詩篇25篇 小道を行く


  私たちの人生では、道を見失うことがあります。
先に行きたいのに、障害物があって進めない。道に迷い、同じ所をぐるぐる回る。疲れ切って、先に行く気力を失う。
そんな時、詩篇25篇は大きな励ましになります。詩篇25篇は、道の詩篇です。

ところで、私は先週、聖書を読んでいた時、左目にフラッシュライトのような光が見えました。何だろうと考えて、また目を聖書に向けていると続けて光が見えます。おかしい。数分後、また閃光が見えました。以前読んだ本に、同じような症状で網膜剥離になり失明したクリスチャンの話を読んだことがあったので、愕然とし、その日は、自分の心の中だけで祈り、妻にも、教会の人にも言えないで過ごしました。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 私はただ一人で、悩んでいます。」(詩篇25篇16節)
まさに、16節の心境でした。悪いことに、翌日は独立記念日で病院は休みです。妻に話し、近所の教会員で眼科の医師に電話し、対策を教えてもらい、翌日はファミリードクターで診察、翌々日に眼科医に見てもらい、網膜剥離ではないと診断を受けました。ほっとしました。加齢のせいで、多くの人に同じ症状が出ると言われ、肩の力が抜けました。知識の足らない自分の空回りに過ぎませんでした。
妻や子供に祈ってもらい、心配してもらい、寄り添ってもらい、家族の愛、主の守りを感じました。謙虚になること、良く知っている人に道を尋ねることの重大性を身にしみて感じました。


1、全体の流れ

1)1~3節

 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。(1節)
 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。(2節)

詩篇の作者は今、辛い状況にある。困っている。馬鹿にされたり、笑われたりしている。でも、今の自分にできることをしようと心を決め、主を待ち望みました。


2)4~5節

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。(4節)

辛く、困っている時に、何をしたらよいのだろうか。主の道を教えてもらうことが最善の方法だ。出口なしと思える時でも、必ず神の道はある。解決の道は、人間の頭でこねくり出すものではなく、主に教えてもらうものです。


3)6~7節

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(7節)

自分を振り返ると、きれいな心でなかったし、若い時に大きな失敗もしてきた。だから、神のあわれみを求める。恵みによって、私を取り扱って下さるように願う。
罪の自覚は、導きを求める姿勢として、とても大切なもの。


4)8~11節

 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。(8節)
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。(9節)

 罪人にさえ、主は道を教えてくれる。それが、私たちの神。心の貧しさを痛切に感じる中で、咎の赦しを心から求める。


5)12~15節

主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。(12節)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(14節)

主に道を教えられる者は幸せだ。主をもっと深く知り、親しく感じるようになる。苦しむ時、共にいてくださる方が私たちの神。辛い時に、神との友情が深まる。


6)16~22節

私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。(16節)
 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。(20節)

今、確かに、苦しい。悩みは強い。だから、ひたすら、神のあわれみを求めます。助けてください。恥を見ることがないようにしてくださいと願うのです。
最初に、「あなたを仰いでいます」(1節)と告白しましたが、最後も「あなたを待ち望んでいます」(21節)と祈っています。


2、25篇のキーワード

 詩篇25篇のキーワードの第一は「道」です。4節にも、8節、9節、10節にも、「道」という言葉が繰り返されます。それで私は、道の詩篇、と呼ぶことにしました。

 「道」は、道路を表す旧約聖書で最も一般的な用語で、ヘブル語でデレクといいます。「小道」(オルハ)は、デレクの同義語で、繰り返しの際の言い換え語です。道は、人が歩く道路の他には、人生を意味します。また、方向性の意味もあります。

道は自分で作るもの、そういう考えが一般にありますし、誇り高い人間の特権のようにも思えます。ただし、詩篇25篇を読むと、道は作るものではなくて、道は教えてもらうものだと分かります。自分は道を知らないという現実、神は道を知っておられる。だから、謙虚さがどうしても必要です。

 「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)

道を教えてもらうためいは、謙虚になる必要があります。第2のキーワードは「罪」です。道が閉ざされたとき、自分のした罪が原因でこんな事になってしまった、と気づくことがあります。詩篇の作者は、道を失って苦しい時に、「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。」(7節)と述べています。主は、「罪人に道を教えられる」(8節)方なのです。

9節に「貧しい者」(アナウィーム)とありますが、この言葉の第一の意味は、謙遜な者、へりくだる者です。道を求める者は、自分の罪に気づき、自分の心の貧しさに気づいて謙虚になる必要があるのです。

第3のキーワードは、「仰ぐ」です。
道を教えてもらう心を持ち、自分の罪深さに気づいてへりくだった心を持ったなら、最後にすることは、主を礼拝することです。
あわただしく対策を練ったり、走り回って道を作ろうとする人には、心の静けさがありません。神を仰ぎ見るとか、信頼(2節)するとか、待ち望む(3節)ということは不可能です。
道を教えてもらうためには、ぴたっと立ち止まることが不可欠です。静まらないと、神のみこえは聞こえません。

「私の目はいつも主に向かう。」(15節)
「私はあなたを待ち望んでいます。」(21節)

 道を失った時、主に道を尋ねましょう。謙虚な心で、静かで礼拝する心で。


→あなたの番です
□道が見えないなら、神に道を聞く
□罪を告白し、謙虚になり、神を待ち望む