山を降りながら  マルコ9:9~13

1、誰にも話してはならない

 主イエスと3人の弟子は栄光の山頂を後にした。山を降りる経験、それは山を登るよりも困難な道かもしれない。
 弟子たちは、心躍る経験を山上で経験した。主イエスの栄光の姿を自分の目で見たのだ。だれかれとなく言いふらしたい内容だが、主は他言をゆるさなかった。

 「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。」(マルコ9:9)

 特別に大きな祝福の経験は、時間をかけてゆっくりと心の中で咀嚼する必要がある。さもないと、大きな奇跡や驚嘆する主の介入を、まるで自分が偉大になったかのような錯覚を持ってしまう。
 大きな祝福の後は、ただ主を賛美しよう。土の器の中に表された神の栄光をたたえよう。それが、上手な山の降り方だ。

2、弟子の質問に答えて

 弟子たちは、主の苦難と十字架の死、そして復活という一連の予告の意味が理解できないでいた。それで、さきほど見たばかりのエリヤに関連して主イエスに質問した。

「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょう」(11節)

 マラキ4:5に「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」という預言がある。律法学者も、救い主が来る前に、エリヤが来ると解説していた。主イエスによると、エリヤはもう来ている、というのが主イエスの答えだ。マタイ11:14では、「実はこの人こそきたるべきエリヤなのです」とバプテスマのヨハネがエリヤの役割を果たしたと説明していた。

 バプテスマのヨハネは結局は殺された、と主イエスは言及された。これは、後に控えている救い主に対しても人々は同様に扱うと暗示している。主イエスの苦難と十字架と死は偶然ではなく、旧約聖書の預言の成就であると、主イエスは弟子達にヒントを出しておられる。実際のところイザヤ53章はまさに、救い主の苦難の預言となっている。イザヤ53:4「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」。

 主イエスはどんな質問にも答えてくださる方だ。さらに、その質問をきっかけに、もっと大きくて深い真理を開示してくださる方だ。だから、今あなたが持っている疑問、質問をぶつけてみよう。主の答えを注意深く見つめよう。

3、書いてある

 「エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことをしたのです。」(12~13節)

 12節と13節の主イエスの答えに注目しよう。同じ言葉を繰り返しておられる。マタイ4:1~10を見ると、荒野の誘惑の際も3度も用いたのが「書いてある」という言葉だ。主イエスの力強さの秘訣は、神の言葉に信頼することにあります。

 私はハワイに家族で移り住むにあたり、赤坂の米国大使館で永住権の承認書類をもらった。手にした時は、苦労して祈って待った後だったので本当に嬉しかった。これでアメリカに正式に渡れる。入国審査の際、私の立場を客観的に照明してくれるのはこの書類だ。たとい自分の気持ちに不安が起きても、ここに書いてある、と自分を励ました。たった一枚の紙切れが私たち家族の身分を保証してくれた。聖書は、それ以上だ。救われた事を確信させ、神の愛を分らせてくれる。主イエスが共にいることを教えてくれる。<書いてある>、これは私たちの信仰の土台だ。

 2005年3月11日、アトランタに住む当時27歳の女性アシュレイ・スミスさんの家に突然見知らぬ男が入り込んで来た。聞くと、裁判所から逃走してきたブライアンという男で、4人を殺した凶悪犯だと分かった。男がろう城したのが分ると周辺は警察に封鎖された。恐怖の中でもアシュレイさんは、男に食事を出し、対話を試みた。自分が離婚して傷ついたこと、覚せい剤中毒だったこと、主イエスに出会い人生が変わったことなどを心を込めて話した。リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』(パーパス・ドリブン・ライフ)の32章を読んで聞かせた。人は神の下さった賜物を生かして生きるように造られた、あなたもそう生きたらいい。自首して人生をやり直せと勧め、男はそれに共鳴して翌日警官の前に出て行った。
 アシュレイさんは、ブライアンから天使と呼ばれたが、彼女はそれを否定した。つまり上手に山を降りたのだった。

 「1トンの興奮より、1グラムの信仰を大切に」とは、確かスポルジョンの言葉だったと思う。あなたも、素晴らしい祝福経験の山から降りることを学ぶ必要がある。徐々に高度を下げる旅客機のように着陸することが必要だ。歳を重ねることも、仕事をリタイヤすることも、恵まれたキャンプから実生活に帰る時も、奇跡を経験した後も、上手に自分と付き合おう。そして、ただ神をたたえよう。謙虚に生きよう。そして、どんな時も「書いてある」というキーワードに戻って、主の約束と愛を確認しよう。山を降りる経験は、もしかしたら、主の山を上る経験なのかもしれない。