詩篇32篇 罪の告白



 罪の悔い改めの詩篇として詩篇51篇と詩篇32篇が有名です。51篇では罪の苦悩が、32篇では罪赦された者の幸いが歌われています。

1、黙っている時のうめき

 罪の解決方法は二つしかありません。
 一つは、罪を自分でおおう。もう一つは、罪を神におおってもらう。

 罪を自分でおおう場合、罪を打ち消すための嘘をつきます。あるいは、罪を隠すために多大なエネルギーを使います。これは自分の良心を麻痺させる作業です。

 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
(詩篇32:3~4)

 ダビデはうめきました。疲れました。心が重く、骨が痛く、心が乾き切りました。罪を隠している時、私たちの健康は弱まるのです。

 ダビデとバテシェバとの姦淫の罪が、この詩篇の背後にあると学者たちは指摘します。罪を隠すため、ダビデは偽装工作をするも失敗、最終的にはバテシェバの夫殺害にまで手を染めました。詳しくは第二サムエル11章をご覧ください。預言者ナタンにより罪を指摘された時、ダビデ王は素直にその場で罪を告白しました。「私は主に対して罪を犯した」(第二サムエル12章13節)普通、言い訳は長く、真実の悔い改めは言葉が少ないものです。ダビデは、この時の経験を後で振り返り、罪赦されることがどんなに幸いかを歌っているのです。


2、赦される幸い

 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所に届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ(5~7節)

 罪をそのまま神に知らせること、自分の罪を隠さないこと、罪を申し上げ、告白すること、それが悔い改めです。
 罪を告白すると何が起きるでしょう。神が隠れ場になってくれる。助けられ、守られる。救いの歓声で私たちを取り囲んでくれるのです。つまり、神が私たちの罪をおおってくれるのです。

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(1~2節)

 東京に雪が降った翌日は、町中が雪と泥とごみが混じって薄汚れた景色になります。でも、北国の雪は違います。どんなに汚れた地面も、人の足跡も、夜中に降り続けた雪が一面の雪野原に変えてしまいます。神が罪を赦して下さることも同じで、完全のゆるしで私たちをおおってくれます。神による罪の赦しはびっくりするくらい完璧なのです。
 神が私たちの罪を赦すとは、完全に罪のない者として認めることです。神の記憶から、私たちの罪を消し去ることです。

 主は、どんな罪もゆるし、何度でもゆるす方です。神だから、それができるのです。


3、行くべき道が示される

 罪赦された人は、過去の問題が清算されるだけでなく、未来への扉が開かれます。

 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。(8~9節)

 罪を抱えている時は、神が見えず、神のビジョンが見えません。でも、罪が解決されると、神が新しい方向性を明らかにしてくれます。悟りが与えられ、行くべき道が見えてきます。
 過去と未来だけでなく、現在の自分にも祝福がやってきます。11節のような大きな喜びが今のあなたをおおうのです。

 一つも罪を犯さない人が幸いなのではありません。罪を犯さな人など地上に一人もいないからです。大事なことは、罪を犯した時に、罪を告白し、主に信頼することです。
 罪赦された人こそが、真に正しい人、心の直ぐな人なのです。罪赦され、謙虚になった人こそ、主のビジョンを行うにふさわしい人です。

 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。(10~11節)

 パトリシア・セントジョンが書いた『雪の宝』という小学生高学年用の小説があります。罪の悔い改めをテーマに、主イエスを心に迎え入れるとは何かを教えてくれる極めて優れた本です。スイス山奥に住む小学生とその家族が登場人物で、美しい自然と素朴な人たちによる美しい物語です。
 物語では、アンネットの弟ダニーが足を怪我して歩けなくなるのですが、ルシエンという男の子によるいじめが発端でした。子供にも大人にも無視されるようになったルシエンが自分の罪を悔い、主イエスを信じ、人のために犠牲を惜しまない人に変えられていきます。
 ルシエンが罪を悔い、信仰を持つきっかけになるのが山小屋のおじいさんとの交流でした。ただ一人、ルシエンを受け入れてくれたおじいさん、そのおじいさんにルシエンは自分の過去を話す必要がありました。もし、過去の罪を語れば、おじいさんにもさげすまれ、嫌われる恐れがありましたが、ルシエンは自分の犯した罪を正直に話しました。清々しい罪の告白の場面に私は心洗われました。

 あなたも、勇気を出して、自分の罪を神に話しませんか。神は、その瞬間を待ちかねています。罪を告白し、裸になると、神はあなたを愛と赦しと救いの歓声の衣でおおってくれるのです。

 「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(第二コリント5:14)

 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」(1~2節)

→あなたの番です
 □主に罪を告白しよう。身近な人に、あやまろう。
 □謙虚な心で、主の示す道に進んで行こう。