ヨシュア記12:1~24 支配者たち



  今日の箇所、ヨシュア記12章は、約束の国を勝ち取る戦いがひとまず終了し、流れを振り返るという内容です。私たちの生活にも、振り返ることが必要です。

1、征服地図

旧約聖書は、内容的に見て大きく二つに分けられます。約束の国を獲得するまでと、約束の国を失うまでです。ヨシュアの時代は、その前半に属します。

ヨシュアの時代の聖書地図があれば、それを見ながら今日の箇所を確認してください。1~6節はヨルダン川東部の征服の様子です。
 ヨルダン川東側には、広い地域を支配する強大な王二人がいました。その反対に、ヨルダン川西部は都市国家型の小さな共同体が散在していました。
 死海に東側から注ぎ込むアルノン川から北方がエモリ人の王シホンが支配する地域でした。(2~3節)さらに北にあったのが、バシャンの王オグの支配地で、ヘルモン山の裾野にまで達していました。(4~5節)
 モーセが生きている時代にこれらの土地は征服され、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が自分たちの所有地にしました。(6節)

7~24節は、ヨルダン川西側の戦いを振り返っています。

 ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、西のほうで、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルへ上って行くハラク山までの地で打った王たちは、次のとおりである。――ヨシュアはこの地をイスラエルの部族に、所有地、その割り当ての地として与えた。――(7節)

 ハラク山は「はだかの山」を意味し、ヨルダン川西部で一番南に位置する山で、ベエル・シェバの南42キロにあります。カリフォルニアの茶褐色の山に似ているはずです。レバノンは北端に当たります。

これらは、山地、低地、アラバ、傾斜地、荒野、およびネゲブにおり、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。(8節)

パレスチナの地形が南カリフォルニアの地形と気候がそっくりだと何度かお話してきました。8節の記述のように、パレスチナの海岸地域が平坦な「低地」、1000m程度の山が南北に背骨のように連なるのが「山地」、山の東側の斜面が「傾斜地」、その東のぐっと低くなった南北の溝を「アラバ」と呼び、南に広がる不毛の地が「荒野」、荒野の手前の乾燥地帯を「ネゲブ」といいます。

9節から24節に、ヨルダン川西側の町々の王たちの名が31人分記されています。

エリコの王ひとり。ベテルのそばのアイの王ひとり。エルサレムの王ひとり。ヘブロンの王ひとり。ヤルムテの王ひとり。ラキシュの王ひとり。エグロンの王ひとり。ゲゼルの王ひとり。デビルの王ひとり。ゲデルの王ひとり。ホルマの王ひとり。アラデの王ひとり。リブナの王ひとり。アドラムの王ひとり。マケダの王ひとり。ベテルの王ひとり。タプアハの王ひとり。ヘフェルの王ひとり。アフェクの王ひとり。シャロンの王ひとり。マドンの王ひとり。ハツォルの王ひとり。シムロン・メロンの王ひとり。アクシャフの王ひとり。タナクの王ひとり。メギドの王ひとり。ケデシュの王ひとり。カルメルのヨクネアムの王ひとり。ドルの高地にいるドルの王ひとり。ギルガルのゴイムの王ひとり。ティルツァの王ひとり。合計三十一人の王である。(10~24節)

 ヨシュアは約束の地を平定しました。


2、振り返る

ヨシュアは、今までの歩みをまとめ、振り返っています。信仰者としてとても賢い歩み方です。申命記によると、振り返らない人は、傲慢になりやすく、神を忘れやすいのです。

あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(申命記8:12~14)

ヨシュアたちは、今までの戦いを振り返り、主をたたえたことでしょう。
ヨルダン川をせき止めた神、乾いた地の上を渡らせてくださった神。
祈りながらエリコの城壁を回り、一声で城壁が崩れたこと。
 アイという小さな町では、自分たちの罪が隠れていたので敗北を経験しました。
 エルサレムの王が編成した南部同盟軍と戦う時は、雹が降り、太陽が止まりました。
 ハツォルの王が率いる北部同盟軍の馬と戦車に負けませんでした。

