マルコ14:51~52  ある青年の記録

1、ある青年がしたこと

ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51~52)

 主イエスがゲッセマネの園で逮捕された時、十二弟子は蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。主イエスが大祭司のところに連れて行かれる途中、一人の青年がその後をつけました。周囲の人は、この青年も主イエスの仲間だと気づき捕らえようとしました。身の危険を感じた青年は駆け出しましたが、身に付けていた亜麻布が邪魔になり、それを脱ぎ捨てて裸になって逃げたのです。

 それだけの出来事です。実に唐突に書かれています。他の福音書には見当たらないマルコ独自の記録です。


2、記録に残った謎

 さて、この青年は誰なのでしょう。そして、この短い記述は福音書に記録するだけの値打ちがあるのでしょうか。

 「イエスについて行ったところ」(51節)と書いてあるので、主イエスを信じ尊敬していた事に間違いはありません。けれども初心貫徹はなりませんでした。
この青年を笑いの種にする目的で書いたのでしょうか。あり得ません。主イエスのもとから逃げ出した十二弟子は例外なく全員がみっともなかったはずです。


この出来事の性質上、自分から打ち明けなければ誰にも知られない話です。青年が自分からこの話をしたとしか思えません。
また、この人物を匿名にしたいなら「ある人物」と書けばよいのですが、「青年」と書きました。かえってその人物が誰なのか絞り込めるようにしています。匿名にしながら、むしろ素性を明らかにしているという両面性があります。
 
 そこで、この青年が誰か、一番の可能性は、著者のマルコ自身になります。マルコの住まいがエルサレムにあったこと。(使徒12:12、1:13~15、「二階の広間」マルコ14:15)青年だったこと。マルコの福音書が最初に書かれたのに、他の福音書がこの記事をあえて省いたこと。この出来事が唐突なこと。それらが、青年がマルコであったという高い蓋然性を示しています。


3、マルコの心

 この記事が書かれた理由は推測するしかありまえん。ただ、はっきり言えることは、マルコがこの記事を書かねばならないと思っていたことです。

 青年の行動は、誰に迷惑をかけたわけではない。誰かが傷ついたわけでもない。でも、青年は知っています。私は、主イエスを見捨ててしまった。最後まで主イエスについて行くことができなかった。後悔とみじめさ、自責の念。それらが、この数行に凝縮されています。

 マルコは自分の汚点をしっかりと記録に残したかったのでしょう。誰から言われたわけでもなく、自発的に書きました。自分の失敗を認める自発性。それは尊い、勇気ある行為です。
 マルコは、言い訳を一つも書いていない。事実だけを書いた。それが悔い改めの原点です。逃げ出した事実を書いただけですが、このみじめな事実を書けること自体が、この失敗を乗り越えているという印です。

 オランダ人の画家、レンブラントも同じようなことをしました。十字架に掛かる主イエスの絵の下のほうに、時代考証に反したベレー帽の男を描いています。主イエスを十字架にかけたのは私だと言いたいのでしょう。映画「パッション」を監督したネル・ギブソンも、手のひらに釘を打つ場面で自分の手を大写しにして使いました。それも同じ意味です。
 パウロも、「私はその罪人のかしらです」(第1テモテ1:15)と言い切りました。

 あなたにもあるはずです。裸で逃げた夜が。みっともない失敗のこと。主イエスを裏切るような行動があったはずです。

マルコは、「ある青年」の出来事をまるで暗号のようにして聖書に記録しました。同じ経験をした人にだけ分かる暗号です。
主イエスは、「裸で逃げた経験」を用いて、あなたをきよめ、あなたを愛のある人にし、謙遜にさせてくれるとマルコは言いたいのでしょう。

あなたや私のみっともない事柄を全部公にしなさいなどとは言っていません。そういう経験を暗闇に葬るのでなく、大切に取り扱いましょう。「裸で逃げた経験」は主イエスの愛とあわれみを体験するための注ぎ口になります。裸で逃げた経験が大きければ大きいほど、主の愛を受ける注ぎ口は広くなります。だから、大切にしましょう。うなだれても、胸をたたいて、主イエスのもとに行きましょう。主イエスも、あなたが裸で逃げた経験を知っていても、あなたを見捨てることはありません。

「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)


 あなたの番です。
 □あなたにとって「裸で逃げた経験」とは何ですか。
 □「裸で逃げた経験」を見つめ、主イエスの愛を味わいましょう。