マルコ11:27~33 何の権威か

「俺を誰だと思っているんだ」と怒る男がたくさんいます。みっともないですね。
 男は不良品だな、とつくづく私は思うのです。学校で暴力事件は起こすのは男、刑務所には男が多いし、麻薬の売人は男だし、汚職をするのも男、粉飾決算をするのも男、戦争をするのも男、離婚を迫られるのは男が80%で、自殺するのも男が女性の2~3倍です。
 男が気にするのは、権威です。いったい権威とは何でしょう。権威の良い使い方があるのでしょうか。今日は、権威について考えてみます。

1、罠

 「彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。」(マルコ11:27)

 権力とは、その立場のゆえに付与された力です。祭司長、律法学者、長老たちは、宗教と政治の最高権力者でした。彼らは70人議会の一員なので、日本で言えば国会議員といってもいいでしょう。ただし彼らには警察権力も裁判権も持っていました。
祭司長たちは、前日の宮きよめ騒動でかなり怒っていたようです。「俺を誰だと思っているんだ」という剣幕です。

 祭司長たちは、主イエスの返答しだいで逮捕するつもりでした。そもそも祭司長たちは、主イエスを殺害するつもり(18節)でした。人を殺すこともできる力、それが権力です。

 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」(28節)

権威なき者が神殿で教え、権威なき者が両替人や商人を宮から追い出した。それは不法だと言いたいのです。


2、逆質問

 主イエスは逆に質問をしました。

 「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」(29~30節)

 祭司長らの思惑は、ここでみごとに粉砕されました。権威についての話題は祭司長たちが持ち出した事柄で、主イエスの質問はその関連質問に当たります。群衆も周囲で成り行きを見ています。それで祭司長らは主イエスの質問を無視するわけにいきませんでした。


3、当惑

 「すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。』――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、『わかりません。』と言った。そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。』と言われた。」(31~33節)

 バプテスマのヨハネが人々を教え、悔い改めのバプテスマに導いたことは、神のみこころだと誰にでも理解できました。もし、それに異議を唱えるなら、そこにいた群集から強烈な反発を受けることは必至でした。

 祭司長たちは熟慮しましたが、結論が出せません。その場から逃れるには「わかりません」と答えるしか道はありませんでした。祭司長たちは、尻尾をまるめて逃げて行きました。自分が掘った穴に落ちてしまったのです。


4、本当の権威とは

 普通この世界で通用している権力とは、うむを言わせぬ圧力や暴力、わがままのことです。地位や能力、生まれや経験を土台にし社会的に認められた強制力です。

 スティーブ・ビタルフというオーストラリアの家族問題のカウンセラーは、こういいます。「男はおびえると、しばしば身体的、気分的に逆の方向に揺れ、暴力によって反撃しようとする」
 男が権力を振りかざすのは、恐怖から逃げるためです。自分の失敗を人に知られたくないからです。メンツをつぶされて当惑したとき、強く出るのです。恐怖の原因となった誰かをつぶすために権力を使うのです。

 それでは、本当の権威とは何でしょう。周囲の人から尊敬され、愛されたため、その人が持つようになった影響力。それが権威だと私は思います。だから、本当の権威を持つ人は、周囲の人を助けたり豊かにするために権威を使います。

 スウェーデンのオロフ・パルメ首相(1927-86)が暗殺されたとき、国民は通りに出て公然と泣いたといいます。ベトナム戦争に反対、アパルトヘイトに反対、核軍縮に取り組み、非暴力を掲げた政治家で人々に愛され、尊敬されていました。私たちはパルメ首相を必要としていた、世界も彼を必要としていたと多くの国民が語ったといいます。

 本当の権威を持つ人は、自分の地位や立場に固執しません。人々が幸せになれるなら、自分の地位すら捨てます。本当の権威を持つ人は利己的でなく、利他的です。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6~7)

 私たちは気をつけないと祭司長のようになりがちで、権威を振りかざし、人をつぶす破壊的な生き方を選んでしまいます。神の子イエス・キリストの謙虚な歩みを模範にしましょう。権威を振りかざす人になるのでなく、尊敬され、愛される人になりましょう。

 あなたが警官なら、親切なポリスになってみましょう。あなたが空港の入国審査係なら、笑顔で対応しましょう。あなたが電話受付の仕事なら、やさしい言葉で対応してみましょう。権威を素敵に使う道もあります。

 7歳の女の子が転校した初日、遅刻してしまいました。泣きながら走って登校すると、学校の門の前で立派な紳士に呼び止められました。「どうしたんだい」女の子が理由を話すと、「気難しいモリス校長に私がとりなしてあげよう。彼は私の友達だ」、と言ってくれて校長室まで来てくれました。モリス校長はとがめることなく、クラスにその子を連れ、担任の先生にこう言ってくれました。「転校生は1回だけ遅刻をゆるされることになっております」とね。

 「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。(第2コリント13:10)

→あなたの番です
  □権威を振りかざすのを止めましょう
  □主イエスを見上げ、もっと謙虚になろう
  □神から頂いた権威を周囲の人を生かすために用いよう