 ヨシュアが出会った主の軍の将が、ずっと共にいて戦ってくださったので、31人の王たちに勝利することができました。

私の妻は、大学時代に救われ、それから毎朝聖書を読み、ディボーションノートを作り、教えられた聖句を書き込み、祈りの課題を書いて30年以上になります。主がしてくださった事、誰かにもらった物やお金、祈りがかなえられた事は赤字で記録しています。試練に会ったとき、苦しい時にノートを取り出して読みます。すると、主が助けてくださった事が明らかになり勇気が出ると言っています。

 →あなたの番です。今日、この1年間を振り返ってみませんか。

□危険や窮地に陥った事がありましたか。その解決は?
□弱り果てたり落ち込んだ時、どうやって回復できましたか。
□道に迷った時、導きを求めたとき、どんな結果になりましたか。
□祈りの課題は、どんなふうにしてかなえられましたか。
□思いもかけない素晴らしい事がありましたか。
□信仰は持っていなかったが、信じる心が生まれている。
□神さまからもらったもので一番うれしいものは何でしたか。

振り返ることは、「あなたのヨシュア記12章」を書くことなのです。


3、「ありがとう」を言う

最後に今日のキーワードに目を留めましょう。
2節、3節、5節に、同じ言葉があります。「支配していた」です。
これらの土地には、王たちがいて支配していました。今は、もういません。
同じことが、私たちの人生、私たちの心に起きていますね。

 今まで、罪や悪の力に支配されて来たけれど、主イエスによって解放された。
 今まで、自分の力で勝てなかったことがある。でも、今は、主イエスによって勝利した。

 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒26:18)

 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:14)


 私たちは、誰かに「ありがとう」を言うために生まれました。ヨシュアは、戦いを振り返って感謝を述べているのです。

 卒業式に来てくれた人が「おめでとう」と言われると、「ありがとう」と応えます。
 誕生日を祝ってもらえば、「ありがとう」と言います。結婚式をすれば、遠くから来てくれた友達に「ありがとう」と言います。そして、人生の最後を迎える日にも「ありがとう」と言って分かれます。
 ありがとうを言わない人は、人でなしです。ありがとうと言わなかった若い女性も、結婚して、子供が生まれると、「ありがとうを言いなさい」と子供を指導するようになります。

 私たちは、身近な誰かに「ありがとう」と言うために生まれました。そして、神にありがとうと言うために生まれたのです。
 
 ありがとうを言う秘訣は、振り返ることです。
 愛されて来たんだ。共にいてくれたんだ。助けられたのだ。それが分かります。
 主の恵を振り返りましょう。神に感謝しましょう。

 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。(詩篇28:7)

ヨシュア記11:1~23 戦いは終わった



 戦いの目的は何でしょう。戦いを終えることです。
 今日は、パレスチナ北部での戦闘がどのように展開したかを見ていきましょう。

  「ラストシーンから書く」、という言葉を本で読みました。有名な映画監督が言ったそうです。感動的なラストシーンをまず練り上げ、それから映画全体を構成する。なるほどと思います。
あなたの人生のラストシーンは、できていますか。


1、ヨシュアの映画のラストシーン
 
 11章全体の内容を確認しましょう。10章の戦いでは、イスラエルがエルサレム連合軍に勝利し、パレスチナ中央部分を支配下に入れました。11章は、戦いの場所をパレスチナ北部に移します。北の同盟軍は「メロムの水」(5節)に結集しました。その場所はガリラヤ湖北西15キロにあります。

 ハツォルの王ヤビンが近くの町々に声をかけ、イスラエルとの戦いに臨みました。ハツォルは、紀元前19世紀のエジプトの文書に名前がある古くからある有力な町でした。

 ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。(1~4節)

主は、ラストシーンを以下のようにするとヨシュアに伝えました。

主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」(ヨシュア記11:6)

 ラストシーンは、イスラエルの大勝利だと決まったのです。この映画を貫くスピリットは、神への信頼と勇気です。神が約束されたラストシーンに向かって、勇気を持って進んで行く、それが私たちの人生なのです。



2、戦いの局面で大切なこと

1)受身にならず、積極的に戦う

そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは、彼らを打ち、大シドン、およびミスレフォテ・マイムまで追い、さらに東のほうでは、ミツパの谷まで彼らを追い、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打った。(7~8節)

