詩篇18篇 主はわが巌

 強くなりたいと思いますか。詩篇18篇は、あなたを鍛えてくれる詩篇です。

1、自分の弱さを知っている強さ

 ダビデは強いか、弱いか。答えは、イエスであり、ノーです。ダビデは勇敢な戦士で、向かうところ敵なしの状態でした。それと同時に、自分が弱いということを良く知っていました。17節を見てください。

 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。
彼らは私より強かったから。(17節)

 ダビデは自分が仕えるサウル王からねたまれ、命を狙われ、逃亡しました。そのため危険な目に何度もあいましたが、主の助けをいただきました。

 自分の弱さを正直に見つめられるダビデは、強いのです。

 ダビデは、命の危険が迫ったとき、神のふところに逃げ込み、助けられました。だから、神が自分の岩であり、とりでであり、盾だと歌いました。

 主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。(2節)

 パウロも自分の弱さを知り、神の力強さを経験した人です。(→第2コリント12:9)

 あなたは、自分の弱さを冷静に見つめられますか。


2、鍛えてくださる主

 不思議なことですが、主のもとに逃げ込むことを繰り返しているうちに、ダビデは強くなりました。
 急斜面をものともせずに登る雌鹿のような強い足。堅い青銅の弓を引けるような強い筋肉。強靭な体と心を、神によって付与していただいたとダビデは33、34節で語りました。

 彼は私の足を雌鹿のようにし、
 私を高い所に立たせてくださる。(33節)

 戦いのために私の手を鍛え、
 私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。(34節)

 鍛えることは一夜でできることではありません。筋力トレーニングをした翌日は、筋肉痛で歩けなくなるだけです。日々訓練する、それが鍛える上での大事な要素です。
 苦しみ、痛み、敗北、罪を犯した後悔、挫折、無念さ、こうした事柄が私たちを鍛えてくれます。



3、神の前で自らを調律する

 ダビデが鍛えられたプロセスは、私たちにも適用できます。

 ダビデは自分の弱さを知り、神のふところに飛び込み助けを求めましたが、そうこうするうちに、神の完全さに直面するようになります。

 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。(30~32節)
 
 神の道は完全です。主のみことばは純粋で純度100%の真実な言葉です。ときおり、神の完全さのゆえに距離を感じることもありますが、完全がどうしても必要な場面があります。
 楽器の調律方法としくみが似ています。元になる音が完全でなければいけません。その音を手がかりに他の音を調整していきます。神こそ、私たちの基準音なのです。私たちの霊的調律をしてくださるのが神です。

 今直面している問題の真の原因は何か。人間関係のもつれはなぜ起きたのか。仕事上の問題はどこから発生したのか。顧客や従業員に満足してもらっているか。家族は幸せか。自分の周囲に問題があるのか、自分自身が問題の発生源なのか。正しく生きているか。自分は本当に満足しているか。

 このようにして、神の前で自分を静かに見つめてみましょう。神は霊的絶対音感をお持ちです。完全な神に向き合うとき心の調律が可能になる。キリストの姿に変えられるのは、聖霊の導きの中で、罪の悔い改めを伴いながら、このようなプロセスを踏んでいきます。

 あるお年寄りの男性が、なかなかうまく祈れないと牧師に相談したところ、食卓の空いている椅子に主イエスが座っていると考えてごらんとアドバイスしてくれました。主イエスに語りかけてごらんなさい、それも祈りだよと教えてくれました。それ以来、空いている椅子を置いて祈る習慣になりました。
 その男性が昇天し、最期の様子を娘が牧師に語りました。父は傍らにあった椅子に手を伸ばして死んでいました。どうして、椅子に手を伸ばして死んだのか理由が分かりません、なんだかちょっと変な姿でしたと話しました。
 牧師は微笑んで、いいえ、ちっとも変ではありませんよ、と答えました。

 主は生きておられる。(46節)

 危険や試練のただ中におられるなら、生きておられる主のふところに逃げ込みましょう。主の完全さに向き合って、霊的な調律を日々にしていただきましょう。そして、主のために美しいメロディーを奏でましょう。主はあなたを鍛えてくださる方です。