エズラ記、ネヘミヤ記


 捕囚の地からエルサレムに戻った人々は神殿と城壁を再建し、神中心の生活を始めようとしました。その時の困難と主の御手を記録したのがエズラ記とネヘミヤ記です。

1、歴史を支配する神

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。(エズラ記1:1~2)

 紀元前586年エルサレムは陥落、おもだった人はバビロンに連れていかれました。やがてバビロニアは滅びペルシャの時代になりました。ペルシャ帝国は君主の絶対権力よりも法による統治を重んじ、民族の自治を大切にしました。それで、ペルシャのクロス王はユダヤ人を故国に戻し、神殿建設を命じたのです。預言者エレミヤが70年後に故国に戻れると預言していましたが、その通りになりました。(エレミヤ25:11~12)

586年          エルサレム崩壊
540年          ペルシャ帝国、クロス王即位。             (エズラ記1:1~4)
538年          第1回帰還。ゼルバベル、祭司ヨシュア。
536年          神殿工事開始                                       (エズラ記3章)
                        神殿工事が中断                                  (エズラ記4章)
                        預言者ハガイ、ゼカリヤが活躍          (エズラ記5:1)
520年          神殿工事再開                                       (エズラ記5章)
516年          神殿完成                                              (エズラ記6章)
458年          第2回帰還。エズラ。          (エズラ記7~8章)
432年          第3階帰還。ネヘミヤ。城壁再建。    (ネヘミヤ記2~6章)

 エズラ記とネヘミヤ記には、預言者エリヤの時代のような奇跡はありません。また、神からの直接の語りかけはありません。ですが、神が歴史と王たちを支配しておられることが分かります。この時代のもう一つの特徴は、神の言葉を愛す人と神に祈る人が用いられたことです。エズラとネヘミヤは、神のみこころを理解し、困難を乗り越えたのです。

 状況は現代と似ています。神は今も歴史を支配しています。


2、律法に通じたエズラ

エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。(エズラ7:6)
 エルサレム陥落から第一陣がエルサレムに帰るまで、約50年の歳月が流れました。ユダヤ人はバビロニア帝国で生活しながら、会堂(シナゴグ)を作り、そこで神の言葉を学ぶようになりました。神の言葉を教えたのは祭司たちであり、彼らはやがて律法学者と呼ばれるようになりました。

すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエルサレムに着いた。彼の神の恵みの御手が確かに彼の上にあった。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。
(7:9~10)

エズラは、目に見える神殿や城壁を作ったりしませんが、人々の心に確かな信仰を建て上げようとして聖書を教えました。今日、私たちがバイブルスタディーを大事にするのは同じ理由です。

エズラは、神のことばから始める人です。あなたの一日も、聖書から始めましょう。


3、祈りから始めたネヘミヤ

私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。(ネヘミヤ1:4~5)

ネヘミヤは、エルサレムの再建が道半で悲惨な状況だと知らされ、泣きながら祈りました。祈りの中で自分の為すべき事を見つけました。彼は、ペルシャ王の側近「献酌官」(1:11)だったのです。数ヶ月間、祈りながら、城壁再建計画を作り、王の許可を取り付けました。


 それから、私は彼らに言った。「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう。」と言って、この良い仕事に着手した。(ネヘミヤ2:17~18)

 ネヘミヤもエズラ同様に、神の御手を意識する人でした。「神の御手」があったことを人々に知らせた、城壁再建のビジョンを示しました。多くの人が熱心に城壁作りに協力しました。(3章)サヌバラテやトビヤという妨害者がネヘミヤたちを苦しめましたが、祈りつつ(4:8~9)、片手に槍を持ちながら(4:17)工事を続け、なんと52日間で(6:15)完成しました。

良い事や正しい事や福音の働きには妨害が入ることがあります。そんな時、ネヘミヤたちのことを思い出して下さい。ひるまずに進みましょう。

主の御手は、事柄の上に現れ、また多くの場合、主の御手は誰かの心に直接働いてくれる場合があります。まさか、あの人が助けてくれるとは思わなかったという事が起きるのです。