 当時の人々が恐れた兵器は戦車です。ベンハーの映画で登場するような馬車で、二頭の馬に馬車を引かせ、馬を操作する御者と弓を放つ兵士が乗り込みます。たとえ最新兵器であっても、海の砂ほどの大軍であっても、ヨシュアをはじめ、イスラエルの民は恐れませんでした。
それは、ラストシーンで、その戦車と馬が破壊される場面をイメージしていたからです。「あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。」(6節)

ヨシュアは、戦いを引き伸ばす作戦を取りましたか。いいえ。相手が攻めてくるのを受身になって待ちましたか。いいえ。「彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。」(7節)とあります。受身にならず、積極的に戦いに出ました。
ハツォルの王ヤビンは、これだけの大軍が陣を敷き、戦車という強力な兵器を持っているのだから、相手はおいそれと攻めてくるはずがないとたかをくくっていたのでしょう。ですから、却ってそこに勝機がありました。

あなたの目の前にはだかる大軍とは何ですか。
正面から、まっすぐにその問題や人物に立ち向かっていく時かもしれません。

 
2)神の言葉に忠実

ヨシュアは、主が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。(9節)

 「ヨシュアは、主が命じたとおりにして」(9節)、「ヨシュアはそのとおりに行い」(15節)とあります。

 ヨシュアの戦い方は、まっすぐです。神の言葉に対してまっすぐです。
神の言葉に忠実、神ご自身に忠実であることは、とても大切です。

あなたは、今、誘惑にさらされているかもしれません。有利になるが、嘘をつくことになる道。もうかるが不正をする道。願いはかなうが後ろめたい方法。それのいずれも排除しましょう。主が命じたとおりに生きましょう。


3)主から出たこと

彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。(20節)

敵からの攻撃という危険は、実は、「主から出たこと」(20節)だとは聖書は言います。ピンチと思える出来事は、むしろ神があたえたタイムリーな出来事だったのです。
敵の町一つ一つが城壁の背後に逃げ込むならば、戦いの長期化は避けられません。約束の地をすみやかに獲得するためには、こうした敵の動きはイスラエルにとって好都合だったのです。

 私たちのピンチは、神の下さった好機なのです。主から出たことなのです。


3、あなたのラストシーンを思い浮かべる

 さあ、あなたの番です。あなたのラストシーンを作りましょう。

 多くの人は、自分を悲劇のヒーロー、不遇のヒロインにして生きています。悲劇のシナリオをいつも作って、みじめになっています。
「どうせ、私はみにくいあひるの子だ。だれも振り返ってくれない。」
「俺は、日陰のどくだみだ。成功するのは他人ばかりだ。」
悲劇的な想像もできるなら、祝福の場面を予想をすることもできます。

 今、あなたのラストシーンがハッピーエンドで終わるようにシナリオを書いてみましょう。

     感激で涙があふれるハッピーエンド。
     出演者みんなが「ごめんね」と言い合い、和解する。
     劣勢を跳ね返して、大勝利を勝ち取る。
     家族や周囲の人がイエスさまを信じて、あなたに感謝する。
     自分が思い描いていた以上の人間性を身につける。
     結婚、子育て、お金、健康、様々な試練で苦しんでいる人が、自分と同じ苦しみに出会った人と出会い、力強い助っ人になって応援している姿。
     教会に集っている子供たちが、バンドを作って賛美したり、伝道旅行に行く。

 あなたのラストシーンをまず描こう。そして、映画の途中を生きて行こう。

 映画の主人公は、必ず途中で挫折し、夢をあきらめ、やけっぱちになり、恋人ふられます。大事な人が亡くなることもあります。でも、地道な努力を始めるし、多くの人に助けられ、願った以上の栄誉にあずかります。それが、あなたのラストシーンでもあります。

 自分が平凡だと嘆いていたアメリカ人女性がいました。学力も平均。ピアノを習ってもそこそこ。容姿やスタイルも普通。付き合って結婚した男性はクラスの人気者で何をしても良くできて、彼の部屋にはたくさんのトロフィーがあります。牧師になった彼は、すばらしい働きで高く評価されましたが、彼女は普通の人でした。自分の無力さを嘆いて涙していた時、ラジオから歌が聞こえてきました。Ordinary Peopleという歌でした。神は、普通の人々を用いられる。主の手に握られた普通の人が主の栄光をあらわすという歌詞でした。
 その時、普通の自分を主に明け渡すことにしました。すると、彼女は優れた神学のテキストを書き、表彰されるまでになりました。彼女は、リック・ウォレンの奥さん、ケイ・ウォレンさんです。ケイさんは、さらに自分自身を主に明け渡し、エイズで孤児になったアフリカの人々を助ける働きを始めています。「普通の人」という看板を受け入れ、主に降伏し、主に用いていただく決心をすることにより、彼女は素晴らしいラストシーンを書き始めたのです。

