マルコ12:18~27 聖書と神の力

「あなた、また電話をかけ直しているの? リダイヤルのボタンが付いてるでしょう」「えっ。確かにある。知らなかった。早く教えてほしかった。いや、自分の問題だよね。トホホ。」
 今日は、知らなかった、という事がテーマです。

1、サドカイ人の質問

 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。(マルコ12:18)

 当事、ユダヤ人律法学者は大きく二派に分かれており、一つはパリサイ人、もう一つがサドカイ人でした。二者は互いに譲らず、深い対立(使徒23:1~10)がありました。
 サドカイ人は、祭司の家系に生まれた経済的に裕福な貴族階級です。その思想は、旧約聖書の中でもモーセ五書、つまり「律法」だけを神からの啓示と理解しました。復活はないと主張した論拠は、復活についての言及がある詩篇や諸書、預言書などを退けていた事によります。

 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がないばあいには、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。
 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。
こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」(20~23節)

 これはモーセ五書のひとつ、申命記25:5~6に見られる規定で、レビラート婚と呼ばれ、アフリカなどではまだ生きている制度です。7人兄弟全員が亡くなり、妻も死んだら、女は誰の妻なのか、という質問で、悪意ある奇問と言ってもよいでしょう。
 全員が復活すれば、女が誰の妻か言い切れません。それで、復活という思想そのものが間違っている、とサドカイ人は言いたいのです。この思考パターンは、前回説明したAll or Nothingの理屈と同じで、非論理的で、相手を追い詰める時に使う詭弁の一種です。



2、神の力を知らない

 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(24~25節)

 主イエスの答えは明快です。サドカイ人の考え方は「思い違い」で、「聖書も神の力も知らない」(24節)ことの証拠だと断定されました。

 主イエスは最初に、サドカイ人が神の力を知らないという点を取り上げます。サドカイ人は復活を信じていないので、同じ姿で息を吹き返す程度にしか復活を理解していませんでした。復活とは、神の力によって根底から徹底的に変えられることなのです。第1コリント15:51にあるように「みな変えられる」のです。単なる蘇生ではなく、神による新しい創造であり、栄光の姿への変化です。

 地上では、独身の孤独、子供がいない辛さ、未亡人は悲しさがあるかもしれません、天国にはそれはありません。私たちが、結婚関係のない天の御使いのように変えられるからです。性的な関わり、結婚や出産も天国にはないし、結婚カウンセラーも必要ありません。

 サドカイ人は、復活思想は愚かだと論破したつもりでしたが、結局、自分たちが神の力をまったく知らなかったことを暴露しただけでした。

 さて、私たちは、神の力がどれほど大きなものか、本当に知っているのでしょうか。

 私も、神の力の偉大さを知りません。
天国には、牧師という職業もないはずです。そこに神がおられるので牧師が説明する必要などないのです。きっと、私は主イエスの前で赤面し、あなたの事を何も知らないのに、知ったような顔で話してきて申し訳けありませんと、頭を下げるはずです。
 神の力をもっと知りたいと思いませんか。



3、聖書を知らない

 次に主イエスは、「あなたがたは読んだことがないのですか」(26節)とサドカイ人が聖書に無知であることを皮肉を込めて言われました。サドカイ人が重視するモーセ五書の一つ、出エジプト記3章6節の言葉を取り上げ、主イエスはその意味するところを解説されました。

 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(26~27節)

 主イエスがおっしゃりたい事を簡単にまとめるならこうなります。アブラハムもイサクもヤコブも生きている。そういう事なのです。
 モーセが神と出会った当時、アブラハムやイサクやヤコブは何百年も前に死んでいました。ですから、過去形で「わたしは、ヤコブの神であった」と語るほうが自然です。でも神は、「わたしは、ヤコブの神である」と現在形で言われたのです。
 これは、アブラハムもイサクもヤコブも神の前で生きているという意味です。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(27節)とある通りです。神は永遠に生きておられ、アブラハムたちも生きているのです。

 サドカイ人は、これには何の反論もできません。聖書をきちんと読んでいなかった事が暴露されたので、歯ぎしりして帰ったのかもしれません。

 さて、私たちはどうでしょう。聖書をどれくらい知っているのでしょうか。
ちゃんと、神の言われたい事を聞いているのでしょうか。

 私たちが心配する事柄は、神の力が及ばないと考えている分野です。お金のこと、ビジネスのこと、家族のこと、人間関係のこと、自分の健康のこと。そこにも神の力が表れると信じますか。信じましょう。

 ビル・ブライトは1951年、30歳の時、フラー神学校の学生でした。UCLAで学生に主イエスの福音を伝え始めたのです。福音のエッセンスをわずか77の単語を使って文章にし、重要聖句をそれに添えました。後に『4つの法則』と呼ばれた伝道パンフレットです。この方法は大いに用いられ、25億冊以上が印刷され世界中で用いられ、多くの人を救いに導きました。1979年には、ルカの福音書をそのまま映画にした『ジーザス』を作成し、900を超える原語に翻訳され、多くの人がクリスチャンになりました。彼のミニストリーはキャンパス・クルセードと呼ばれます。
 フラー神学校の学生の時、ビル・ブライトは、一枚の紙に「私は神の奴隷になります」と書いて、署名しました。これが、大きな違いを生んだ秘訣だと後に述懐しています。

 神は、一人の人生を用いて神の力をこのように表して下さいます。あなたにも神の力が働くと信じましょう。

 →あなたの番です
 □神の力をあなたの計画に織り込みましょう
 □神をもっと知りたいと願い、聖書に聞き入りましょう