ネヘミヤは、それから、貧しい人を助けたり、不正を正したり、外国人との結婚問題に対処したり、エズラに神の言葉を語ってもらったり(8~9章)しました。

 さあ、あなたも「再建にとりかかろう」(ネヘミヤ2:18)何を再建したいですか。そのためには、みことばから始めましょう。また、祈りから始めましょう。困難に直面しても、ひるまず前に進んでいきましょう。

 →あなたの番です
□みことばから始める
□祈りから始める
□妨害にひるまない

歴代誌第二



 クラシック愛好家を別にして、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を最後まで聞く人は少ないですね。でも、最後まで聞いた人は、草原を疾走するようなの伸びやかで希望に満ちたメロディーが第4楽章にあることに気づくはずです。

 バビロンから解放されエルサレムに戻った人々は、滅びの歴史であることを承知の上で最初から最後まで王国の過去を丹念に調べました。王国再建のヒントが歴史に隠れていると思ったのです。最初から最後までちゃんと見直す。忘れられた歴史の中にも必ず宝が隠れていて、それは決して無駄ではなかった。歴代誌の視点はそこにあります。


 あなたの人生も、あきらめるのは早い。これからです。今から立て直せます。
今日は、ユダ王国の20人の王から3人の王を取り上げてみましょう。


1、ヨシャパテ王

 ヨシャパテ王は、ダビデの道を歩み、主の祝福を受けました。(歴代誌第二17:6)

私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」(20:12)

アモン人とモアブ人の大軍が迫って来ました。多勢に無勢、ヨシャパテは勝ち目がないと観念し、主の前に出て、人々と共に主の助けを願いました。すると、レビ人でアサフ族の賛美リーダーであるヤハジエルが、主の導きを感じて王と民にアドバイスしました。この戦いは神の戦いである、気落ちしてはならないと語りました。(20:14~17)

それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し(20:18)

ヨシャパテは、ヤハジエルの言葉に共感し、民と共に主を礼拝し、賛美し、翌朝になると軍隊の先頭に聖歌隊を立て、主への賛美をしならが敵に当たりました。主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで、と。結果は、大勝利となりました。(20:23)

試練や壁や恐れを感じたときは、まず、主を礼拝し、感謝する。これが基本です。


2、ヒゼキヤ王

 ヒゼキヤ王も、主の目にかなうことを行った信仰的な王でした。(29:2)偶像を取り除き、国民に主に仕えよと語りました。(30:8)

「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリヤの王に、彼とともにいるすべての大軍に、恐れをなしてはならない。おびえてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって奮い立った。(32:7~8)

アッシリア軍が北部から迫り、北王国イスラエルが征服され、じりじりと脅威が迫る中で、ヒゼキヤは城壁を補強して防備を固めました。エルサレムの民に対しては、主への信頼こそが最も大事だ、恐れるな、われらと共におられる方は強い方だと民を鼓舞しました。
アッシリヤ軍に包囲され絶体絶命のピンチに陥っても、ヒゼキヤは外国の保護に頼ったりせず、主に信頼し、預言者イザヤと共に主に祈りました。
すると、主が御使いを遣わしてアッシリヤ全軍を滅ぼされました。(32:21~22)

ところで、超一流スポーツ選手にはメンタル面を強くする専門コーチがいます。ある有名なコーチの本を読んでいたら聖書の考えに近かったので驚きました。重荷を誰かにゆだねた心境、感謝、生かされている感覚を持つという助言を選手たちにしていました。

困難に直面したときは、誰かのせいにしない。必要以上に恐れない。イライラを止める。弱音やマイナス面の言葉を言わずに、強くあれ、雄々しくあれ、主が共におられると自分に言ってみましょう。


3、マナセ王

 マナセはユダの20人の王の中で最悪の王でした。あらゆる神々を導入し、邪悪な人身供養を行い、うらないや霊媒を取り入れ、神殿の中に異教の偶像を据えました。(33:1~9)正義を踏みにじる悪政を行い、主の語りかけを一切無視しました。マナセによって王国の滅びが確定したといっても過言ではありません。

そこで、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。(33:11~13)

