第1コリント10:1~33 神の栄光のために


 第1コリント10章には飛び切り有名な聖句が二つあります。
これを知らないと「もぐりのクリスチャン」と言われかねない聖句です。一つは、試練の中にいる人を励まし続けた聖句で、もう一つはクリスチャンの基本姿勢を教えるものです。もうピントきましたか?13節と31節なので覚えやすい箇所です。

1、試練に脱出の道あり

 試練の中にいる人を励まし続けてきた超有名な聖句が13節です。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(13節)

 1~12節の流れを追って、この聖句の文脈上の意味を確認しましょう。
クリスチャンがバプテスマを受けて信仰生活を歩む事と、イスラエルの人々がエジプトから救い出された歴史には共通点があるとパウロは考えました。
イスラエルの人々は、雲の柱に導かれ、紅海の底を歩く経験、いわば「モーセにつくバプテスマ」(1~2節)を受け、エジプトから救われました。けれども荒野の厳しい生活で、水が欲しいとか肉が食べたいという欲求に取り疲れ、その後、様々な欲に負けてしまい、①偶像礼拝(7節)、②姦淫(8節)、③主を試みる(9節)、④主につぶやく(10節)という罪を犯し、神を完全に拒絶してしまいました。そのため、多くの者が滅びてしまいました。イスラエルの民にとって、生活そのものが試練となったのです。

パウロが指摘した7~10節の4つのポイントは、これまで説明してきたコリント教会の問題点に良く似ています。ですから、偶像にささげた肉を平気で食べる姿勢は、偶像礼拝に移行する危険をはらんでいるのです。
10章前半の中心メッセージは<イスラエルの民のように試練につぶされて滅びるな>です。ですから「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(12節)とパウロは警告します。イスラエルの歴史は「私たちへの戒め」(6、11節)なのです。

今、あなたは、何らかの試練の中にいますか。
受験、お金、就職、人間関係、家族の誰かの問題、子供の教育、病人やお年よりの介護、精神的な病気、自分自身の意欲のなさ、資格試験、離婚、住居問題、疲れすぎ、偶像礼拝を強要されている、自分の病気、自分の性格、死の恐れ。本当にたくさんの試練が襲ってきます。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(13節)

13節は暗記すべき聖句です。心で反芻しましょう。この聖句によると、耐えられない試練はないのです。脱出できない試練はないのです。真実な主に信頼しましょう。




2、すべては神の栄光のため

10章前半はバプテスマに関連づけて語られましたが、後半は聖餐との関連で議論が進みます。私たちが聖餐を受けるなら、主イエスの血潮とからだを受け、主イエスと一体になります。(16節)本来、偶像の神は存在しませんが、偶像の背後に悪霊がいます。ですから、偶像の神にささげられた肉を食べることは、悪霊の聖餐にあずかり、悪霊と一つになることを意味します。ですからパウロの結論は、「偶像礼拝を避けなさい。」(14節)となるのです。

私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。(19~21節)

 <偶像にささげた肉を食べて良いか>という問題が8~10章で取り上げられてきましたが、25~28節は3つの事例を想定した具体的な回答であり、31節はその問題を考える上での基本姿勢となります。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。地とそれに満ちているものは、主のものだからです。もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。(25~28節)

 パウロは、人々が救われるために(33節)、他人の利益(24節)、他人の良心(29節)、を第一にしました。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(31~33節)

 コリント教会の一部の人は、弱い人を無視して偶像の宮で食事をして偶像礼拝に接近しました。パウロは、弱い人々の良心を考え、肉を食べないと宣言しました。飲む事や食べる事などは小さな事柄で大差ないとパウロは考えません。私たちの生き方の本音がライフスタイルに顔を出します。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(1920-2015)は19841994年ドイツの大統領として働き高い支持率を得ました。彼はドイツ福音主義信徒会の議長を務めていたクリスチャンでした。戦後40年の記念演説は「荒野の40年」という題で日本で知られています。その演説は、まるで礼拝のメッセージを聞くような内容で、聖書を土台に構成されており、過去の悔い改めと未来に向けた責任を問う優れた講演でした。ヴァイツゼッカーの在任中にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一という困難な事業を担当しました。東ドイツの人々は、ヴァイツゼッカーがいるから心配ない、という絶大な信頼を彼に置いていました。信仰者として、置かれた立場で神の栄光を表した人、それがヴァイツゼッカー大統領でした。

私は神の栄光をあらわしているだろうか。言葉。態度。お金の使い方。目標。後ろ姿。ライフスタイルを見直してみましょう。私は、何をしたら神の栄光をあらわすことができるのでしょう。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(31節)


→あなたの番です
 □試練の中でも、脱出の道を信じる
 □神の栄光のために、生きてみる