こうして、ヨシュアはこの地のすべて、すなわち山地、ネゲブの全地域、ゴシェンの全土、低地、アラバ、およびイスラエルの山地と低地を取り、セイルへ上って行くハラク山から、ヘルモン山のふもとのレバノンの谷にあるバアル・ガドまでを取った。また、それらの王をことごとく捕えて、彼らを打って、殺した。ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った。ギブオンの住民ヒビ人を除いては、イスラエル人と和を講じた町は一つもなかった。彼らは戦って、すべてのものを取った。(16~19節)

厳しい戦いでしたが、ヨシュアは最後に勝利を得ました。23節の言葉を心に留めましょう。

こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。(23節)

 「すべて主がモーセに告げたとおりであった。」神のシナリオ通りだったのです。「その地に戦争はやんだ」願っていた平和がやって来たのです。

戦いの目的は何ですか。戦争を終えることです。その日が来ることを信じましょう。


 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


ヨシュア記10:1~21 太陽よ、動くな


 私たちは、誰かを助けるために生まれてきた。

 
1、ギブオン救出作戦

それで、エモリ人の五人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王とその全陣営は、相集まり、上って行って、ギブオンに向かって陣を敷き、それを攻めて戦った。(5節)

エルサレムの王が呼びかけ、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王が連合して、この同盟軍によるギブオン攻撃が始まった。(1~5節)

 嘘をついて同盟関係に入ったばかりのギブオン人が、ヨシュアに泣きついてきました。国会答弁のように、ただいま各方面との調整を試み、様々な知見を持ち寄り、前向きに対処いたします。なんて言って、時間かせぎをすれば、ギブオンは自滅しますが、ヨシュアはそんなことはしません。

 ヨシュアは、文句の一つも、皮肉の言葉も言いません。イスラエルの民からも不服の声は上がりません。主の名によって盟約を結んだのですから、たとえ奴隷であっても大事な身内なのです。すぐに攻撃態勢に入り、直線距離20マイル、実際には千メートルも高い場所にあるギブオンに向かい、夜の闇をついて出かけました。「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。」(9節)

 主が8節で語っておられるところをみると、ヨシュアが主の指示を仰いだことが分かります。9章と同じ失敗はしません。戦いが勝利に終わると主がヨシュアに告げられました。

 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」(ヨシュア記10:8)

 注目すべきは、主がギブオンを救えと命じておられないことです。それは、いわば主とヨシュアとの暗黙の了解事項なのです。助けにいくのは当たり前。むしろ、この機会は、敵であるカナン人を聖絶するチャンスであると主は明言しておられるのです。

 誰かを助けようと行動を起こす。すると、私たち本来のミッションがいつのまにか達成されていく。これが神の知恵、神の計画なのです。

ヨシュアは、朝方の奇襲攻撃を成功させました。(10節)

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

人が誰かを助けようと動く、そのときに、神の力があらわれるのです。
奇跡とは、何でしょう。誰かを助けたいけど力がない、でもやってみます、神さま助けてくださいという祈りの応答として、奇跡が起きるのです。

彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。(11節)

直径20センチにもなる雹が観測され、写真も残っていますが、このときも、巨大な氷が降ってきたのでしょう。

ヨシュアは、連合軍を徹底的に壊滅させるのは今だと悟り、非常識とも言える祈りをささげました。時間を与えてください。時を止めてくださいと祈りました。

主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。(12~13節)

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(14節)

ヨシュアとイスラエルの民は、ギブオンを救出すると、時計の反対周りに5都市同盟軍に追い討ちをかけ、最終的には、5都市の王たち全員を殺害し(23~27節)マケダ、リブナ、ラキシュ、ゲゼル、エグロン、ヘブロン、デビルを聖絶しました。(29~39節)

