第1サムエル24:1~22  受け入れるか、動くか


 受け入れる事と変えるべき事。その識別力と勇気がほしい。

1、主から出たこと

彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。(第1サムエル24:3~4)

 ダビデたちはエン・ゲディにいた。エンは泉、ゲディは子ヤギという意味。死海の西側の荒涼とした岩山に、奇跡のような泉があった。付近には滝もあり、洞窟も多数あった。
その洞窟の一つに潜んでいたダビデに千載一遇の機会が訪れた。目の前にサウル王が一人で現れた。家来はいない。今なら、難なく殺害できる。そもそも、ダビデがその気になれば、クーデターを起こしてサウル王を殺すこともできたはずだ。

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(6~7節)

 サウル王は主に「油注がれた方」であり、「私の主君」だとダビデは認識していました。サウルの上着のすその一部を切り取ったことすら後悔しました。サウルが神に油注がれた王であるということは、ダビデにとって神から出たことで、変えることのできない事だったのです。

ラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)The Serenity Prayerを知っている人が多いと思います。ダビデの心の中で、ちょうど同じようなプロセスがあったのでしょう。

The Serenity Prayer
God grant me the serenity
to accept the things I cannot change;
courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference.

Living one day at a time;
Enjoying one moment at a time;
Accepting hardships as the pathway to peace;
Taking, as He did, this sinful world
as it is, not as I would have it;
Trusting that He will make all things right
if I surrender to His Will;
That I may be reasonably happy in this life
and supremely happy with Him
Forever in the next.
Amen.

平静の祈り

神よ、私にお与えください
変えることのできないものを受け入れる平静な心を
変えることのできるものは変える勇気を
そしてそれらを見分ける知恵を

一日、一日を生き、
一瞬、一瞬を楽しみ、
苦しみも、平安へ続く道として受け入れ、
この罪深い世を、自分の願うようにではなく、そのままに受けとめる
あの方がそうなさったように

神の御心に自らを明け渡すのならば
神は全てを善いように変えてくださると信頼しつつ
それによって私がこの世での人生もそれなりに幸せに生き
来るべき次の世ではとこしえに
神と共に最上の幸せを得るように
(中村佐知訳)

 主から出た事とは、主から発送されて私たちのところに届いた小包のようなものです。受け入れにくい事、意に反する事、窮地に追い込まれる事、場合によってはこの世を去る事も、主から出た事です。主から出たことならば、静かな心で受け入れましょう。


2、直接対面

その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。(8~10節)

 ダビデはサウル王に最高度の尊敬を示し、地にひれ伏しました。さらに、サウルを殺害する意志がないことを上着のすそを切ったことで証明しました。ダビデは、サウルと3000人の兵に殺される危険も承知の上で、直接サウルに語ろうとしました。変えることのできるものは変える勇気を持って対処しようと思ったのです。

もう追うのを止めてほしいとダビデは率直に述べました。サウルがダビデを追うことは、まるで死んだ犬や一匹の蚤(14節)を追っているのと同じなのです。

 ダビデはサウル王に直接、自分の心を披瀝しました。ダビデは、純粋で、まっすぐな心を持った人物です。遠まわしに、誰かを介して連絡しませんでした。
 人間関係のもつれが起きた時、ダビデの方法は参考になります。一番勇気がいるけど、一番話が早いのは、こじれた相手の所に直接出向き心を開いて自分の思いをぶつけることです。

 今、誰と関係がこじれていますか。相手の顔を見て、心を率直に伝えましょう。



3、泣いたサウル王

ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。(16節)

ダビデは勇気を持ってサウルに語り、主は直接介入してサウルの心を変えてくれました。ねたみと怒りで半狂乱だったはずのサウル王はダビデの誠実な心に触れて涙を流しました。奇跡とも思える涙です。主に選ばれた頃の純真なサウルの真心が戻ったのです。

そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。(17~20節)

 サウルは自分の非を認め、主からの幸いがダビデにあるようにと願い、次に王になるのはダビデであると告げました。

 砕かれた魂ほど美しいものはありません。
 サウルは、うまれたばかりの赤ちゃんの皮膚のような柔らかな心を見せました。
 いくつになっても、どんな立場でも、みっともなくても、自分の非を認めましょう。私たちは不完全なので、誰かと共に生きなら必ず誰かに迷惑をかけるか、迷惑をこうむるかのどちらかです。「私はあなたに悪いしうちをした」(17節)と言える人になりたいです。
 
 自分が悪いと認めた人は、「ごめんなさい美人」です。同じように、悪かったと言える男は、「ごめんなさいハンサム」です。多くの人に好かれる人は、失敗をしない人ではなく、素直に謝罪できる人です。


「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)


バーニータという看護学生が勉強していました。クリスチャンの彼女は、主のために与えられた賜物を生かしてナースとして人々に仕えたいと願っていました。感謝祭前の火曜日、指導教官が急に言い捨てました。「あなたは良い看護師にはなれない。いつか患者を殺すだろう。来週、退学になるので覚悟するように」他の学生6人も退学処分になるとだと知りました。
感謝祭の休日、実家に戻り、双子の姉妹に事情を話しました。それを伝え聞いたバーニータのお父さんは学部長に抗議に出かけました。学部長は、そんなはずはない、詳しく調べるので休み明けに来るようにと返答しました。バーニータが翌週学校に行くと、学部長は指導教官には様々な問題があり学校を辞めていただいた、あなたは安心して学業を続けるようにと励まされました。卒業後、彼女は40年間レジスタード・ナースとして立派に働きを続けました。

受け入れる事、動いて事態を変える事、その二つを見極め、ダビデのように勇気を持って対処しましょう。その中で、主が驚く方法で介入して下さいます。

 →あなたの番です
  □主から出たことは、受け入れる
  □正面からぶつかって行きましょう
  □「ごめんなさい」と言える心が大切