 マナセはバビロンまで連れて行かれ屈辱と苦難を経験しました。その時、主こそ神であると知り、自分の行いを悔い改めました。再びエルサレムに戻されると、マナセは主に立ち返りました。(33:15~16)
 この記録は列王記にはなく歴代誌だけにあります。マナセですら、やり直せた、と言いたいのです。ささやかな信仰回復も主の前に決して無駄ではないと言いたいのです。

 アンバー・ウエルスさんは、午後3:26発のフライトに乗り、旅客機が飛び立つと120まで数えました。離陸後2分間が危険な時間と何かで読んでいたので、いつもそうしていたのです。90まで数えると右のエンジンが爆発して火を噴きました。20番の座席だったので良く見えました。機長は、衝撃に備えて下さいとアナウンスしました。周囲の多くの人が静かな声で祈り始めました。アンバーさんも祈りました。できることはそれだけでした。いいえ、最も大切な事、主への信頼を実行したのです。主よ、パイロットの運転を導いて下さい、私たちをお助け下さい。旅客機はハドソン川に着水、彼女は155人と共に飛行機の翼に出て、膝まで水につかりましたが全員救助されました。

 困難に直面した時、ヨシャパテとヒゼキヤは神を礼拝し、感謝し、主を信頼しました。極悪のマナセすら、悔い改め、主を信頼して主のあわれみを体験しました。
 
 あなたは、今、焼け野原に立っていますか。涙の海で漂流者になっていますか。聖書の神は、歴史を通してあなたを励ましておられます。
 必ずやり直せる、立ち上がれる、脱出の道はある、笑顔は戻る、と主は言っておられます。あなたの「歴代誌」(クロニクル)を作るのは、あなたとあなたの主です。

「私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」(32:8)

 →あなたの番です
  □困難な時こそ、主に感謝し、主を礼拝する  
   □主が道を開かれる

トマスのイースター  ヨハネ20:24~29


 イースターおめでとうございます。主イエスは復活されました。
宇宙から特殊カメラで撮影できるなら、野球観戦のウェーブのように復活を喜ぶハレルヤのウェーブがイースターのこの日に地球を一周したはずです。

1、信じません

 子供に人気の絵本シリーズ「機関車トーマス」をご存じですか。イギリスのオードリー牧師がストーリーを書きました。いたずら好きで、たびたび失敗するのが主人公の機関車トーマスです。トーマスとは日本語にすればトマスです。
 さて、聖書のトマスはどんな人なのでしょう。

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19~20)

イースターの早朝、女たちが復活の主イエスに会ったという話を聞きましたが、十二弟子は懐疑的でした。その日の夕刻、十二弟子が集まっていると部屋に主イエスが突然現れました。主イエスは十二弟子に語り掛け、十字架の傷跡も見せてくれました。十二弟子は悲しみと不安から、喜びと賛美に変わりました。トマスはそこにいませんでした。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。(ヨハネ20:24)

トマスはその日遅くやって来ました。皆は大喜びでしたが、自分だけ電車に乗り遅れてしまいました。

それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。(20:25)

自分だけが除外されたと思い込んだトマスは、主イエスの傷跡をこの眼で見なければ決して信じないと態度を硬化させました。本心は「信じたい」のですが、「決して信じません」と言ってしまいました。人間とはそういうものです。
トマスは、ただの疑い深い人なのでしょうか。

ヨハネ11:14~16を見るとトマスの人柄が推測できます。主イエスや十二弟子と親しかったラザロが死んで、主イエスは彼のところに行こうと言われました。トマスはその言葉を聞いて、イエスさまはラザロのように死ぬおつもりだと早合点し、私たちも行って死のうではないかと発言しました。トマスは主イエスと共に死ぬ覚悟をした一途な人だったのです。イースターの日も十二弟子と行動を別にしたのは、彼が死に場所を探していたという可能性が高いのです。

あなたは、トマスに似ていますか。


2、私の主

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(26~28節)

 トマスは、決して信じないと発言した後、誠実な求道者になって十二弟子と共に1週間を過ごしたようです。一週間後、主イエスは再び十二弟子の前に現れて下さいました。主イエスはトマスのために来て下さいました。

