第1コリント9:1~27  すべてを福音のために


 「一つしか買わないの?それなら、お先にどうぞ。」と前の人に言われ、スーパーのレジで順番を譲ってもらった事がありませんか。逆に、あなたが後ろの人に順番を譲ってあげたことがありますか。今日は、自分の権利を放棄する事を手掛かりに、福音の伝達について考えます。

1、権利を捨てた

 パウロはコリントにおいて、当然の権利を放棄していました。筋から言えば、パウロは牧師としてのサラリーをコリント教会からもらえました。でも、パウロは意図的にしませんでした。

自分で自分に給料を払う兵隊など(7節)どこにもいません。旧約律法でも、畑仕事で汗を流している牛の口に覆いをかけてはならないと教えており(9節)、働く者が報酬を受けることは合理的だと語ります。主イエスもマタイ10:10で、みことばを語る者が報酬を受けるのは当然だと教えています。(14節)

パウロが当然の権利を放棄した背景には、明確な目的がありました。福音のためという目的です。コリントで福音が受け入れられ、教会が健全に成長するためなら、自分の権利などどうでもよかったのです。

もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。(12節)

パウロは15節でも、「私はこれらの権利を一つも用いませんでした。」と述べました。無論、お金の問題ではありません。福音を伝えることがパウロの全生涯を貫く目標だったのです。

というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(16節)

さて、偶像にそなえた肉を食べてもよいかというテーマが8~10章で取り扱われていました。8章で弱い人のために肉は食べないとパウロは述べました。9章では、明確な目的があれば自分の権利を捨てることがある、だから、偶像に備えた肉は食べないと言いたいのです。

Chicken soup for the soulという本に次のような実話が掲載されています。
サーカスのチケット売り場の列に、両親と8人の子供が並んでいました。お金持ちには見えない家族ですが、子供たちは良くしつけられていました。そのお父さんは、大人2人子供8人の料金を係り員に尋ねました。値段があまりに高いのでお父さんはびっくりして、お母さんは失望して下を向いてしまいました。そのすぐ後ろで様子を見ていた別の男性がいました。彼は自分のポケットから札を地面に落とし、それを拾い上げてお父さんの肩をたたき、「もしもし、あなたのポケットからこれが落ちましたよ」と紙幣を渡しました。お父さんは、深い感謝の言葉を述べ、家族10人は中に入れました。お金を渡した男性と娘はお金を使い果たしのでサーカスは見ずに家路につきましたが、心はとても温かだったといいます。

私達も、今週、当然の権利を捨ててみませんか。



2、ユダヤ人にはユダヤ人のように

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。(19~20節)

 ハドソン・テーラー(1832-1905)は1854年、上海に上陸しました。イギリスから福音を伝えるため、あらゆるものを捨て宣教師となって来ました。21歳という若い命を中国の人々にささげたのです。テーラーは頭をそり、中央の髪だけを伸ばし弁髪にし、西洋の服の代わりに長い中国服を着ました。ユダヤ人にはユダヤ人のように、中国人になって福音を伝えました。

 当然の権利を捨てるというのは、楽ではありません。犠牲を伴います。けれども、人生で目指すものがはっきりしていれば、判断をにぶらすことはありません。福音のためならできます。

弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(22~23節)

「何とかして、幾人かでも救うため」とあります。私たちにできることがあるはずです。

 杉原千畝さんはユダヤ人5000人にビザを発行して命を救いました。OfficeDepotのCEO がユダヤ人の方で、杉原さんの働きを記念してリトル東京に杉原さんの銅像を作ったそうです。今もセントラル・アベニューにあります。ベンチに座って、ビザを差し出す等身大の像は、杉原さんが何をしたかを如実に物語っています。

 私たちも、福音という命のビザを誰にもらいました。それで、今の私たちがあります。今度は私たちの番です。何とかして、幾人かでも救いたい。永遠の命のビザを誰かに渡したい。「私はすべてのことを、福音のためにしています。」と言える人生にしたいと思いませんか。

 最後にパウロはオリンピック選手の例を挙げました。スポーツ選手は、色々なものを捨てます。自制します。訓練に励みます。金メダルを取るという目標のためなら、何でもします。

競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。(24~25節)

 私たちが目指すものは、朽ちない冠、永遠に価値あることです。そのために、私たちの一週間の生活を見直し、福音のために何かできないか、祈り、考え、動きましょう。
 福音を伝えるつもりがない人の毎日は気楽です。一旦、伝道しようと心に示されると、祈りが変わり、姿勢が変わり、時間の使い方が変わります。

 私は大学時代、聖書研究会の仲間と一緒に、月に1度の伝道会を校内のチャペルを借りて行っていました。そのため、チラシをガリ版で印刷し、校門で朝早く配りました。正直言うと、辛い部分が半分、嬉しい部分が半分でした。くる・たのしいという気持ちです。でも、他の仲間となら勇気が出ました。祈って、行動して、福音の種をまく働きはとても意義がありました。
 あなたも福音のため、苦・楽しい経験をしませんか。

「私はすべてのことを、福音のためにしています。」(23節)

 →あなたの番です
  □当然の権利を捨ててみる
  □「福音のため」に生活パターンを変える