を、あなたが率先してやってみましょう

 

マタイ7:1~6 さばくな


 主イエスの教えは単純明快です。さばくな!

1、さばかれないように

さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:1~2)

 さばくな、とはどんな意味でしょう。
悪事を見ても、悪いことをされても、抵抗するなという意味ですか。違います。主イエスは、パリサイ人に面と向かって厳しい言葉で彼らの不正や悪を糾弾しました。また、主イエスは、神殿の物売りたちに実力行使をして追い出しました。悪に負けてはいけません。悪にはきちんと抗議し、訂正を求めましょう。しかし、さばくことは止めましょう。

泥棒に対して「あなたは私のお金を盗んだ」と言うのは正しいことです。あの人は万引きしそうな目をしてると噂するのは、さばくことです。さばくとは、主観的で、一方的で、根拠のない悪口のことです。

福沢諭吉は『学問のすす』第13篇で、怨望について書いています。怨望とは、嫉妬のことで、人間の不徳の中で最も大きな害が嫉妬だと述べています。

あなたの職場や学校やあなたの身近に、若い人、美しい人、強い人、賢い人、努力する人、英語の上手な人がやって来たらどうでしょう。平静でいられますか。あなたは、もやもやした気分になります。それは嫉妬です。そんな状態の時、私たちは、あら探しを始めます。皮肉を言います。意地悪します。不幸を願います。ある場合は、その人をつぶしたり、左遷させます。人間の心は陰険です。

主イエスは、さばくなと言われました。その理由は何でしょう。
あなたが同じ基準でさばかれるからです。あなたが誰かをさばけば痛快です。でも相手は怒ります。相手はもっと厳しい目であなたをさばきます。それによって争いが始まり、人間関係がこじれ、悩みのドツボに入ります。

 私たちがコントロールすべきなのは、私という人間だけです。
 私は、他者の心をコントロールしてはいけません。また、誰かが私の心をコントロールすることも望みません。どちらもバウンダリーの侵害になります。

相手の言動であなたが困ったのなら、本人に直接抗議し、行動を改めてもらいましょう。けれども根拠のない悪口を言いたいなら、自分の口を閉ざしましょう。
それが、あなたのためだと主イエスは考えます。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」まさに、口は災いのもとです。口を制御し、さばく思考パターンを止めましょう。

あなたは、今、誰をさばいていますか。さばくと、本人が不自由になります。憎む相手がそこにいなくても、その人の事を考えるだけで苦しくなり、怒るからです。

経済学の権威、ハーバード大学のマイケル・ポーター博士はこう言いました。「戦略とは、何をやらないかを決めることだ。」
私たちの人生の経営学にも同じことが言えます。さばかないと決める。主観的に、噂に従って、あるいは単なる好き嫌いで、人をさばかないと決めるのです。嫉妬心という石ころを人にぶつけません。嫉妬心という石ころを握りしめず、捨ててしまいましょう。

さばいて、人間関係をこじらせれば神の国建設は停滞します。柔和な者、あわれみ深い者、平和を作る者になって、キングダムビルダーになりましょう。


2、目に梁

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3~5)

「偽善者たちのよう」(マタイ6:2、5、16)であってはならない、と主イエスは何度も語ってこられましたが、偽善者とは律法学者たちを指していました。今回も「偽善者たち」と言っておられます。自分の目の中に大きな梁があることに気づかない律法学者をまず念頭に置いているのでしょう。自分の目に大きな木材が入っているなら、他人の目にある小さなチリを見つけることはできないはずです。

私やあなたの目にも、大きな梁が入っているかもしれません。自分だけは正しく、相手は間違っていると思い込んでいませんか。謙虚に、神の前で、自分の姿を認めましょう。

私たちがさばく相手は敵ではなく、兄弟です。兄弟とは、一番近しい関係です。身内であり、仲間です。一番幸せになってほしい人です。

映画評論家の淀川長治さんが晩年に入院しました。看護師さんが忙しさでゆとりがない様子を見て、便せんにこんな言葉を書いてドアに貼ったそうです。
  「このドアを開ける人は笑って開けて下さい。」
それからは、淀川さんの部屋だけでなく、どの部屋に入る時も笑って入る看護師さんが増えたそうです。
人をさばくのは止めて、こういう提案をするのはどうでしょう。さばくのを止めて自分から挨拶したり笑いかけることも可能です。


3、豚に真珠
 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

豚に真珠ということわざは、主イエスの言葉にルーツがありました。
「犬」や「豚」と言っていますが、それは動物のことではなく、人間のことです。当時、犬や豚は嫌われていた動物でした。聖なるもの、あるいは、真珠のように価値のあるものを与えても、その宝を踏みにじる人がいます。聖なるものや真珠を踏みにじるだけでなく、それを与えようとした私たちに危害を与える人がいます。そういう場合は最初から、相手にするなと主イエスは言われます。主イエスは合理的です。