トマスよ。わたしはあなたを知っている。あなたの発言の真意も分かっている。あなたは人一倍純粋で、一途で、情が深い。わたしと共に死ぬ覚悟があることも知っている。あなたがわたしに会いたかったように、わたしもあなたに会いたかった。主イエスは、存在でトマスに愛を伝えました。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい」(27節)と主イエスはトマスに言われましたが、トマスは手を入れて傷跡の検証はしませんでした。復活し、トマスのために現れたイエスの愛に心を激しく揺さぶられたのです。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい」という言葉を聞いて、主イエスは私の心の動揺も、行き過ぎた言葉も、知っておられるとトマスには分かりました。主イエスの手の傷跡は、私の罪のために十字架にかかられた印。私のためにだけに姿を見せて下さった主。私のため。私のため。すべてが私のため。それが分かったトマスは、「私の主。私の神」(28節)と心から告白できました。

「私の主。私の神」という言葉には、懐疑心の悔い改めが含まれています。借り物の信仰ではなく、自分自身の心の底からの信仰告白です。「一緒に死にます」という一時の感情の高まりではなく、生涯イエスを自分の主として献身しますという真摯な決断が現れています。

主イエスは、あなたの主です。あなたは、どんな献身を表しますか。


3、見ずに信じる

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

主イエスはトマスに、きっぱりとアドバイスしました。「見ずに信じる者は幸いです。」幸いですというフレーズは山上の垂訓で有名です。主イエスが復活後に「幸いです」と言われたのはここだけです。本当に幸いなのは、手の傷跡を検証せずに、見ずに信じることなのです。

自分の目で見るまで信じないという態度は間違っています。十字架で死んだ後に復活すると主イエスは予告されましたが、その約束を信じれば良かったのです。それが見ずに信じることです。また、仲間であり、信頼できる十二弟子の証言を聞いた時、そのままを受け入れて信じればよかったのです。それが見ずに信じることです。

クリスチャンのあなたが、大きな試練に出会ったり、ひどい病気や痛みに直面したり、死が近いと感じる時に、信仰がゆらぐことがあるかもしれません。
その時は、今日の箇所を思い出して下さい。トマスのようになるなと主イエスは言っておられます。復活の主を信じるに十分な材料はすべて聖書に提供されています。見ずに信じるとは、聖書を信じるということです。ペテロも以下のような言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(第一ペテロ1:8~9)

主イエスはよみがえられました。あなたの罪は完全に赦されました。主イエスは今も生きていて、あなたを励まし、あなたに永遠の命を約束されました。あなたも信じましょう。見ずに信じることは幸いなのです。

「信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」(20:27)


→あなたの番です □見ないで信じる

歴代誌第一


 
やり直したい人に、勇気と指針を与えてくれる。それが歴代誌です。

1、系図の意味

 歴代誌第一は、1~9章の系図、10~29章のダビデの生涯と二つに分けられます。系図は、神がアダムを造ったところから始り(歴代誌第一1:1)、アブラハム(1:27)、ヤコブの12人の子供(2:1~2)、そしてダビデ(2:15)、ソロモン(3:5)、その後のユダの王たち(3:10~16)と続きます。実に壮大な系図です。

全イスラエルは系図に載せられた。それはイスラエルの王たちの書にまさしくしるされている。ユダは、不信の罪のために、バビロンに捕え移されていた。ところで、彼らの所有地である彼らの町々に最初に住みついたのは、イスラエル、祭司たち、レビ人および宮に仕えるしもべたちであった。エルサレムには、ユダ族、ベニヤミン族、エフライムおよびマナセ族の者が住みついた。(歴代誌第一9:1~3)

「全イスラエルは系図に載せられた。」とあります。この系図は、バビロン捕囚から戻ってきたユダヤ人につながります。1~9章の系図は、ユダヤ人に自分のルーツがどこにあるのか教えてくれます。私は神に作られたのだ。神に選ばれたアブラハムの子孫なのだ。エジプトの奴隷状態から主によって救われた者であるとの自覚が生まれます。