青森県最北端の小さな町に、あさ子さんという女性がいました。海に近い彼女の農地を買いたいという申し出がありましたが断りました。原子力発電所用地だったからです。その後、地域の地権者157人のうち、156人が土地を売り、あさ子さん一人が30年間首を縦に振りませんでした。彼女の土地は炉心から当初50mの距離にありました。彼女はその土地に家を建て、一人で反対を続ける中で亡くなり、娘さんがその意志を引き継ぎ「あさこはうす」として戦いを続けています。原発施設は今も建設途中で、40%ができています。手紙を出すことだけでも、助けることになります。

あなたのそばにも、現代のギブオン人がいます。
私たちの身近にも、助けを求めている人がいます。
誰が助けを求めていますか。


2、主の戦い

 ヨシュア記10章を読み直すと、「主」とう字が多いことに気づきます。

 10節「主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので」
 11節「主は天から彼らの上に大きな石を降らし」
 12節「主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日」
 14節「主が人の声を聞き入れたこのような日は」
 14節「主がイスラエルのために戦ったからである」
 19節「主が彼らをあなたがたの手に渡されたからだ」
 25節「主がこのようにされる」
 32節「主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので」
 42節「主が、イスラエルのために戦われたからである」

ここから分かることは、主が私たちの前に立たれて闘うということです。

今誰かを助ける時だ。
今、誰かのために戦うべきだ。
そう導かれたなら、行動しましょう。そうすると、主が先に立たれ、敵を恐れさせ、天から雹を降らせ、時間さえ止め、主ご自身が先頭に立って戦われるのです。

自分一人の幸せだけを追求するなんて、ちっぽけな人間になるのはもうやめましょう。私たちは、誰かを助けるために生まれてきたのです。

→あなたの番です。

□誰かが、あなたに助けを求めていませんか
□今、行動を起こし、主の助けを求めましょう
□主が戦われるのです

 「イスラエルの神、主が、イスラエルのために戦われたからである」(42節)
 

ヨシュア記9:1~27 遠い国からの使者

 ヨシュア記9章のキーワードは何でしょう。
 
第1のキーワードは、「主の指示を仰がなかった」(14節)。自分の判断や論理や経験や緊急性を優先させると、あとで、後悔します。
 第2は、「誓い」。ヨシュアたちは、どんな誓いであっても神の前の誓いを誠実に守りました。詩篇15:4の「損になっても、立てた誓いは変えない。」という言葉を思い出します。
第3は、「しもべ」。8、9、11、24節に使われています。「しもべ」という言葉を手がかりに、私たちとギブオン人との共通点を探していきましょう。


1、ギブオン人の視点で見る

 9章は、ギブオン人がヨシュアたちをだまして盟約を結んだという内容です。

さて、ヨルダン川のこちら側の山地、低地、およびレバノンの前の大海の全沿岸のヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちはみな、これを聞き、相集まり、一つになってヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。(1~2節)

一つの町単位ではイスラエルに立ち向かうことができないと判断した町の長老たちが、同盟を組むことを提案しました。10:2によると、ギブオンの町は、有力な町で、町の人々は勇士だったので、同盟の誘いが来たはずです。が、仲間に加わりませんでした。
むしろ、イスラエルの奴隷になる道を選びました。このことがカナン人に知れたなら、裏切り者として同盟軍に血祭りにされたことでしょう。また、偽装工作が発覚すれば、使者はその場で殺され、ギブオンの町は聖絶されたことでしょう。


2、負けるが、勝ち

中国の古典、「孫子の兵法」は、戦争についての哲学と実際が書かれた含蓄のある書物です。その中に、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という言葉があります。戦わないで勝つことが、最も良い戦いだと述べています。
南北戦争の有名な激戦地ゲティスバーグの戦いでは、丘という有利な地形に陣取る北軍に対し、南軍は無謀な攻撃を何度も繰り返し多くの犠牲者を出しました。「高い陵にいる敵を攻めてはならない」との孫子の兵法から言えば、ありえない作戦です。
本当の勝利とは何か。どうしても必要なら戦う。そうでなければ、戦うことを選ばない。リーダーには、俯瞰できる見識が求められるのです。