福音や聖書や神の話を丁重に説明しても、馬鹿にする人、まったく話が通じない人、頑迷な人物、逆に私たちを攻撃してくる人がいます。たとえば宗教過激派テロリストのところに私が乗り込んで福音を伝えに行ったらどうなるでしょう。想像すれば分かります。

主イエスはバウンダリーをはっきり持っています。誰にでも好かれる必要はありません。スパッと割り切ればよいのです。無駄なエネルギーはいりません。

 →あなたの番です
  □さばくのを止めよう
  □そうすれば、幸せになる
  □そうすれば、神の国建設に集中できる

マタイ6:25~34 明日の心配

 日本の古いドラマを見ていたら、登場人物が自分の積極性を説明するために、「大丈夫、私はポジティブ・シンキングだから」と答えていました。thinking(考える)とsinking(沈む)は別物です。その時の発音がsinkingなので前向きに落ち込むことになります。
 あなたは、心配しやすい人ですか。

1、心配するな
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイ6:25~27)

 あなたは今、何かを心配していますか。若い人は、大学、就職、結婚の心配があります。結婚していれば、相性、子育て、生活やお金の心配があります。年齢が上がると、親の介護や自分の病気、老後の生活など不安になります。

 今日の箇所全体でイエスさまが言いたいことは心配するなの一言です。主イエスは、誰に対してこう言われたのでしょう。心配しているすべての人です。
 なぜ、心配するなと言われたのでしょう。心配に効用はなく、マイナスになるからです。「心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」とある通りです。

主イエスは、語りながら空を飛ぶ鳥を見なさいと言いました。また、地面を指さして、花を見なさいと言われました。神は、空の鳥を養い、野のゆりを装ってくださるのだから、神は必ずあなたに良くして下さると説明されました。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(30節)

心配とはいわば信仰のようなものです。物事が否定的な結果になるはずだと固く信じているからです。だから、主イエスは「信仰の薄い人たち」と指摘されました。主イエスの側から言うなら、なぜ私に信頼しないで最悪のシナリオだけを信じてしまうのだ。なぜ、慈悲深い父なる神に信頼しないのだと言いたいのです。

心配の芽が顔を出したら、それを祈りに変えましょう。ネガティブ体質にさよならしませんか。


2、キングダムビルダー
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(32~34節)

神の国とその義を第一にすれば、必要なものは与えられると主イエスは言われました。この言葉は唐突に思えるかもしれません。山上の垂訓を貫くメッセージを思い出せば、唐突ではなく筋が通った説明だと納得できます。
心配しすぎたり、ネガティブになる人は、心配のあまり、神の国建設の手が止まってしまいます。自分の狭い世界に入り込んで出て来れなくなります。それで、主イエスは、心配を止めなさい、神の国のために行動しなさいと言われたのです。

 心配に振り回されて、神の国建設の働きを止めていませんか。眉間にしわを寄せ、暗い顔になり、身近な人への親切を忘れていませんか。こんな状態では福音は語れないと伝道を一時停止していませんか。あなたは、キングダムビルダーです。神の国を作りましょう。神の義を実現しましょう。身近な人に温かい心で接しましょう。

 休暇で先週、日本に行って来ました。娘が航空会社に勤めている関係で、スタンバイチケットで出かけました。どうやら満席らしいと直前に分かりました。このチケットは、席が空いているなら乗せてもらえるものです。私は、今回、神さまを単純に信頼することにしました。エアポートのゲート前の待合場所では、正規のチケットを持った人が列を作り、次々と入って行きます。私は妻に祈ろうと言いました。「主よ、どうぞ乗せて下さい。きっと乗せて下さると信じます。」と主にお願いしました。どちらかというと私は、否定的将来を何種類か予測し、最悪に備えるタイプです。こういう場面で、否定的な事を言うことが多かったので妻を疲れさせていました。今回は、心配を止めて、主に信頼することに決めていましたので、妻は私の態度に驚いていました。ほとんどの人がゲートに入り、飛行機のドアが閉まる15分前になって、私たち夫婦の名前が呼ばれました。乗れたのです。ウエイティングリストや乗客数からいうなら、奇跡です。ビジネスクラスの席に隣り合わせた私たちは、手を握り合い、二重の意味で感謝の祈りをささげました。

 あなたの番です。心配は止めましょう。父なる神に信頼しましょう。


 →あなたの番です
  □心配を止めよう
  □どんな時も、神の国を建設しよう
  □神は、必要なものを必ず与えて下さる