 サムエル記と列王記はイスラエルの王国の歴史を取り上げているので、歴代誌と良く似ていますが、視点がかなり違います。
列王記はエルサレム陥落からあまり時間がたっていない頃に書かれ、王国が滅びた原因に焦点が当たっています。一方、歴代誌は、バビロンからエルサレムに戻った人によって紀元前450年頃に書かれたもので、未来志向の視点があります。
 捕囚から戻った人々によって神殿は建設されましたがかつての栄光はなく、城壁もなく、王国再建の熱意が冷めていました。そのような時に、王国が滅びた原因を見つけるのではなく、王国再建の秘訣が歴史に隠されていないかと再点検したのが歴代誌なのです。温故知新。歴代誌は未来志向なのです。

私たちも自分の救われたルーツを再確認すると、勇気が湧き、感謝が生まれます。今たとえ困難の中にいても、私は神に愛され、覚えられていると分かるのです。


2、神礼拝を中心に据える

 後半の10~29章の中心テーマはダビデです。
歴代誌は、預言者ナタンやガドの言行録やイザヤの文書など16の第一次資料を用いて綿密な歴史的事実を掘り下げました。けれども、ゴリアテとの対決、サウルに命を狙われた逃亡生活、バテシェバ姦淫事件、アブシャロムのクーデターなど既知の歴史を割愛しました。その代わり、神を愛す信仰姿勢、賛美や礼拝を熱心に求めるダビデの姿をクローズアップしました。

それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前に仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは十弦の琴や、立琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。祭司ベナヤとヤハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた。
その日その時、ダビデは初めてアサフとその兄弟たちを用いて、主をほめたたえた。
(歴代誌第一16:4~7)

 神の箱をオベデ・エドムの家からエルサレムに運ぶと決めたのはダビデでした。都を都たらしめるのが神殿であり、神を礼拝することが王国の基盤だとダビデは考えたのです。ダビデの姿勢を見習いたい。歴代誌の著者はそう考えました。

神の箱を運ぶとき、ダビデの発案でレビ人による聖歌隊が組織されました。歴代誌は、賛美のイニシアティブをとったダビデの姿を強調しています。聖歌隊のリーダーとして、アサフ、ヘマン、エドドンなどが指名されました。

聖歌隊は、昼も夜も交代で一日中、神をたたえ続けました。「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」(23:30)彼らは「主にささげる歌の訓練」を受けた者たちで、「彼らはみな達人であった」(25:7)。25章には、バビロン捕囚から帰って来たレビ人の聖歌隊の奉仕分担表が記録されています。

神の箱がエルサレムに運ばれたときに歌われたのが16:8~36の詩でした。これは詩篇105篇です。エジプトからイスラエルの民を救い出された神をたたえる詩篇です。

主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
主のしもべイスラエルのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。
 (16:8~13)

捕囚から帰還したユダヤ人が、この箇所を読んだなら特別な感慨を持ったはずです。エジプトから救い出されて約束の地に定住できた事と、バビロンからエルサレムに戻れた事は見事に重なります。
神を礼拝することを第一にして、荒廃したエルサレムを再び主の栄光輝く都にしようとバビロン捕囚から帰還した者たちは考えたことでしょう。

ダビデはソロモンに神殿建設を託しました。28~29章に詳しく書いてあります。

わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。」(28:9~10)

ダビデは、神殿建設のために仕様書を作り(28:11~12)ソロモンに手渡しました。「私は全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした。」(29:2)と述べたように、ダビデは今の自分ができる最善を主にささげ、民の指導者らも自発的に神殿建設のために金銀をささげました。

歴代誌第一をまとめます。未来を豊かにするためには、自分が救われたルーツを確かめましょう。そして、信仰の原点に立ち戻り、神を心から礼拝し賛美しましょう。

朝のディボーションは継続していますか。日曜の礼拝を最優先していますか。あなたの信仰の原点である、信仰告白した場面やバプテスマ式、自分自身を主にささげた日などを思い起こして下さい。信仰のスタートラインに戻り、感謝し、新たな思いで未来に向かって下さい。

「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。」

→あなたの番です  
 □系図に名を入れてくれた主に感謝する
 □人生をやり直すために、主を心の中心に置く