イスラエルと戦っても勝ち目はない。
同盟を組んでも負ける。必ず聖絶される。
だが、何としても生き残りたい。家族も、親戚も、友人も、子供たちも守りたい。

結論は、イスラエルと盟約を結び、しもべ、つまり奴隷となり、生き残ることでした。
負けるが勝ち。そう、悟ったのです。

 こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」(6節)


3、使者たちの説明

 イスラエルの人々は、そのヒビ人たちに言った。「たぶんあなたがたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうして私たちがあなたがたと盟約を結ぶことができようか。」(7節)

遠くから来た使者たちは怪しい、とヨシュアたちは睨みました。国名も、都市の名も言わない。カナン人が偽装しているに違いないと早くも見破りました。でも、ギブオンの使者は、追い詰められても、落ち着き払って答えました。「私たちはあなたのしもべです」(8節)


 彼らは言った。「しもべどもは、あなたの神、主の名を聞いて、非常に遠い国からまいりました。私たちは主のうわさ、および主がエジプトで行なわれたすべての事、主がヨルダン川の向こう側のエモリ人のふたりの王、ヘシュボンの王シホン、およびアシュタロテにいたバシャンの王オグになさったすべての事を聞いたからです。(9~10節)

これらの言葉は、ラハブが斥候たちに話した内容(ヨシュア2:9~10)と酷似しています。イスラエル人から見れば、ギブオン人は異教徒であり、異国人だが、イスラエルの神はまことの神であり、力があり、イスラエルの民にカナンの地を与えることのできる神だと理解していました。

 「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」と孫子の兵法にありますが、ギブオン人は、イスラエルがどんな民族かを深く知り、その神を認め、主と共に歩む道を選びました。


4、カナンの女との類似性

カナンの女が主イエスのもとに来て、悪霊につかれた娘を助けてほしいと願う場面が福音書に記録されています。(マタイ15:21~28)このカナン人とギブオンの人は似ています。
主イエスは、ユダヤ人の救いのために来たので「犬」(異邦人)に与えるパンはないと、厳しく言いました。カナン人の女は、自分は確かに「犬」に等しいと認め、それでも食卓から落ちたパンはいただきますと切り返し、その信仰が大いに評価されました。

このカナンの女と、ギブオン人は似ています。何としてでも助けてほしい、たとえ「犬」と呼ばれようと、「しもべ」になろうとも構わない。

カナンの女と、ギブオンの人々と、私たちは似ています。
私もあなたも、そのままでは、滅びるしかない存在です。罪の解決を持たずに地獄に落ちる定めです。自分で自分を救えないのです。
だから、どんな手段を取っても、救われたい、助かりたいと願うのです。私たちも、滅びが間近に迫って初めて真剣に救いを求めます。どんな方法でも助かりたいと思うものです。

ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:11~13)

私たちも、神から遠く離れた存在でした。いわば遠い国から来た者です。イエス・キリストのゆえに、異国人の私たちも神の民の一員にさせてもらいました。
 ギブオンの人々の命は保証されましたが、「たきぎを割る者、水を汲む者」という奴隷の地位にされました。(21節)

ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」(25節)

 ギブオン人は、生涯、神と神の民イスラエルに仕えると心に決めました。

こうしてヨシュアは、その日、彼らを会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれた場所で、たきぎを割る者、水を汲む者とした。今日もそうである。(27節)

ギブオン人は、イスラエルのために薪を集めたり、水を汲んだりという奴隷の労働(申命記29:11)をしました。それだけでなく、「主の祭壇」のためにも働くことになりました。単なる詐欺師、嘘つきなら、ヨシュアはこうした大切な役割を与えることはなかったでしょう。

クリント・イーストウッドの映画「グラン・トリノ」という映画は、なかなか味のある映画です。若い頃は、復讐ものの映画で殺戮を繰り返したイーストウッドですが、この映画では復讐の形が違います。負けることによって勝つという復讐です。


 あなたの直面している戦いは、争う価値がありますか。

 負けるが勝ち。主イエスの生き方も、死んで生きる道でした。
 自分を捨てる、自分の十字架を負う、そして、主イエスについていく。そういう道もあるのです。


→あなたの番です。
□主の指示を仰ぎましょう
□約束は守りましょう
□主イエスと共に、負けて、勝ちましょう。