マルコ11:12~25 わたしの家

 今日は、主イエスが十字架にかかる数日前の出来事に目をとめて、信仰と祈りについて考えてみましょう。

1、枯れたいちじくの木

 福音書によると、その週の金曜日に主イエスは十字架にかかられます。月曜から木曜までの間、主イエスはベタニヤからエルサレムに朝方から出かけ、夕方に戻られるという生活をされていました。

 「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12~14)

 いちじくが実を付けるのは夏なので、春にいちじくの実を期待することは通常ありません。ところが、エルサレムへの道の途中にまるで実がついているような外観の木が一本あり、主イエスは思わず近づいて実を探しました。実がないのが分かると、主イエスは弟子に聞こえる声で「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われました。翌日の火曜日にはそのいちじくの木は枯れていました。(19~21)

 旧約聖書では、いちじくをイスラエルを象徴するものとして記述する場合があります。葉ばかりが茂って実のないいちじくの木は、繁栄を誇っていたエルサレムの町を暗示し、40年後の滅亡を念頭に、イエスさまが警告として言われたのかもしれません。


2、神殿内をきよめた主イエス

 主イエスが最初にされたことは、神殿を本来の神殿の姿に戻すことでした。
 「それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。」(15~16節)

 当事、神殿と呼ばれる施設は国内に一つしかありません。エルサレムは周囲4km程の城壁に囲まれた町で、首都にふさわしい賑わいがありました。町の東側には絢爛豪華な大神殿があり、敷地は南北に500m、東西に300m。外国人が入れる異邦人の庭があり、中央に柵で仕切られユダヤ人しか入れない場所があり、さらにその奥にはユダヤ人男性しか入れない場所があり、祭司だけが入れる聖所、至聖所という構造になっていました。

 神殿とはいえ、異邦人の庭は喧騒で満ちていました。両替人やいけにえの動物を売る業者の声が響き、神殿を通り抜ける方が近道だと道を急ぐ人々も巡礼者に混じっていました。
 主イエスは、神殿を本来の静かな祈りの場所に戻すために、業者を追い出し、腰掛を倒し、近道をする者を排除しました。

 人々は怒ったでしょうか。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。」(18節)むしろ、人々は驚嘆したのです。納得したのです。主イエスの言われたことが正論だったからです。神殿には静けさが必要です。

  「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(17節)

 葉が茂って実があるように見えたいちじく。喧騒と金儲けの場所になった神殿。どちらも共通点があります。一番大事なものを失った姿です。この姿はあなたに似ていますか。

 心の内側に静かな神殿を持ちましょう。心の「宮きよめ」をして、不要なものを捨てましょう。



3、信じて祈る

 翌日の火曜日、枯れたいちじくに驚く弟子たちに主イエスはこう言われました。

 「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(22~25節)

 山に向かって、海に飛び込め、と言えば、そうなる。一部の信仰エリートだけでなく、「だれでも」可能だと主イエスは言われます。「自分の言ったとおりになると信じるなら」そのとおりになるのです。主の説明は信じがたいほどダイナミックです。あなたは、これを信じますか。

 主イエスが実際の山を動かしたという記述は聖書にありません。12弟子やパウロが、山を動かしたという記録も聖書にありません。
 アフリカの女性が、自分の敷地から山を取り除けてほしいと祈った話が知られています。政府の職員がやって来て、山を買いたいと申し出たそうです。アスファルトの原料が山に含まれていたので山はみごとに崩されたそうです。でも、山が実際に海に動いたわけではありません。

 けれども、主イエスがお生まれになってからの2000年間、歴史はこの主イエスの言葉をそのまま信じた人によって作られて来たといっも過言ではありません。神がおられるなら山は動くと信じた人が、暗闇を光に変えてきたのです。

 主イエスを信じたばかりの青年が、北海道で途方に暮れたことがありました。無一文になり、職がなく、神に助けを求めていました。誰かが彼の肩に手を乗せました。振り向くと、男性がいました。仕事がある、寝る場所がある、食べ物がある、働かないかと誘われ、洗濯業に足を踏み入れました。10年後、彼は白洋社というクリーニング会社を興し、神の栄光のために働く人となりました。男性の名は、五十嵐健二といいます。

 信仰と祈りはパワフルです。祈りがかなえられたと先取りして生きてみましょう。

 また、心に祈りの家を持つ人は、大胆な祈りと共に、人間関係の分野、繊細な分野で目が開かれ謙虚にさせられます。あなたは、誰を赦しますか。主に罪赦されたあなたの仕事は、鎧を捨てて、誰かを赦すことです。

 まとめをします。
 私たちは、心の中の「祈りの家」を失っていることがあります。そうなると、一番大切な祈りができません。静かな祈りを取り戻しましょう。
 私たちは、大きな山に圧倒されて、意気消沈しやすいものです。第一に神を信じ、第二に祈りをはっきりと口に出し、第三に求めたものはすでに受けたと先取りしましょう。
 主は言われます。「そのとおりになります」と。

 野球好きの男の子がスポーツ店で素晴らしいグローブを見つけました。グローブに手を入れ、ポンとこぶしでたたき、いいなと眺めて棚にもどします。1週間に2回から3回、店に来ては、同じ動作を繰り返しました。2週間、3週間、4週間と同じようにグローブを見に来ました。店長もその子を覚えてしまうほどです。同じことが数ヶ月続いたある日、少年は輝く笑顔でシューボックスを抱えてレジに来ました。ふたを開けると、25セント、10セント、などコインばかりがたくさん入っていました。
 店長はお金を数え、19ドル98セントありますと男の子に言った後、少し考えて、お買い上げありがとうございます、と言ってグローブを包んで少年に渡しました。本当は、値札に79セント98セントと書いてありましたが多少にじんでいたのです。男の子は、喜んで帰りました。

 あなたの番です。あなたが、山を動かす経験をする番です。
 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 あなたの番です。
 →□心に「祈りの家」を取り戻しましょう。
  □あなたにとっての山は何ですか。それを、はっきり口に出して主に願いましょう。
  □かなえられたと信じて、今日から行動してみましょう。